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50.悲しき決意

 再び雫と気まずい空気になってしまった昨日も過ぎ去って、次の日の昼ごろ。

 私は珍しく、人がまばらである大通りを一人で歩いていた。

 最近はおかしいくらい余裕があるから、久しぶりに「元の姿」である。わかりやすく言うと、少しばかりの休憩だ。

 まあ、こうやって大通りを一人で歩いたとしても、あまりやることはないけど……。

 とはいえ、そもそも「元の姿」でいられる時間もあまりないわけだから、こういう時間は貴重だ。


 ちなみに、今の私の私服はものすごく素っ気ない。

 自分って、あまりこういう服には気を使わないから、単なる白いTシャツと、半ズボン。

 これって、ぶっちゃけ家で黒ロリなんかを着ている女の子の普段着じゃないよね、とは自分でもよく思う。

 だが、やはり、動くにはこっちの方が楽だ。

 あまりおしゃれとか、そういうのに興味がないせいなのかもしれないけど。

 まあ、それはさておき、今日もいい天気だな。ちょっと暑いのは勘弁してほしいが。


「雫って、今ごろどうしてるんだろ」

 やっぱり、こうやって一人でいると、今は雫のことを一番先に思い浮かべてしまう。

 だって、最近はやっぱり、雫との関係についていろいろ考えてしまうから。

 私たち、これからどうなるんだろう……みたいに。


 大通りは、いつものように人でいっぱいだった。

 たくさんの人が行き交うところであるため、少し頭がくらくらする。

 大通りの向こうには、ここのシンボルみたいな存在のデパートがある。その向こう側とこっちを、これまた大きな歩道橋が繋いでいた。

 そういや、雫って、あっちからデパートへ渡るの、かなり好きだったっけ。

 「ここを眺めてるとね、すごく気持ちがいいの」みたいなことを、以前、話していた気がする。

 これももう、ずいぶん昔の話になってしまったけれど。


 ……こんなこと、思い返すとキリがないな。

 次々と湧いてくる雫との日々が、私をまた、複雑な気持ちにさせる。

 でも、別に嫌だとか、そういうわけじゃない。むしろ微笑ましくて、ちょっと照れくさいところはあるけど、みんな愛しい記憶だった。

 だから、思い出す。

 雫といっしょに過ごした、二年くらい、いや、一ヶ月半かな……もちろん、本物の「恋人」になる前ならもっと遡れる、その長くて短い時間のことを。


 それは、昨年の真夏のこと。

 雫がねだって来たため、いっしょに近くのプールに遊びに行くことになった。私はあまりプールとかに行く方でもなかったし、そもそも女の子の友だちといっしょに行くのは初めてだったから、ずいぶんドキドキしていた覚えがある。

 ……まあ、「別の姿」で行くことに決まっていたから、女の子の友だちも何もなかったけど。


 正直、あの時には、まさに頭から煙が出るほど恥ずかしかった。

 だって、「別の姿」ならば、プールではその、上の方が裸になってしまう。いや、慎治たちのおかげで免疫はついているはずだったが、それでも、恥ずかしいのは恥ずかしかった。

 だって、胸が丸出しになるんだし。

 ……そもそも「元の姿」だって胸が薄いんだから、そんなこと言ってても説得力はあんまりないんだけど。

 結局、プールでのデートは無事に終わった。そもそも、私の恥じらいなんか、雫はまったく気づいていない。

 それに雫、やっぱり水着もすごかったし。

 周りの視線、独り占めだった。

 ……そして、「婚約者」としていっしょにいた私は、主に周りの男から、ものすごくトゲトゲしい視線を集めることになる。

 今思い出しても、それはかなり悔しかった。

 こっちはこっちで、人がいっぱいいる外で胸を出しまくっているのが気にかかってしょうがなかったと言うのに。

 もちろん、すぐ近くで無防備な姿勢を取っていた雫も、ものすごく気になってしょうがなかったけれど……。


 それは、ある秋の真夜中のこと。

 いつものように、いっしょにベッドで話し合っていた時、雫が突然、そんなことを言った。

「いつかね、わたし、ウサギ飼いたいの」

「……うさぎ?」

「うん、たくさん飼ってね、かわいがってあげたい」

「うさぎって、たしか、その、繁殖力がすごいって話だったが……」

「大丈夫、うちなら飼える」

 ま、まあ、たしかに、雫の家くらいなら、お金もあるし広いし、十分可能だとは思うが、それでも、その、無謀すぎるんじゃないかな……。

 あの時の私は、そんなことを思いながら、内心ハラハラしていたような気がする。

「え~ダメ?」

「ま、まあ、それは雫の好きなようにすればいい、と思う」

「ふーん……」

 あの時の私は、雫の意味深な反応を、そのまま聞き流していた。

 ……まさか、自分の誕生日の時に、ああいう「大きなうさぎ」がやってくるとは、考えもせずに。


 それは、ある昼下がりのこと。

「すごいっ。柾木って、本当になんでも作れるね」

「いや、自分でも甘いものが好きなんだから、なんとかやってみただけだが……」

 私の作った、いろとりどりのマカロンを見ると、雫は目を丸くした。まあ、以前からも自分が作ったお菓子をあれやこれや持っていったわけだけど、ここまで作ってくるとは思わなかったらしい。

 ここまで喜んでくれると、こっちも作ってきたがいがあるな。

 それもそうはずで、私の周りには、こういうお菓子を持っていって喜んでくれそうな人があまりいない。もちろん、お姉ちゃんはいつも喜んでくれるけど、やっぱり同い年くらいの子の反応が見てみたかった。慎治たちはそこまで甘い物、好きじゃない場合が多いし。いや、持っていってもいいけど、こっちのイメージからしてどうだろう……。

 ともかく、そういうわけで、気軽に甘い物を持っていける雫は、私にとって、とてもありがたい存在だった。いつも私のお菓子、こんなふうに美味しく食べてくれるから。

「うう~~マカロンが作れるだなんて、本当にずるい。私ったら、普通のお菓子も作ったことないよ?」

「お菓子くらいならそこまで難しくはない。雫なら、すぐ覚えると思う」

「でも、ここまでカラフルなやつを見せつけられるとな~~」

 雫は悔しそうな顔をしていたが、別に、怒ってるとか、そういうわけではない。むしろ、すごく喜んでくれている。

 なにしろ、以前は私がお弁当を作ったことを見て、「じゃ、キャラ弁とか、作れる?」と目を輝かせていたし。

 ……私にとっては、雫の手作り料理も十分美味いけど。

 ちなみに、ここは私の家……ではなく、雫の家。雫は今まで、一度も私の家に来たことがない。当たり前だ。私の家に来てしまうと、「元の姿」での暮らしがバレてしまうわけだから。

 それに、雫は今まで、お姉ちゃんの「元の姿」を知らない。婚約しておいておかしな話だが、今でも雫にとって、お姉ちゃんは「頼りになる素敵な兄さん」ってイメージだ。私としてはどうしてもモヤモヤしちゃうんだけど、これは仕方がない。

「あ、そうだ、じゃ、これもお願いしていいかな?」

「なんだ?」

 私がそう聞くと、雫はまるで子供のような笑顔を浮かばせて、こんなことを言い出した。

「あのね、わたし、うさぎさんのマカロンほしいの。うさぎさんマカロン、作れる?」

「う、うさぎさん?」

「うん、なんとなく、柾木ならできそうなきがして」

 だ、ダメだ。ここまでマシなマカロンを作れるようになるまで、かなり時間、かかっちゃったというのに。

 でも、雫のキラキラした眼差しにはとうてい勝てそうにない。

 だって、私、今までこんな顔をした雫に勝てたこと、一度もないから。

「じ、時間はちょっと、かかると思うが……」

「やった~~! 柾木愛してる!」

「し、知ってる。それは」

 私が頷くと、雫はすぐこっちに抱きついてきて、もう大変だった。

 もちろん、雫がここまで喜んでくれたのはすごく嬉しかったけど……。

 ちなみに、この日以来、私はしばらく、なんとかしてうさぎさんマカロンを作るため、自分の家のキッチンで四苦八苦することになる。

 ――雫が喜んでくれたから、もうそれはいい思い出になってるけど。


 こうやって一つ一つ思い出してみると、みんな愛しくて、懐かしくて、ちょっぴり恥ずかしいところもあるけど、どれも大切な思い出だ。

 雫と私って、こう見ると、すごく長い間いっしょにいたんだな……と、しみじみ思う。

 まあ、ここまで親しかったのは二年余りだし、以前にはつっけんどんとした態度だったけど、それでも、長くいっしょにいた、という事実だけは変わらない。

 これからだって、私はずっと、雫といっしょにいられたら、と思っていた。秀樹と出会って、付き合うことになる前には、たとえ「偽りの婚約」だとしても、そうだったらいいな、とずっと考えていた。

 でも、今の私はどうだろう?

 もうこれ以上、「婚約」という言葉が使えなくなってしまった、今の私は。


『違うよ~のろけてるわけじゃなくてね~』

 その時、私の向こうから、ある声が近づいてきた。

 あまりにも聞き慣れた、明るくて、甘い声。

 この声の持ち主を、私はよく知っている。

 だって、この声を、忘れるわけがない。

 聞き違えるわけがない。

 ――忘れられるわけ、ないんだ。


 どうしよう。私、どうしたらいいんだろう。

 普通にしていたらいいのに、私はつい、そう狼狽えてしまう。

 だって、今、向こうからは雫が近づいてるんだ。

 わかってはいるけど、わかってはいたつもりだけど――

 やっぱり、心臓がすごくドキドキする。


 そんなふうに、私があたふたしている時にも、雫はこっちに向かって、まっすぐ歩いてくる。

 まるで時間が止まったようだ。

 たぶん、今は私まであと七歩くらい。

 五歩。四歩。三歩……あと、一歩。


 そして、そのまま。

 雫は私の、すぐ近くまでやってきて。

『だから、あの時の柾木がさ――』

 私の横を、過ぎ去る。

 雫は、まるで知らない人とすれ違ったように、なんでもない態度で、私から自然に離れていった。

 雫の髪が、その長くて艶のある黒髪が――

 私の鼻をくすぐって、雫の「いつもの」香りを、かすかに残す。

 自分の髪が、それを追うように、小さくなびいた。


 それで、終わりだった。

 私はぽつんと、ここに残される。


「……あ」


 雫の声が、だんだん遠のいていって、ここからはうまく聞き取れない。

 だけど、その口調は、とても楽しそうだった。

 よかった、今の雫、嬉しいんだ。

 ……雫はここまで嬉しそうだというのに。

 どうして、今の私は、ここまで泣きそうな気分になるんだろう。


 わかっていた。

 わかっていたつもりだった。

 私が雫から、「他人」に見える時があるって、そんなこと、初めてからずっと、わかっていたつもりだった。


「……っ」


 どうしよう。

 涙が、止まらない。

 ずっとずっと、溢れてる。

 ここって、行き交う人たちもたくさんいるっていうのに――

 自分から生まれた涙が、頬に流れてゆくのを感じた。

 へ、変だな。

 私としては、今、かなり我慢していたつもりだったけど……。

 なぜ、ここまで体が、自分の言うことを聞いてくれないんだろう。


 バカだな、私。

 ここまで動揺するなんて、誰からどう見てもおかしい。

 そもそも、雫はこっちの「元の姿」なんか、まったく知らないんだ。

 だから、無視でも何でもなく、これは本当に自然なこと。こっちは体だって小さいわけだから、私の存在を認識していたかどうかすら怪しい。

 それに、自分がものすごく過剰反応しているだけ。

 そんなこと、とっくにわかっていたくせに。

 どうして、どうして私は、ここまで落ち込んでいるんだろう……。


「……ごめんね、雫」


 そんなことを一人でつぶやきながら。

 私は、あることを決めてしまった。

 だって、他でもない雫に他人扱いなんて、そんなこと、我慢できない。

 自分が、耐えられなくなってしまう。

 雫は何も知らないから、それでいいんだろうけど、私は、そんなこと、受け入れられないんだから。

 きっと、雫は大いに苦しむんだろうに。

 私が我慢していたら、全て上手くいくかもしれないのに。

 ――でも、このままじゃ、いずれ私の方が先に壊れてしまうんだ。

 雫の前で、うまく笑えなくなってしまうんだ。


 ごめんね、雫。

 こんな彼氏で、本当にごめんね――

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