56.でも、今だけはいつものように
「えへへ、これが最後、なんだね」
名残惜しい顔で、雫がそんなことを言ってくる。
「なんか寂しいな。柾木とこんなことやってたのも、ずいぶん長かったのに」
「まあ、はっきりいってやりすぎだったとは思うが」
「それはね~わたしたち、まだ若いから~」
「いや、若いのもほどがあるんだろ」
いつものような、会話。
そして、二度も戻らない、この瞬間。
でも、今の雫の顔には、どこか陰があった。
たぶん、雫もなんでもないフリをしながら、実はすごく不安なんだろう。
「……どうしたんだ、雫」
だから私は、あえてそう話しかける。
「うん?」
「顔、暗いんだろ」
「う、うん。だと思うけどね」
と言いながらも、雫の顔は晴れなかった。
それは確かに、仕方ない話ではある。なにせ、私たちはついさっきまで、「恋人をやめよう」なんてことを話していたんだ。
今までの関係が、大きく変わってしまう。
いくら関係そのものが続くとはいえ、雫から見ると心細いんだろう。
「でも、明日が来ちゃったら、もうわたしたち、こういう関係にはいられないよね」
別に今すぐ、「恋人」をやめるわけじゃない。
――まだ、私たちは「特別な関係」であるはずだった。
「そんなこと知らない。この夜が明けるまでは、俺が雫の婚約者だ」
「……柾木」
「彼氏、なんだ」
だから、そんな切なそうな顔はしないでほしい。
雫がそんな顔でいるたびに、私はとても辛いんだ。
「うん、そうだったね」
ようやく、雫は笑ってくれた。
いつものような、弾ける笑顔ではないけれど、これで少しだけ安心する。
まだ、雫は私のものだ。
……だから、私はまだ、雫のものなんだ。
「ふふっ、今の柾木、わたしのこと、ひとりじめしようとしてる」
そんなことを思っていたら、雫がものすごくいたずらっぽい顔をしていた。
「そ、そうか?」
「うん、独占欲マシマシって感じ」
は、恥ずかしい。
たしかに、雫の前だとそういう顔になる時は多いと思うけど……。
「わたし、そんな柾木を見るの、すごく好きだったな」
雫は私の目をまっすぐに見ながら、そんなことを口にする。
「わたしのこと、誰にも渡さないって感じで。そんな柾木を見るのが誇らしかったし、嬉しくて仕方がなかった」
「雫」
「雫の体に触れられるのは俺だけだ! っていうか。他のやつに奪われるのは許せない! っていうか。照れくさいけど、そこがいいんだよね」
……やっぱり、バレてたのかな。
私が、雫にそんな感情を抱いていたこと。
「なんかね、そんな時の柾木って、男もそうだけど、わたしの友だちにまで嫉妬する勢いで」
「そ、それも否定はできないが……」
「俺だけが特別って、そう瞳で語ってる気がして、こそばゆかったし、それもまた嬉しかったの」
たしかに、自分が雫のいちばんになれないのは、すごく悔しかった覚えがある。
大人げないってわかっていながらも、雫といちばん近くにいられる自分が嬉しかったし、友だちにも話してくれないことを喋ってくれる雫が、ただただ愛しかった。
「ああ、わたしは柾木にとって特別なんだな、と感じるたびに、ものすごく喜びが湧いてきて、もう我慢ができなかった」
でも、雫もわたしと同じ気持ちだったとは、今まで思わなかった。
こんな状況ではあるけれど、それが少しだけ、嬉しくてたまらなくなる。
「もちろん、柾木が嫉妬してくれるのも嬉しかったけど、わたしが好きだったのは、それだけじゃないよ」
雫は、話を続ける。
「あんな顔とか、興奮してる顔とか見てるとね、柾木の子供っぽいところが垣間見える気がして、そこがよかったんだ」
「そうか?」
「うん。柾木って、よく大人ぶるから」
そこまで言って、雫はふふっと笑ってみせた。
「たぶん社会人としても振る舞ってるからだと思うけど……柾木って、わたしから見ると周りを見すぎてるんだよね。みんなの期待に答えようとして、いつもいつも背伸びしてる」
「……ああ、そうかもな」
さすがに、その話は笑い飛ばせない。
自分でも耳が痛いし、雫の言うとおりだと思っている。
「でも、柾木ってそこまで大人しい性格ばかりじゃない。わたしよりも自分勝手な時もあるし、子供っぽい時もあるし、とにかく年相応だと思うんだよ」
「ま、まあ」
「そうなのに、ここではあんまりそんな姿見せてくれないし……わたしと二人っきりになってる時には、そういう素の顔も見せてくれて、とても嬉しかった」
「そうか」
「わたしと同い年だというのに、世間に慣れすぎたような気がして……。今は橘さんもいるし、大丈夫だと思うけどね」
これは参ったな。
どうやら、私たちはお互いに心配し合っていたらしい。
私、やっぱり自分しか見えてなかったのかな。
雫にここまで思われていたって、正直思っていなかった。
そんなやりとりを挟みながら、私たちはゆっくりと。
お互いのことを、深く味わってゆく。
「そういや、柾木っていつもわたしのおっぱい、熱心に弄るんだよね」
「……女の子がそういう性癖で、その、幻滅したか?」
「ううん、全然。むしろ大好きなくらい」
は、恥ずかしい。
今の自分の顔、絶対に熱くなっている。暗いからあんまりバレてはないと思うけど。
「そこまでわたしのおっぱい、柔らかいんだ。いじりがいがあってよかったなーって」
「し、雫」
いたずらっぽく笑ってる雫から、私はそっと視線を逸らす。だ、だって、これはあまりにも恥ずかしいし。その通りだけど。
それからも、えっちなことは続く。
「柾木って、わたしの体は求めてないんだよね」
「ああ」
「だけど、今、すごくわたしのこと、求めてるよね」
「……ああ」
矛盾された感情っていうのは、よくわかっている。
それがどれくらい、滑稽に見えるかも。
「わたし、今までの柾木にすごく愛されたんだな、甘えられたんだなて感じた」
「……」
「そして、今でも甘えられてる。すごく嬉しい」
私は、何も答えられない。
雫のためなら、体でもなんでも、私はこのように受け入れる覚悟ができていた。
「わたしはきっと、未だに悩んでると思う。これからどんな感じで、柾木と付き合えばいいのかってね」
雫は、話を続ける。
「今までの付き合い方があまりにもしっくり来たから、他のやり方、考えられない。これって、柾木からすると失礼だよね」
「そうでもない。俺も、戸惑ってることは同じだから」
それは決して、嘘ではない。
今まで、私と雫は間違いなく、「男の女」の関係を続けていたんだから。たとえ、それが仮初めのものだったとしても。
「でも、柾木はわたしと友だちとして親しい関係になりたかった、なんてこと言ってたよね」
「そ、それはそうだが」
どうせ、叶わないことは想定済みだったんだから。
だから、求めることすら、できなかった。
「ごめんね、こういう時には『うん、これからはそうしよう』と、すぐ答えてあげた方が救われるはずなのに」
「雫だって、複雑な気持ちだろ。無理には言わない」
それに、それはあくまで、私一人だけの望みであったはずだから。
やっぱり雫は、今までのような関係が好きだったんだろうな、って思ってるから。
……私こそ、同じことを思っていたんだ。
あなたが辛そうな顔をしていた時に、「これからもずっと、雫の恋人として側にいる」なんてこと話せていたら、あなたは喜んでくれたかもしれないって。
でも、結局私と雫は、そう答えられなかった。
たどたどしく、あんまり綺麗じゃないやり方で、ここまでたどり着いた。
「うん。たしかに、今は心の準備、まったくできてないね」
「だから、そこまで焦らなくてもいいんだ」
「でも、柾木のためだから」
雫は、また微笑んでいた。
私がどうしようもないくらい、柔らかい笑顔を浮かべている。
「わたし、今までもらったこと、しっかり返したいんだよ」
「……別に、そのためにやったことじゃ」
「ううん、これはわたしの勝手。っていうか、わたしなりの愛」
そんなことを話す雫は、とても心地よさそうだった。
「愛されたから愛したい。柾木にも気持ちよくなってもらえたらいいな、って感じ」
「……そうか」
私だって、今まで雫にたくさん愛してもらったというのに。
雫は、まだまだ私のこと、今までより大切にするつもりらしい。
「わたし、今柾木のこと、性的な意味で喜ばせてるんだよね」
雫は、突然そんなことを口にする。
私は照れくさくて、しばらく何も言えなかった。
「い、いきなりなんだ。そんなこと」
「ううん。いつものことだけど、柾木が気持ちよさそうにしてると嬉しいんだよ」
こっちに向かって微笑みながら、雫はそんなことを話しかけてきた。
「わたし、昔から柾木にもらってばかりだから、こうやって返すことがとても幸せだった」
「……っ」
「こんなふうに、感じてくれたりね。自分から考えてみても、おかしいってわかってるんだよ。柾木が『元の姿』だったのなら、こういうの、あんまり求めなかったと思うんだよね」
「……そうか」
「姿が変わってるだけでこんなふうに思えるだなんて、変だよね。柾木はずっとそのままだったというのに」
また私に口づけながら、雫は話を続ける。
「わたしがされたこと、友だちには誰にも話せなかったよ。だって、反応が怖いんだもの。こんなこと知ってて、わたしのことを受け入れてくれたの、柾木一人だった」
それは、よくわかっている。
雫は気が強そうに見えるけど、実は繊細で、すごく怖がりやなんだから。
「みんなには心配かけたくなかったし、よそよそしくされたら嫌だから、いつも元気に振る舞ってた。そんなわけだったから、わたしの話をいつもちゃんと聞いてくれて、癒やしてくれた柾木は大切な存在だったの」
それも、わかってる。私が雫にとってそういう存在でいたことは、自分にとって、なんともかけがえのない誇りあるものだったから。
「あなたの前なら、わたしは自然体になれた。家族にも、友だちにも見せられない、バレるのが怖い自分自身になれたの」
それは、あくまで過去形の話。
これから雫は、私だけじゃなくて、たくさんの人と「自然体」でいられるため歩き出すんだろう。
……私のこと、相変わらず大切にしてくれるのはとても嬉しいけど。
「わたし、さっき言ったよね。前に踏み出すこと、怖いって」
「ああ」
「でも、こうやって柾木と体を重ねてると、勇気が得られる。柾木にもらったたくさんのものが、今のわたしを、すごく底から支えてる」
雫の声には、しっかりと一筋が通っていて。
私もそれを、ちゃんと感じることができた。
「雫なら、大丈夫だ」
だから、私も声に力を入れる。
きちんと、雫が安心できるように。
「うん、信じるよ」
雫も、頷く。
「だって、わたしのことずっと見てて、しっかり支えてくれた柾木の言うことなら、絶対に本当のことだもの」
「えへへ、終わっちゃったね」
そうして全てが終わってから、私たちは「いつものように」、ベッドを共にする。
行為が終わってからの、なんとも言えない充実感。
雫といっしょにこんな気持ちに浸れるのも、これがきっと最後だ。
「……気持ち、よかったか?」
「そりゃ、柾木と繋がったのに気持ちいいに決まってるんじゃない」
雫は微笑む。
その顔は、一点の曇りもなく晴れていた。
どう言えばいいんだろう……。上手くは言えないけど、なんかすっきりしたような、吹っ切れたような、青空のような顔。
その顔を眺めているだけで、こっちまで晴れ晴れしい気持ちになる。
なぜか、そんな気がした。
「柾木もいつものように激しかったし、嬉しいな」
ぼんやりとした顔で、雫は私の方をじっと見た。
「これで最後ってわかってるつもりなのに、ものすごく満たされてて、気持ちいい」
「……こっちも、嬉しい」
いつものような、ベッドの中でのやりとり。
たぶん、以後同じようにベッドでおしゃべりをすることがあったとしても、このような瞬間はもう味わえられないんだろう。
「そういや、思い出した」
そこで、雫が照れくさそうに笑う。
「わたしたち、こういう立場じゃなかったら、一生出会えることもなかったんだろうね」
「……ああ、そうだな」
なにせ、過ごしている世界がすごく違うから。
確かに親同士は知り合いなんだけど、私が「元の姿」のままで、雫にああいう事件が起きなかったら、私たちはきっと赤の他人だったはずだ。
「わたしね、柾木が自分にとってどんな存在なのか考えてた時に、それに気づいちゃって」
雫は、話を続ける。
「その時、ちょっと悩んじゃったな。わたしがああいう目に合わなかったら、わたしたち、ここまで仲良くなれなかったんだよ」
「……だろうな」
「今の柾木、すごく寂しそうな顔、してるね」
きっと、それは雫の言う通りなんだろう。
雫と本物の他人同士だなんて、今の私には耐えられない。
「おかしいよね。わたし、それに気づいて、神様に感謝した」
そんなことを口にしながら、雫は私の胸板に顔を埋める。
きっと、今の雫はものすごく顔が赤くなってるんだろう。
……今の自分だって、顔が熱い。
「今までずっと、こうなったのは全部自分のせいとか、こんな運命なんてないって思ってたのに、それに気づいてから、考えがまるごと変わっちゃったよ」
その声はささやくようなものだったけど、筋はしっかりと通っていて。
「世の中、やっぱり理不尽なことで溢れてると思うけど、それが悪いことばっかり引き寄せてるんじゃないって、その時気づいたの」
私はそれを、雫のあたたかさから、しっかり感じ取れた。
「それが悔しくないって言ったら嘘だけど……。でも、今はそれを信じて、歩いていこうって決めた」
私の腕の中で、嬉しそうな口調で。
雫は弾むような声で、そう話しかけてくる。
「あのね、柾木」
「うん?」
私が答えると、雫はこっちの目をじっと見る。
しばらくしてから、雫はゆっくりと微笑みながら、こう言った。
「わたしのことを、好きになってくれて、優しくしてくれて、ほんとうに、ありがとう」
そこに込められている、たくさんの愛をしっかりと受け取りながら。
私も、ゆっくりと頷く。
――雫なら、きっと大丈夫。
私が、そう保証できるから。