90.父との話し合い
お姉さんを後にした私が、急いで「組織」へ戻ってくると。
「……あっ」
私の喉から、思わずそんな声が漏れる。
入り口の向こうにあるベンチに、見慣れた人影が佇んでいたからだ。
それが誰なのかは、もう考えるまでもない。私の足は、自分も知らないうちに早くなっていた。
「遅くなってすみません」
私は急いで、向こうのベンチ――つまり、お父さんのいるところへ向かう。お姉ちゃんと別れてからすぐここに向かったつもりなのに、まさか、お父さんに先を取られるとは思わなかった。
いったい今度はどういう用件なんだろう。
最近の「反軍」の動きを知っている立場としては、どうしてもそこが心配になってしまう。
「それは別にいい。俺もさっきついたばかりだ」
ベンチに座っていたお父さんは、いつものような冷たい口調でそう言い放った。この反応からすると、そこまで急な用件ではないらしい。
それはある意味、助かると言ったら助かるんだけど……それなら、お父さんはどういう理由で私をここまで呼び出したんだろうか。
しばらく、沈黙だけが続いた。
こういう時にはどんなことから話し出した方がいいんだろうか。自分にはよくわからない。
お父さんとこういう話を交わしたことなんて、今までまったくなかったから。
そもそも、お父さんと私って、プライベートな会話っていうか、息抜きのような話を交わしたことが、たぶん滅多にない。
きっと、親と子供としてはかなり変わった関係に当たるんだろう。
お父さんと私って、確かに親と子供の関係でもあるけど、この「組織」の中では上司と部下の関係でもあるから、こういう時には困ってしまう。
「お前は」
その時、いきなりお父さんから話しかけられ、私はつい驚いてしまう。
「お前は、今までどうだったのか」
初めて聞かれた時、私はその意味がよくわからなかった。どうしていきなり、お父さんはあんなことを話しかけてきたんだろう?
「すみません、その、意味がよく――」
「俺の勝手な思いに振り回されてどうだったのか、と聞いている」
お父さんの答えに、私は何も話せなくなってしまう。
まさか、他でもないお父さんから、ああいうのを聞かれるとは、夢でも思ってなかった。
私、どう答えたらいいんだろう。
どう答えたら後悔せずに済むんだろうか、自分にはよくわからない。
「……正直に言うと」
でも、ここで諦めたり、変に気遣ってはいけない。私はここに、「悪い子」になるためやってきたんだ。
「お父さんのことを恨んだり、辛い思いをしたことも、あります」
だから、私は素直に、ありのままそう答えた。きっと、今のお父さんは私にそれを求めているはずだから。
そして、何よりも今の私が、あの時の気持ちを、お父さんに伝えたいと思ってるから。
「っていうか、そんなことがなかったら嘘になります。お父さんのことは、誰よりも尊敬しているつもりですが……それでも、恨み言を言いたくなった時は、間違いなくありました」
どうしよう。自分の声が震えることを感じる。
お父さんから求められたとしても、私はやはり、こういう「悪い子」には慣れていないんだ。
今すぐにでも怒鳴れたり、ひどく叱られたりしたらどうしよう。
やはり、私は心の底から、「悪い子」にはなりきれないみたいだ。
そんなことを思ったというのに、なぜか急に、口が勝手に動く。
「でも、最初にお父さんから、『別の姿になれ』って言われた時には、本当に裏切られた気持ちでいっぱいでした」
いつもとはどこか違う口調でそう喋りながら、私は心の中で、思わず戸惑う。
――私は今、何を口走ってるんだろう。
自分でも自分のことが、あまりよくわからなくなってきた。
「だって、仕方ないじゃないですか。どういうからくりで動くのかすらわからない『機械』で、娘を『別の姿』に変える、とか言ってるんですよ? お父さんのことは未だに尊敬していますが、あの時には本当に、その話が信じられなかった」
それでも、自分の口は止まらない。いつもなら絶対に口にしなかったはずの恥ずかしいことが、口からどんどん湧いてきた。
確かに私は、お父さんに自分の思っていたことを全部ぶちまけるつもりでいたけれど。
でも、さすがにここまで子供っぽい話し方をするつもりなんか、まったくなかったというのに。
「それだけじゃありません。あの『機械』のこともそうですが、『別の姿』の方もひどかったです。女の子である娘に、いきなり『男になれ』って。娘のことなんか、これっぽっちも考えてない発言じゃないですか」
そういう自覚があるというのに、やっぱり私の話は止まらない。
お父さんから視線を逸らしたまま、私は胸の奥にあった感情を外にぶちまけていた。
「それを聞いた時、俺がどれほど衝撃を受けたとか、きっとお父さんは想像すらしていなかったと思います。辛かった。心が裂けるような思いだった。自分のことを女の子だと思ってたというのに、男なんて大嫌いだったのに、お父さんは何の躊躇いもなく、そんなことを口にしてきたんですから」
もう古くなってしまった、あの時の感情や記憶。それを今になって自分の口から言い出すのは、あまり愉快な気持ちじゃなかった。
今の私は、こんなに変わってしまったというのに。そもそも私、お父さんの前でこんな砕けた口調で話したことなんか滅多にないのに。
こんな光景、「別の姿」しか見てないここの人たちが見たらどう思うんだろう。
そんなことを思っているというのに、この口は止まらない。
「あの時、自分は悲しい気持ちでいっぱいでした。お父さんっていつも俺と姉貴には冷たかったけれど、さすがにこれは愛情がなさすぎるんじゃないんだろうか、と何度も思った。お父さんにとって、俺らはただの道具としか思われてないんだろうか、そう悩まざるを得なかったです」
でも、そんな拙い言葉であの時の気持ちを口にしながら、私はふと気づく。
確かに口にすれば、思っていたよりも幼稚で、恥ずかしくて、みっともない感情ではあるけれど、それでもこれが、私が今までずっと抱いてきた本音の気持ちではなかったんだろうか、と。
そりゃこんなふうに喋っていると、誰かには笑われるかもしれない。こんなことを喋っている自分も、今の私って滑稽だな、なんてことを思っている。
でも、こんな恥ずかしい気持ちをずっと口にできなかったから、今まで私は苦しかったんだ。
秀樹と出会えるまで、この気持ちを打ち明ける誰かが現れるまで――私はずっと、これを胸の中で抱きながら、辛い毎日を送っていたんだ。
「得体も知れないあの『機械』に、俺ら姉妹を何の躊躇いもなく投げていたこと。そして、こちらの意思はまったく聞かれなかったこと」
そんなことを考えていたら、思いの外、かなり喋ってしまった。ここまでお喋りな性格ではないので、自分でも少し驚いてしまう。
「やはり今でも、それは悔しいし、辛い思い出として自分の中に残っています。今になっては、こうなったことも後悔はしていませんが……。それでも、自分の気持ちはお父さんにきちんと伝えたかった」
「……」
さっきからお父さんは、何も口にしていない。ただ黙って、私の話をじっと聞いているだけだった。
「お父さんの前だというのに、こんな情けないことばかり口にしてすみません。でも、これがずっと心の奥にあった、俺の素直な気持ちです」
そこまで口にしてから、私はようやく一息する。あまりにも喋りすぎて、呼吸することすら忘れていたようだった。
……喋って、しまった。
今度こそ口にしようとは思っていたものの、こうやって実際に行動を起こしてみると、やはり怖いという気持ちがとても強い。
もちろん、清々しいってところもちゃんとあるんだけど……。それでも、やはりずっと、怖いって思ってたから。
お父さんに、反逆するということ。自分がもう、お父さんの話に従うだけの「いい子」ではなくなること。
どうしてか、私はずっとそれに怯えていた。
自分も上手くは説明できないけど、それをやってしまったら世界が終わりそうな、そんな気持ちになってしまう。
「そうだったのか」
私の話を聞いて、お父さんは静かに頷く。その顔から、心情の変化などはあまり読み取れなかった。
今、お父さんは何を思っているんだろう。
私の答えを聞いて、後悔しているんだろうか、それでも何も思っていないんだろうか。
自分には、こんな時のお父さんがまったく読めない。
私、いや、私たち「姉妹」について、お父さんがどんな感情を抱いているかなんて、子供の頃から、ずっとわからなかった。
別に嫌われてるとか、ぞんざいに扱われてるとかは思わなかったはずだが、愛されてるとか、大切に扱われてるという確信もなかった。
……それが怖かったから、お父さんの心のことはあまり考えないことにした。
誰よりもお父さんのことを尊敬していたつもりだったのに、お父さんの心の中だけは、ずっと見て見ぬ振りをし続けてきた。
「はっきり言って、今まで俺は、お前たちが自分の言ったことに従って当然だと思っていた」
お父さんは、やがて口を開く。
いつものように、私は黙ったまま、それをじっと聞いていた。
「その理由は、改めて口にするまでもないだろう。お前たちは俺の子だ。娘だとしても息子だとしても、親の言うことに従うのは当たり前に決まっている」
その答えも、予想していた。
お父さんはずっと、私たち姉妹にそういう態度を取っていたんだから。
「だからあの時、俺は何の躊躇いもなかったし、お前たちが何も言わず、あの話を受け入れたことも当然だと思った。確かにお前たちは戸惑うかもしれないが、俺にとって、そういうのは目の前の危機に比べると些細なものだった」
「……」
いつもの口調で、お父さんは淡々と、そういうことを口にする。
――こうしていると、やはりあの時のことを思い出すな。
あの冷たい声や視線は、そう簡単に吹っ切れるものじゃない。外でもないお父さんの口から、ああいう話を聞いているとなおさらだ。
「お前がさっき言った通り、あの『機械』のからくりはまだ謎のところが多い。もちろん、これは俺があの『機械』に詳しくないという理由もある」
お父さんは静かに、虚空に向けて話を紡いでゆく。まるで独り言のような、誰かに聞かせるのを想定していない口調だった。
「お前らにとって、そんな『機械』に何の迷いもなく娘を渡した俺はさぞかし薄情に思えるんだろう。その考えも間違ったものではない。あの『機械』が完璧なものではないということ、若干の問題が現れる可能性があるということ。俺はすでに、それを聞かされていた」
「……」
「お前らに現れている、その『想定していなかった』ところについては俺も話を聞いている。まあ、美咲の場合は聞くまでもなかったな。あいつの髪の毛が『別の姿』の時にいつもああなるのは、間違いなくあの『機械』のせいだ。本人も時々、困ることがあるんだろう」
お父さんがさっき口にしたのは、もちろんお姉ちゃんの癖毛のことである。元ならば綺麗なストレートの髪の毛が、「別の姿」の時にはいつも癖じみたものになってしまって、お姉ちゃんもだいぶ困っていた。まあ、今になってはかなり慣れたようだけど。
「確かに、お父さんが薄情だということは、『別の姿』になってからよく思ってました。自分はある意味化け物じみた存在になってしまったのに、お父さんは何も言ってくれなかったのが悲しかったです」
お父さんは、今度も答えないまま、私の話をじっと聞いていた。
まるであの日――初めて「別の姿」になった時をやり直しているような、なんとも言えない感覚が私を襲う。
「そうやってお前らが悩んでいることを知りながら、俺は自分の判断を後悔しなかった。この世の秩序を取り戻すためには、自分の娘たちに犠牲してもらうしかないと思ったからだ」
そんなこと、ずっと昔から知っていた。お父さんはいつだって、そういう人だったんだから。
大義のためには、たとえそれが自分の娘だとしても犠牲にする。自分の信じる正義は何があっても貫く性格だったからこそ、私はお父さんのことを、ずっと尊敬していたんだ。
「だが、時間が経つにつれて、俺はお前らを見るたび、心の中が複雑になることを感じた。お前が作戦部長という立派な肩書きを得て、ただの『現場担当』ではなくなった時、お前が巻き込まれてしまった橘の世話を焼くことを遠くから眺めていた時、綾観家の娘である雫との婚約を取りやめた時。俺はひどく自分らしくない、どうしようもない気持ちに襲われた」
「……」
その話は、初めて聞いた。
お父さんの前だから何でもないふりをしてはいるけれど、今の私は、かなり動揺している。
「もちろん、初めは俺もそういう感情について真面目に考えなかった。何か悪戯を働いたんだろう、そう思ってそのまま流してしまったわけだ。だが、あの時――以前お前が、『反軍』の飯塚という者と接触した時の会議で、俺はその感情と向き合わざるを得なくなった」
「……お父さん」
その時、お父さんはこちらから、そっと視線を逸らした。
いつもなら決してやらないこと――わざと話している相手と目を合わせずにいるお父さんを見て、私はどうしようもない気持ちになってしまった。
「あの時のお前の顔は、未だによく覚えている」
相変わらずこちらから顔を背けたまま、お父さんは話を続ける。
「あの顔を、俺は一生忘れることはないだろう。この出来事とは何の関係もないイチャモンをつけられて、お前は悔しくて悔しくてたまらないという顔をしていた。だが、俺が驚いたのはそこではない。俺は、お前が『自分の仕事に誇りを持っているが故』悔しがり、辛そうな顔をしているのを見て、息が詰まるような錯覚に襲われた」
私は、その話をただ淡々と聞く。
いつの間にか、お父さんの話を私を聞いているような形になっていた。
「あの時――初めて『別の姿になれ』と言われた時、お前がひどく嫌がっていたことは未だによく覚えている。はっきり言って、あの時のお前は嫌々しながら俺の話に従っていた。でも、あの日の会議でのお前は、明らかに違った」
ひょっとして、気のせいなんだろうか。
いつもは冷静としているお父さんの口調に、妙な熱が入った気がする。
「俺がお前から見出したのは、自分に任された仕事への誇り、そしてそれが他人によって汚された怒りだった。確かに俺と同じ気持ちではないかもしれないが、お前は俺が考えていたよりも、この仕事を、自分の肩書きを自分の一部として受け入れていた。自分の真摯な思いが、他人によってないがしろにされるのが悔しくてたまらない――あの時のお前は、まさにそういう顔をしていた」
「……」
「そんなお前をじっと見ていた俺は、だんだんいたたまれなくなってしまった。お前と俺は、同じ魂を心の中に持っている。同じ魂を持つものが、理不尽な状況に晒されることを目にするのは、何よりも辛く、耐えられないものだった。だから俺は、あの時、声を高めたわけだ」
……こんな時、私はどんなことを口にしたらいいんだろう。
自分がお父さんからそこまで思われていたなんて、今まで全然気づかなかった、とでも言うべきなんだろうか。
お父さんと私が「同じ魂を持っている」と言われたことに、正直に喜ぶべきなんだろうか。
私には、わからない。
きっと、今こんなことを口にしているお父さんだって、わからないんだろう。
「あれから俺が思い出したのは、お前らの母――心音のことだった」
ここに来て、私は息が詰まるような、なんとも言えない気持ちになる。
高坂心音――それは、紛れもないお母さんの名前だ。
私がまだ小学校にも入る前に、お母さんは私たち姉妹とお父さんを残して、家から出て行ってしまったんだ。
「あいつはいつも、俺がお前らに冷たすぎると言っていた。俺が不器用だから、柾木もお父さんのようになってしまったと、口癖のように話していた」
……自覚は、十分すぎるほどある。
私があんまり素直じゃない、可愛げのない性格になったのは、だいたいお父さんからの影響だ。
「あいつは、お前らのことをもっと愛してほしい、そう話していたな。お前の名前が女の子らしくないと、最後まで反対していたのも心音だった。あいつは自分の名前が子供じみていて嫌だといつも言っていたし、それに敏感に反応したのも当たり前だろう」
「……」
「もちろん俺が、あの時あいつの話を真面目に聞いたわけがない。俺は昔から、ああいうやつだった」
そんなこと、すでに気づいていた。お母さんが私の名前を好まなかったこととか、お父さんが昔からずっとああいう性格だったとか、初めから知ってたんだ。
それでも、やはり私はお父さんと、自分の名前のことが好きだった。
嫌々しながら「別の姿」になったあの時にも、私は悲しかったし苦しかったけれど、お父さんのことを尊敬する気持ちだけは変わらなかった。
「まあ、それが俺の落ち度なんだろう。だからこそ、俺は心音にも見事に飽きられたわけだ」
「……」
どう答えたらいいのかわからなくて、私は心の中で戸惑ってしまった。
もうお母さんが家を出て行って、ずいぶん時間が経つ。その間、お父さんからお母さんの話が出てきたことは滅多になかった。
なのに、今日はお父さんから、お母さんのことを口にしている。
こんな時、自分はどう話したらいいのかなんて、わかるわけなかった。
「きっと、心音が今の俺を見たらひどく叱るのだろう。結局わたしの言った通りだったと、俺のことを冷たい眼差しで見つめることに違いない」
それでも、まるで独り言のような口調だとしても――お父さんは、話すことをやめなかった。
「確かに、それは心音の思っていた通りだ。俺は結局、お前らにひどいことをさせてしまったわけだからな。『機械』が体に与える影響によって、お前らがどれほど苦しむか、あの頃の俺には気がつかなかった。それは間違いなく、俺の過ちだ」
「……その、お父さん、俺は別に、お父さんのことを恨んでなんか」
「それはいい。俺はただ、今までの事実を述べていただけだ」
いつものような、冷静な口調でそう話すお父さん。
でも、なぜだろう。
今の私には、そんなお父さんの声が、ひどく感傷的に思える。
「お前らは『別の姿』になったせいで、悩まなくてもいいことに苦しまざるを得なかった。今のお前はそれをある程度受け入れたように見えるが、きっとそれまではあらゆる困難があったんだろう」
「……」
「ある意味、心音をお前らから奪ってしまったのも俺だと言えよう。もし、俺が少しでもあいつに歩み寄ることができたなら、あいつはここを離れなかった。結局妻であったあいつを十分に愛せなかったこと。その結果、お前らがあいつからもらえたはずの愛を奪ってしまったこと――それもまた、俺のせいだ」
「あ、あの、お父さん――」
私がそう必死に、お父さんの話をなんとかしてやめさせようと思い立った時。
「はっきり言って、それらは全て俺に責任がある。ここで謝る。俺が悪かった」
私は思わず、自分の目を疑う。
だって、他でもない「あの」お父さん――高坂一也が、娘である自分の前で頭を下げているんだ。
こんなふざけたこと、考えたことすらない。
でもこれは、この感覚が確かなものだとしたら――間違いなく、現実であった。
「もちろん、これだけで自分のやってきたことが正当化されるわけではない。だが、お前にはまず、こうして謝りたかった。そうしなくては何も始まらないからな」
その声が、仕草が、信じられない。
別にお父さんの心を疑っているわけではなく、自分の目や耳などの、あらゆる感覚の方が信じられなかった。
「……お父さん」
「まあ、今までの俺のことだ。お前も簡単にこれを飲み込んではくれないだろう。それは覚悟の上だ。今はただ、俺がお前らにとった態度を後悔している、それだけを覚えていてほしい」
私は、何も言えなくなった。
お父さんは相変わらず頭を下げたまま、私の前で微動もしていない。
「確かに、その、突然ではあったんですが」
こんな時、私はどう答えたらいいんだろう。そんなことに戸惑いながら、私は言葉を選んでいた。
「その、お父さんからここまでしてもらえるだなんて、本当に考えたことすらなくて……。正直に言うと、まだ信じられません」
「まあ、それもそうだろう。おかしい反応ではない」
相変わらず頭を下げたまま、お父さんはそう答えた。やっぱり、ずっとお父さんにこうされるのは少し、いや、かなり耐えられない。
「いったん、頭を上げてください。その、その気持ちだけで俺は十分ですから。こうやって謝ってくださったことにも、きっとすごく勇気が必要だったんだと思います」
お父さんがゆっくりと頭を上げることを見て、私はようやく心の中で安堵のため息をついた。やはり、お父さんにあそこまでしてもらえるのはかなり困る。
「でも、今まで考えたことすらないからこそ、こうしてもらえてとても嬉しかったんです。その、ありがとうございました」
そんなことを口にしながら、今度はこっちが、頭を下げる。
なんか変だな、と思ってしまうのは事実だが、それでも、今はお父さんに心から謝ってもらえたこと、それがいちばん嬉しかった。
それに、私はこれから「悪い子」になる予定だし。
せっかく謝ってもらったのに、私はまだ、お父さんを困らせる話題を言い出すつもりである。
「そこで、もう一度、今回は俺から話があります」
それをようやく口にすると、息が詰まるような、なんとも言えない気持ちが私を襲った。
さっきの方も重要な話ではあったけれど――自分にとっては、これからが本番である。
……普通には生きられない、ということ。
お父さんはいい顔をしないかもしれないけど、この「別の姿」で、「組織」の仕事がしたいということ。でも、自分はちゃんと、自分のことを女の子だと思っているということ。
だけど化粧もしないし、「女性らしい」ところにはあまりこだわらないということ。要するに、好きな自分でいたい、ということ。
自分から考えても、すごく都合の良くて、笑える話なんだけど。それでも、私はそうやってこの世で生きていきたいんだ。
甘いものは大好きだけど、オシャレとかはどうでもいい。黒ロリはこれからも続けるけど、化粧は勘弁してほしい。
そんなことを希望しているくせに、仕事だけは「別の姿」でやらせてほしい。
わがままだ。ぶっちゃけ、秀樹や雫、美由美くらいしかわかってもらえない話だ。
やはりどうしても、こんな勝手な話を、お父さんに受け入れてもらえる想像ができない。
でも、話さなきゃいけないんだ。
そもそも、お父さんだって私たち姉妹のために、勇気を出して頭を下げたんじゃないか。
「そうか」
私がようやく、自分がこれからどうやって生きたいのかについて話を終えると、お父さんはそう答えてから、しばらく黙っていた。
やはり、そういう反応になってしまうんだろうな。
きっとお父さんも、私をここに呼び出した時、様々な反応を予想したんだろう。だが、まさか娘の方から、「普通に生きることはできない」なんてことを聞かれるとは思わなかったはずだ。
私だって、こういう展開は考えもしなかったから。
きっと怒られるとか、呆れるとか、そういう反応なんだろうと考え込んでいたため、お父さんがこういう気持ちで自分を呼び出したとはまったく思っていなかった。
「こんなふうに育ってしまって、ごめんなさい」
思わず私は、お父さんに向かってそう謝っていた。
どうしてそんなことをしてしまったんだろう。自分からお父さんに、これからはこう生きるつもりだと伝えるためにやってきたはずなのに。
やっぱり私、お父さんの前では「いい子」になってしまうのかな。別にここで身を引くつもりはないけれど、自分がここまでお父さんの前で弱くなるとは思わなかった。
「きっとお父さんはあまりこういう状況は求めてなかったと思いますが、それでも――」
「別にそれはいい」
お父さんの声に、私は目を丸くする。まさかお父さんの口から、そういう話を聞けるとは思わなかった。
「お前はお前だ。俺の望みなんかに縛られる必要など、まったくない」
やはりまだ、お父さんの口にしていることが、信じられない。
別に悪い意味じゃないけれど、今までのお父さんの態度から見ると、あまりにも違うっていうか、なんていうか――
「柾木、お前は強いやつだ」
そんなことを思っていたら、急にお父さんは、私が考えもしなかったことを口にした。
「……え?」
「話した通りだ。お前は俺が考えていたよりも、強く、逞しく育った。俺は今、それがわかった」
これって、お父さんが私のことを褒めている、そう受け取ってもらってもいいんだろうか。
やはり私、お父さんに褒められたことがあまりない。お父さんは私たち姉妹を褒めることも、愛することと同じように不器用だった。
「きっとお前は、『別の姿』になってから俺が考えていること以上に苦しんだんだろう。さっき、お前が言ったことからもそれがよくわかった。だが、それでもお前は、あの『別の姿』も、ある意味自分の一部として受け入れた」
「……」
「それは、心の芯が強いやつじゃなければ叶わないことだ。自分が何よりも悩んでいた、自分の一面を受け入れる。お前はそれをやり遂げると俺に話してきたんじゃないか」
「い、いや、まだそこまで強い自信があるわけじゃ――」
「今はそれくらいでいい。完璧な自信を持つ人間など、この世には一人も存在しない」
私の話を遮って、お父さんは強く、そう話した。
「お前は間違いなく、強いやつだ。お前の生き方がどれほど他人と変わっていたとしても、そんなことはどうでもいい。生きたいように生きろ。俺のことは気にするな」
「それって――」
「だから、自分のことを信じろ」
お父さんはそう口にしながら、私の目をじっと見つめた。
いつものような、こちらを貫くような鋭い視線。
だけど、今は少しだけ、私に向けた温かい何かがこもっているような、そんな気がした。
「お前は他でもない、この俺の子だ。もっと自信を持て。自分は立派に育ったという事実を疑うな」
それはおそらく、お父さんが自分の娘に初めて口にした、励ましの言葉。
私のことを、「我が子」のことを心の底から信じ切っているからこそ、口にできる思い。
「いつかお前が、俺の考えと違う道を行く可能性もあるんだろう。今、お前は『組織』で働きたいと言ってきたが、将来的には『組織』と別の道を行くこともあるわけだ」
「……」
「その時になって、俺がどんな思いをするのかは不明だが――それもお前が決めた道だ。俺から口出しすることはもうない」
「お父さん、その、俺は」
「俺は、お前――高坂柾木のことを、信じる」
お父さんはそう言ってから、私に手を差し出した。それが何を意味するのか、社会人でもある私が知らないわけがない。
「お前は自分の誇れる道を、精一杯進めばいい」
私は、その手を強く、力を込めて握った。
お父さんは、全て見通しだというふうに、その大きな手で、こちらの手を握り返す。
こうして街灯の明かりに照らされたお父さんの手は、やはりどうしても歳が感じられるもので。
私はその時、ああ、こんなにも時は過ぎてしまったな、と密かに悟ってしまった。
「……夢じゃ、ないよね」
お父さんが席を立ってからも、私はしばらく、そこにぼつんと座り込んでいた。
こういうのを、他の人は放心状態と呼ぶのかな。
今まで自分がされたことが、聞いていたことが、まったく信じられない。
でも、お父さんは間違いなく、私に自分のことを信じろ、と言った。
「こんなことが、現実になるだなんて」
席を立つのが、どうしてもできない。
私はそうやって、何も考えられないまま、そこから離れられずにいた。