08. 運命のはじまり
執務室の中に入ると、見慣れた風景が私を迎えた。
なんだかんだ言って、ここにいると落ちつく。基本的に、自分しかいないところだと言うのもあるのだろう。
ここは組織の中では、「個人のオフィス」として普通の見た目をしているところ。ほんの少しを除くと、本当に一般的な事務室と同じだ。
基本的に事務職なので、ここから出ることはあまりない。会議とか、そういう時に外に出るくらいだ。
だからここにいる間は、一人の時間、と言ってもいいだろう。
自分の席についたら、ようやく一息つけそうな気がした。
せっかく時間もあることだし、しーちゃんに連絡でもとってみようか。
普段なら忙しくなりがちだからそういう余裕もないんだけど、今はなぜか、その気になった。
軽く手招きして「端末」を呼ぶ。端末に物理的な形はないも当然だけど、こうやって呼べば、きっと反応してくれる。
いつものように浮かんできた場面を見ながら、指で机をなぞり、しーちゃんにメッセージを送る。別にこの場面に直接触らなくても、こうすると、端末はこっちが何をやりたいのかすぐわかってくれる。
メッセージの入力は、今、目の前にある物理的なキーボードで行う。これがなかったとしても、音声入力や、仮想のキーボードを使うなどで、メッセージを送るのは可能だ。今は事務室なのだから、目の前のキーボードが楽かな、と思った。あまりしーちゃんとは連絡する機会もないため、今のうちにやっておきたい。
『しーちゃん、今日はありがと。次の機会にもよろしくね』
照れくさいと思いながらも、スタンプとか年相応の要素も取り込みつつ、そんなことを打つ。せっかくの友だちだし、やはりこんなこともやってみたかった。それを打っている自分は、今、スーツ姿の野郎であるわけだけど、それはまったく気にしない。
ということで、無事、メッセージはしーちゃんに送られた。
「久しぶりだな……」
思わず、そういうことをつぶやく。雫とならともかくとして、同い年の女の子にこんなことを送るのはずいぶん珍しく思えた。そもそも、雫とはチャットでもスタンプとか、そういうかわいいのは絶対に使わない。こんな姿、他の人に見られたら、恥ずかしくて穴でも掘ってしまいそうだ。
たとえば……橘とか。
さすがにそんなことは、絶対にないだろうけど。
そういや橘って、今ごろ何をやっているんだろうか。
さっき、ああ言って別れたのが、なぜか気にかかる。
普段なら、なんでもないって誤魔化せるのに、今日は変だ。
ダメだ。集中集中。
私は今「組織」にいるんだから、橘のことは忘れておかないと……。
そんなことを思っていた時だった。
「すまんが、高坂、話がある」
外から、ノックと共にそういう声が聞こえてきた。私の間違いではないのなら、ここの幹部の中の一人の声だと思う。
「はい、なんでしょう」
「事件が起きた」
ドアを開けてみると、その人は気張った顔で、急にこんなことを言ってきた。
「今、ここの入り口の前に、君の学園の制服を着た女の子が倒れている」
「僕の学園の制服って、それは……」
いきなりの話だった。だが、ここまではまた、なんとか飲み込めるレベルだった。
「で、その生徒のことだが、たぶん、お前のクラスメイトである橘と思われる」
「……はい?」
わけがわからない。
なぜ、ここで、この「組織」で橘の名前が出てくるのだろう。
「どうやらあの生徒の持ち物から、それがわかったらしいな」
「いや、だから……」
「ともかく、そういうことだから、高坂、お前も見に行った方がいい」
「……はい」
今、私の頭は、言葉通りからっぽだった。
だって、これはありえない。
ありえない出来事なのに、理解ができるはずもない。
なぜここで、この組織とは何の関係もない橘の名前が出てくるのだろう?
ひょっとして、これは自分の聞き間違いなどではないだろうか?
とはいえ、「組織」の幹部である人が、私にこんな、つまらない嘘なんかつくわけがなかった。
行かなければ。
行って、自分の目で確かめなくては。
「組織」の入り口の前。
そこに、私の学園の制服を着た、女の子が倒れていた。
遠くから見ても、女の子であるのがわかるのに、男子の制服を着た、アンバランスな姿。
「……そんなバカな」
近くに行ってみたら、その「女の子」が、さっき、私と話していた橘だということがはっきりとわかってくる。
髪が少し長くなっていたり、変わったところは確かにあるけれど、私ですら、ひと目で橘の「別の姿」だとわかるものだった。
本人は今の状況をまったく知らないからか、気持ちよさそうに眠っている。だが、それを見ているこちらはまんざらでもなかった。
「これって……」
いったい、この状況をどう受け入れたらいいのだろう。
いちおう、周りの人のことを考えて冷静なふりをしているが、私は今、非常に混乱していた。
普通の人だったら、あの女の子がどれだけ橘と似ていたとしても、そんなわけないだろ、と笑い飛ばせるはずだ。「常識」的に考えてみても、それはおかしくない。
だが、私は知っている。
その非常識な考えを叶えられる、ある特別な機器のことを。
――あまりにも突飛な出来事だった。
こういう無茶っぷりには、もう慣れていると思っていたのに。
「はあ、はあ、いったいなんてこと……」
どうやってこの事務室まで戻ってきたのかは、自分でもよくわからない。
ドアを締めてから、私は自分も知らぬうちに、後ろにもたれかかったまま、右手で額を強く押さえていた。
これから、どうしたらいいのだろう。
頭がぐちゃぐちゃで、うまく考えることができない。
橘については、検査室で調査があるようだ。もし、橘が意識を取り戻したら、私まで連絡が来ることになっている。
そうなったら、私はまた、この信じがたい現実と向き合うことになるのだろう。
――その時、私はどうしたらいいのだろうか。
こうあたふたしたって、何か答えが出てくるわけでもないのに。
私はその場で立ち尽くし、しばらくそう迷うしかなかった。