67.勇気の一歩
私たちが美由美の家があるマンションの3階までやってくると。
「美由美の父親」だと思われる男が、廊下で姿を現した。
その男は、ずいぶん汚い服を着ていた。
きっと、自分が周りからどう見えるかなんて、考えてないんだろう。長い間投げやりの生活を送ってきたからか、男の眼差しには迷いが感じられなかった。
たとえば、「何も失うことのない人」のような、怖いまでの迷いの無さ。
こういう人を下手に怒らせると、痛い目に会う可能性がある。
そもそも、自分の娘が知らない男といっしょに現れたと言うのに、あそこまで「驚きも何もない」顔だし。時間もここまで遅くなったのに。
「どうしたんだ、美由美。お前が俺より遅く戻ってくるとはな」
男の声はだいぶ酔っていて、早くから飲んで帰ってきたのが丸見えだった。美由美は私の右腕をぎゅっとつかんで、俯いたまま何も言わない。
今の美由美は、頼れる人が私しかいないんだ。
少なくとも、ここに自分がいるから、美由美はこうやって立っていられるんだろうと、私は悟る。
「ごめんなさい、柾木くん」
すぐ近くから、微かな声が聞こえた。
「わたしのせいで、その、こんな目に……」
「何をボソボソ言ってるんだ、お前は」
その時、男の声が若干高くなった。どうやら、美由美の密かな声を聞き取ったらしい。
……そこそこ距離が離れているはずなのに、強い酒の匂いが、ここまで漂ってくる。
「なんだ、美由美。お前の連れか?」
男の眼差しが、怯えている美由美に向かう。
――これが美由美の父親か。
今まで美由美が父親に何を聞かされたのか、私はまだ知らない。でも、こんな口調の人ならばろくなもんじゃなかったんだろうと、私は思った。
そもそも、これは父親が娘に向ける眼差しじゃない。
私の父だって無愛想だが、それでも、自分の娘たちにこんな眼差しを向ける人ではなかった。
そういや、他のみんなはどうやってるんだろう。
ひょっとして、自分の親が帰ってきたのに気づいてないんだろうか。
「やるんじゃないか。今から男遊びって」
「ち、違います。こっちは高坂柾木くんと言って、わたしの友だち――」
それを聞いていると、私の心は複雑になってしまう。
きっと、今の美由美は「父親に怒られたくない」という一心で、私のことを「友だち」と言ってくれたんだろう。
いや、実際にも友だち、という関係がいちばんしっくり来るとは思うけど。
たしか、その関係は私がいちばん憧れていたものだが、こんな場面で、美由美からそういう話は聞きたくなかった。
「友だちねぇ。そんなわけないだろ。男なんてみんな同じだ。あいつのことはよくわからないが、どうせお前のことを食ってやろうなんてことしか思ってないだろ」
「違う……!」
美由美はそれ以上何も言えず、ただ私の隣で震えている。いつも大声なんて出せない美由美だし、今の状況でこうなってしまうのは自然なことだった。
でも、その気持ちはよくわかる。
私も、自分が悪く言われたことより、美由美が辛そうにしていることの方が耐えがたいから。
「それにしても、お前もずいぶん変わったな」
だから、覚悟していたんだ。
やはり美由美と私が「この姿」でいっしょにいるのは、おかしいって――
「こんな、どこの誰なのかすらわからない怪しい男と遊んでやがって――」
「やめてくださいっ!」
その時、美由美が大声を出した。
初めて聞いた、美由美の「怒った」顔。
美由美って、ここまで大きな声……出せるんだ。
「わたしのことは、いくらでも悪く言っていい。でも、柾木くんは……この人のことを悪く言うことは、たとえお父さんだとしても、許しません」
「お、お前……」
美由美の父は、ぼうっとした表情である。
今まで声を上げたことすらない娘が、ここまで激しく怒っている姿を見たことは、たぶん今度が初めてのようだった。
もちろん、私だって、今まで一度も見たことがない。
それも、自分のことじゃなくて、「私」のために怒っていることは。
「いつもいつも、お父さんはそう」
美由美は強く、自分の父を睨んでいる。
ここまで硬い美由美の顔を、私は今まで見たことがあったんだろうか。
「柾木くんは、わたしの大切な人なんです」
すぐ後ろにいる私の腕を左手でぎゅっと握って、美由美は再び、父を睨む。
「これ以上柾木くんのこと悪く言ったら、相手がお父さんだとしても、見過ごすことなんてできません」
「いつも自分勝手で、娘や息子の話なんか、まったく聞こうとしない」
美由美の話は、止まらない。
「み、みんな飽き飽きしてるんです。辛いのは、お父さんだけじゃないですよ? わたしたちのこと、ちゃんと考えてくれてますか?」
「こ、こいつが――」
美由美の父の顔が、見る見る赤くなった。
きっと、美由美からここまで感情をむき出した話を聞いたことは、今度が初めてなんだろう。
だけど、美由美はある日突然、こんな思いを抱くことになったわけじゃない。
昔からずっと、美由美は父親の行動に苦しんでたんだ。
「そんなことを口にするお父さんと、話したいものなんてありません」
でも、美由美の行動はそこで終わらなかった。
そこまで言ってから、美由美は父から背を向け、私の腕を引っ張る。
「行きましょう、柾木くん」
「あ、……ああ」
これ以上何か話すのは、きっと無駄だろう。
私は美由美の言っているとおり、そのままこの場を離れた。
美由美の父から背を向けた私たちは、少し離れた街角で、やがて足を止める。
それまで、誰も口を開くことはなかった。
ずっと黙ったまま、お互い、なぜか手を掴んでここまでやってきた。
美由美と手をつなぐのは、私にとって、ある意味憧れのようなものだった。
でも、こんな場面でその夢が叶うのは、かなり嫌だ。
もっと別の――心が落ちつく場面だったらよかったのに。
「わたし……やってしまいました」
「美由美」
「お父さんに、大声、出しちゃいました」
信じられないって声で、美由美がつぶやく。
あまりにも微かな声で、聞き取ることすら難しかった。
「ずっと、嫌だって言うのが、怖かったのに」
信じられないって口調で、美由美は。
「別にこんなこと、口にしてしまっても、死なないんですね」
そんなことをぼんやりと、つぶやいた。
「わたし、今ちゃんと生きてる。自分が怒ってしまったら、大変なことが起こりそうで怖かったのに」
まるで魂が抜けたような、ぼんやりとした顔。
今まで信じていたことをまるごと否定されたような、虚しい口調。
「なんでわたし、今までずっと、黙ってたんだろう」
美由美は一人で、そうつぶやく。
その背中はとても小さくて、私の手が届かないくらい、遠く見えた。
そんなことを思っていた時、急に美由美は顔を上げ、こっちに視線を向けた。
「きょ、今日はどうもありがとうございました」
えっ?
美由美、このまままたあっちに「戻る」つもりなのかな?
「だが、美由美。さっきはもう話すことなんてないと――」
「たしかにそう言いましたけど、やはりみんなのこと、心配になりますし」
そんなことを口にしているけど、美由美の顔は晴れない。
きっと、本心では家に戻るのが嫌なんだろう。
だが、今までの美由美なら、兄弟たちをおいてそのまま「組織」へ戻ることなんて、できなかったはずだ。
「実はわたしも、今日は家に戻りたくないんです。ですが、わたしが戻らなきゃ、みんなに迷惑、かけてしまう」
「……」
美由美は、まだ迷っている。
自分はこのまま、「ワガママ」になってもいいのか、と。
「やはり、今日はちょっと無理かもしれませんね」
そんなことを口にしながら、美由美は私から背を向けて、歩き出す。
――ダメだよ。美由美。
今日だけは、あそこに戻らないでほしい。ずっと、ワガママでいてほしいんだ。
でも、私が呼び止めなくちゃ、美由美はこのまま、あの父親がいるかもしれない家に戻ってしまう。
「それじゃ、わたしはここで――」
このままじゃ、美由美と私の距離が、だんだん遠くなる一方だ。
もう、このまま見過ごすことなんて、できない。
気がつけば、私は――
「美由美、……行くのか?」
美由美のことを、呼び止めていた。
自分から考えてみても、ものすごく弱くて、女々しい声。
そもそも自分って「実は」女の子であるわけだし、悪い意味じゃないんだけど……。
こんな姿であんな声を出してしまうと、情けないところはある。
そもそも、私が美由美にこんな姿を見せたことなんて、きっと、今度が初めてだ。
「えっと、その……柾木くん?」
美由美も目を丸くして、こっちを振り返る。
やはり美由美にも、私の声のどうしようもなさが伝わったようだった。
「……柾木ちゃん?」
その時、美由美が私を再び呼ぶ。
でも、その呼び方は、今までまったく耳にしてなかったものだった。
「……ん?」
今度は私が目を丸くして、美由美の方をじっと見つめる。
――柾木ちゃん、って。
今まで、そういう呼び方されたの、お姉ちゃんや「元の姿」の友だちくらいだったのに。
そう、たとえばしーちゃんとか、それくらいの……。
なのに、今、美由美がその呼び方で、私のことを呼んでくれた。
これって、どういうことだろう。
いつもなら、美由美はもっと――
「あ、あの、間違ってましたか? どうしても今は、そう呼んだ方がしっくりくるな、と思って……」
美由美は心配そうな眼差しで、こっちの顔を伺う。
たぶん、そう呼んできた美由美すら、自分の行動がうまく説明できないようだった。
「いや、全然」
私はすぐ、そう答える。ここで戸惑うと、美由美が間違ったって思い込みそうで、少し怖かった。
「むしろ、その、嬉しかった……と言ったら、信じるか?」
「その、おかしいとは思いません。柾木くんのことは未だに、わたし、よくわかりませんけど」
こっちを見て、美由美がそう話してくる。少し迷ってから、美由美は再び、こっちの目をじっと見た。
「その、柾木くんに自分の知らないところがいくらあったとしても、わたしはずっと、柾木くんの味方です。もちろん、戸惑うことはあると思いますけど、知らないところを知っていくってことは、みんなそういうものだから」
「……そうか」
「はい。ですから、ゆっくりでいいので、少しずつ、柾木くんのことをわたしにも教えてください」
そう言って、美由美はこっちへとゆっくり近づいてくる。私の心臓が、少しずつ激しくなっていくのを感じた。
「今まではずっと黙ってたんだが……実は俺、『別の姿』っていうのがあるんだ。まあ、今美由美が見ているこの姿のことだが」
だからなんだろうか。
いつも伝えたかったが戸惑っていたことが、すんなりと口から出てきた。
「別の姿、ですか」
「ああ、俺の元の姿は、その、これとは違う。だからあの時、ああいうことを聞いてみたわけだが……」
「そうだったんですね。なんとなくそんな気はしてましたが、さすがに現実的に考えると無理があるな、と思いましたので……」
「そうなのか」
たしかに、今、私が言っていることには何の現実感もない。
美由美にすぐ信じてもらえないのも、当たり前のことだ。
「本当の俺が、高坂柾木がこんな姿じゃなかったとしても。その、……男ですらなかったとしても、今まで通り、好きでいてくれるか?」
だから、こういうのを面と向かって聞くのは迷ってしまう。
断れるのが怖い。
嫌われるのが、怖いんだ。
「さっきにも話しましたけど、柾木くんが実はどんな人だったとしても、わたしはまったく構いません」
そんな私を、美由美は優しい眼差しで見つめながら。
そんなことを、ゆっくりと口にした。
「わたしはまだまだ、柾木くんのことをよく知らない。三年くらいは知り合ってたはずなのに、恥ずかしいばかりです。ですから」
ここで美由美は、声に力を入れる。
いつもと違う強い意志が、そこにはちゃんとあった。
「これから、もっと教えてください。柾木くんの、恥ずかしいところ」
「恥ずかしいところ、か」
「はい。わたしも自分の恥ずかしいところ、見せていきますから」
ここに来て、美由美はそっと視線を逸らす。やっぱり恥ずかしかったんだろうな。顔が真っ赤だし。
……それを聞いているこっちだって、頭が上げられないくらい動揺してるんだけど。
「そ、それはまた、これからゆっくり知ってゆくことにして――」
これ以上恥ずかしい空気になる前に、私は早く話題を変える。
「そろそろ戻ろうか。周りももうだいぶ暗いからな」
「はい」
美由美はこっちを見ながら、そう頷く。
さっきとは違って、一点の迷いもない仕草だった。
そうやって、私は美由美と共に「組織」へと戻る。
今日起きた出来事と、美由美との縮まった関係が、私の頭の中をぐるぐると回っていた。