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52.私たちの梅雨入り

 次の日、雫は私のところにやってこなかった。

 いつもならかけてくるはずの連絡も、まったくなかった。

 当たり前だった。

 昨日の私は、雫に「ひどいこと」をしたんだから。


 ――あのね、柾木。

 そんなことを思いながらも、どうにかお仕事に集中していたら、真夜中、雫に「端末」でメッセージが送られてきた。

 ――ごめんね。わたし、ちょっと心の準備ができてなくて。だから引きこもってた。

 ――わかってる。

 わからない、わけがない。

 あの時の雫は、長い間、そこに突っ立ったまま、一人でずっと泣いていた。

 私は相変わらず、悔しいほど、何もできなかった。

 自分ができることなんて、何ひとつも思い浮かばなかった。

 ――えっとね、わたし、明日、会いに行ってもいい?

 ――もちろん。

 しばらく経ってから、雫はそんなことを聞いてきた。

 私は、もちろんそれを受け入れる。

 今の雫、まだ辛い気持ちであるはずなのに。

 また勇気を出して、私に会いに来てくれるって言ったから。


 ほぼ眠れなかった夜が明けて、朝になった頃。

「ちょっと早かったよね。ごめん」

 雫が、私の執務室に姿を現した。

 別に何年ぶりでもなんでもないはずなのに、なぜだろう。その姿が、とてもよそよそしく思えた。

「……大丈夫か?」

「うん、心配してくれて、ありがと」

 雫は、こっちを見ながら笑ってみせた。

 それだけなら、いつもの仕草とも言えるけど……。誰からどう見ても、今の雫は、かなり無理している。

 そうさせたのは、きっと、他でもないこの私。

 辛い。雫と顔を合わせる勇気がない。

 ……雫は、勇気を出してこっちまでやってきたというのに。

「こうしてると、昨日の……いや、一昨日のこと、夢みたいだよね」

「……」

「現実だってわかってるのに、まだわたし、あのときのこと、うまく認められないんだ」

 雫は、私から視線を逸らす。

 その表情が、私にとってはとても痛々しく思えた。


「あのね、以前言ってたこと、覚えてる?」

 そんなことを思っていたら、急に雫が、こっちを上目遣いで見ながらそう話しかけた。

「なんだ?」

「わたしが、自分のことかわいいよね? って聞いてたこと」

「ああ、あれか」

 もちろん、覚えている。

 私にとって、雫は本当にかわいい女の子なんだから。

「あれね、実はとても変なことだと思う」

 雫の顔が、だんだん暗くなっていった。

 今でも泣き出しそうな、曇り空みたいな顔だった。

「本当にかわいい人は、そんなことなんて絶対聞かない。そんな当たり前のこと、わざわざ確認するまでもないんだから」

「……」

「わたしって、自信ないんだ」

「雫」

「かわいくなんか、ないんだ」

 雨が、降りはじめた。

 雫はまた、私の前で――泣いた。


「わかってた。わたし、初めてから全部わかってたよ。これは全部、わたしにとって、都合のいい夢なんだって」

「……」

「こんな夢みたいな現実、あるわけがない。これは全部、わたしのワガママで出来上がっている空想。柾木はただ、そんなわたしに合わせてくれただけ」

「……」

「わたしはただ、現実から、逃げてただけ」

 私は、何も言えずに、ただ雫を見守ることしかできなかった。

 今の雫は、あまりにも危うくて――少しでも触ったら、そのまま崩れ落ちそうな気がして、たまらなかった。

「わかってたけど、覚悟もしてたけど、こんな甘い夢から、覚めたくないのはなぜだろう」

「雫」

「なんで、だろう……」

 目の前の雨は、どうやら大降りになりそうだった。

 私は、その儚い雫を、ただただ、精一杯見守る。


「一つだけ、話してもいいか」

「……うん?」

 激しく降る雨の中で、私はそう話しかける。

 今の雫に、どうやって話しかけたらいいのか迷ってしまったが、どうしても、これだけは伝えたかった。

「雫は、一つだけ、誤解している」

「何?」

「俺は、雫の彼氏でいたこと、たった一度も、後悔なんかしてなかった」

 雫は、目を丸くする。

 まるで、ありえない話でも聞いたような顔で、私をじっと見た。

「都合がいいなんて、そんなこと、まったく構わない。雫にとって都合のいい彼氏になれて、俺は、心の底から幸せだった」

「柾木……」

「いっしょにいられるなら、彼氏でもなんでもよかった。雫のことを幸せにしてあげられるならば、どれだけ振り回されたって、嬉しかった」

「……っ」

「可能ならば、いつまでも、そんなふうに過ごしたかったんだ。たとえ雫が、俺の『元の姿』に気づいてくれなかったとしても、本当の俺に幻滅するとしても」

「そんな、わたし、幻滅だなんて……」

「できる限り、俺は自分の意志で、雫とずっと、こうしていたかったんだ。雫は俺にとって、掛け替えのない大切な人だから。雫は、俺の『元の姿』を見て、もう呆れてしまったかもしれないが」

 ひょっとしたら、今の私は、少しだけ安心しているのかもしれない。やっと、やっと雫に、こういうことを話せたんだから。

「それでも、雫さえよければ、たとえ体が絡むとしても、ずっとこのままだって――」

「嫌がるわけ、ないんじゃない」

「……」

「わたしが柾木のこと、嫌がったり、恥ずかしがったりするわけ、ないんじゃない……」

 その話は、とても、とても嬉しかった。

 もし、私たちが、こういう状況じゃなかったとしたら、きっと手放して喜んでいたんだろうに。

「柾木のこと拒絶するとか、そんなこと、ありえないのに……」

 あまりの嬉しさに、きっと、空でも飛ぶような気持ちになっているはずなのに。

「いつだって、勝手に自分の都合を押しつけてたのはわたしだった。柾木は、そんなこともわかってて、わたしにずっと付き合ってくれた」

「……好きだよ、雫。今までも。そして、これからだってずっと。あんなことしてしまって、本当にごめん」

「柾木、柾木ぃ……」

 雫は、まだ涙を漏らしてしまう。

 あまり雫のこと、泣かしたくなかったというのに、最近はずっと、こんなことばかりだ。


「わたし、どうしよう?」

 雫の声は、震えている。

 心に潜んでいる怖さが、切なさが、苦しさが、そのまま声に現れていた。体だって、雨に打たれたように、小刻みに震えている。

「わたしのこと好きになってくれる人なんて、いると思う? わたしのことを知っても、好きになってくれる人なんて存在するのかな?」

「雫」

「わたし、わたし……自信ないよ」

「……」

「柾木以外を好きになれる自信なんて、わたしにはないよ……」

 気がつけば、私は雫のことを、そっと抱きしめていた。

 壊れないように、力を入れつつも優しく。

 「別の姿」ではあまりにも難しい力のさじ加減を、なんとか上手くこなしていた。

 雫に、触れたかったから。

 少しでも、雫のことを支えてあげたかったから。

 ――雫は、私の彼女なのだから。

 どうしても、この心を伝えたくて、仕方なかったんだ。


 どれくらい時間が経ったんだろう。

 あそこまで激しかった雨は、ようやく私の懐で止んでくれた。

 まだ、晴れてるわけじゃないんだけど。

 たぶん、少し時間が経ったら、この雨はまた、続くんだろう。

 だって、今の私たちは、そういう季節なのだから。

「えっとね、柾木」

「……ああ」

 でも、雫は頭を上げた。

 雫は、何か決めたような顔で、私をまっすぐに見る。

 今まで見た雫の顔の中で、いちばん、真剣な表情だった。

「わたしとの関係、橘さん、おかしいって思ってるんだよね?」

「いや、別になんとも……」

「話してもいいよ」

「雫」

「だって、橘さん、きっと気にしてるんだろうし」

 雫の瞳は、揺るがなかった。

 もう、雫は、決めているんだ。

「わたし、柾木のこと信じてるから――だから、わたしのこと、あの人にも話して構わないよ」

「……」

「柾木が今求めてるのは、あの人、橘さんなんだから」


「あまり無理しなくてもいいんだ、雫」

 雫は、今私のことを、誰よりも考えてくれている。

 ものすごく辛い気持ちのはずなのに、こんなときにも、私のことを第一にしてくれてるんだ。

「今すぐ、結論を出さなくてもいい。その、俺としては、自分の『元の姿』をわかってもらえただけで、十分嬉しいから」

「ダメだよ」

「……雫?」

 雫は、何かを決めたような様子だった。

 いつもの甘えるような態度は、今の雫からまったく感じられない。

「柾木、わたしのこと、『体的』にはまったく求めてない。柾木がそれを望むのは、ただ一人、橘さんだけ」

「雫――」

「わたしはあなたのこと、まったくわかってあげられなかった。あなたは自分についてそこまで悩んでたと言うのに、わたしは、そんなことより、自分の甘い夢の方に溺れてた。あなたをずっと、『男』として見られたらいいな、なんてこと思ってた」

「それは……」

「別に、好きな人だからと言って、その人のこと、全部知らなきゃいけないとか、そう思ってるわけじゃない」

 雫は、まっすぐに、私を見た。

 もう、涙はだいぶ乾いている。

 いつの間にか、雫はそんなふうになっていた。

「でも、他でもない自分のせいで、肝心なところを知ることができないとか、そういうのは、嫌。わたしが知らない姿だったとはいえ、柾木のことを知らんふりして泣かせたとか、そういうのは嫌なの」

「……」

「それができたのは、わたしじゃなくて、橘さんだったよね?」

「雫」

「わたしと違って、橘さんは柾木の『元の姿』だって、そのまま受け入れたんだよね?」


 私は、どう答えたらいいのかわからなくなって。

 しばらく、じっと雫を抱きしめるしかなかった。

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