37.あなたがいない、非日常
「あ、柾木ちゃん。おはよ」
次の日の朝。
私は予定どおり、久しぶりに学園にやってきた。学園に来るのは、いつも久しぶりなんだけど。
自分って、いつも学園に通えるわけじゃないから、どうしてもこの教室では浮いているという自覚がある。時々、それがとても、とても辛いって思えることもあった。
わかっている。毎日学園に来るのは、自分にできないってことくらい。
でも、なぜだろう。今日はいつもよりも、この教室が見知らぬところのように感じられた。
「あ、しーちゃん、おはよう。いつもありがとね」
「ううん。そういや橘くん、あの日からしばらく、学園に来てないよ」
「……あ、そうなんだ」
「どうやら、なんか事情があるみたいだけど……みんな寂しがってるんだよね」
しーちゃんからそういう話を聞かされ、私はどう答えればいいのか、まったくわからなかった。
さすがに、しーちゃんに「それは全部、私のせいだ」なんて、言えるわけがない。
秀樹が今、どこにいるのかとか、なんで学園に来ていないとか、そんなこと、話せるわけがなかった。
ましてや、私たちが付き合い始めたとは、とても言えない。
……私、またしーちゃんに隠し事をしてしまうんだ。
どれだけ「学園でしか会えない」友だちだとは言え、こんなこと、隠したくはないのに。
そして、学園でならば、いつものように始まる授業。
私はぼんやりと、それに身を任せていた。
いつもなら、せっかく学園に来れたわけだし、できる限り集中するけど、今はどうも、そんな気分になれない。
今、教室にぽつんと置かれている「空き席」に、どうしても視線が行ってしまう。
――おかしいな。とても心が虚しい。
だって、ここにいれば、いつでも秀樹の姿が見えたと言うのに。
今日は、どこにも見当たらないんだ。
今日、こんな感じで授業を受けつつ、休み時間を過ごしながら気づいたことだけど……。
秀樹って、本当にいろんなクラスメイトから頼られてるな、と思った。
だって、もう秀樹が学園に来なくなって半月は軽く過ぎているというのに、みんな未だに、「あいつ、いつ来るかな」なんてことを話している。
横から盗み聞きした話によると、秀樹は女の子はもちろんとして、同性である男からも頼まれる存在だそうだ。もちろん、女の子から人気なのは、その爽やかな外見と、軽いところがありながらも根は真面目な性格の影響なんだが……。同性にも頼れる男って、私からするとなかなかいないように思える。
みんなの話によると、秀樹はいつも人当たりがよくて、他の人の気持ちが察せる。それに成績もいいし、運動神経も優れた方だ。
みんなだけじゃない。秀樹はどうやら、先生たちにもすごく評価されているようだった。先生たちは授業や職員室などで、秀樹が大人びていて、授業にも熱心だったと口を揃えている。それは私から思い返してみても、すごく頷ける話だった。
……私、そんな男の子と、今、付き合ってるんだ。
それを実感できた時には、私なんかでいいんだろうか、と怖かったのも事実だが、やっぱりすごく誇らしかったし、嬉しくなった。まあ、クラスメイトはみんな想像すらできないんだろうけど。あのトゲトゲしかった高坂さんと秀樹が付き合ってるだなんて、みたいな感じで。
でも、学園ではいつも明るく振る舞っていて、マナーもよくて、誠実な性格である秀樹も、実はただの同年代の男の子だと言うことを、私はよく知っている。
好きな人にはかっこよく見えたくて、甘えん坊で、強がりで、見栄っ張りな、ただの男の子。
たぶん、秀樹は学園で、ずっとそんなことを隠し続けてきたのだろう。やっぱり男としては、あまりかっこ悪いところ、他の人には見せたくなかったはずだから。
――秀樹って、今頃何をしているのかな。
まるで迷子になった猫のように、私は心細い気持ちで授業を受けながら。
たぶん、今頃は「組織」の中にいるはずの、秀樹の顔を思い浮かべた。
そして、ようやく授業が終わってから、私が校門をくぐろうとしていた時に。
「じー……」
「……えっ?」
私はしばらく、自分の目を疑った。
だって、あっちに佇んでいる見慣れた車の向こうがわから、誰かがこっちをじっと見つめている。
っていうか、あれ、ひょっとして私がいつもお世話になっている「組織」の自動運転車なのでは?
つまり、あっちに乗っているのは……秀樹か。
――どうしよう、話しかけてみようか。
そんなことも思ってみたけど、やっぱり止めた方がいいな、と私は思った。だって、秀樹は今、色んなリスクを承知した上でこっちまでやってきている。いちおう、今は「別の姿」なんだけど、ひょっとしたら、誰かが秀樹のことに気づく可能性だってある。
だから、今、秀樹は我慢しているはずだ。
今すぐそこから出てきて、いつも通っていた学園を見渡すことを。
「はあ……まったく」
でも、これで少しでも、秀樹の気分がよくなったらそれでいい。
学園ところか、自分までじっくりと見られていることに薄々気づきながら、私はその場を去った。
「はあ……」
その日の夜、家から少し歩けば出てくる、高いところの散歩道。
ここは高いからか、すぐとなりの公園や川、住宅街が見渡せる。今は夜だけど、それでもこの風景は、とても心地よいものだ。
私は「別の姿」で、久しぶりにあそこを自転車で回っていた。この姿だと、夜にもあるくらい気軽に外に出られて助かる。まあ、元の姿に戻る前に、ちょっと外に出てみようか、と思い立っただけだけど。
外は風が涼しく、周りも静かで過ごしやすかった。最近ますます暑くなっているわけだけど、今はかなり気が休まるのを感じる。
何より、この時間に住宅街のとなりを自転車で回っていると、なぜかとても気持ちが落ちつく。まるで自分だけの世界にいるような心地よさ。「組織」では、いつも色んな人たちといっしょに過ごしているわけだし、このような時間は貴重だ。
そんなことを思いながら、私が自転車を漕いでいた時だった。
「あ、あれ?」
思わず、私は「別の姿」で、そんなことを口にしてしまう。
だって、あそこの人、誰からどう見ても秀樹だ。そういや、秀樹の家はこの近くにあったっけ。「別の姿」の秀樹は、家の前で膝を抱えながら、座り込んでいる。
……どうしたんだろう。
見つけた以上、見過ごすことはできなかった。
「どうしたんだ、秀樹」
ゆっくりと住宅街へと降りてきた私は、秀樹の近くまで行って、そう話しかける。秀樹はビクッとしたが、そのうち、ここにいる人が誰なのか、わかってくれたようだった。
「……柾木じゃん。そっちこそ、なんで今のような時間にここにいるのさ」
その声は、いつもと比べると、かなり落ち込んだモノである。
たぶん、秀樹は今、外を自由に出歩きたいのだろう。だが、やっぱり今のような時代とはいえ、女の子が一人、夜に出歩くのは危険だ。だから、秀樹はそれができず、一人でいじけていた。私は今の状況を、そのように受け取る。
だって、秀樹、服だけ見ると出る気満々だし。
ならば、いつもと違って、今のように拗ねた反応を返すのも納得だ。
「……何か」
だからか、気がつけば、私は秀樹にこう話しかけていた。
「何か、力になれそうなことはないか」
秀樹はしばらく、私を見上げる。そして、私の瞳をじっと見つめてから、こう言った。
「じゃ、しばらくここにいてほしい」
「わかった」
私はそのまま、秀樹のとなりに腰を下ろす。
まあ、つまり座り込んだってわけだけど……。別に、今はあまり行き交う人もいないし、恥ずかしいことなんて何もない。
こんなふうに周りを見ると、まるで元の姿に戻ったようだ。
となりにいる、秀樹の呼吸が、ものすごく近く感じられた。
私がぼんやりと、そんなことを思っていた時だった。
「肩」
「……あ?」
「肩、貸して」
その話を聞いて、私はすぐ、秀樹に肩を差し出す。つまり、ちょっと近づいたという話なんだけど……は、恥ずかしい。ここまで遅くなったけれど、未だに人たちはこの道を過ぎ去るというのに。
でも、秀樹の頼みだし、断ることなんて、したくなかった。
秀樹は、私の肩にもたれかかったまま、自分の腕をギュッと掴んで、目をつぶっていた。
その顔は、どこか拗ねているようで、どうしてもあの雨の日を連想させる。
でも、今はあの時と違って、ずいぶん力が抜けている気がした。
つまり、これは弱まった、ということかな。
心配になってきた私は、秀樹の髪の毛をゆっくり、やさしく撫でてあげた。
「む……」
だけど秀樹は、私の手に気づくと、どこか悔しそうな顔をする。
「柾木の前では、かっこいい姿だけ見せたいのになぁ」
そのいじけっぷりは、たしかにかわいいところもあったけれど、今の私は、それをぐっと我慢して、秀樹のことを再びやさしく撫でてやった。
わかってるつもりだから。
今の秀樹の気持ち、想像するくらいなら、できるから。
「あのね、柾木」
そんな感じで、夜が深まっていき、私もそろそろ眠くなっていた時、ふととなりからそんな声が聞こえてきた。
「今日は、ここで寝ていかない? どうしても寂しくてさ」
「……そこまでつらいのか」
私がそう聞くと、秀樹は静かに頷く。
自分も、このまま去るのはちょっと気にかかっていたところだ。いっしょに寝ることで、秀樹の気持ちが少しだけでも和らげばいいんだけど。
「わかった」
そうして私は、再び秀樹の家にお邪魔する。
どうやら、ゆかりさんはもう眠りについているようで、秀樹は「ここだよ、ここ」とささやきながら、私を二階に案内した。
「そ、そういや、俺の服は……」
「あ、それは大丈夫。じゃじゃーん!」
私がここで寝ていくことによって、元気が出てきたのだろうか。秀樹はいつものようなテンションで、タンスから自分の服を出してきて、こっちに渡してくる。
「おお、似合う!」
「あ、ああ、今の俺って、秀樹とサイズもほぼ同じだろうし……」
なぜか照れくさくなってしまって、私は視線をそっと逸した。べ、別に、「元の姿」でもなんでもないのに、なんでここまで恥ずかしんだろう。自分でもよくわからない。
っていうか、以前、えっちなことやる時に、秀樹の制服も借りたわけだし、そんなの、わかり切ったものだった。そういや、あの時には秀樹が私の黒ロリ……いや、この話はどうでもいい。
「そこまで感心するところか? その、男の着替えなんか、面白くも何もないだろ」
「うん? 平気だよ。柾木だしね」
「そ、そうか」
なんか、そんな話を聞くとよけいに照れくさくなってしまう。
まあ、嬉しいと言えばたしかにそうだけど、その、やっぱりくすぐったいっていうか、なんていうか……。
「ようやく柾木と、うちでいっしょに寝られるんだ。えへへ」
「そこまで嬉しいのか、ま、まったく」
私はできる限り、あまり動揺しないように気をつけながら、秀樹のいるベッドに入った。まあ、えっちなことをしてからは、こうしていっしょに寝るようになったけれど……。やっぱり、まだ慣れそうにないし、すごく恥ずかしい。
「でも、人生ってわかんないな。まさか俺が、柾木だとは言え男といっしょに寝るとか、思わなかったよ」
「別に、友だちとはあったんだろ」
「ま、そだけどね。でも、柾木は友だちじゃないし。恋人だし」
「へ、変なこと言うな。早く寝ろ」
秀樹の話がどこかくすぐったくて、私はすぐに背を向ける。だって、恋人とか、秀樹はいつも、軽く言いすぎるんだから。
「えーこっち見てくれないの? 拗ねるぞ」
「ま、まったく、困ったやつだな」
結局、秀樹に負けたような形で、私は再び、そっちに向かって寝転んだ。
「そうそう、これだよ、これ」
秀樹は満足したようで、にこっと笑ってみせる。そしては、急に私の体を、強く抱きしめた。
「な、ななな、なんだ?!」
「だって、こうしないと不安なんだよ、俺」
秀樹はぼそっと、そんなことを口にする。そこまで言われると、さすがに受け入れざるを得なくなった。
「えっとさ、ちょっと弱音、吐いてもいい?」
「大丈夫だ。今の俺って、そのためにいるんだろ?」
「えへへ、うれしいな」
秀樹はちょっと、眠そうな声でつぶやく。
「俺な、柾木の前では、かっこいい姿だけ見せたいんだよ。でも、今はそれができないから、ちょっと悔しい」
「なのに、こんなふうに甘えるのか」
「だって、甘えたいんだし」
私から目を逸らすように、秀樹は少しだけうつむく。
「俺、やっぱり元の姿の方がいいな」
まるで消えていくような声で、秀樹はそんなことを口にした。
「だって、俺がありたいかっこいい姿って、やっぱり元の方だから。あ、女の子がかっこよくないとか、そういうわけじゃないからね? だたし、自分がありたいかっこいい姿が、元の方であるだけで」
「わかってる」
そんなこと、初めからずっとわかっていた。
秀樹が、実は弱くて、強いふりをしていたり、私のこと、頼っているのも、ずっと前からわかっていた。
「今日、久しぶりに学校にも行ってみたんだけど……ちょっと辛かったんだよね。やっぱり自分がここにいるって、わかってもらえないのは心が痛む」
「そうだったんだろうな」
「それに、今も夜に出かけてみたかったんだけど、『別の姿』じゃできなかったしね。いつもできていたことができないだなんて、すごく辛かったなぁ」
「……」
「自分が自分でいられないの、やっぱり苦しいよ。嫌なことばかりじゃないけど、今日はそんなことばかり思ってた。誰にも『ありたい自分』で見てもらえないし。もちろん、柾木は違うけどさ」
「ああ」
そこまで言って、秀樹は私の胸板に顔を埋めてくる。私はぎゅっと、そんな秀樹を抱きしめてやった。
「でも、やっぱり今はこんなふうに甘えたいんだよ。すごく自分勝手な考えだけどさ。だから、今夜はずっとこのままでいてね、柾木」
「……ああ」
正直に言うと、今、私はすごくドキドキしていた。
だって、今の私は、秀樹に抱かれている。まあ、言葉通り「抱かれている」だけなんだけど……それなのに、私の心臓は今、えらく激しかった。
これ、秀樹にバレてないよね。私、無事に眠れるのかな。
「くーくー」
こっちはそんなことを思っているというのに、秀樹ったら、すぐ眠りについてしまい、ちょっと悔しくなってしまう。
まあ、スヤスヤと眠ってる顔もかわいいから、別にいいけど。
……私といっしょにいると、そこまで落ちつくのだろうか。
自分ではよくわからないと思いつつ、私も眠りに落ちていった。
次の日。
「ま、まぶしい……」
朝の光に照らされて、私は自然が目を覚ます。ちらっととなりを見ると、やっぱり秀樹は、そんなことお構いなしにスヤスヤと眠っていた。
……まったく、昨日のことはもう大丈夫なのかな。
私が布団の中で、ぼんやりとそんなことを思っていた時だった。
――ピッ、ピッ。
「なんだ……」
そんなことを思いながら、私は指で「端末」を操作する。とは言え、別にわざわざ腕を上げているわけではない。端末は、持ち主の指の動きを把握しているため、今のように、敷ふとんの上で指を動かすだけでも十分認識してくれる。
さて、何だろう。今のような時間に……。
「……これって」
端末には、「今すぐ、出社してほしい」という連絡が入ってあった。たぶん、電話ではなくメッセージなのだから、そこまで急な用事ではない。だが、今のような早朝に入ってきた連絡なのだから、そこそこ重要な案件ではあるのだろう。
……起きないといけない。
仕方なく、私はしぶしぶ、体を起こそうとした。
「ううん……何?」
しまった。今、秀樹は私のことを抱きしめたままである。このままじゃ、秀樹を起こしてしまうかもしれない。
それでも、今は起きるしかないんだけど……。
私がどうにか体を動かそうとすると、秀樹が寝ぼけた顔で、こっちをぼんやりと見上げた。
「なんだ? もう起きるの?」
「ああ、『組織』から連絡が入ってな。急な用事ではないと思うが」
「そーなんだ……」
まだ眠いようで、秀樹は大きくあくびをしている。これを見ると、秀樹はしばらく、このまま寝るつもりのようだった。
「でも、ちょっと早くない?」
「まあ、会社なんだから仕方ないだろ」
「うーん、そんなもんかな……」
「そんなもんだ」
そこまで聞くと、秀樹は目をつぶったまま、頬を膨らませた。たぶん、まだ目は覚めてないというのに、よくもそこまで反応ができるもんだ。ちょっと感心してしまう。
「なんかおかしい。俺の友だちの中に、会社に行かなきゃいけないとか、そんなこと言うやつ、いないのに」
「仕方ない。俺はそうなんだから」
「じゃ、自分はこのまま寝るから、いってらっしゃーい」
「はいはい」
まだ布団に潜る秀樹を撫でてあげながら、私はようやく、体を起こした。
……なんか、今の会話って、新婚さんのようだったな。
じ、自分ったら、いったいなんてことを思ってるのだろう。
ちょっと恥ずかしくなって、必死にその考えを否定しながら、私は服を着替えて、秀樹の家を出た。