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39.巡り会えた、ふたり

 そうやって私たちがいっしょに時間を過ごしていた時、ようやく自分の「端末」に連絡が届いた。

 ついに、全ての準備が整ったらしい。

 ……どうしよう、私まで緊張してきた。

 でも、この瞬間がやってきたことは、ものすごく嬉しい。

「じゃ、俺はあそこに行って、『元の姿』に戻ればいいの?」

「ああ、もちろん自分もこのまま出発する。こっちだって『元の姿』に戻らないと困るからな」

「そりゃそうなんだよね」

 秀樹はくすくすと笑いながら、そんなことを口にする。

 従って、私たちはまたここ、秀樹の部屋で出会うことを約束し、それぞれ「機械」のいるところへ向かうことにした。

 私はもちろん、自分の家へ。秀樹の場合には、やっぱり検査などがあるらしいので「組織」へ。

 別に、永遠に別れるわけじゃない。

 それはわかっているつもりだけど、なぜか私は、なかなか秀樹の家から離れられなかった。


 先に秀樹の家に戻ってきたのは、私の方だった。

 まあ、それは予想していたことだ。そもそも、長い間機械のお世話になっていて、すっかりこんな状況に慣れている私が先に戻ることは当たり前である。今ごろ、秀樹は簡単な検査を受けていたり、機械のデータ調整とかの影響で待ちぼうけを食らっていたり、そんな感じなのだろう。

 どうしよう、ひどくドキドキする。

 今までも、私は秀樹の前で「元の姿」になったりしたけれど、お互いが「元の姿」であるのは、たしかに、「あの日」以来には今が初めてであるはずだ。

 いつかこんな時がやってくることは、すでに覚悟していたわけだけど……。

 私はただ、秀樹が再びここにやって来るのを、こうやってじっと待っていることしかできなかった。

 ……大丈夫かな。

 まあ、自分が何度も体で確かめていたわけだし、別に何事もないとは思っていたのだが。

 それでも、少し不安になった。

 今日はどうやら、ゆかりさんも部屋に籠もりっきりのようで、「元の姿」で顔を合わせずに済んだのは救いだったけれど……。

 どちらにせよ、秀樹だけは、間違いなくこの「元の姿」を目にするわけだから。

 やっぱり、怖くなったり、不安だったりするのは仕方ない。


 そんな感じで、私がしばらく、なんとか心臓がドキドキするのを抑えていた時だった。

「えっと、ただいま……柾木?」

 久しぶりに耳にする声に、私ははっと頭を上げる。

 そしたら、目の前には、すごく懐かしい、爽やかな姿があった。

 同年代の男よりは少し背が高くて、体もぎっしりしてて、それでいながら、どこか親しみやすい、スマートな顔立ち。

 「元の姿」の秀樹が、今、私の目の前に立っている。

「え、えっと、久しぶりだな。妙に照れちゃうっていうか、あはは」

「あ、あの、その……」

 どうしよう、いったい何を言えばいいんだろう。

 私は必死で悩んだが、頭の中がぐるぐるしすぎて、どうすればいいのか、ますますわからなくなっちゃった。

「あ、えっと、お……おかえり、秀樹」

「ありがとね、柾木」

 そんなことを口にしながら、秀樹はにこっと笑ってみせる。

 それがちょっとぐっと来てしまって、私はしばらく、上手く視線を合わせられなかった。



「……」

「……」

 それから、私たちは何も話せなかった。

 照れくさいっていうか、慣れてないっていうか、あまりにもぎこちない雰囲気なんだけど、やっぱり、今はどうやって秀樹と向き合えばいいのか、ちょっとわからない。

 だって、二人とも「元の姿」でいるのは、きっと今が初めてみたいなものだから。

 たった二週間前、私が秀樹に「もう関わらないで」なんてことを言った時。

 あの時の私は、はたして秀樹とこのような関係になることを、想像することができたのだろうか。

 今の私だって、この状況が夢か現か、ちょっとわからなかったりする。

 まあ、周りを漂うこの実感から見て、これは間違いなく現実だと思うけれど。


 いつも間にか、私はゆっくりと、秀樹に近づいていた。

 別に、焦りとかがあったわけではない。なぜか自然に、体がそう動いた。

 秀樹だって、こっちにだんだん近づいている。私たちの距離が縮まるには、そう長い時間がかからなかった。

 そして、あともうちょっとってところで、私たちはぴしっと足を止める。

 お互いのことを見つめながら、ゆっくり、ゆっくりと……。


「……っ」

 私たちは、お互いのことをそっと抱きしめた。

 まるで、今まで埋められなかった距離を一気に埋めるように、やさしく、それでいながら深く、お互いを抱きしめ合う。

 あたたかい。その匂いが、とても心地よい。

 私がそんなことを思っていると、ふと、上の方から、少し低い声が聞こえてきた。

「こんな情けない俺でも、本当にいいのか?」

「……うん」

 私はそのまま、頷いてみせる。秀樹の方からはあまり見えないと思うが、きっと、わかってくれるはずだ。

 それくらい、今の私たちは通じ合っていると、そう信じてみたい。

 いや、別に口にはしないとか、そういうわけじゃないけど。


「あのさ」

 その時、秀樹がゆっくりと、口を開く。

「俺はな、とても怖かったんだ。正直に言うと、今でもすごく怖い。あの時、いきなり両親がいなくなったって話を聞いた時には、本当に苦しくて、我慢ができなくて……」

 秀樹が、泣いている。

 「元の姿」である秀樹が、今、私を抱きしめたまま、泣きじゃくっていた。

「こんな姿、柾木にはずっと見せたくなかったんだ。言ったんだろ? 自分は、柾木にかっこいい姿だけ見せたいって」

 私は今まで、ここまで辛そうな秀樹の姿を、一度も見たことがない。こんなに苦しんでいる秀樹の姿なんか、想像すらしてなかった。

 でも、私はこの、弱々しくて、とても心細そうにしている秀樹の力になりたい。

「わかるよ、その気持ち。ずっと大変だったんだろうね。よく我慢してきたよ。よしよし」

「うぅ……」

 秀樹はそのまま跪いて、私の胸に頭を埋める。私はその髪の毛を、ゆっくりと撫でてやった。少しでも秀樹が、これで安心できたらいいな、と思いつつ。

「あ、ありがと、お母さん……」

「ちょ、ちょっと待って。お母さん?!」

 そんなことを思っていたというのに、いきなり秀樹がそんなぶっ飛んだことを口ずさんだせいで、私は思わず驚いてしまう。

 お、おおお、お母さんって。な、なんでこうなっちゃったんだろう……。

「お、お母さんは、その、だ、ダメじゃない」

「……ダメ?」

「べ、別に、あなたがそれでいいなら、今だけは構わないけど……」

 私が諦めた口調でそう言ったら、秀樹はまるで子供でもあるように、こっちの胸にスリスリしてくる。どうやら、本当に子供のように甘えてくるつもりのようだ。

 だ、だから、それはものすごく恥ずかしいってば。

 とは言え、自分からいいと言ってしまったことだし、別に、そこまで嫌なわけじゃない。

 ――しょうがないな、秀樹は。

 そんなことを思いながら、私はまた、大きな子供のような秀樹の頭を、ゆっくりと抱きしめる。

 だって、自分もこうしていると、なんだか落ちつきそうな気がしたのだから。


 そうやって、いつまでもこの時間が続きそうに思えた時に。

 いきなり、秀樹が私から離れて、立ち上がった。

「ど、どうしたの?」

 秀樹は、まだ涙でぐちゃぐちゃになっている顔で、ものすごく困った表情をしてから、こう言った。

「あのさ、俺、と、トイレに行きたいんだけど……」

 どうしよう。私、少し吹きそうになった。

 だって、照れくさそうに視線を逸して、そんなこと言ってくる秀樹がかわいくって……こ、これも好きになった方が負け、ってことなのかな。

「別にいいんじゃない、いってらっしゃい」

「う、うん」

 秀樹が、少し情けない顔でありながらも、こっちから背中を見せてトイレの方へと歩いていくのを眺めながら、私はこんなことをつき加える。

「そうだ、あまり驚かないでね。たぶん、血も出ちゃうから」

「え、え――?!」

 もう、秀樹ってば。その悲鳴、たぶん一階のゆかりさんにまで丸聞こえだと思う。

 でも、なんかいいな、こういうの。

 たしかにちょっと頼りない姿ではあるけど、やっぱりこんな秀樹が、私は好きかもしれない。


「や、やばかった……」

 しばらくしてから、秀樹はガクブルしながらも、無事に自分の部屋まで戻ってきた。まあ、結果は聞くまでもない、と思う。

「ほ、本当に出るんだな。どうなってるんだ、今の俺の体……」

「まま、別にそういうのはいいんじゃない。気にしないでよ」

「え、そ、そういう問題かな……?」

 私の態度があまりにも平然としているからか、秀樹は若干戸惑っているようだ。その気持ちはたしかに、自分にもよくわかる。でも、今重要なことは、そっちじゃなかった。

 ……そう、せっかく元に戻ったのだから、二人でつながっていたい。

 いつの間にか、私と秀樹は、ベッドで二人、並んで座っていた。

「やっぱり、やるよね? 柾木」

「う、うん、私も、そうしたいと思う」

 そんなことを言いながらも、私は迷ってしまう。おかしいな。自分で決めたことだったはずなのに、なかなか最初の一歩が踏み出せないんだ。

「どうしたの?」

 となりからやさしく聞いてくる秀樹に、私は少し間をおいてから、そう聞いてみる。自分から考えても、硬すぎる声で。

「あの、秀樹は初めて私とやった時に、い、痛かった?」

「あ、以前のことか?」

 秀樹は少し考え込んでから、やがてこう語った。

「いやー、その時にはまんざらでもなかったな。男なら絶対にできない経験だし。痛くて死ぬかと思った。もし柾木のためじゃなかったら逃げてたかも」

「そ、そんなに?」

「うん、実は次の日まで響いたりして……えっ、まさか?!」

 その時になってからようやく気づいてようで、秀樹は少し驚いてみせる。だが、やがてやわらかい顔になって、こっちを見ながら微笑んだ。

「なんだ、そんなことだったんだ」

「わ、私、今は初めてなんだから、その、怖くて」

「まあ、そうなるよね。でも、柾木がやらないとするなら、俺だけ損したようでちょっと悔しいかも? なんてな」

 秀樹はそう、さらりと流すような口調で言ってくれた。な、なんか照れるな。秀樹が自分のこと、ここまで考えてくれたのはものすごく嬉しいし。

 だったら、こっちも勇気を出さないと。

「別に、痛そうって言っただけでしょ? やらないとか、そういうつもり、まったくないんだから」

「へぇ、そうなんだ」

「信じてないんじゃない。やっぱり」

「ごめんごめん、嘘。絶対にやさしくするよ」

 そう言いながら、秀樹はまた、私をそっと抱きしめる。今度は泣き顔でもなんでもない。ただ、秀樹はこっちを見ながら、やさしく笑いかけていた。

「待たせて、ごめんね」

「大丈夫だって」

 そうして、私たちはようやく、「初めて」の時を迎える。

 ま、まあ、「別の姿」では二回くらいやったから、これで初めてなのかは謎だけど……。

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