前へ次へ
65/90

67.勇気の一歩

 私たちが美由美の家があるマンションの3階までやってくると。

 「美由美の父親」だと思われる男が、廊下で姿を現した。


 その男は、ずいぶん汚い服を着ていた。

 きっと、自分が周りからどう見えるかなんて、考えてないんだろう。長い間投げやりの生活を送ってきたからか、男の眼差しには迷いが感じられなかった。

 たとえば、「何も失うことのない人」のような、怖いまでの迷いの無さ。

 こういう人を下手に怒らせると、痛い目に会う可能性がある。

 そもそも、自分の娘が知らない男といっしょに現れたと言うのに、あそこまで「驚きも何もない」顔だし。時間もここまで遅くなったのに。

「どうしたんだ、美由美。お前が俺より遅く戻ってくるとはな」

 男の声はだいぶ酔っていて、早くから飲んで帰ってきたのが丸見えだった。美由美は私の右腕をぎゅっとつかんで、俯いたまま何も言わない。

 今の美由美は、頼れる人が私しかいないんだ。

 少なくとも、ここに自分がいるから、美由美はこうやって立っていられるんだろうと、私は悟る。

「ごめんなさい、柾木くん」

 すぐ近くから、微かな声が聞こえた。

「わたしのせいで、その、こんな目に……」


「何をボソボソ言ってるんだ、お前は」

 その時、男の声が若干高くなった。どうやら、美由美の密かな声を聞き取ったらしい。

 ……そこそこ距離が離れているはずなのに、強い酒の匂いが、ここまで漂ってくる。

「なんだ、美由美。お前の連れか?」

 男の眼差しが、怯えている美由美に向かう。

 ――これが美由美の父親か。

 今まで美由美が父親に何を聞かされたのか、私はまだ知らない。でも、こんな口調の人ならばろくなもんじゃなかったんだろうと、私は思った。

 そもそも、これは父親が娘に向ける眼差しじゃない。

 私の父だって無愛想だが、それでも、自分の娘たちにこんな眼差しを向ける人ではなかった。

 そういや、他のみんなはどうやってるんだろう。

 ひょっとして、自分の親が帰ってきたのに気づいてないんだろうか。

「やるんじゃないか。今から男遊びって」

「ち、違います。こっちは高坂柾木くんと言って、わたしの友だち――」

 それを聞いていると、私の心は複雑になってしまう。

 きっと、今の美由美は「父親に怒られたくない」という一心で、私のことを「友だち」と言ってくれたんだろう。

 いや、実際にも友だち、という関係がいちばんしっくり来るとは思うけど。

 たしか、その関係は私がいちばん憧れていたものだが、こんな場面で、美由美からそういう話は聞きたくなかった。

「友だちねぇ。そんなわけないだろ。男なんてみんな同じだ。あいつのことはよくわからないが、どうせお前のことを食ってやろうなんてことしか思ってないだろ」

「違う……!」

 美由美はそれ以上何も言えず、ただ私の隣で震えている。いつも大声なんて出せない美由美だし、今の状況でこうなってしまうのは自然なことだった。

 でも、その気持ちはよくわかる。

 私も、自分が悪く言われたことより、美由美が辛そうにしていることの方が耐えがたいから。

「それにしても、お前もずいぶん変わったな」

 だから、覚悟していたんだ。

 やはり美由美と私が「この姿」でいっしょにいるのは、おかしいって――

「こんな、どこの誰なのかすらわからない怪しい男と遊んでやがって――」


「やめてくださいっ!」

 その時、美由美が大声を出した。

 初めて聞いた、美由美の「怒った」顔。

 美由美って、ここまで大きな声……出せるんだ。

「わたしのことは、いくらでも悪く言っていい。でも、柾木くんは……この人のことを悪く言うことは、たとえお父さんだとしても、許しません」

「お、お前……」

 美由美の父は、ぼうっとした表情である。

 今まで声を上げたことすらない娘が、ここまで激しく怒っている姿を見たことは、たぶん今度が初めてのようだった。

 もちろん、私だって、今まで一度も見たことがない。

 それも、自分のことじゃなくて、「私」のために怒っていることは。

「いつもいつも、お父さんはそう」

 美由美は強く、自分の父を睨んでいる。

 ここまで硬い美由美の顔を、私は今まで見たことがあったんだろうか。


「柾木くんは、わたしの大切な人なんです」

 すぐ後ろにいる私の腕を左手でぎゅっと握って、美由美は再び、父を睨む。

「これ以上柾木くんのこと悪く言ったら、相手がお父さんだとしても、見過ごすことなんてできません」

「いつも自分勝手で、娘や息子の話なんか、まったく聞こうとしない」

 美由美の話は、止まらない。

「み、みんな飽き飽きしてるんです。辛いのは、お父さんだけじゃないですよ? わたしたちのこと、ちゃんと考えてくれてますか?」

「こ、こいつが――」

 美由美の父の顔が、見る見る赤くなった。

 きっと、美由美からここまで感情をむき出した話を聞いたことは、今度が初めてなんだろう。

 だけど、美由美はある日突然、こんな思いを抱くことになったわけじゃない。

 昔からずっと、美由美は父親の行動に苦しんでたんだ。

「そんなことを口にするお父さんと、話したいものなんてありません」

 でも、美由美の行動はそこで終わらなかった。

 そこまで言ってから、美由美は父から背を向け、私の腕を引っ張る。

「行きましょう、柾木くん」

「あ、……ああ」

 これ以上何か話すのは、きっと無駄だろう。

 私は美由美の言っているとおり、そのままこの場を離れた。


 美由美の父から背を向けた私たちは、少し離れた街角で、やがて足を止める。

 それまで、誰も口を開くことはなかった。

 ずっと黙ったまま、お互い、なぜか手を掴んでここまでやってきた。

 美由美と手をつなぐのは、私にとって、ある意味憧れのようなものだった。

 でも、こんな場面でその夢が叶うのは、かなり嫌だ。

 もっと別の――心が落ちつく場面だったらよかったのに。

「わたし……やってしまいました」

「美由美」

「お父さんに、大声、出しちゃいました」

 信じられないって声で、美由美がつぶやく。

 あまりにも微かな声で、聞き取ることすら難しかった。


「ずっと、嫌だって言うのが、怖かったのに」

 信じられないって口調で、美由美は。

「別にこんなこと、口にしてしまっても、死なないんですね」

 そんなことをぼんやりと、つぶやいた。

「わたし、今ちゃんと生きてる。自分が怒ってしまったら、大変なことが起こりそうで怖かったのに」

 まるで魂が抜けたような、ぼんやりとした顔。

 今まで信じていたことをまるごと否定されたような、虚しい口調。

「なんでわたし、今までずっと、黙ってたんだろう」

 美由美は一人で、そうつぶやく。

 その背中はとても小さくて、私の手が届かないくらい、遠く見えた。


 そんなことを思っていた時、急に美由美は顔を上げ、こっちに視線を向けた。

「きょ、今日はどうもありがとうございました」

 えっ?

 美由美、このまままたあっちに「戻る」つもりなのかな?

「だが、美由美。さっきはもう話すことなんてないと――」

「たしかにそう言いましたけど、やはりみんなのこと、心配になりますし」

 そんなことを口にしているけど、美由美の顔は晴れない。

 きっと、本心では家に戻るのが嫌なんだろう。

 だが、今までの美由美なら、兄弟たちをおいてそのまま「組織」へ戻ることなんて、できなかったはずだ。

「実はわたしも、今日は家に戻りたくないんです。ですが、わたしが戻らなきゃ、みんなに迷惑、かけてしまう」

「……」

 美由美は、まだ迷っている。

 自分はこのまま、「ワガママ」になってもいいのか、と。


「やはり、今日はちょっと無理かもしれませんね」

 そんなことを口にしながら、美由美は私から背を向けて、歩き出す。

 ――ダメだよ。美由美。

 今日だけは、あそこに戻らないでほしい。ずっと、ワガママでいてほしいんだ。

 でも、私が呼び止めなくちゃ、美由美はこのまま、あの父親がいるかもしれない家に戻ってしまう。

「それじゃ、わたしはここで――」

 このままじゃ、美由美と私の距離が、だんだん遠くなる一方だ。

 もう、このまま見過ごすことなんて、できない。

 気がつけば、私は――

「美由美、……行くのか?」

 美由美のことを、呼び止めていた。

 自分から考えてみても、ものすごく弱くて、女々しい声。

 そもそも自分って「実は」女の子であるわけだし、悪い意味じゃないんだけど……。

 こんな姿であんな声を出してしまうと、情けないところはある。

 そもそも、私が美由美にこんな姿を見せたことなんて、きっと、今度が初めてだ。

「えっと、その……柾木くん?」

 美由美も目を丸くして、こっちを振り返る。

 やはり美由美にも、私の声のどうしようもなさが伝わったようだった。

「……柾木ちゃん?」

 その時、美由美が私を再び呼ぶ。

 でも、その呼び方は、今までまったく耳にしてなかったものだった。


「……ん?」

 今度は私が目を丸くして、美由美の方をじっと見つめる。

 ――柾木ちゃん、って。

 今まで、そういう呼び方されたの、お姉ちゃんや「元の姿」の友だちくらいだったのに。

 そう、たとえばしーちゃんとか、それくらいの……。

 なのに、今、美由美がその呼び方で、私のことを呼んでくれた。

 これって、どういうことだろう。

 いつもなら、美由美はもっと――


「あ、あの、間違ってましたか? どうしても今は、そう呼んだ方がしっくりくるな、と思って……」

 美由美は心配そうな眼差しで、こっちの顔を伺う。

 たぶん、そう呼んできた美由美すら、自分の行動がうまく説明できないようだった。

「いや、全然」

 私はすぐ、そう答える。ここで戸惑うと、美由美が間違ったって思い込みそうで、少し怖かった。

「むしろ、その、嬉しかった……と言ったら、信じるか?」

「その、おかしいとは思いません。柾木くんのことは未だに、わたし、よくわかりませんけど」

 こっちを見て、美由美がそう話してくる。少し迷ってから、美由美は再び、こっちの目をじっと見た。

「その、柾木くんに自分の知らないところがいくらあったとしても、わたしはずっと、柾木くんの味方です。もちろん、戸惑うことはあると思いますけど、知らないところを知っていくってことは、みんなそういうものだから」

「……そうか」

「はい。ですから、ゆっくりでいいので、少しずつ、柾木くんのことをわたしにも教えてください」

 そう言って、美由美はこっちへとゆっくり近づいてくる。私の心臓が、少しずつ激しくなっていくのを感じた。


「今まではずっと黙ってたんだが……実は俺、『別の姿』っていうのがあるんだ。まあ、今美由美が見ているこの姿のことだが」

 だからなんだろうか。

 いつも伝えたかったが戸惑っていたことが、すんなりと口から出てきた。

「別の姿、ですか」

「ああ、俺の元の姿は、その、これとは違う。だからあの時、ああいうことを聞いてみたわけだが……」

「そうだったんですね。なんとなくそんな気はしてましたが、さすがに現実的に考えると無理があるな、と思いましたので……」

「そうなのか」

 たしかに、今、私が言っていることには何の現実感もない。

 美由美にすぐ信じてもらえないのも、当たり前のことだ。

「本当の俺が、高坂柾木がこんな姿じゃなかったとしても。その、……男ですらなかったとしても、今まで通り、好きでいてくれるか?」

 だから、こういうのを面と向かって聞くのは迷ってしまう。

 断れるのが怖い。

 嫌われるのが、怖いんだ。


「さっきにも話しましたけど、柾木くんが実はどんな人だったとしても、わたしはまったく構いません」

 そんな私を、美由美は優しい眼差しで見つめながら。

 そんなことを、ゆっくりと口にした。

「わたしはまだまだ、柾木くんのことをよく知らない。三年くらいは知り合ってたはずなのに、恥ずかしいばかりです。ですから」

 ここで美由美は、声に力を入れる。

 いつもと違う強い意志が、そこにはちゃんとあった。

「これから、もっと教えてください。柾木くんの、恥ずかしいところ」

「恥ずかしいところ、か」

「はい。わたしも自分の恥ずかしいところ、見せていきますから」

 ここに来て、美由美はそっと視線を逸らす。やっぱり恥ずかしかったんだろうな。顔が真っ赤だし。

 ……それを聞いているこっちだって、頭が上げられないくらい動揺してるんだけど。


「そ、それはまた、これからゆっくり知ってゆくことにして――」

 これ以上恥ずかしい空気になる前に、私は早く話題を変える。

「そろそろ戻ろうか。周りももうだいぶ暗いからな」

「はい」

 美由美はこっちを見ながら、そう頷く。

 さっきとは違って、一点の迷いもない仕草だった。


 そうやって、私は美由美と共に「組織」へと戻る。

 今日起きた出来事と、美由美との縮まった関係が、私の頭の中をぐるぐると回っていた。

前へ次へ目次