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45.夜の二人は

「さあ、到着!」

 そうやって、いつものデートを終わらせてから、私たちは、無事「組織」の事務室にたどり着いた。

 雫は腕をせいいっぱい伸ばして、ものすごくゆるんだ顔をしている。どうやら、こうして私とまたふたりっきりになったのが嬉しいらしい。

「俺の執務室だというのに、なぜ雫が嬉しそうなんだ」

「えへへ、だって、なんか戻ってきたって感じ、しない?」

 私が呆れた顔をしてみせると、雫がそう微笑んだ。まあ、私たち、デートの後にはやっぱりここに戻ってくる時が多いから、そう感じるのは仕方ない。だいたい、私の都合のせいだけど。

「わたしったら、罪深い女の子だよね。お仕事に忙しい彼氏にデートとかさせて、こうして仕事場にまでやってきたりさ」

「別にいいだろ。俺がいいって言ってるんだから」

「柾木はやさしいんだからね~」

 そんなことを言いながらも、雫はもう、近くの椅子にくつろいでいる。ここに雫が初めてやってきたのはもう何年も前。そこまで時間が経ったら、もうすっかりここに慣れてるのも当たり前だ。

 まだ秀樹がいなかった時、この事務室の雰囲気を穏やかにしてくれたのは、こんなふうにここにやってきてくれる雫くらいしかいなかった。

 付き合っているから。

 「婚約者」という関係だから、雫はここにいつもやってきてくれるんだ。


「えいっ」

 そんなことを考えていたら、急に雫が、後ろから抱きついてきた。

「な、なんだ、雫。いきなり」

 もちろん、私はひどく戸惑ったけれど、雫がそんなこと、察してくれるわけがない。

 でも、やっぱり心臓が止まらなかった。

 だって、今の雫、私の背にべったりなんだから。なにもかも。

 そう、たとえばやわらかな胸とか、胸とか、肌とか……。

「柾木の匂い、する」

「……俺の?」

 こっちは、後ろからずっと雫の匂いに惑わされてるというのに、雫は逆に、そんなことを言ってきた。

「うん。男の匂い」

 そして、それを聞いた私は、心臓が止まりそうな気持ちになる。

 男の、匂いって。

 たしかに、今の私からは、「別の姿」なんだろうから、その、ああいう匂いしかしないんだろう、と思うけど……。

 での、なぜか、今の私は悲しくて。

 ……悲しくて、それなのに後ろのやわらかい感覚が忘れられなくて、一人でそう立ち尽くすしかなかった。

「あのさ、今日もやろうか」

「……やりたい、のか」

 私が力なき声で聞くと、雫は後ろから、静かに頷く。

「柾木と一つになると、いつもぐっすり眠れるから」

「そうか」

 私はそのまま、そっと頷いた。

 そして、ものすごく、寂しくなった。

 私はこんな姿じゃないと、雫とこんなふうに、親しくなれなかったかもしれないって、思ってしまったからだ。

 こんなこと、時々思ったりする。

 そう、今のように、自分に「男」が求められている時などに。


 でも、今の私は、よくわかっている。

 今の私なら、きっと、雫の求める「男」に、完璧になりきれるのだろう。

 だって、今の私は。

 ……雫のやわらかい体に、ものすごく興奮しているから。


 そうして、いつものような時間は過ぎていった。

「えへへ、気持ちよかった」

「……そうか、よかったな」

 すごく充実しているような顔の雫を、私は横目で見る。雫はいつもいつも、私とこうやって寝た後、こういう「幸せ」な顔をしていた。何か満たされたような、こっちとしてはずいぶん羨ましい表情を。

 私が、雫をここまで喜ばせたんだ。

 それはとても嬉しい。誇りに思う。今の私は「別の姿」なんだけど、それでも、雫は私のモノで、ここまで喜んでくれた。

 そして、それがとても、すごく寂しく思える時がある。

 私は、「元の姿」じゃ、雫にここまで気持ちよくしてあげられない。そもそも、私も雫も、恋愛対象として見られるのは異性だけなんだから。これは雫も、私によく言っていることだった。

 ――変だよね。あそこまで男にひどいことされておいて、やっぱり男が好きなんてさ。

 いつか、雫はそんなふうに語ったことがある。

 そして、やっぱり私も、恋愛の対象としては異性の方が好きだ。

 ……もし、私が雫に「元の姿」を見せることになったら。

 こんな関係は、時間は、もう二度も戻ってこない、かもしれない。

「ふふっ、こうしてると思い出すんだよね、昔のこと」

 私がベッドでそんなことを考えていたら、ふと、となりの雫がそんなことを口にした。

「昔のこと、か?」

「うん、私と柾木が、まだこんな関係じゃなかった時」

 あの時だって、私と雫は一応「婚約者」だった。

 あの時の私は、「別の姿」でありながら男なんて大嫌いだったわけだけど、それでも、雫まで男を嫌ったり、怖がったりする必要はないと思っていた。

 まあ、複雑な気持ちじゃなかったとしたら嘘になるけど、それでも、自分はそう思っていたから。

 ともかく、それから時間は進んで、今の私たちはある意味、本当の意味で「婚約者」になれた。

 形はどうあれ、こうやって雫との関係が近づいたのは、とても嬉しい。

「あの時にはこんなの、考えもしてなかったのに。でも、今はわたしが柾木の彼女で、すごく嬉しい」

「そうか」

「うん、今夜も柾木、わたしの胸で喜んでくれたし。ちょっと獣っぽかったけど」

「そ、そういうのはあまり口にしないでほしいんだが……」

 変に照れくさくなって、私はすぐ視線を逸らす。

 だって、また雫に、自分が大きな胸に興奮してたこと、バレちゃった。

 まあ、すでに雫もよく知っていることではあるが、私の「元の姿」がわかったら、さすがに幻滅してしまうかもしれないな……。


「ねえ、柾木」

 その時、雫がこっちに寝返る。少しだけ、心臓が止まるかと思った。

「わたしのこと、好き?」

「ああ、好きだ」

「ふふっ、わたしも好き」

「……こっちも、嬉しい」

 雫は私の答えに、ものすごく満足したような表情を浮かべた。私はそんな雫の髪の毛を、やさしく撫でる。

 気持ちいい。

 実は、布団に入ってから雫とこういうことを話し合うのは、わりとよくあることだった。

 いつも雫は、私のそんな答えを聞くと、安心して深い眠りにつく。

 それが、とても嬉しい。

 気づくと、自然と笑顔になっている。雫が眠っているからこそ、こんな顔になれるわけだけど。


 私と雫は、釣り合わない。

 雫みたいな花々しい女の子と、黒ロリが好きだったり、未だにツインテばかりしている女の子は、やっぱり似合わないっていうか、そもそも住む世界が違う気がする。

 だから、私たちの出会いは、きっと、「別の姿」があってこそ。

 私が雫に、こんな形で求められているからこそ、だ。

 もし、雫が私の黒ロリ好きとか、実はいつもツインテだとか、そういうの、知ってしまったらどうなるんだろう。

 考えたくもない。

 そんなこと、考えるだけで、すごく怖い。


 どちらにせよ、私はきっと、雫の思いには答えられないのだろう。

 やっぱり私、「あの頃」にもそう思ったように、女の子はそういう目で見れない。

 けれど、雫は私にとって、とてもとても、大切な人だ。

 ……胸が痛い。

 どうなるんだろう、私たち。

 私、どうしたらいいんだろう……。

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