91.前に進める勇気を
ようやくお父さんとも分かり合えて、少しだけ気持ちが浮いていた私は。
次の日の朝、「反軍」――飯塚からやってきたメールに目を丸くした。
『最近は連絡がないんだけど、平気? 私たちのことは少しでも考えてくれた?』
まあ、ここまではいいとしよう。問題はその次のところにあった。
『こちらとしてはどうしてもあなたのことが心配だから、無理やりでも連れ込んだほうがいいんじゃないか、なんてことを思ってるわ。実際に決まったことはまだないけどね』
……この人たち、いったい何を話してるんだろう。
私の反応がないから、もう実力行使でこちらに連れ込んでやる、そういう話なんだろうか。
冗談じゃない。私は好きでここにいるんだ。あちらがなんか変な動きを見せる前に、なんとかしてこれを解決しなければならない。
――でも、いったいどうすればいいのか。
メールを読み終えた後にも、しばらく私はぼっとした頭で画面を見つめていた。
やはり、そろそろ飯塚にズバッと言っておいた方がいいよね。
それはわかっているつもりだが、いざ行動に起こそうとしたら、やはりどうしても、怖いって気持ちが湧いてきてしまう。
今の私には、飯塚に面と向かって、自分の思っていることを口にできる自信が、まだなかった。
やはりどうしても、自分は「普通」の方の人間だったわけだから。
だから、「その道はおかしい」なんてことを飯塚に言われたら、どう言い返せばいいのか、勝てる想像ができなかったんだ。
――お前は間違っている。お前はおかしな人間だ。
それを想像するだけで、足が震えて、息すらまともにできなくなってしまう。私は未だに、ちゃんと「現実」の人間なんだ。
もし自分の心の奥を口にして、取り返せなくなったらどうしよう。
自分でもバカみたいなことだとは思っているものの、やはり、今はどうしても、一歩踏み出す勇気が持てなかった。
月の光が降り注ぐ、自分の部屋。
私は一人で横たわったまま、ぼんやりと窓の外を眺めている。結んでいた髪も下ろして、「元の姿」で、一人でじっと考え込んでいた。
ああ、なんて自分はここまで臆病なんだろう。みんなも背中を押してくれているというのに、私はここから一歩も踏み出せてないままだ。
怖い。変化を起こすことが、恐ろしくてたまらない。
この現実に甘んじて、流されるまま生きていてもいいんじゃないか、なんてことを思ってしまう。
でも、今までの道を選んでしまうと、もう私は上手く生きられない。それがわかっているのに、私はいまだに、それを行動に移すことができずにいた。
……今の自分に、何が足りないんだろう。
そんなことを思っていたら、急に「端末」から電話の知らせがやってきた。
もちろん、電話をかけてきたのは、他でもない秀樹である。
『やっほ~柾木!』
電話に出てみたら、「元の姿」の声で話しかけてくる秀樹がいた。いつもながら、話をかけてくるタイミングがすごくズルい。
「……いきなりどうしたの?」
『なんとなく、外の月を眺めていたら柾木の声が聞きたくてさ』
「バカ」
『あはは、褒め言葉として受け取っておくからな』
やっぱり、こういう時の秀樹はちょっと憎い。でも、こんな秀樹だからこそ、好きになったのも事実だ。
「いつもいつも、こんな時に連絡してくるんだから」
私が思わずボソッとそんなことを口にすると、秀樹の声が少し変わった。
『おっ、つまり今の柾木さんは、何かに悩んでるのかな?』
相変わらず、秀樹はこちらの心の中ならすぐ見抜いてくる。そこがズルいとも思うけど、やっぱり嬉しいのも事実だ。
「……わかってるくせに」
『まあ、それはそうだけどね。やはりあの時のこと、気にしてるかな~なんて思ったわけだよ』
ここまで気づいているなら、もう隠すこともなにもないな。
ちょっと悩んだけれど、結局、私は秀樹に飯塚から連絡が来たことについて話した。
『え~。あの飯塚って人、まだ諦めてないの? しぶといなぁ』
「そ、それは私もそうだと思うけど」
『で、柾木はまだ飯塚っていうか、「反軍」の方を納得させる自信がなくて、こうやって迷ってた、って話であってる?』
「……うん」
認めざるを得ない。
私はまだこんなに情けなくて、頼りなくて――挫けそうだって、そう認めるしかなかった。
『うーん、よく考えてみるとおかしいよね。なんでこんな不条理な出来事に、柾木が巻き込まれなきゃいけないんだろうなぁ』
私のことを心配してくれたからか、秀樹はそんなことを呟く。まあ、それに同意できないと言ったら嘘になるけど、こうなってしまったのは仕方がない。
現実なんて、いつも想像の斜め上だ。
全世界を襲うウイルスとか、いつか人類を脅かすかもしれない「化け物」とか、確かに夢物語みたいなものだけど、そういう夢物語が現実にならないという保証なんかはどこにもない。それらが現実になってしまった以上、いくら愚痴をこぼしても無駄である。
どんなにありえないものでも、現実になったらそれでおしまいなんだ。こんなこと認められないと足掻いても、フィクションの出来事だと否定しても、現実は容赦なく、私たちに襲いかかってくる。
もちろん、そういう滑稽な状況に振り回されている立場としてはたまったものじゃない。自分がまるで道化のようで、惨めな気持ちになったり、全て放り出したくなったりもする。でも、どれだけ足掻いても、これがとにかく現実であるらしい、って事実だけは変わらない。
常識的で、納得できて、辻妻の合う世界――きっとそういうのは、ただの幻に過ぎないんだろう。こんなこと、経験でもしていなきゃ、誰も同意なんかしてくれないけれど。
「でも、現実になっちゃったのはどうしようもないんじゃない。『化け物』も、『反軍』も、あの『機械』も全部」
だから、私は淡々とした口調でそう答える。
自分の抱く悩みが悔しくないと言ったらきっと嘘だけど、それでも、今はそう答えるしかなかった。
『そういや、あの「機械」の仕組みって、柾木にもよくわからなかったっけ』
「うん」
秀樹の話に、私は静かに頷く。
恥ずかしながら、あの「機械」のことは不明のところが多い。自分が何度もあの「機械」の世話になったというのに、笑える話だ。
本当のところ、あの「機械」はどうやって動いているんだろう。私が知らない間に、謎の物質でも発見されたのか、それじゃなければ革命的な技術のパラダイムシフトが起きたのか。
でも、私はあの「機械」に導かれ、今、ここで悩んでいる。
昔のスマホしかり、今の「端末」しかり、私が知らない仕組みで動くものは山ほどあるし、この「機械」もちょっと変わってはいるけれど、自分なりの仕組みで動いているはずだ。
……これからも私たちはこんなふうに、どうやって動くのかわからない機械に囲まれて過ごすことになるのかな。
『ふむふむ。あの「機械」って、まだあんまり知られてないんだよね? だから今のところ、社会にはあんまり変化が起こってない』
「そう」
『なら、きっと俺たちが一番乗りだね』
そんなことを思っていたら、急に秀樹が、変なことを口にした。
「何が?」
『あの「機械」で前に進む最初の人類、なんちゃって』
「ま、まあ、確かにそうだろうけど……」
今、あの「機械」は世間に公表されていない。もし、この「機械」が世の中に広まるとしたら――きっと、この世界は大きく変わるんだろう。
それこそ、私ごときはどうでもいいくらい、大胆に。
それを想像するのは、はっきり言ってまだすごく怖いし、恐ろしい。果たしてそれがいつになるかは、私にもよくわからないけれど。
――この「機械」が広まるのは、果たして人類にとって幸せなんだろうか?
誰よりもこの「機械」に振り回された私だからこそ、そういうことに思いを馳せずにはいられない。
でも、いつか「その時」はやってくるんだろう。
この「機械」が、いつまでもひっそりと存在することはありえない。だいたいの技術がそうだったように、これもきっと、いつかは広まる。
昔のコンピューターがそうだったように、部屋いっぱいの大きさからだんだん小さくなって、融通ももっと効くようになって――
その時、きっと世界は私が嫌がっても、大きく変わっているはずだ。
自分が「組織」側なのか「反軍」側なのかなんて、これとはまったく関係ない。どこの誰だとしても、きっと「時間の波」だという、超越的なものには敵わないんだ。
私は、これからどうしたらいいんだろう。
そんなこと、自分が知るわけないんだけど。それでも、私はどちらかを選ばなければならない。
『やっぱり柾木って、怖いって思ってる?』
秀樹のその声に、私はようやく現実へと戻る。どうやら、私が悩んでいる途中だということまでバレちゃったらしい。
「うん、自分が普通じゃなくなるのが、どうしても怖くて」
『まあ、それもそうだろうね。やっぱ俺らって、ただの一般人だからさ。ついでに、柾木ってすごく真面目だし』
『……やっぱり、そう思う?』
『うん。俺と似たようなタイプかな。みんなにいい子として振る舞ってて、期待を裏切るのが怖くて。ちょっと疲れちゃうよね、あははっ』
いつものような優しい口調で、秀樹がそんなことを口にした。こういう時には、否定なんかせずに、私の気持ちをありのまま受け取ってくれる秀樹がありがたい。
はっきり言って、秀樹が「どんな姿の私でも好き」と話してくれたのは、こちらにとってはとても嬉しいけど、他の人から見ると結構すごいことだと思う。
たぶん、普通の人は、「どんな姿でも」好きだとか、そういうのは言えない。それはやはり、どうしてもデメリットの方が大きいからだ。
でも、あの「機械」が広まることになったら、きっとこれは私だけの悩み事ではなくなるんだろう。
――愛する人が「別の姿」でも、ずっと愛し通せることができるか。
――そのせいでどれほど「普通」と遠ざかったとしても、愛する人と一緒に生きてゆく覚悟はあるか。
色んな人が、いきなり出てきた謎の技術のせいで、今までは考えもしなかった理由で迷い、悩むことになる時代。
……これからの「未来」って、どうなるんだろう。
「現代」の常識に縛られがちな私は、未だにそれがわからず、ここで彷徨っている。
あまりにも「いい子」として生きてきたせいか、みんなに背中を押されても、社会的に「良い」と言われる道を外れるのがとても怖い。
『よく考えると、確かに不思議なんだよね』
そんなことを思っていたら、急に秀樹が変なことを口にした。
「なんなの?」
『俺さ、言ったんだろ? 柾木のためなら、「別の姿」でも大丈夫だって』
「うん、い、言ったけど」
『別に俺、女の子になりたいとか、そういうのは思わないんだよね。でも、柾木のそばにいられるなら、ああいう姿も別にいいかな、なんてこと思ってる』
「……っ」
は、恥ずかしい。
どうして今の秀樹の話が、ここまでこそばゆいんだろう?
『確かに、好きな人の「全ての姿」が好きになる必要はないのかもしれない。真実の愛を決めつけるのはよくないと思うしさ。でも、どうやら俺は、かわいい柾木も、かわいくて「別の姿」である柾木も、全部好きみたいなんだ』
「う、ううっ……」
大好きな人にこんなことを聞かれて、私はどう答えたらいいんだろうか。
嬉しいのは間違いないけど、やっぱりどうしても、顔が赤くなる。こんな顔、秀樹には見られないのが救いだった。
『柾木が言いたいのはわかるよ。たまにはケンカとかもすると思うし、現実の壁とか、そういうのも立ち塞がると思う。でも、あんまり急がずに、ゆっくりと長く付き合うのもいいんじゃない? それこそ10年くらいの心持ちで』
「ちょ、ちょっと遠すぎるよ、それは……」
『うーん、それで柾木といっしょにいられるなら、俺はまったく構わないけどな』
実は、確かに遠すぎるとは思ったけど、その返事が嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。
自分といっしょにいるためなら、10年単位で付き合う、と言ってくれる人がいる。
私、なんて幸せ者なんだろう。
遥か未来のことなんか、誰も保証なんてしてくれないんだけど――それでも、私は心から、その話に賭けてみたくなった。
『だから今日はもうぐっすり寝よ? あんまり考えてばかりでも、体に悪いと思う』
「そ、それはそうだけど」
自分ってこうやって悩みがちなんだから、どうしてもそう吹っ切れることができない。
秀樹もそんな私に気づいたのか、突然こんなことを提案してきた。
『じゃ、今度は俺が子守唄とか歌ってあげる。柾木はじっと目を瞑ってて』
「……眠れないかもしれないよ?」
『別にいいの。横になって目を閉じてるだけでも人間は休めるから。眠くなったら寝ちゃうくらいでちょうどいい』
「そ、そうなんだ」
『うん、それじゃおやすみなさい、柾木』
それから私は、ぼんやりと窓の外の月に視線を向けたまま、どこかから聞こえる秀樹の変な子守唄に耳を傾けていた。はっきり言って、バンドとかやってるくせにあんまり歌は上手くなかったけれど……。それでも、そうしているだけで、なぜか心が満たせれるような、そんな気がした。
時間という名の運命は、一刻も早く覚悟を決めろ、と私に迫っている。
私はちゃんと、自分が進みたい道を選ぶことができるのかな。
不安で、心細くて、どうすればいいのかまったくわからなかったけれど――
――「端末」から聞こえてくる秀樹のへんてこな歌だけは、ちゃんと私のことを支えてくれていた。