86.姉妹の思い
「あの、高坂さん」
「……どうした?」
次の日。私は休憩がてら外に出かけて、いきなり美智琉と出くわした。
ぶっちゃけ、こんな場面で美智琉の顔を見るとは考えもしてなかったため、私は少し戸惑う。別に美智琉と会いたくなかったとか、そういうわけではない。ただし、私は未だに一人で悩んでばかりだったから、美智琉と顔を合わせるのは少し避けたかっただけだ。
で、その美智琉と言ったら。
「ぐぬぬぬぬ……」
「お前、本当にどうしたんだ?」
まるで親の仇でも見ているような顔で、美智琉は私の顔をじっと睨んでいる。こ、今度はいったいどうしたんだろう。私、なんかまずいことでもやらかしたのかな?
「本当に、人の話を聞かないんですね。高坂さんは」
「……話がよく見えないんだが」
私が答えると、美智琉はますます不機嫌な顔になった。こっちの態度がそこまで悔しかったのか、さっきよりもすごい表情になっている。
「あたし、言ったんですよね。一人で抱えることはやめてって」
「ああ、そのことか」
そういや、以前、美智琉と話してた時、そういう話題になった覚えがある。
別に忘れていたわけじゃないけど、まさか美智琉が、今までずっとそれを覚えてたとは思ってなかった。
「なのに、まだ一人で変なこと抱え込んでて、もう……」
「少し待ってくれ。誰がそんなこと言った?」
「姉さんに聞いてんですけど、何か?」
美智琉の話によると、昨日、姉である美由美との電話の途中で、私の話題が出てきたらしい。もちろん、あの美由美のことだ。別に私が何か一人で抱え込んでるとか、そういうのを話したわけではない。
ただ、「柾木くんに何か、悩み事があるらしい」と、心配していたそうだ。
で、それを聞いた美智琉が、勝手に怒ったあげく、私と話すつもりでこっちまでやってきたというのがオチらしい。
「だから、俺はお前と話すことなんてないって――」
「本当にそうなんでしょうか?」
今日の美智琉は、なかなか諦めてくれそうになかった。
そもそも、この子がこちらに会うためにわざわざやってきた時点から、退いてくれることは期待しない方がよかったんだろう。
「……だが、あの日話したことは、自分が美由美に近づいてもいいか、それくらいだったんだろ」
「そうです。だから高坂さんは、自分の悩み事、姉さんや他の人に明かしてないんでしょ?」
ここに来て、私は思わず息を呑んだ。
……ここまで美智琉が自分のことを把握しているとは、夢でも思ってなかった。いつもこっちのことは睨んでばかりだったし。
でも、そうじゃない。
美智琉はきちんと、こっちのことを考えてくれていた。
「ほら、図星じゃないですか」
「だ、だが――」
どうしよう。思わず戸惑ってしまう。
はっきり言って、美智琉にこれほど思われていたとは思いもしなかった。
「別にですね、何もかも全部話しちゃえって意味じゃないですけど」
こっちの表情から察してくれたのか、美智琉は話を続けた。
「その、姉さんとかには自分の悩み、少しは打ち明けてみてもいいと思いますよ。何か力になれるかもしれないですし」
「それやって、変に気配りされたら悪いだろ」
「あのですね、それ、姉さんがそういう態度を取っていても同じこと言えますか?」
答えられなかった。
っていうか、今までの私も、秀樹や雫、美由美に似たことばかりしてきたんじゃないか。
「やっぱ高坂さんってズルい人ですね。他人事にはああやってズバズバと踏み込むというのに、いざ自分のことになったらめっちゃ奥手になる」
「……恐れ入る」
「あたしは別に、責めてるわけじゃないですよ。ただちょっとだけ悔しいだけです」
「ああ」
「そもそも高坂さん、姉さんや周りの人を信じなさすぎ。うちの姉さんが、ああいうことで高坂さんを遠ざけるとでも思うんですか?」
「も、もちろん、そんなわけはない……だろ」
「なのに、今の態度ってちょっと失礼じゃないですか。以前にも言いましたよね? 勝手に相手の態度を決めつけるのは良くないって」
「……ごめん」
今の美智琉の話、かなりキツい。
でも、美智琉は私のこと、そこまで真剣に考えてくれてるんだ。
この口調から、声から、それがまっすぐに伝わってくる。
まあ、私みたいにあんまり素直じゃないのは玉に瑕だけど……この子はきっと、こっちのことを心配している。
「べ、別に、わかったらいいんですよ」
自分でもキツいと思ったからか、美智琉の口調が急に優しくなった。それどころか、今は私から視線をそっと逸している。
「あたしだって、高坂さんに説教するためわざわざここまでやってきたわけじゃない。ただ、どうしてもこれだけは面と向かって伝えたかった」
「そうか」
「こっちだってその、あたしなりには心配してたんですからね」
ここで美智琉は、明らかにこっちから視線を避ける。
……多分だけど、今の美智琉はきっと照れてるんだ。ああいう仕草って、いろいろ見覚えがあるから。
「あのですね」
「どうしたんだ?」
今度の美智琉は、どこかおかしい。
いや、以前にも突っかかってきたり、突飛なところはかなりあったけれど……。今度はどこか、もじもじとしている。
「べ、別に、これは聞き流してくれても構わないんですけど」
しばらくそうやって顔を俯いていた美智琉は、ようやく口を開いた。
「その、姉さんに聞いたんですよ。高坂さん、なんか『別の姿』とか、そういうのがあるんだって」
「……そうか」
まあ、それくらいなら美由美が言ったとしてもおかしくないだろう。
どうして私がここまでよそよそしい態度を取ろうのか、と美智琉に聞かれたら、一応はそう答えておいた方が納得しやすくなるんだろうし。
……結局、美智琉は納得などできず、こっちまで直々会いに来たわけだけど。
「あ、あたしはそういうややこしいことはまったくわかりませんし、あんまり踏み込むつもりもないんですけど――」
そこまで言って、再び息を整えてから――美智琉はこっちの顔を、まっすぐに見つめる。
「そ、そんなくだらないことで、姉さんやみんなから距離を置いてしまうと――あたし、一生恨みますからね?」
「どうしてなんだ」
とか言ったものの、私にはその言葉が、ズシリと心に刺さった。
「別の姿とか、そういうのってどうでもいいんじゃないですか。あたしは詳しいこと、あんまり知らないんですけど……。高坂さんがたとえどうしようもない変態だとしても、あたしには受け入れがたい趣味を持ってたとしても、別にそれはそれでいいんですよ」
「ああ……そうか」
「だから、あたしたちに遠慮することだけは、やっぱりやめてくださいね。姉さん、悲しみますよ。あなたのこと、すごくまっすぐに思っている人なんです、うちの姉さんって」
わかってる。
美由美はいつも、私のことを心配してくれてたわけだから。
「あなたと姉さんが付き合うのかどうか、そういうのはどうでもいい。ただし、姉さんのこと、そしてあなたを思っている人のこと、ないがしろにしないでほしい。それがあたしの望みなんです」
「わかった」
だから、こっちだって、今度くらいは真剣に向き合うのが礼儀ってものなんだろう。
だって、今の美智琉も、きっとそうだと思うから。
「俺のために、わざわざここまで来てくれてありがとう」
「え、えっ?」
今度は美智琉が、すごく照れた顔をしていた。やはり似たもの同士っていうか、こういう感じでストレートに褒められると、すぐ視線を逸してしまう。
「いろいろと心が軽くなった。今すぐ行動できるかどうかは自分でもまだわからないが、それでも、美智琉の言ったことはきちんと覚えていようと思う」
「そ、そうですか。その、よかったじゃないですか」
「ああ、今度はここまで心配してくれて、本当にありがとう」
「だ、だから~」
本当に、素直じゃないところまで似たもの同士だな、私たちって。
目の前で顔を赤くしている美智琉を見ながら、私はやはり、そんなことを思ってしまった。
「えっ、そんなことがあったんですか」
その日の夜、私は久しぶりに美由美といっしょに、自分の執務室で時間を過ごしていた。
さっき、晩ごはんを食べてから執務室に戻ろうと思ったら、廊下で美由美とばったり会うことになったのがきっかけである。最近はあまり美由美と話もできてなかったし、私もいい機会だと思って、思い切って行動してみたわけだ。
……やっぱり美由美って、私のこと、かなり心配してたみたい。執務室に来ないか、って話しかけてみたら、パッと顔が明るくなった。
こんな子にずっと何か隠し事するって、やはり嫌だ。とはいえ、まだ怖いっと思ってしまうのも事実ではあるけれど……。
「美智琉って、やっぱり思いついたらすぐ行動に移るんですね。昔からまったく変わってないです」
「……たしかに、すごい行動力だったな」
美由美の話に、私は苦笑いする。そういう行動力まで含めて、美智琉はいろいろ見覚えがありすぎる存在だった。もちろん、それはまったく嫌いじゃないけど。
「でも、昨日の美智琉ってすごかったんですよ。わたし、やはり柾木くんの『別の姿』のこと、美智琉に話すのは戸惑われたんですけど……。美智琉が『でもおかしいじゃない。何か別の理由があるんでしょ?』としつこく聞いてきて、仕方なく……」
「ああ、よくわかる。別に怒ってなどないから、気にしないでほしい」
「ありがとうございます。今日のことで美智琉も、あるくらいは納得してくれたと思います」
そう話しながら、美由美はそっと微笑む。
やはり美由美としては、妹である美智琉のことが気になっていたんだろう。
「ですけど、美智琉だけじゃなくて、わたしも柾木くんのことは、やっぱり心配でした」
「ああ……わかってる」
こんな単純な言葉では、私が美由美のことをどう思っているか、まったく伝わらないんだろう。
今の私は、ちょっと美由美にひどいことをしている。
美由美のことなら、自分だって何か力になったらいいな、って思っていたのに、こうして逆の立場になると、急に体を引いてしまってるんだ。
はっきり言って、今の美由美は私に対して怒ってもいい。
なのに、ここまで付き合ってくれて、その上、こっちのことを本当に気にかけてくれていて……。
どうしよう。どう話しかけたらいいのか、ますますわからなくなる。
私がそうやって、一人で悩み込んでいた時だった。
「あの、柾木くん」
「ん?」
何か決めたような顔で、美由美がこちらの方を向く。
……どうしてだろう。今の私、ひどく緊張してる。
美由美もしばらく、私の顔をじっと見ているだけだったけれど――
「わたしは、柾木くんのことを嫌いになりません」
「……」
ふと、美由美が私の目を見ながら、そういうことを口にした。
いつもの美由美とは違う、まっすぐな眼差し。
いつの間にか私の右手をゆっくりと掴んだまま、愛しい視線でこっちを見つめている。
「もちろん、柾木『ちゃん』のことも、嫌いになりません」
言葉がとっさに出てこない。
ありがとう、嬉しい、その一言でもいいから、口にしたいのに。
でも、美由美は微笑んで。
私のことをじっと見ながら、やがてこっちの頬をやさしく撫でる。
「わたしは、高坂柾木という人が、大好きです」
心臓が、止まるかと思った。
どうしてか、美由美の声を聞いただけで、体が震えそうになる。
美由美に触られただけで、その嬉しそうな表情を見ているだけで――
嬉しくて、幸せで、何もかもが崩れてしまいそうだった。
愛しそうに私に触れている美由美のことを、今すぐにでも抱きしめたくて。
体が、魂が、自分のあらゆるところが、その嬉しさで震えているのを感じる。
ありがとう、本当にありがとうね。美由美。
私はこんな人間だから、ただ、それしか返せないけれど――それでも、この気持ちだけは本当のものなんだよ。
「ですから、どうか自分は一人だと思わないでください。柾木くんを思ってる人は、きっと周りにたくさんいると思います」
「……ありがとう」
情けない。
だけど、今の私はただ、それしか答えられなかった。顔もだいぶ赤くなっているから、美由美のこと、うまく見つめられない。
「もちろん、その、わたしも……その一人です」
「ああ、知ってる」
「わたしはやはり、まだまだ頼りないところも多いと思いますけど」
それでも美由美は、精いっぱい話を続けてゆく。
「それでも、少しでも柾木くんの力になれてらいいな……そう心から願ってます」
ここに来て、美由美は自分が熱くなったことに気づいたか、そっと視線を逸した。その控えめなところが、今日はどうしようもなく愛しい。
今すぐにでも、美由美のこと、ぎゅっと抱きしめてあげたいんだけど――
……今の姿だと、どうしても「別の意味」を持っているようで、それが気軽にできない。
「わたしには、美智琉のようなことはやはり喋られないです。でも、少しでも今の自分の気持ちが、柾木くんに伝わってほしい」
「……」
「あの時、柾木くんがわたしのことを助けてくれたように――今度は、微力ながらわたしの方が力になりたいです」
「……十分、伝わってる」
口下手な私は、やはりこういう形でしか、うまく好意を伝えられない。
――触れたいのに、触れられない。
私がそんな思いをしながら、一人で悩んでいた時――
「……っ」
こっちの気持ちを察してくれたんだろうか。
美由美が、自分から私の腕の中に飛び込んできた。
暖かくて、太陽みたいで、ほっこりする。
私にはもったいないくらい、とてもとても大切で、尊い存在。
「今の柾木くん、ちょっと困った顔してたから、ひょっとしてこれのせいかな、って」
「……よく、わかったな」
「わたしに触れたいのに、それができなくてもどかしい。そんな顔してました」
「そうだな。本当に、そう思ってた」
その優しい太陽を、私はぎゅっと抱きしめる。
自分から抱きしめたわけじゃないからか、妙にくすぐったっくて、落ちつくような暖かさだった。
「わたし、やっぱり他の方に比べると存在感も薄いし、柾木くんへの思いも負けてしまいそうで不安ですが」
私の胸板に顔を埋めたまま、美由美がこっちに向けて、そうささやく。
「それでも、やはり姉妹なんだから、美智琉にだけは負けなくないんです」
「……ああ」
私って、ここまで高梨姉妹に愛されてもいいのかな。
そんなことを思いながらも、私はそのまま、自分の腕で美由美のことを強く抱きしめた。
きっと、今の美由美はこれでいちばん喜んでくれるから。
……私が今できる恩返しは、きっとこれしかないと思うから。