Ex01.ひと息の時間
それはいろんなことが落ちついた7月の終わり頃。
私は久しぶりに、事務室で秀樹と時間を過ごしていた。
「平和だねぇ~」
秀樹はいつものように、自分の指定席で羽根を伸ばしている。
私と久しぶりに出会えて、かなりご機嫌のようだ。
「でもな、不思議だよね」
「何がだ」
「柾木んちの『組織』は『反軍』と戦うって聞いたのに、最近全然そんな気味ないよ?」
「あ、それか……」
まあ、そう聞かれてもおかしくはない。最近はまるで、私が嘘でもついたようなぬるい日々の連続だから。
もちろん、平和なことはいいことだけど。
秀樹から見ると、おかしく感じるのは当たり前だ。
「以前にも話したんだろ? ここはそういうところだって」
だから、私は半分諦めたような口調で、秀樹に向かって話した。
「あっちはあくまでこの『組織』を乱すこどが目的だから、予想がつきそうなタイミングでは攻撃してこない。そういうところなんだ」
「あ、そだっけ」
「はっきり言って、あんまり納得してもらえる状況ではないと思う。自分から言うのもなんだが」
ここで、私は思わずため息をつく。
あんまり秀樹の前でこんな姿は見せたくないが、今の状況がただただ笑えてきたからだ。
まるでおままごとのような、今の状況。
そんな状況に、たくさんの人が振り回されている。
「……ごめん。こんな笑えない状況のせいで、秀樹を巻き込んでしまった」
「別にいいよ。謝らなくても」
秀樹はそんなことを言ってくれるけど、私の気持ちはやっぱり晴れなかった。
もう慣れたと思ったのに、やっぱりそうでもなかったみたい。
「ふむ」
あんまり納得してないようだが、とりあえず秀樹は私の話に頷いてくれた。
「要するに、大人の事情ってやつだね」
「……まあ、そうとも言えるが」
我ながら歯切れの悪い答えだが、それ以外、こっちはどう答えたらいいのかよくわからない。
本当に、このままじゃ子供のじゃれ合いと同じだ。
世の中、案外「そういうもの」なのかもしれないが。
「なのにここでがんばってる柾木って、えら~い」
「いや、別に俺はなんとも」
なんか、こんなことに褒められると照れくさい。
けれど、秀樹がそうやって私のことを励まそうとするのは、まったく嫌じゃなかったし、むしろ嬉しかった。
「……ごめん」
気がつけば、私はまた、秀樹に謝っていた。
「えっ? なんで?」
「いや、秀樹が俺と絡まらなかったら、学園にも普通に行けたんだろうと思ってな」
「別にこっちは、まったく気にしてないけどな」
「だが、今の秀樹は、その、普通の人じゃなくなったわけだし」
それは決して言い過ぎじゃない。
今の秀樹は、私のように「別の姿」になったことによって、普通の人ではない何かに変化したんだ。
ある意味、それは化け物と同じかもしれない。
自分だって、それを怖いと思ってしまったことが何度もあった。なのに、「別の姿」になって間もない秀樹がそんなことを思わないわけがない。
「うーん……」
しばらくこっちをじっと見ていた秀樹は、やがてこう言い出した。
「それはそれで、別に嫌だと思ってないよ」
「……えっ?」
「だって、こうやって柾木の側にいられたし、恋人同士にもなれたんだもん。柾木が俺のこと、好きって言ってくれたんだよ? なのに、嫌になるわけなんてない」
「で、でも、その……」
私が思わずあたふたしていると、秀樹はゆっくりと、こっちに手を伸ばした。
そして、頭をやさしく撫でる。
「別の姿」で、そんなことをされたのは間違いなく初めてだった。
「ひ、秀樹」
「あんまりそういうふうに、自分のこと貶さないでほしいな」
私のことを、心配してくれている。
秀樹はただこっちに巻き込まれただけなのに、私のことを、先に考えてくれている。
「俺はこうなったこと、まったく後悔してないから。大変な目にあったことは事実だけど、柾木と相思相愛になれただけで幸せだよ」
……嬉しい。
そう言われると、もう自分を責めるようなこと、言えなくなる。
「そもそも、辛い時になったら、こんなふうに甘えるし」
それに、秀樹はきっと、これから自分の辛いところを抑え込んだりしない。
こんなふうに、私の前ならありのままの自分を見せられる。
「まあ、たしかに困る時も多いけどね」
そんなことを考えていたら、突然秀樹が、そう言って頬を緩めた。 嬉しそうな顔で、私のことを見ている。
「でも、こんなふうになって、誰かに気軽に甘えられるようになったのは素直に嬉しいなぁ」
「秀樹って、いろんな人から頼られてるよな」
「うん。それはとてもありがたいと思ってるけどね」
テレテレした顔で、秀樹は微笑む。
でも、やっぱりその顔には、どこか陰があった。
きっと、今までずっと見栄を張ってきたことを思い出しているんだろう。
「自慢じゃないけどね、そういう話はよく聞くよ。なんか俺のこと、好きな女の子もいるみたいだし。たしかにそれは嬉しいけどさ、俺、あんまり素のままでいた覚えがないんだ」
秀樹は、話を続ける。
「あの時にはあんまり気にしてなかったけどさ、今振り返ると、どうも肩に力が入りすぎてた気がして……。よくつるんでた友だちにもそうだけど、自分の弱いところ、見せないように頑張ってた気がする」
「そうか」
秀樹って見栄っ張りだし、そこまでおかしな話じゃない。
他の人たちが心配するのが嫌だから、自分では無意識の中で、そう振る舞っていたはずだ。
「でも、柾木の前なら、俺はありのままになれる」
私がそんなことを思っていたら、秀樹はそう言って、こっちの方に振り向いた。
「弱いところだって、恥ずかしいことだって、なんでも見せられる。気にすることなんて、何一つもないんだ。柾木のことを大切にする、それだけを除けばね」
外で、鳥のさえずりが聞こえてくる。
眩しい太陽は、この事務室の中にまで入り込んでいた。
季節は、もう夏の真ん中。
私と秀樹が、初めて二人で迎えた季節。
「とーゆーことで!」
そんなことをぼんやりと思っていたら、秀樹が突然、こっちに抱きついてきた。
「な、何するんだ」
「甘えてるよ?」
「いや、だから、今は暑苦しいってば」
「じゃ、やめようか?」
秀樹は意地悪な顔で、こっちを見上げる。
「い、いや。そこまでは……」
「やった~」
まるで子供のように、秀樹は素直に喜ぶ。
その顔を見ていると、恥ずかしいとか、暑いとか、そういうことはどこかにぶっ飛んでしまった。
私の前で甘えてくれるのが、なんとなく嬉しい。
もちろん、こんなこと、恥ずかしいから秀樹の前では絶対に言わないけど。
「えへへ。柾木の懐、あったかい」
「まったく……」
こう甘えてくる秀樹は、本当に女の子よりかわいい気がする。
自分とはもちろん比べようにならなくて、学園で目にするかわいい女の子にも負けないくらい、秀樹は愛しかった。
……一応、女の子の末席としてはかなり悔しい。
でも、そんなことを思いながら、私は秀樹のことが素直にかわいいと認めていた。
そんなことをぼんやりと思っていたら、急に秀樹が突飛なことを言ってくる。
「柾木って匂うねぇ」
「そ、そこまで言うか?!」
に、臭うって。たしかに今の私はそうだろうけど、そこまで言わなくてもいいと思うのに。
べ、別に傷ついたりしてないけど、でも、その、どう反応すればいいのか困るっていうか、なんていうか……。
「ん? あ、そういうことか。柾木って繊細だなぁ」
私が顔に出さずにあたふたしていたら、秀樹がなんかわかったって顔をした。
「別に嫌ってわけじゃないよ。ただね、自分からも出ていたはずの匂いなのに、こうやって『別の姿』で感じるとそこまで臭くはないな、って話」
「そ、そうか」
「うん、柾木のだからそう感じるかもしんないけどね」
「へ、変なこと言わないでくれ。そ、その……」
恥ずかしい。
元の方の匂いだって恥ずかしいというのに、この姿での匂いをそこまで言ってくれると、こっちとしてはどう答えたらいいのかわからなくなる。
「えへへ、そういうところもかわいい。俺もだいぶ惚れちゃったものだね」
「……まったく」
でも、あんまり秀樹に動揺している姿は見せたくない。
こんな姿でそんなことを見せられても困るんだろうし……それに、照れくさいから。
自分の心がバレてしまうのは、未だに慣れていない。だから、こんなふうに素直に甘えてくれる秀樹がありがたかった。
今の秀樹からは、女の子ならではの甘い匂いがする。
……それが「元の姿」の自分にもあったことが信じられないくらい、その匂いは芳しかった。
やわらかくて、甘やかで。
今の私は、持っていないもの。
私がぼんやりと、そんなことを思っていた時だった。
「あ、そだ! 以前からずっと、これ聞いてみたいと思ってたんだ」
「なんだ?」
自分の腕の中で大人しくしていた秀樹が、急に目を輝かせる。
「柾木って、初恋いつ?」
「ぷっ!!」
な、なんてことを聞くのかな。この男は。
い、いや。別に答えられないとか、そういうわけではまったくないけれど……。
「そ、そんなもの、なかったが」
「え~? 憧れとか、そういう人はいたんでしょ?」
「何を当たり前みたいな口調で聞いてくるんだ……」
は、恥ずかしい。別にこれは嘘でもなんでもなくて、本当に初恋とか、あんまり思い浮かばない。
というのも、自分って子供の頃から、男なんて低能だと思い続けていたから。
まあ、今はそんなこと思ってないけど……。その影響で、異性が好きだというのに、初恋みたいな感情はあんまり抱かなかった。
……あえていうと、たった一人くらいは挙げられるかもしれないけど。
でも、こんな姿でそんなこと、口にするだけで恥ずかしくなる。
「なになに、俺の初恋が柾木じゃないから拗ねてた?」
「いや、その、子供じゃあるまいし」
「んじゃ、やっぱり恥ずかしい?」
「べ、別にそんなわけでも……」
ど、どうすればいいんだろう。
こういうの、もったいぶると変に勘ぐられそうで、それはそれで避けたかった。
……言ってもいいよね。これくらい。
私は、覚悟を決める。
「……お父さん」
「へ?」
「お父さんがそうだったかも、しれない……」
どうしよう。穴でもあったら今すぐでも入りたい。
だって、今のこの「別の姿」で、初恋の人がお父さんだなんて言ってしまったんだ。
外から聞くと、どうも聴きに耐えない話だったんだろう。
……っていうか、話した自分すら顔を上げられない。
「そうなんだ」
「……笑わないのか?」
「別に?」
こっちはおろおろとそんなことを言い出したというのに、秀樹はなんでもないような、澄ました顔だった。
「そっか。柾木はお父さんと結婚したかったのか~」
「い、いや、もう話すな。恥ずかしい」
「女の子にはよくあることだと思うけどね。俺だってお母さんに憧れてたしな」
「だ、だから、その……」
今の自分から振り返ると、恥ずかしいっていうか、黒歴史もいいところだった。
だって、今の私とお父さんは、上司と部下の関係である。
ある意味、娘と父ところじゃない、「男同士」の冷たい関係とも言えた。
「まあ、柾木にもいろいろあるってわかってるからね。だから、あんまり照れなくてもいいよ」
「……助かる」
私は顔も上げられないまま、ただそれしか言えなかった。
秀樹はいつもチャラチャラしているように見えて、時折こんなふうに人の心情を察してくれるから、侮れない。
「それに、よく考えてみると、柾木の初恋は事実俺ってことだし、これは喜んでいいよね?」
「……勘弁してくれ」
そういや、事実はそういう話になるのだった。
また秀樹に恥ずかしいところ、バレちゃったな。
まあ、初恋であることは事実だけど。
これ、6月以前の私が知ると、いったいどんな顔をするんだろう。
「えへへ、柾木の初恋は俺だってさ~~」
「お、大声出すな」
こうしてまた調子に乗る秀樹に、私はいつものように突っ込む。
いや、別に構わないけどさ。ここ、防音は完璧だし。
……それに、あんまり嫌な気分でもないから、無理にやめさせる気はなかった。
そんな感じで、甘い時間は過ぎてゆく。
ずっと続きそうな、永遠のような時間がここにあった。