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42.7月になった

この雫ルート(雫編)は、共通ルートである16話で、(秀樹ルートの後に)新しくできた選択肢を選び、「突然メッセージを送ってきた雫に構った」ことを前提としております。


 私と秀樹が恋人同士になってから、早くも一ヶ月。

 もう周りは、すっかり真夏になっていた。


「7月か……」

 久しぶりに廊下の自販機で冷たいコーラーをがぶ飲みしながら、私はそんなことをつぶやく。

 もうこんなに時間が過ぎていたんだ。ちょっと信じられない。

 まあ、秀樹に「別の姿」がバレて、付き合うことになって、秀樹も無事に「元の姿」に戻れて。あまりにもダイナミックな日々だったのだから、そう思えてしまうのも仕方ないけど。

 最近はだんだん暑くなってきて、クーラーなしではちょっと乗り切れない。

 ここは室内だからその辺マシだけど、もし外に出ることになったら、それ相応の覚悟が必要になるんだろう。


「おい、柾木」

 そんな時、今まで近くの椅子に座って、ずっとゲームをやっていた慎治が、こっちに話しかけてきた。

 そういや、自分もすっかり忘れていたけれど、今、この場には慎治もいたのだった。訓練が早く終わったとかなんとかで、久しぶりに慎治と廊下で出会い、こうしていっしょにいたことを忘れていた。

 まあ、慎治は携帯ゲーム機型の「ボード」に端末を写して、今はいつものようにゲームに夢中なんだけど。今だって、私のことは全然見てないわけだし。

 ちなみに、こんなふうに「端末」の画面を何らかの板に写すことは、まったく珍しいものじゃない。そもそも、操作できる物理的な媒体が全無な「端末」は、そのままでは不便に感じる場合もそこそこあった。たとえば、ゲームがそう。だいたいは純正のままでもなんとかなるものだが、やはり、ゲームならばボタンとか、そういう装置くらいは一つ欲しいものだ。

 だから、その代用として市版されているものが、「ボード」である。

 たとえば、いわゆるサードパーティーに当てはまるところが、ゲーム用とか、読書用とか、そんなふうに使える「ボード」を作る。ああいう「ボード」は近くにある紙とかでも代用できるが、やはり、しっかりと作り込まれたプラスチック製などの専用品が好まれる傾向にあった。

 そして、必要な人は、それを別口で買って、今の慎治のように使う。

 そこまでいらない人ならば紙とかでも十分代用できるし、こだわりたい人はこんなふうに自分にあった「ボード」を買えばいいだけだし。今になっては、そういうライフスタイルが普通になっていた。

 まあ、今重要なことはそれじゃないけれど……。

「なんだ」

「いや、綾観さんのことなんだが」

「雫のことか?」

 私が怪しいという口調で聞き返すと、慎治は相変わらずゲームに釘付けになったまま、そんなことを言ってくる。

「ああ、お前って、その、元の姿? っていうか、そういうのがあるわけだろ」

「ああ……そうだな」

 そういや、以前、私は慎治に、「元の姿」で出会ったのだった。最近は慎治もだいぶ落ちついた様子だったから、あまり気にせずにいたんだけど。

「なんだ、もう受け入れたのか」

「いや、こっちも時間が経つにつれてだんだん納得がいったというか……まあ、これすら現実逃避の一種かもしれんが……ともかく、もう否定するのは諦めた。疲れたし」

「よかったんじゃないか。こっちもそれなりには心配したからな」

「お前にだけは言われたくねぇ!!」

 そこで一度切れておいて、「ごほん」と息を整えた慎治は、話を続ける。

「い、いや、ともかく、お前の話通りなら、なんでお前と綾観さんは婚約とかやっちゃったんだ?」

 慎治の話を聞いて、私はしばらく、どう答えたらいいのか、悩んだ。

 もちろん、慎治の疑問はごもっともである。もし自分だったとしても、同じような疑問を抱いたのだろう。

 だが、それを自分の口にすることはできない。

 これは私だけではなく、雫の話でもあるから。

「ま、お前と綾観さんにも、それなりに事情があるんだろうな」

「ああ」

 私がそう言うと、慎治はまたゲームに釘付けになる。まあ、今の慎治だって、急に気がついたから、私にそういう質問を投げかけたのだろう。

「だけどな」

 私がそんなふうに思っていたら、慎治はまた画面から目を離して、こっちをじっと見つめた。

「お前、そろそろ覚悟を決めたほうがいいぞ? このままでは、あまりにも綾観さんが可愛そうじゃないか」

 ああ、そうだ。

 私はもう、雫との関係を「片付け」なくてはいけないんだ。


「雫、か」

 慎治と離れてから、私はじっとそんなことを考える。

 いや、こっちもわかっているつもりだった。秀樹とこうして付き合うことにしてからには、そろそろ雫との関係も、考え直す必要があることくらいは。

 だが、どうしたらいいのか、自分にもよくわからない。

 たぶん、これは雫の方も、よくわかってないのだろう。


 あの時――秀樹が「別の姿」でやってきて、ずっとその世話をしていた頃に。

 雫は私に、いきなりメッセージを送ってきたことがある。

『別に~』

 雫はそんなことを言っていたけれど、私としてはどうも心配だったのだから、結局「何かあったのか?」と、返事をしていたのだった。

『へ~。やっぱり柾木は、私のこと、気にかけてくれるんだ』

 雫はいつものような口調でそんなことを言ったが、その後、こっちがビビるくらい大量のうさぎさんスタンプを送ってきた。誰からどう見ても、大いに喜んでくれている。

 やっぱり、私が心配して正解だったみたい。雫っていつも素直に甘えてくれるんだけど、こんな時だけ、身を引いてしまう癖があるんだし。

 だから――私は、雫が心配だ。

 こんな時だけなんでもないフリをして、誤魔化そうとするんだから。


 でも、果たして私は、どうしたらいいのだろう。


 そんなことを思いながら執務室に入ると、隅っこでダンボールが置かれていることが目についた。

「あ、そういや……」

 昨年の誕生日を思い出して、私はものすごく複雑な気分になる。いや、「あの出来事」が嫌だってことは決してないけれど……ただ、ものすごく反応しづらい出来事だっただけだ。

 あれは、昨年の私の誕生日に、雫が「入っていた」ダンボールだ。

 これは例えでもないし、冗談でもない。あの日、私が仕事に疲れたままで事務室へ戻ると、部屋の真ん中に、あのダンボールがあった。その中では雫が、まるで「プレゼントはわたし!」とでも言いたげな顔で、目をキラキラさせながらこっちをじっと見つめていた。

 それも、バニーガールの服装で。

 本当に、どうやって反応すればいいのか、まったくわからなかった。

 雫の長い黒髪の上で、ぴこぴことしているウサギ耳が、そういう雰囲気をますます強くさせた。っていうか、たぶん、あのバニーガール服って、絶対にしっぽもついてある。

 時は冬。それも12月の二日。

 ……あの時の雫、寒くなかったのだろうか。

 ちなみに、雫の入っていたダンボールには、ものすごく大きな字で、こう書かれてあった。

 「拾ってけ!」

 その、何をどう拾えということだろう。

 あの時の私の顔は、きっと、ものすごく笑いものだったと思う。

『あれ? 柾木、拾わないの? こんなにかわいいうさぎさんがいるのに?』

『どうしてだ……』

 あの時の私は、無邪気な雫の表情に、ただただ頭を抱えるしかなかった。

 いや、雫の胸、すごく目立っていたけれど。

 ものすごく目立っていて、その、私はどこに視線を置けばいいのか、まったくわからなくなったけれど……。

 余談だが、あの時の雫の、すごく刺激的な姿は、その以来、しばらく私の夜のおかずとして活躍することになる。雫には絶対に秘密にしたい案件だが。


 ともかく、雫はそういう子だ。

 私が喜びそうなことならば、本当になんでもしようとする。もちろん、他の人にはこんなことやらない。「私だけ」のためならば、たぶんなんでもする、ということだ。あの時のバニーガールとか、たぶん雫には、行動に移すことに一瞬の迷いもなかったのだろう。

 それは、ある意味とても嬉しく思うけれど。

 だからこそ、私は雫のことが、心配になる。

 私は、いつまでも「雫の彼氏」にはいられないのだから。


 私は、思い出す。

 男のことが大嫌いだった私が、「男に慣れさせる」ために、「男として」雫の婚約者になったこと。

 雫が私に心を開き、ものすごく甘えん坊さんになったこと。

 はじめて、体を重ねたこと。

 そして、未だにその関係は続いている、ということを――

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