43.懐かしき過去
このエピソードの成人向けバージョンをノクターンに載せております(https://novel18.syosetu.com/n0880hw/)。
18歳以上の方は、そっちもお読みいただけると嬉しいです。
――初めて、雫を抱いた時。
当たり前だけど、私はすごく悩んだし、どうしたらいいのか、本当にわからなかった。
いや。あの時点で、すでに両親からの許可は取っていたわけだけど……。
その、いったい雫にどう接すればいいのか、まったくわからなかったんだ。
以前にも語った通り、雫はすでに私の「元の姿」の存在を知っている。
たしかに「直接」その姿を見たことは一度もないし、そもそも「元の姿」がどうなのかは知らないけれど、ともかく、存在だけは間違いなく認知していた。
つまり、もし、今の私が「元の姿」で雫と街角ですれ違ったとしても、向こうは決して気づかない、ということだけど……。
いけない。そんなことを思い浮かべていたら、かなり寂しくなってきた。
雫に「他人」と認識される時があり得る、と言うだけで、すごく切ないっていうか、やるせないっていうか……ともかく、そういう気持ちになる。
だから今の雫は、ただ「見て見ぬふり」をしているだけだ。
私が本当の男じゃないことなんて、雫はとっくに知っている。ただ、それから目をそらして、私を自分の「彼氏」、つまり「婚約者」のように扱っているわけだ。
それはまるで、両親に公認された恋人ごっこのようなもの。
どれほど雫の家族と私のお父さんから公認されてるとしても、これはあくまで、偽りの関係だ。仮の関係なのだから、これが一生続くことはない。
私たちがやってることは、ただの「ごっこ遊び」なのだから。
でも、本当の「あるべき」私と雫の関係って、いったいなんだろう。
もし、私が「元の姿」で雫と顔を合わせることになったら、私たち、もうそのまま終わってしまうのかな。
そうなった場合には、今までのように、目をそらし続けることもできないんだろうし……。
苦しい。
なぜか、私はとても泣きそうな、切ない気分になった。
いけない。今は「元の姿」じゃないと言うのに。
こんなの、他の人にバレたら気持ち悪いだけなのに――
――話はまだ、私と雫が「関係」を結ぶ直前へと戻る。
「本当にこれでいいのか、雫」
「うん。わたし、決めたの。柾木の方がいいって」
私は何度もそう意思を確かめたが、雫の気持ちは揺るがなかった。いや、むしろ、はるか昔からそうしようと決めていたような、断固たる態度だった。
「だって、わたし、柾木と迎える『初めて』に、ずっと憧れてた」
「今なら、また引き返せる。これは軽く決めていいものじゃない。自分はそう思う」
「でも、柾木がいい」
「……」
困った。
今振り返ってみても、この時くらい悩んだり、大変な目にあったりしたことは滅多になかった気がする。
私がそんなふうに悩んでいたら、雫は、想定外のことを口にした。
「でも、いいのか? 俺は純粋な男じゃ……」
「別にいいよ。わたしだって純粋じゃないし」
――今思い返すと、それがトリガーだったのかもしれない。
それを聞いた私は、気がつけば、そのまま雫をベッドに押し倒していた。
なぜだったんだろう。自分にもとっさのことだったため、上手くは言えないけれど……。
たぶん、雫の投げやりなその口調に、体が反応していた気がする。
まあ、今になっては、あまりにも昔の話になったので、確認する術もないが。
初めての行為が気持ちよかったかどうかは、もうあまり覚えてない。
あの出来事自体が衝撃的すぎて、肝心のところはほぼ薄れてしまった。
でも、満たされた、ということは未だにはっきりと覚えている。
雫も痛そうにしていたけど、やっぱり、「柾木とやれて、よかった」とずっと微笑んでいた。
痛そうだったのに、こっちを見て微笑んでいたんだ。
私のためだけじゃなくて、自分自身も癒やされたような、満面の笑みで。
その笑顔が、あまりにも眩しくて。
私はあの時、これを忘れることなんて一生できないんだろう、と悟った。
次の日。
「柾木~~こっちこっち!!」
「いや、もう道はわかっているから。なんでそこまでせがむんだ」
私は久しぶりに、雫の熱い誘いに負けてしまい、雫の家へと向かっていた。
「熱い誘い」っていうか、つまり「今度こそ行こうよ~」といういつもの強気だったわけだが、私も最近、あまり雫の部屋に行ってないし、今度はお邪魔することにしたんだ。
それに、断ると後先が怖いし。
雫って一度拗ねてしまうと、どうしても機嫌を戻すのが大変なのだから……。
そうして、やっと私たちは雫の家にたどり着く。
雫の家は、まさにお金持ち、という言葉がぴったりの豪邸。もちろん、うちだって他の人からするとずいぶん大きいとは思うが……雫の家はそもそも二階だし、真っ白だし、庭には噴水まであるくらいだし、なにもかもが高級にできている。それに、うちと違って街の中心地に位置してるんだから、維持のためのお金もだいぶかかっているはずだ。
なんていうか、昔の絵本に出てきそうな素敵な家っていうか……。とてもクラシカルな、一昔前のお金持ちの家って感じのところだった。
たしかに綾観家は大家族なんだから、そこまでヤリ過ぎなわけでもないはずだけど。それでも、初めて訪れる人ならば、誰でも開いた口が塞がらない風景だろう。さすがに、もう老舗と言ってもおかしくないくらいの、巨大IT企業の創業者の名は伊達じゃない。
ちなみに、綾観家の構成員は両親と息子3人、娘3人(もちろん、雫を含めて)で、今の時代からすると、ちょっと信じられないくらいのマンモス家族だ。一人っ子ところか子供がいない家族すらたくさんいる今の時代で、ここまで大所帯な家族も珍しい。うちだって二人姉妹なんだけど、子供の頃にはよく「大家族だねー」と言われたくらいだし。
……いや、もうひとり、私の知り合いに綾観家並みの大家族持ちがいるんだけど、それはまた後の機会で。
今は、あくまで雫との時間なのだから。
「ささ、た~くさん召し上がれ!」
「いや、その、雫が作ったわけでもないだろ、これ」
「でも、うちのお母さんがすごく頑張ったもの。あと、ちょうど家にいたお父さんとお兄さんたちも!」
まるで子供みたいに、こっちを見ながらわくわくしている雫と向かい合ったまま、私は少しだけ遅い昼食をゆっくりと取り始めた。
雫って、こんな時だけ見るとまるで犬みたい。いつもはうさぎさんのような印象なのに、変だ。
まあ、そこが秀樹と似ている、と言えば似ていると言えるけど……。
あの二人、正反対っぽく見えて、どこか似ているのが不思議だ。
私が食事をしながら、そんなことをぼんやりと思っていた時だった。
「じー」
「な、なんだ」
雫は目の前で、まるで何か言いたげな顔でこっちをじっと見ている。
な、なんだろ。何か気に食わないことでもあったのかな。
そう戸惑っていたら、今度は雫が行動を起こした。だが、その行動は、あまりにも突飛なものである。
だって、今の雫は。
いきなり椅子から起き上がって、床にしゃがみこんでから、そのまま食卓の下に入っているのだから。
「……ちょっと、雫。今何やってるんだ?」
急に食卓の下に潜り込んだ雫(がいると思われるところ)をぼうっと見ながら、私は目を丸くしながらそう言いかけた。
だ、だって、今の私、お昼ごはんの途中だし。
えっと、ま、まさか、アレだったりして……?
「柾木にいいこと、してあげようと思って」
「だから、そのいいことって、いったいなんだ」
「え~柾木って、まだ気づいてないの?」
いや、たぶん知ってる。
わかってはいるけど、今はあまりにも突然すぎて、ちょっと受け入れがたいだけだ。
「いいことだよ、いいこと。いつもやってあげてる、サービス」
そうして、雫は私のすぐ下まで近づく。
だ、大丈夫かな。今、周りに誰もいないのはわかっているつもりだけど……。
「い、今は昼食の時間だ。だからやるなら後で――」
「ダメ。わたしは今、柾木にしてあげたいの」
今日の雫は、ずいぶん手強い。このまま退いてもらう、という選択肢はなさそうだ。
で、でも、さすがに食堂でやるとか、そういうのは勘弁してほしいな。
恥ずかしいし、照れくさいし、そもそも、今の私は食事の途中だし……。
雫の気持ちはわかるけど、今はちょっと、どうかと思う。
「雫。今、俺は食事中って言ったんだろ」
「だから~。せっかくだし、こっちも召しあがればいいのでは?なんてね」
「あのさ、こっちが反応しづらいジョークはやめてくれないか」
「冗談じゃないしー」
ダメだ。これじゃ、こっちの方までダメになりそう。
「ねぇ。いいでしょ? 最近は橘さんに構ってばかりだったから、わたしのこと、恋しくなったんだよね?」
「えっと、なんだ、それは……」
「わたし、柾木の婚約者なんだから、このまま負けてばかりではいられないよ」
どうしよう。下に広がっている影の向こうで、雫の瞳が、キラッと光った気がした。
「柾木は、わたしの彼氏なんだもの」
雫は子供のように、ニヤリと笑ってみせる。
だけど、これから雫がしようと思っていることは、きっと、子供がやっていいことじゃなかった。
あの濃すぎる時間からようやく開放された私が、雫の部屋でうたた寝して目を覚ましてみたら、もう周りはすっかり暗くなっていた。
そのまま晩ごはんを食べて、しばらく経ってから。綾観家の二階にある小さなテラスで。
私は「ある人」と、いっしょに立ち並んで外を眺めていた。
「君とこうして話すのは、ずいぶん久しぶりだな」
「……そうですね、賢一さん」
今、私のとなりにいる人は、雫の一番歳上のお兄さんである、綾観賢一さんだ。
雫とはかなり歳が離れていて、今はちょうど30歳。だが、雫によると「固く見えて、実はものすごく甘えさせてくれる」素敵なお兄さんらしい。私にはあまり、確認する機会がなさそうだけど。
雫は兄3人、姉2人を持つ末っ子で、当たり前ではあるが、子供の頃からみんなに愛されて育ったらしい。私もここに来るたびに、いつもそれを肌でひしひしと感じていた。
だからこそ、「あの事件」は綾観家にとって、とても衝撃的だと言えたわけだが……。今は雫も立ち直ったため、家の雰囲気もだいぶよくなっているそうだ。
だから、私も綾観家にはいつもよくしてもらったり、こうして「別の姿」で話すことがあったりする。そこまでよくある出来事ではないが。
ともかく、こうして賢一さんと久しぶりにテラスで立ち並んだまま。
いったいどんなことを話せばいいのだろうか、私はそう悩んでしまった。
今の私は、賢一さんの呼びかけでこっちにいるわけだけど……。やっぱり久しぶりに出会ったから、何か話したいという考えなのかな。
一応、経験は重ねたつもりだが、やっぱり「男同士」として一対一で話すことは、まだ慣れていない。
「君には、あの日からいつも、迷惑ばかりかけてるな」
少し間をおいてから、賢一さんはこっちに視線をおかずに、そんなことを言ってきた。
「すまない。君にはとても重い荷物だとは思うが……それでも、雫が君のおかげでなんとか立ち上がってくれて、僕らは十分嬉しかった」
「いいえ、結構です。僕だって、その、好きでやっていることですし」
それは、紛れもない本当のことだった。
私にとって、雫はきっと、「ただの友だち」ではない。それ以上の何かだ。
とはいえ、いわゆる「恋人」的なものとは違って……自分もどう説明すればいいのか、まったくわからない。
でも、雫は私にとって、とても大切な存在だ。これだけは間違いない。
……とはいえ、雫から見ると、「恋人の対象として見てもらってない」だけで、モヤモヤされる可能性が高いけど。
「君にはまだまだ、迷惑をかけることになるんだろうな。君は元々女の子だと聞いているのに、こんなことばかりさせて、申し訳ない」
「それも大丈夫です。雫は僕にとっても、大切な存在なんですから」
「ならば、こっちも安心だが……」
そんなことを口にしながら、賢一さんは苦笑いを浮かべた。まあ、その気持ちはわかる。たぶん、雫のことを誰よりも大切に思っているのは、雫の家族だろうから。
「ともかく、高坂君」
私がそんなことを考えていると、急に賢一さんが、こっちを向く。
「これからも、雫のことをよろしく頼む」
そこまで言って、賢一さんは突然、こっちに頭を下げてきた。
――こ、ここまでするんだ。
なんとか平然なフリをしているものの、私は心の中で、ものすごく戸惑っていた。
賢一さんにとって、妹である雫はそこまで大切な存在なんだ。歳も離れているはずの私に、こうして頭を下げるほど。
以前からずっと、それはわかっていたつもりだけど……。急に、肩が重くなる。
私はこれからも、ちゃんと雫の「彼氏」にいられるのだろうか。
今の自分には、その、秀樹がいるというのに。
どちらも私の大切な人なんだけど、「恋人」になれるのはたった一人だけなんだ。
「はい、お任せください」
だが、私はそう言って賢一さんに頭を下げた。
今の私には、ただ、こうするしかないと思ったから。