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88.そのままの自分で

 そんな、とても嬉しい出来事があってから、次の日。

 久しぶりに爽やかな朝を迎えた私は、自分に届いたメールを見てぞっとした。

『お元気かしら、高坂さん。私たちの提案のこと、少しは考えてくれた?』

 そう、飯塚は懲りもせず、まだこちらに連絡してきたんだ。

 この人たち、どうして「ただの下っ端幹部」である私に、ここまで執着するんだろう。自分って、そこまで立場がおいしい人物なのかな。

 わからない、私にはまだ見えてこないけれど――

 ――こいつらが、簡単には諦めてくれないということだけは、はっきりとわかった。


『私には、あなたが本当に好きであの「組織」で働いているようには到底見えない。普通の人なら、そういうのはまず、考えないんでしょうから』

 ……だから、余計なお世話だってば。

 どうせ、飯塚はどういう形で話しても信じてはくれないんだろうけど。

『だから、私はあなたの『本音』の返事がもらえるまでに、こうやってちょっかいを出しつづけるつもり。嫌だったら、きちんと自分の意思をこちらに明かしてほしいわ。私たちはいつでも、あなたの味方なんだから。それじゃ』

 そこで、メールはまた自分勝手に途切れた。

 もうめちゃくちゃ過ぎて、怒ったり、落ち込んだりする気すら起きない。

 ――味方って、本音の返事だなんて。

 だから、以前はっきりと、その「本音」とやらをしっかり口にしていたはずなのに。


 それで、これから私はどうしたらいいんだろう。

 そこまで考えが至った時、私は目の前が白くなっていくのを感じた。

 ――ダメだ、私。

 みんなにあれほど励まされたのに、未だに一人でウジウジと迷っている。心の奥底を明かすのは、やっぱり怖くて怖くてたまらない。

 わかってる。こんな自分がバカみたいだというのは。

 でも、今の私は。

 ……心の底から呆れるほど、臆病になってるんだ。


 やはりどうしても、自分が決めた道を進むのが、怖くて怖くてたまらない。

 この道――っていうか、自分がこれから歩もうとする、「普通じゃない道」が、ただただ怖い。

 美由美や慎治、雫は、私のことを信じているって言ってくれた。それがどれほど嬉しかったのかは、もはや言葉にできないくらいである。

 でも、私がこれから歩こうとする道が、普通の人にとっては笑われて、白い目で見られて、自慢なんてこれっぽっちもできない道だったとしても。

 ……それでも、みんなは私の味方になってくれるんだろうか。

 大丈夫って、ずっといっしょにいるって、みんなはそう言い切ることができるんだろうか。

 もはやここまで来ると病気だと自分でも思ってしまうが、それでも、やはり私はそれが怖くて、恐ろしくて耐えられなかった。


 きっとこんな道、周りからは本気にされない。さっき飯塚は、それを再び証明してくれた。

 そうだというのに、自分が大切に思っている人からも否定されるところか、軽蔑の眼差しで見られるとしたら――

 ――よそう。こんなことばかり考えるのは。

 頭ではきちんとそうわかっているのに、なぜか心は、ずっとそんなことを思い出してしまう。

 やっぱり、前に進むのが怖くて、仕方がないんだ。

「普通」から自ら外れるのが、「笑われる」自分の一部をさらけ出すのが、自分で判断し、決めるのが――怖くて、恐ろしくて。

 今の私は、正しくそういう気持ちだった。

 昔から周りに合わせてずっと行動してきたからか、こうやって「自分の勝手」で道を歩こうと思ったら、どうしても躊躇ってしまう。


 もし、お父さんがこの決意に気づいたら。

 そこまで考えた時、私は急に、背筋がぞっとすることを感じた。

 おそらく、自分が歩もうと思っている道は、決して「普通」のものじゃない。そして、お父さんはやはり、自分の娘が「普通」であることを望んでいるはずだ。

 まあ、お父さんが私を「別の姿」にしたあの日から、「普通」の人間なんて、なれそうにはなかったわけだが……。

 それでも、今までのお父さんのことを考えると、こんな自分の生き方にはダメ出しが出そうで、怖かった。

 やはり私、お父さんに逆らったりするのは躊躇ってしまう。

 子供の頃から、そして「別の姿」になることを強いられたあの時にだってずっと、私はお父さんのことを、誰よりも尊敬しているわけだから。

 私の歩きたい道を知ったお父さんは、いったいどういう顔をすることになるんだろう。

 ……やはり、深く嘆くのだろうか。

 自分の娘がこんなことになってしまって、心から落胆してしまうんだろうか。


「――はぁ」

 結局、居ても立っても居られなくて、私はなぜかトイレで立ち尽くしたまま、そうため息をついていた。

 最近の自分は、本当によくわからない。自分自身だというのに、どうもわからないところが多すぎるんだ。

 暗い淵の中で、一人足掻いているような、おかしな感じ。

 息が詰まりそうで、自分はいったいどうすればいいのか、迷ってしまう。でも、このままじゃ深い淵に飲み込まれて、いつか意識を失ってしまう。

 ……わかっている。

 わかっているけど、本当にどうしたらいいのか、自分でもわからないんだ。

 こうやってじっと目をつむっていると、まるで本物の暗闇に迷い込んだ気がして、今すぐにでも逃げ出したくなってしまう。


 再び目を開けて、鏡の向こうにいる「今」の自分を見つめる。

 明かりが薄いからだろうか、鏡の向こうの自分は、どこかおぼろげで、そこにいるという実感が沸かなかった。

 ……おかしいな、それって。

 鏡の向こうにいるわけだから、それは紛れもなく、自分の姿だというのに。

 ――鏡の中の自分は、つまらないくらい醜い。

 チグハグで、グチャクチャで――「自分が認めた」立派な自分の姿だというのに、顔を正面から見ることすら憚られるくらいだった。

 いや、たぶんこれは「この姿」のせいではない。

 たぶん、今の私なら――これが「元の姿」だったとしても、同じ反応だったんだろう。どちらにせよ、向こうにいるのは「私」なんだから。

 ……子供の頃の自分がこんなことを目にしてしまったら。

 未来の自分に裏切れてしまった、ということに気づいてしまったら――

「……っ」

 思わず、私は右手を思いっきり握ったまま、壁を支える。

 我慢することが、できなかった。心の中で血がにじみ出そうなほど、苦しかった。

 なぜか目が潤んでしまって、なんとか抑え込む。

 今の私は、泣いちゃダメなんだ。

 この「別の姿」――ビシッとスーツを着ている姿のままで泣きじゃくることなんか、きっと許されないはずだから。

 ――しっかり、しっかりしよう、私。

 でも、このままじゃいつか崩れてしまいそうな気がするのは、どうしてだろう――


「……はぁ」

 トイレでの出来事をなんとか奥に抑え込んだ後。

 会議が終わってから、事務室へ戻るため会議室から廊下へと出てきた私は、思わずそんなため息をついていた。

 いつもなら、周りの人のことを考えて抑えていたつもりだったのに、今はどうしても、そういうため息が漏れてしまう。

 それも全部、私が今朝のことを会議で口にしたからなんだが……。

 やはりと言うべきか、反応は以前と変わらなかった。以前、お父さんの一言のおかげで明らかに声を立てることはなかったものの、「高坂はまだ幼いからな」とか、「やはり嫌々やっているんだろう」とか、「いっそう『元の姿』の方に戻したほうがいいんじゃないか」など、こちらにとってはあまり嬉しくないことばかり言われた。

 ……わかっている。「普通」はああいうことを思っていることくらいは。

 ただ、もし自分が心を打ち明けたとしたら、周りは果たしてどう反応するんだろう、ということを思い浮かべて、怖くなっただけだ。

 もちろん、ああいう「私的」な感情を会議に持ち出すことはありえないから、こちらもいつものように「社会人らしい」態度を心がけていたけれど。


 もし、本当に「組織」の幹部たちが、私が「嫌々」これをやっていると思い込んで、変な提案をしてきたら――

 ――いったい私は、どう答えたらいいんだろう。

 飯塚のように、私の言うことをまったく信じてもらえないところか、変な眼差しで見られることになったら、どうしたらいいんだろう。いや、それだけならまだいい。最悪、あちらから押されて、この役職から降りることになってしまったら――私が今までやってきたことは、本当に何の意味もなくなってしまう。

 そもそもなんで私は、こんなつまんないことを真剣に悩まなくてはいけないんだ。

 きっとクラスのみんなとか、「組織」の現場担当のやつらだって、こんなこと、まったく考えてないはずなのに。

 わざわざ誰にも理解してもらえない道を歩こうとするから、こんなことになってしまうんだ。

 自分が大人しく、「周りに合わせて」普通の道を歩いていたら、きっとこんなことにはならなかったんだろう。

……もちろん、その場合、私はちゃんと「生きていられる」のか、自分でも自信が持てないけれど――


 そんなつまらないことに考えを巡らせながら、ボロボロになった気持ちで会議から戻ると。

「……秀樹?」

 私の執務室の前には、そこに座り込んだまま誰かを待っている秀樹の姿がいた。

 ――私のこと、待っててくれたんだ。

 それを考えると、とても嬉しくてたまらなくなってしまう。

 でも、今はダメだ。

 今、この場で気を緩めていたら、私、そのままずっと甘えてしまう。そうなったら、きっと秀樹に迷惑をかけてしまうんだ。

 それだけは、やはり嫌だった。

 とても嬉しいし、ありがたいけど、今日はなんとかして帰ってもらおう。

「どうしたんだ」

 そう決めた私は、ゆっくりと近づいてから秀樹に声をかけた。秀樹はずっとぼうっとしていたのか、私の声を聞くとびっくりした表情で顔を上げる。

「ま、柾木! 待ってたんだよ。会議ってそこまでかかるもんなの?」

「いや、会議と言っても、今日はそこまでは……って、どれくらい待ってたんだ?」

「うーん、受付で話を聞いてからずっとここで待ってたから……1時間くらいは超えてたかも?」

「……そこまでして、待ってくれなくてもいいのに」

 これは嘘だ。

 実はその話が、すごく嬉しかった。さっき、会議でボロボロになったんだからなおさらそう思った。

 でも、この感情がバレてはいけない。

 秀樹は優しいから、きっとまた心配してしまうんだ。


「今日も、俺のことが心配で来てくれたのか?」

 ようやく執務室に入ってくつろぐ秀樹に、私はそう話しかける。やっぱりと言うべきか、秀樹はすぐこっちに向かって頷いた。

「そりゃそうだよ。自分の彼女のことだし、黙ってはいられないって」

「べ、別に、そこまでしてくれなくていいけど……」

「柾木、目が泳いでるぞ?」

 今日の秀樹は、妙に鋭かった。いつもなら流しそうな私の仕草にも、すぐ気づく。

「もう諦めて打ち明けなよ~。そうすりゃ楽になるって」

「秀樹、今日はいつにも増してしつこいけど、何かあったのか?」

「それこそ別に。俺はいつも、柾木に対してはこんな態度だよ」

 そんなことを口にしながら、秀樹はあどけない顔でこっちをじっと見つめる。そんな眼差しで見られると、やはりどうしても、心がチクチクと痛んだ。

 ……やっぱり、楽になってしまったほうがいいんだろうか。

 でも、変に弱音を吐いたら、秀樹は私から離れてしまうかもしれない。


「……なんでもないって、言ったんだろ」

 嘘じゃない。

 ……本当のことじゃないけど、嘘じゃないんだ。

 少なくとも私は、世間体ではそういうものだと、はっきりわかってるから。

 これくらいでくじけるのは、ただの甘えなんだから。

「本当になんでもない。心配してくれたのはありがたいけど、別に秀樹がわざわざここに来るまでのことじゃないんだ」

「ほんと?」

「ほんとだってば」

 私の声は、おかしいくらいに普段どおりだった。

 別に、こういう「本心を隠す」行動が下手なわけじゃない。むしろ、どちらかと言えば得意だった。

 秀樹といっしょにいるとつい忘れそうになるけど、私はこう見えても、立派な社会人だ。どれだけ辛い気持ちだとしても、それを簡単にさらけ出しちゃいけない。

 わかってるつもりなんだ。

 自分が、今、そんな立場であるというくらいは。

「じゃ、やっぱり俺って、今日はこのまま帰った方がいい?」

「ああ」

 だから、いつものような口調と、いつものような態度で、私は秀樹を見送る。少なくともこの執務室を出る前までは、こうやってドアを開けるくらいはやってあげたかった。

 秀樹が、ドアに向かうため、こちらから背を向ける。

 よかった。これできっと、いつもどおりだ。


 私がそんなことを考えていた時だった。

「でもな、柾木」

 秀樹を見送るためにドアに近づいたら、急に、そう話しかけられた。秀樹の顔は「別の姿」だというのにやけに真剣で、こっちもつい、見構えてしまう。

「その、俺、わかってるからな。今の柾木、どこか強がってるって」

「……っ」

 それに、そんな調子で図星を言われてしまうと、私からは何も答えられない。

 秀樹って、すでに気づいてたんだ。

 私が強がってること、ちゃんとわかってたんだ。

「もうね、わかっちゃったよ。柾木がどんな気持ちなのか、なんとなくわかるようになった。別にそれはそれでいいけどさ、でも」

 秀樹は、私から視線を逸らさない。

 私も、もう秀樹から目が離せなかった。

「そのさ、もし、柾木がよかったらなんだけど、ホントに辛くて仕方がないなら、その、……甘えていいんだよ?」

 足が、震えている。

 今、秀樹がどれくらい、心からそれを言っているのか、私にもわかるようになってしまった。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 私、もう嘘をつく自信がない。

 ――大好きな人の前で、ずっと嘘をつけなきゃいけないのが、辛い。


「甘えて、いいんだよ」

 秀樹が、再びそんなことを口にしながら、こっちをじっと見つめてくる。

 その瞳は、あまりにも真剣で。

 ……正直、心臓が止まりそうだった。

「どれだけ甘えてもいいよ。柾木のためなら、俺、全部受け入れられるから」

「……っ」

 いつからだったんだろう。

 気がつけば、私は「今」の自分よりはるかに小さな秀樹に顔を埋めたまま、涙を漏らしていた。

 これでも少しは、我慢しようとしていたつもりなのに――

 次から次へと涙がだんだん出てきて、もう止まらない。

 一応、外は防音が効いているから大丈夫だと思うけど、なんとかして、声だけは抑えようと必死に頑張った。

 きっと、今度が初めてなんだろう。

 こんな「別の姿」で、誰かに弱いところ、見せてるのは。

「よしよし、辛かったね、柾木は」

「う……ううっ……」

 気がつけば、私は秀樹に頭を撫でられていた。

 今は元と体格も逆だというのに、そのアンバランスな状況が、なぜか心地いい。そういえば、大きくなってからはどちらの姿でも、ここまで甘えることはなくなった気がする。

「大丈夫だよ。もう俺がついてるから、ここでは思いっきり泣いてもいい。たくさん泣いてすっきりしよう?」

「ううっ……ううっ……」

 嬉しくて、恥ずかしくて、それでもやはり、あまりにも愛しくて。

 私はそのまま、秀樹の胸に顔を埋めてしまう。

 耐えられなかった。

 やっぱり私、こうやって誰かにいて欲しかったんだ。

 一人じゃ、ダメだったんだ。

 今の自分、きっとみっともなくて、気持ち悪く見えると思うけれど、それでも。

 こうしているだけで、私はやっと生きていけそうな、そんな気がした。


「じゃ、もうベッドについたから、思いっきり声を上げて泣いてもいいよ」

 それからいっしょに寝室までやってきた秀樹は、私のそばに腰掛けながらそう話しかけてきた。今は私より体格も小さいというのに、秀樹はここまで来る間、ずっと私の体を支えてくれていた。

「……大丈夫、なのか?」

「もちろん、それのために、俺がいるんだもの」

 今日の秀樹は、いつにも増してしっかりしてて、どこまでも甘えたくなってしまう。

 もちろん今さら強がるとか無理だけど、それがどこか後ろめたいっていうか、ちょっと恥ずかしくなってしまった。

 私がそんなことをぼんやりと思いながら、未だに流れている涙を手で拭っていた時。

「あのさ」

 その時、秀樹がこっちの様子を伺うような口調で、そう話しかけてきた。

「こんなこと言い出すと、柾木って嫌がるかもしれないけどさ」

「……なんだ」

「その口調のことだけど、今は辛いなら、やめてもいいんだよ?」

「それって」

 それを聞いた私は、心の中でひどく戸惑う。

 だって、今、秀樹が言っていることは。

「……この姿で、『元の口調』で喋れ、ってことか?」

「だって、今の柾木ってすごくひどい顔してるんだもん」

 そう言いながら、秀樹はこっちの顔をじっと、上目遣いで覗き込んだ。

 こっちのことを、心配している。

 ……今の秀樹に嘘をつくのは、やはりやりたくなかった。

 別に「この姿」にふさわいい口調でしゃべるのは、いつもならあんまり辛くないはずなんだけど――

 ――きっと、今の秀樹は察しているんだろう。

 少なくとも、今「この状況」で、私は「別の姿」の態度を貫くのは危険だ、ということを。


「――でも」

 それを聞いた私は、もちろんひどく戸惑う。

 だって、それは誰からどう見ても、気持ち悪いことでしかない。

 そんなこと、聞いてみなくてもわかる。想像するまでもない。絶対に、気持ち悪いことに決まっている。

 ……正直に言うと、私だってあんまり想像したくない。

 誰かに軽蔑されるとか、嫌がられるとか、そういう反応なんて、すぐに思い浮かべられるから。

「やっぱり、ダメそう?」

「……ごめん」

 私はうつむいたまま、そう答えるしかなかった。やはり、それはどうしてもできそうにない。怖くて、恐ろしくて、それを「破った」だけで、今の私が形もなく崩れ去りそう。

 きっと、他の人はこう言うんだろう。キモいのはともかくとして、何を大げさな、って。

 でも、私には違う。

 他人に嫌われたり、そういう醜い姿を見せるのが、耐えられない。怖いんだ。

 これは恥ずかしいとか、やってられないとか、そういう問題じゃない。普通の会社員が、スーツを着たまま、職場で一人泣きじゃくるのと似たようなものである。

 それは、やっちゃダメだ。

 そんなことをやってしまったら、やはり私、耐えられなくなってしまいそうな気がする。


「違う」

 でも、秀樹は私の顔をじっと見ながら、ゆっくりと首を横に振った。

「ごめん、今、柾木が何思ってるのか、ちょっとわかっちゃった。柾木って、あの姿で『元の姿』の喋りをすると嫌われそうで怖いんだろ?」

「……っ」

 バレて、しまった。

 別に隠し通すつもりはなかったけれど、さすがに秀樹にバレてしまうと、すごく恥ずかしい。

「別に俺は、柾木がああいう喋り方でも構わないけどな」

「でも、あんまり聞きたくはないだろ」

「いや、それこそ別に」

 私の話に、秀樹はまたそう答える。その眼差しはとても真剣で、思わず、こちらが目を逸らしてしまうほどだった。

「じゃ、こうしよう。今日は月も綺麗だし、せっかくだから柾木も『元の姿』の喋りをしてみるのはどう?」

「いや、だから、それは単なるこじつけ――」

「きっかけなんて、なんでもいいだろ」

 そこで秀樹は、隣にいる私の手をぎゅっと掴んだ。

 自分の大きな手を包み込むようなその暖かさに、私は秀樹から、視線が逸らせなくなってしまう。

「今度はあの時と違って、本当に月が昇ってるんだよ? こんな月の下なら、いっぱい弱くなったって全然大丈夫だよ」

「でも――」

「そもそも、他の人のために変に遠慮してる方が訳わからない。柾木が今、こんなに辛そうにしてるのに、そんなの、どうでもいいことだろ」

「……っ」

「笑わないよ。気持ち悪いだなんて、思わないよ」

 秀樹はまた、こちらの目をじっと見ながら、そう話した。

「だって、柾木は以前にもこんなふうに、俺のこと、ありのまま受け入れてくれたんだろ? 頼むから、今度はこっちの方から恩返しさせてくれよ」

 その時。

 どう言ったらいいんだろう。うまくは話せないけれど――

 ――きっと、胸のどこかが弾け出したような気がした。


「――はずなのに」

 どうしてだろ。口が勝手に、何かを喋っている。

「こ、こんな姿では、弱いところなんて見せないって、思ったはずなのに」

 泣いている。

 さっきよりも激しく、秀樹に抱きついたまま、私は子供のように、泣きじゃくっていた。

「わ、私がこんな姿を見せたら、みんな気持ち悪いって、そう思うはずなのに」

「大丈夫。ここには俺がいるから」

「絶対に気持ち悪いって、そう思われるのに、なのに、どうして……」

 そう泣きじゃくっていると、急に体が暖かくなった。どうやら、今私に胸を貸してくれている秀樹が、こちらの肩を優しく抱いているらしい。

 温かい。満たされる。

 自分から聞いても、今の私の声ってあんまり褒められたもんじゃないけれど――どうしてなんだろう。今のこの瞬間が、あまりにも優しくて仕方なかった。


「や、やはりこんなことはやめといた方が……」

 ダメだ。恥ずかしくて、秀樹の方をうまく見つめられない。照れてしまう。

 ……こんな口調でこんな仕草なんて、絶対にもっとキモいことに決まってるのに。

 だけど、やはりどうしようもなく恥ずかしいんだ。

 ついさっき、自分は間違いなく、この「別の姿」で「元の口調」の喋り方をしたんだから。

 おかげで今までずっと背けていたことに、気づいてしまったんだ。

 こうやって、「別の姿」で「組織」で幹部として働いている高坂柾木という人間と、家で黒ロリとか着ながらおいしいお菓子を頬張っている「元の姿」の高坂柾木という人間が、まったく同じであるということに。

 別に、今までずっと気づいてなかったわけではない。できる限り、見て見ぬ振りをし続けていただけだ。

 自分から言うのもなんだけど、私の「元の姿」と「別の姿」って、はっきり言って、別人だと割り切ったほうがきっといい。

 だからこうやって、その、「別の姿」で「元の口調」で喋って間もない時には、どうしてもそれが恥ずかしくて恥ずかしくて……。

 つまり、どうしようもなく耐えられなかった。

 ぶっちゃけ、今でも穴さえあれば入りたい。室内で穴なんて、あるわけないけれど。

 それに、秀樹が見てるし。

 ……私の恥ずかしいところ、全部知り尽くしてるし。


「む~今の柾木、ぎこちないなぁ~~」

「当たり前だろ……でしょ。こんな喋り方、『別の姿』ではやったことないから」

 そう、正真正銘、これは今回が初めてだ。

 元の喋り方なんて、別の方に持ってこようなんて思いもしなかったし、やりたくもなかったんだ。

 気持ち、悪いから。

 そんなの、誰だって嫌がることに決まってるから。

 今だって、せめて声だけは「いつもの」姿に合わせて、低くすることを心がけている。

 きっと、誰だってこんな声、聞きたくもないんだろうな。

 もし、今の自分の声が聞きたくなくて、耳をふさいだり、消したりした人がいるとしても、私はきっと怒らない。

 その気持ちが、嫌になるほどよくわかるから。

 ――私はずっと、そう思われるのが怖くて怖くて、たまらなかったんだから。

「でも、少しだけ楽に見える。気のせいかな?」

「それこそ、勝手に思ってれば……」

 いいだろ、と言い出そうとして、慌てて誤魔化す。

 ……やはり、自分にはこういう形の「素直な態度」は、あまり向いていないらしい。

 どうしても、この姿で「元の姿」の口調の喋りをすることには、強い違和感、そして抵抗感があった。


「そ、それはそうと」

 ともかく、早く話題を別のものに変えたいと思った私は、思いついたことをすぐ口にした。

「秀樹って、初めからこのつもりでここまで来た……の?」

「ああ……まあな」

 変だ。どうやら秀樹の様子がおかしい。

 急によそよそしくなったというか、何かを隠すつもりっていうか。……まさか?

「つまり、誰かに助けてもらったと」

「もちろん」

 こっちから目をそらして、秀樹はぽそっとそうつぶやく。

「当たり前だろ。姉貴に頼んだんだよ、土下座して」

「……土下座?」

 私がそう聞き返すと、秀樹は照れた顔で少し俯いてから、やがて話を続けた。

「柾木と最後に会ってから、姉貴に土下座しに行ったんだよ。今までの自分の態度のこと、謝るって。その代わりに、今の俺はどうしたらいいのか、教えてほしいって言った。もちろん『元の姿』で、な」

「で、でも土下座までする必要は――」

「あるよ、柾木のためなんだから」

 思わず、照れてしまう。

 こう見えても年相応に見栄っ張りな秀樹が、ゆかりさんに土下座までしたって、ある意味、想像がつかなかった。

「まあ、姉貴にだって柾木と似たようなこと言われたけどな。ここまでやってくれなくても力になるって。でも、それじゃこっちが耐えられないよ。姉貴にずっとひどい態度を取っておいて、今さら助けてくれとか、俺には無理なんだ」

「……秀樹」

「ま、まあ、おかげでこうやって効果も出たわけだし、柾木もそこらへんは大目に見てほしいけどな」

 私は男のこともよく見てきたから、あそこまでするまで秀樹がどれだけ悩んだか、なんとなくわかる。きっと大変だったんだろう。今、私の前に話したことよりももっと。

 ――私のために、秀樹はそこまでしてくれたんだ。

 嬉しくて、申し訳なくて、どう話しかけたらいいのか、まったくわからない。


「だが……でも、これで大丈夫?」

「何が?」

 やはり私は、そう聞くことをやめられない。

 だって、今の自分、すごく怖がってる。

 いつ秀樹に愛想をつかされるか、不安で不安でたまらないんだ。

「秀樹もこんなの聞いていれば、い、いやな気持ちにならないの? 男がこんなふうに喋っても――」

「ううん、まったく」

 それだというのに、秀樹はいつものような態度で、そう否定する。

「でも、やはり怖くて――」

「もっと自信持ちなよ、柾木」

 その時、秀樹がまっすぐな眼差しで、こっちをじっと見つめた。

 心臓が、そのまま止まりそうで。

 それでも、その瞳から視線を逸らすことはできなくて。

「恥ずかしい姿とか、あんまり見せたくない気持ちはわかるよ。俺だってそうなんだからな。嫌われたくないし、ああいうのを自ら見せるのって、やっぱり勇気要るんだろ」

「……」

 その通りだった。

 私はずっと、誰かに嫌がれるのが怖かったんだ。

 どれだけそれが「本当の自分」だとしても、やはり、明かして嫌われるくらいなら抑えた方がマシだと、ずっと思っていた。

 ……いや、「別の姿」での振る舞いや口調とかも、ある意味本当の自分だけど。

 でも、これだけ見せてしまったら、もうひとつの「本当」のことは隠し続けることになるんだから。


「別に俺、柾木が『元の姿』の口調で喋っても気にしないな。そもそも、柾木は俺が泣き声とか言い出した時、みっともないって怒ってた?」

「……あ」

 そういや、確かにそうだった。

 どれだけ秀樹のために言ったことだとしても、あの時と今、話していることがチグハグになったら、そっちの方が遥かに格好悪い。

 そもそも、今の秀樹、すごく穏やかな表情だ。嫌がったり、そんな感情を我慢してたり、そういう様子はまったくない。

 ……むしろ、私がずっと我慢してた時より、今の方が気持ちよさそう。

 つまり、私が「秀樹のために」ずっと我慢してたのは、むしろ悪手だったような、そんな気がした。


「でも、どうしてこんなことになったんだ? よかったら話してくれない?」

 しばらくじっとしていた秀樹は、そういうことを言い出す。

 きっと、秀樹は今までずっと我慢してきたんだろう。

 誰よりも私のこと、心配しているくせに。

 むしろだからこそ、今までずっと、私が言い出すのを待ってたんだ。

「……じゃ」

 結局、私はゆっくりと、今までのことを口にする。心配されるのが怖くてずっと黙っていたものも、もう隠すことなんてせずに、全部伝える。

 今までずっと我慢してくれた秀樹に。

 ずっと心配してたはずなのに、私のことを考えて、我慢強く待ってくれた秀樹のために。


「そ、そんなことあったんだ」

 やはりと言うべきか。

 私の話を最後まで聞いた秀樹の顔は、明らかに暗くなった。やはり、こういう話を聞くのは辛いところがあるらしい。

 ……ここまで全部喋っちゃって、よかったのかな。

 自分のことがチグハグなジグソーパズルみたいだとか、変なことまで口にしてしまったし。

「きっと柾木って、辛かったんだろうね。いや、今もかな」

「べ、別に、それほどでも――」

「でも、今まで俺のことを考えて、ずっと我慢してたわけだろ?」

 確かに、今さらそれを否定することはできない。紛れもなく、それは秀樹の言うとおりだった。

「俺さ、柾木の気持ち、全部わかるとか、そういうことは図々しくて言えないけどさ」

 しばらく時間が経ってから、秀樹は言葉を選ぶような口調で、そう言い出した。

「でも、やはり俺、柾木のこと、いちばん近くで支えたいんだ。これってわがままかな?」

「いや、別に、その、私としては嬉しいけど、その……」

 ダメだ。あまりにも嬉しい言葉を聞いてしまって、怪しいくらいに慌ててしまった。

 今の自分って、この「別の姿」でこんな口調で喋ってるわけだし、少しは自重しないといけないのに。

「でも、その、こんな人間といっしょにいても、いいことなんて一つもない……でしょ」

「へ? 『こんな人間』って、それ、柾木のこと?」

 私が視線を下に落としながらそう頷くと、秀樹は急に、困った顔になった。

「うーん、それは悲しいな。俺、むしろ柾木みたいな彼女がいて、自分、ここまで幸せになってもいいのか?なんてこと、最近本気で思ってるくらいなのに」

「そ、それは嬉しいけど、でも――」

「別に人間、変人でも何でもいいんじゃない。自分が『ありたい』姿でさえあれば」

 慌ててばかりである私をじっと見つめながら、秀樹は話を続ける。

「まあ、柾木のこと、みんながみんな好きになるとか、そういうのは確かにないかもしれない。ひょっとしたら、ひどく嫌われるケースもあるかもね」

「なら――」

「でも、俺や綾観さん、高梨さんなど、柾木が大切に思ってる人は、決して柾木を嫌ったりしない。それでいいと思わないか?」

 秀樹の口調は、今まで出会ってから、一度も聞いたことのないくらい真剣で。

 その口調で、私のことをどれほど強く思ってくれているのか、痛いほどよく伝わってきた。

「自分から考えてみても、高坂柾木っていう人間は、紛れもなく歪んでいる」

 いつもなら絶対に口にしないあの考えを、私はあえて、自分から言い出した。

「秀樹も近くで私のことを見てきたから、それはよくわかってるはず。こんな無様な生き方でも、秀樹は頷いてくれる……の?」

「無様かぁ」

 私の話を聞いて、秀樹はそうつぶやいた。

「柾木は今まで、ずっとそんなふうに思ってたのか。そうだったんだ」

「だって、こんな人間、誰にも認めてもらえないし」

 ――それこそ、昔の「自分」にすら、私という存在はわかってもらえない。

 そこまで考えると、あの時のように、息が詰まるような気がしてきた。


「きっと柾木って、ずっと心細かったんだろうね」

 しばらくしてから、秀樹はゆっくりとそう言い出す。やはり秀樹もいろいろ考えていたのか、顔が少し複雑だった。

「俺が知らないことだって、きっといっぱいあるんだろうな。俺、柾木と付き合ってそこまで経ってないわけだし」

「そ、そうかもしれないけど……」

「だから俺の言うこと、見当違いだったり、知ったかぶりだったり、思い上がりだったりするかもだけど、さ」

 秀樹は、こっちの方をじっと見つめた。

 そのまっすぐな眼差しに、一瞬たじろぎながらも、私はゆっくりと見つめ返す。

「やはり俺は、柾木が『自分の望む』通りに生きてほしいって思う。ありたい姿があれば、誰からなんと言われてもそうあったらいいと思うんだ」

「だが、いや、だけど――」

「うん、柾木のことだし、誰かに嫌われたり、笑われたりするのは辛いんだろうね。『子供の頃』の自分のことまで合わせると尚更さ」

 思わず、秀樹から視線を逸らしてしまう。

 さっき、秀樹には子供の頃の自分とか、今まで隠してきた複雑な気持ちなどを、隠せずに全部明かした。

 はっきり言って、少しだけ後悔しているところもある。

 ……こんな気持ち、お姉ちゃんにすら明かしたこと、なかったから。


「その気持ちが全部わかるとか、そういうのはやはり言えない。それって、思い上がりもいいところなんだから」

 時々じっと考え込みながらも、秀樹はゆっくりと、そう語りかけてくる。

「でも、柾木が望むような生き方をしたって、怖がってたように辛いことばかりじゃないと思うよ。むしろ『こう生きてよかった』って、そう思えるかもしれない」

「……本当に?」

「さっき、柾木は自分のことをチグハグなジグソーパズルとか言ってたけどさ、あれってそこまで醜いものじゃないというか、むしろ場合によっては結構カッコよくない? 今までになかった形って感じで。あくまで俺の考えなんだけど」

「そ、そうなんだ」

 そんな考えは、まったくなかった。

 目からウロコというか、そういう考え方自体が、自分にはまったく思いつかなかったんだ。

「まあ、本音を言うと、俺がそういう感じでイキイキしている柾木の姿を見ていたい、ってところも大きいけどね。だから柾木の生き方、あんまり無様だとは思わなかったんだよ。怒った?」

 ――そんなこと聞いて、怒れるわけがないんじゃない。なんていう感情が湧いてくるのはともかくとして。

 ここに来て、私は今までいちばん聞きたくなかった、とても怖い質問をしてみたいと思った。

 わかってる。これの答えによっては、私と秀樹が離れ離れになるかもしれない、ってことくらいは。

 ……でも、もう我慢することができない。

 どうしても、今聞いてみたくてしょうがないんだ。

「こんなこと、聞いたら秀樹に怒られるかもしれないけど」

「ん?」

 私はなんとか心を決めて、秀樹の方に体を向ける。なんとか平気なフリをしようとしたはずなのに、体の奥が、恐ろしいほど震えていた。

「秀樹は、その、私がこんなやつだというのに、ずっと付き合ったり、恋人として側にいることができるのか?」

 震える声をなんとか抑えて、私は質問を続ける。

「こんなやつとずっと一緒にいたって、きっと飽きることに決まってると思う。自分なんか、秀樹の側にいていいことなど、何ひとつもない」

「……」

 秀樹は何も答えない。こちらを見て、じっと考え込んでいる。

「そもそも、自分のせいで秀樹までこんな姿になってしまった。今はまだいいとしても、これからどうなるかなんて、誰にもわからない」

 自分からこんなことを話していると、どうしても惨めな気持ちになってしまう。

 でも、これはすべて本当のものだ。自分が変人扱いされるのならまだ我慢できる。だけど、大好きな秀樹まで「自分のせいで」笑われるのは、こちらとしてはとても辛い。

 だから、どうしてもこれを聞かずにはいられなかった。そのせいで、二人の関係が今とは変わってしまうとしても。

「へ、変な質問だよな。俺が悪かった。でも、やはりどうしても心配だったから、だって、自分は――」


「俺はさ」

 その時、秀樹が私のことをじっと見ながら、そう話しかけた。

「確かにそういうのって、簡単には言い切れないかもしれない。『これからだってずっと構わないよ』っていうだけなら容易いけど、それって、やはり無責任すぎるから。この姿で困らないと言うと、それもそれで嘘になるし」

「そうだろうな。なら――」

「でも、やはり今の俺は、自分が笑われることになったとしても、できる限りずっと柾木といっしょにいたい」

 秀樹の瞳は、揺るがなかった。

 私はその瞳に吸い込まれるように、視線を逸らすことができずにいる。

「これからどうなるとか、そういうことなんて知るわけないよ。俺は『今、ここ』しか知らないから。でも、今、この瞬間を重ねて、少しでも長く、柾木の力になりたいんだ」

「……っ」

 涙が、あふれる。

 別に「確答」を得られたわけでもないのに、あまりにも嬉しくて、仕方がない。


「でも、それって……」

「まあ、きっと大変なことだっていっぱいあると思うよ。結局、どうなるかなんて未来の俺たちしかわからないと思うし、心細いところも多いと思う」

 そんなことを口にしているというのに、秀樹はものすごく清々しい表情だった。

 なぜだろう、ここまですっきりした秀樹の顔、初めて見たような気がする。

「きっと、柾木は心配なんだろうね。結局俺、今はこれしか言えないんだから。でも、しっかりと重ねていこうよ。まだわからない未来を恐れるより、今はちゃんと、目の前にある現実を歩いていきたいんだ」

 わかっている。ちゃんとわかっているんだ。

 それはあくまで「そうなったらいいな」みたいな話であって、確実なものではないということくらいは。

 でも、今の私は、誰も保証してくれない秀樹の話に。

 なぜか、とても心がときめいている。


「……もし、自分が『この姿』のことを嫌がってないとしても、この姿でずっと仕事がしたいって思ってても、秀樹は、その、大丈夫なのか?」

「柾木、口調戻ってるよ。いや、変わってるのか」

「あ、そ、そうだった。さっきは心配だったから、つい」

 秀樹に指摘されて、ちょっと恥ずかしくなってしまう。さっきは嫌われるのが怖くて、自分も知らぬ間に口調が「別の姿」のものになっていた。

「まあ、もう全部知ってるしね。柾木がそうしたいなら、別に構わないよ」

「もし、その、結婚とか、そういうことになっても、その……」

「う、うわ、それ、柾木から言っちゃうの? ずいぶん遠くまで行っちゃったな、こりゃ」

「ごめん、でもどうしても、そんなことまで考えちゃって」

 目を丸くする秀樹を見ながら、私はそっと視線を逸らす。

 わかっている。自分でも重すぎるし、行き過ぎてるということくらいは。

 でも、どうしても心配で。

 ……こんなことになっている私だから、もしめでたく結ばれることになったとしても、ただじゃ済まないと思ってしまって。

「でも今からすると、けっこー遠い話だな、それ。俺としては今のところ、想像するだけで照れくさいけど」

「……や、やっぱりそうなんだ」

「えへへ、でも柾木の心配するところはよくわかるかな。やっぱり、今まで誰も歩いたことのない道って怖いよね。いろいろ困ることもあるはずだし」

「やっぱり、そうなるかな」

「でも、結局俺たちにできることは、一歩ずつ、ゆっくりと歩いていくことしかないと思うんだ」

 まるで子守唄のような優しい声に、私はなぜか、心が落ちつくことを感じる。

 不思議だ。別に希望にあふれることばかり語っていたわけでもないし、永遠を保証してくれたわけでもない。

 なのに、心が異常なくらいときめいている。

「たしかに、この世界は厳しくて危険なところだけど、さ」

 そんな私の顔をじっと見ながら、秀樹は私の手をゆっくりと取って、ニコリと笑ってみせた。

「それでも、あるくらいは無茶の効くところだと思うんだよ、柾木」

 まるでいっしょに冒険へ出かけようと誘うような、軽やかな声とゆるやかな表情。

「だからさ、ちょっと大変かもしれないけど、二人でいっぱい、無茶しよう? 恥ずかしい姿たくさん見せて、いっしょに思いっきり『行きたい道』を歩いてみようよ」

「……っ」

「絶対、楽しいと思うから、ね?」

 ――きっと、忘れることなんかできない。

 その顔が、その声が、いつまでだって、ずっと私の心に残るんだろう。

 別にものすごいことを言われたわけじゃない。自分でもそう思うけれど――

 それでも、今、この瞬間を、私は忘れそうになかった。

「……自分で、よければ」

 だからか、返事は案外、すんなりと口から出てきた。

「ずっといっしょにいたいよ、その、……秀樹」

 きっと、まだ「これから」のことは誰にだってわからない。私たちがどれほどいっしょにいられるかなんて、きっと神のみぞ知ることだろう。

 でも、なぜか今は、いっしょに歩みを重ねたくなってきた。

 ――歩けるところまでいっしょに行ってみたいと、心から思ったんだ。


 そんな感じで、二人の時間を過ごしてから。

「じゃ、もう俺からできることって、何もないの?」

 相変わらず、秀樹は心配そうな眼差しで、こっちのことをじっと見つめている。まあ、今までずっと私がああいう態度だったから、不安になってしまうのもおかしくない。

「これくらいで十分だよ、もう」

「ほんと?」

「ほんと」

 そこまで私のことが気になったのか、秀樹は何度もこっちを向いてそう聞いてくる。

 でも、今度こそ本当のことだ。

 もう私と秀樹との間に、秘密とか、隠し事とか、そういうのはまったくない。

 全部、打ち明けたから。

 もう秀樹の前でなにかを隠すとか、そういうことはしないから。

「で、でも~」

 だけど、秀樹はどこかソワソワした顔で、こっちを見ながらあたふたしていた。どうやら、自分があんまり役に立たなかったのでは、と心配しているらしい。

「本当に平気? えっちなこととか、いらない?」

「……いらない」

 もう察する必要すらないくらいに、こちらに一生懸命尽くそうとしてくれる秀樹のことを見ながら、私は思わず苦笑いした。

 秀樹って、本当に私のことをいちばんに思ってくれるんだな。

 これだけはバレないようにしてるんだけど、実はそれがすごく嬉しくて、誇らしい。でも、今はもう大丈夫。

 だって、今日だけはえっちなこと、あんまりしたくないし。

 今日、秀樹にしてもらえただけでも、私は十分、満たされたんだ。

「で、でも、でも~~」

「まったく、いつもこうなんだから」

 そんなやり取りをしながら、私と秀樹はドアの方に向かって歩いてゆく。やはりもう遅くなったから、今日はこれくらいにしておきたかった。

 ……もっといっしょにいたい、と思わなかったと言ったら嘘になるけど。

 それでも、今日はやはり、一人でいたいと思ったから。


「うぅ、柾木、俺はやっぱり心配だよ~」

 もうすっかり、誰もいなくなった廊下。

 秀樹の間延びした声が、静かに廊下に響いている。私がどれだけ辛い時間を過ごしている時だとしても、やはりここ、「組織」はいつも通りなんだ。

 私なんか知らんふりをして、世界は今日も回っている。もちろん、この「組織」もそうだ。

 ……まあ、今はその事実に、ものすごく助かっているんだけど。

「それより自分の心配をしなきゃ。ちゃんと戻れる?」

「まあ、今のタクシーは無人なんだろ? それ乗って帰れるし、平気だって」

 未だに頬を膨らませながら、秀樹はそう答えた。やはり、今の秀樹はちょっと拗ねている。いつもの自分の態度と同じだ。

 とにかく、今は誰もいないみたい。

 さっきは「もう欲しい物なんてない」って言ったけど、外に誰もいないことを目の当たりにすると、私はどうしても、もう一つだけ、望みたくなってきた。

 別に大したことじゃない。ものすごく、呆れるほどに些細なこと。

 まあ、それを自分から求めることは、はっきり言ってすごく照れくさいけど……。

「あ、あの、柾木さん?」

 そんなことを思いながら、私はドアの前にある廊下へと近づいていく。「思っていた通り」にそこにいてくれた秀樹は、私の動きに目を丸くした。

「そ、その、なんでこっちの壁に近づくわけ? 俺にはよくわから――」

 秀樹のセリフは、そこで途切れる。

 私はそのまま秀樹を壁にゆっくりと押しつけて――残りの手を壁において自分の体を支えたまま、そっと口づけた。

「む、むむ……むむっ?!」

 やはりこんなこと、予想もできなかったからか、秀樹はさっきよりも驚いていた。私からここまで求めてきたことなんて、きっと今日が初めてだったからなんだろう。

 でも、今そんなことなんて、どうでもいい。

 今の私は、誰よりも激しく秀樹を求めている、それだけが重要だ。


「ん……んんっ」

 さっきは「そっと」とか言っていたくせに、一度口づけてしまうとなかなかやめられない。気がつけば、キスはずいぶん長く続いていた。

 非常灯の鮮やかな光だけが、私たちのことを微かに照らしている。

 いつもなら心臓がドキドキしていたはずのその行為に、私はなぜか、妙な安心感を覚えていた。

「ふ、ふあ、死ぬかと思った~~」

 ようやく私が離れると、秀樹は息を整えてからこっちを睨む。でも、それは嫌がる表情じゃなくて、明らかに悔しんでいる顔だった。

 その表情をじっと眺めていると、どうしてもこういう意地悪なことを、口にしたくなってしまう。

「私から突然こんなことされて、驚いた?」

「……!」

 やっぱりと言うべきか、暗い廊下でもよくわかるくらい、秀樹の顔が赤くなった。ここまで純情な秀樹の様子なんて、初めて見るかもしれない。

「ま、柾木のバカ。いきなり過ぎるんだろ、これは!」

「まあ、それは……」

 否定できない。

 だって、私も廊下に出る前までは、こんな行為、思いついたことすらなかった。

 自分としては、間違いなく激しすぎる行動。

 でも、今はそれだけで、すごく安心できたんだ。


「と、ともかく、柾木の気持ちはよ~くわかった」

 やっぱり不意打ちが悔しかったのか、秀樹はさっきよりも頬を膨らませたまま、視線を逸らした。

「本当によくわかったよ。柾木って、ここまでえっちなことが大好きだったんだね」

「それこそ、何を今さら」

 否定なんか、できるわけない。

 そもそも私たち、キスよりえっちなこと、今までいっぱいやってきたわけだし。

「そ、そんなこと知らないよ。これは全部、柾木がスケベなのが悪いんだ。まったく、柾木といっしょにいると、自分がだんだん女の子になっちゃう」

「それや嫌だな。かっこいい秀樹も大好きなのに」

「え、ええ?!」

 自分から考えてみても素直過ぎる発言に、さすがに秀樹もこっちをじっと見つめている。でも、すぐにハッとした顔になって、こっちに背を向けたまま、エレベーターのあるところへ歩き出した。

「も、もう俺は知らない。何も知らないからな。今日はすごく嬉しかった。じゃ、じゃ!」

 そのまま、秀樹は振り返ることすらせずに歩いてゆく。

 ……たぶん、振り返ることすら恥ずかしかったから、だと思うけれど。


「終わったか……」

 秀樹が帰ってからようやく一人になった私は、ゆっくりと上着を脱いで、寝室へと向かった。

 今の気持ちをどう表現すればいいのか、私にはよくわからない。

 でも、なぜだろう。

 ゆっくりとネクタイを外して、ベッドでそのまま倒れてみると、なぜかすごく、雲の上にいるような気分になった。


 ――今日の私、最高にかっこ悪かったな。

 上着を脱いでから横になっていると、やっぱりそんなことを思ってしまう。

 まあ、恥ずかしいのは仕方ないけど、これは認めるしかない。

 この姿で「元の口調」でしゃべるやら、秀樹に不意打ちでキスするやら、恥ずかしいことばかりやってきたんだから。

 ――どうしてなんだろう。

 そんな恥ずかしいことばかりしてたはずなのに、未だに心が、すごくドキドキしている。

 ……興奮、している。

 今日の出来事、私、これっぽっちも後悔してないんだ。


「……っ」

 そこまで考えると、もう居ても立ってもいられなくて。

 私はそのまま、近くの枕に顔を埋めた。

 わかっている。今の「別の姿」で、こんな仕草なんか、気持ち悪いということくらいは。

 でも、もう我慢なんか、できなかった。

 こうでもしないと、本当に私、おかしくなってしまいそう。

「本当に……本当に……私のバカ……っ」

 ジタバタ、ジタバタ。

 誰もいないことをいいことに、私の暴走は止まらない。

 じっとしてはいられないんだ。

 さっきの、あの夢のような瞬間を思い浮かべたら。


 ――ああ、私は今、すごく秀樹が恋しくて仕方ないんだな。

 もう、こんな気持ちなんか、隠せるわけがない。

 挙げ句の果てに顔を埋めていた枕をぎゅっと抱きしめながら、私は心からそう思った。

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