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34.「姉妹」の午後

 お姉ちゃんと語り合った次の日。

 いつもの通りに出社して、仕事をこなしていた私は、昼ごはんを食べてから事務室でくつろいでいた時に、驚くべきことを耳にする。

「だ、誰だって?」

 だって、驚くしかない。

 今、私に会うために、なんとお姉ちゃんが、「別の姿」でやってきた、という話なのだから。


「やあ、久しぶりだな。柾木」

「あ、ああ、兄貴……久しぶり」

 入り口までやってきた私は、久しぶりに見た「兄貴」の姿を見て、思わず固まってしまう。

 お姉ちゃん、「別の姿」になったの、いつぶりなんだろう。

 現場担当を引退してからは、たぶん、家でも滅多に「あの姿」になることはなかったというのに。

 おかげで、私はどういう態度を取ればいいのかわからず、ちょっと戸惑っていた。

「どうした、柾木。久しぶりに僕の『別の姿』を見たせいで、驚いたか?」

「い、いや、それもそうだが、いったいどうして――」

 どうして、わざわざここまで私と会いに来てくれたのだろう。

 昨日、私とお姉ちゃん、語り合ったばかりなのに。

 い、いや、別に嫌いじゃないけど、わけがわからないっていうか、なんていうか……。

 幸い、あまり用事もないので、別にダメってわけじゃないけれど。

「まあ、ちょっと話がしたくてな。今日、何か急用でもあるか?」

「いや、ない」

 でも、私は今、「別の姿」のお姉ちゃんと話がしたい。

 別に何を話そうか決めてるわけでもないけど、それでも、私はそう思った。


「おーい、柾木っ!!」

 その時、遠くから私を呼ぶ声が聞こえる。それは他でもなく、秀樹のものだった。

「よかった、ここにいたんだ……あれ、この人は?」

 私のところに近づいてきた秀樹は、お姉ちゃんを見ながらそう聞いてくる。それは当然だ。今まで秀樹は、「別の姿」のお姉ちゃんを一度も見たことがないのだから。

 でも、私が教えちゃっていいのかな。

 そんなことを思っていたら、お姉ちゃんの方から行動を起こしてきた。

「いや、久しぶりだね。橘くん。いや、そろそろ秀樹くん、と呼んでもいいかな?」

「え、えっ? ひょ、ひょっとして、あなたは……」

 秀樹が目を丸くしていると、お姉ちゃんは静かに頷く。それを見た秀樹は、しばらくぼうっとしてから、急にお姉ちゃんに向けてお辞儀してきた。

「ひ、久しぶりです、美咲さん! すみません、僕が気づかないばかりで……」

「いやいや、大丈夫だよ。そもそも、秀樹くんって僕のこと、知らなかったわけだし」

「で、でも、ものすごく失礼を……」

 秀樹が驚くのはおかしくないけれど、やはり、ここらへんで私が切り上げた方が良い気がする。

「そういや、今まで秀樹は「別の姿」の兄貴、見たことないだろ? まあ、こんな感じだ」

「ずいぶんざっくりとした紹介だな、おい」

「こ、これからはきちんと覚えておきますから!」

 秀樹が慌てながらそんなことを言うと、お姉ちゃんがやれやれ、と笑ってみせる。やっぱり、「別の姿」のお姉ちゃんは、いつもと雰囲気がちょっと違うからわかりずらいんだろうな。

 だって、今のお姉ちゃん、誰からどう見ても、「元の姿」とはかなり雰囲気が違う。

 そもそも、普段のお姉ちゃんは知っている人なら、まさか、いくら「別の姿」だとは言え、少しひげが生えているとは思ってないのだろう。

 「別の姿」のお姉ちゃんって、なんて言えばいいんだろう、ちょっと歳が入っているような感じだ。ひげのこともそうだし、「男」としては若干長い、少々目立つくらいのクセ毛などがそれを引き立てている。それに髪の毛の色も、ちょっと茶髪になってるし。わかりやすく言うと、若いのにかなり渋い感じだ。

 とは言え、いつもの「優しい」印象もちゃんと残っているから、それはちょっと凄いと思う。まあ、初めての人なら、絶対にお姉ちゃんのこと、わからないと思うけど。

「あ、そういや、呼び方が違う」

 私たちをぼんやりと見つめていた秀樹が、急にそんなことを言ってきた。まあ、それもそう言えばそうだ。

「まあ、この姿で『お姉ちゃん』とか、ちょっとアレだろ? 見た目に対して、呼び方も変えるわけだ」

「へー複雑だな」

 まあ、これは仕方ない。

 私たち姉妹は、なんだかんだ言って「普通」ではないのだから。


 私たちがそんな掛け合いをしていた時だった。

「あ、美咲さん! お久しぶりです!」

 今度は遠くから、そんな声と共に慎治がやってくる。そういや、今は現場担当だって休憩時間だったはずだ。

「ああ、慎治か。元気にしてたのか?」

「はい、もちろん! こっちはみんな元気ですよ」

 お姉ちゃんはかつてここで現場担当をやっていたため、慎治ところか、後輩たちとも知り合いである。まあ、お姉ちゃんって、みんなに頼られていたから当たり前だ。

「それはそれとして、やっぱり柾木の兄なんですよね。こう、落ちついた雰囲気っていうか」

「そうか。それはありがたい言葉だな」

 以前にも言ったとおり、慎治は未だに、お姉ちゃんのことを私の「兄」だと思っている。まあ、どれくらい真実を言ったって、たぶん慎治は信じてくれない。なんか滑稽だけど。

 そもそも、私と違ってお姉ちゃんは自分のこと、あまり口にしなかったし……まあ、それはもういいか。

「そういや、最近どう過ごしてます? あまり話も聞こえてこなかったから、気になりまして」

「まあ、ぼちぼちやってるよ。ここのことも一段落されたしね」

「僕だけじゃなくて、みんな会いたがってますよ。この機会に、顔でも見せていったらどうです?」

「こっちもそうしたい気持ちは山々だが……今日は柾木と会うために来たんだからな。それはまた、後にしよう」

 そんなことをさりげなく口にするお姉ちゃんだったが、私はその口調に、微妙なニュアンスが含まれたことに気づく。お姉ちゃんだって、現場時代にはいろいろあったから、それもおかしいわけじゃない。

「あ、そういや橘さんもここにいたんだね。最近はどう? ここで過ごすことにも慣れたかな?」

「いや、俺、もう柾木と付き合ってるから。そんなの間に合ってるから」

「えー?!」

 ああ、また慎治がやらかしたのか。

 そういや、今まで私、秀樹と付き合い始めたこと、慎治には話してなかったな……。


「今日もいい天気だな」

「ああ、そうだな、兄貴」

 そうして、私たち姉妹は「組織」を出て、近くの街を歩いていた。私もあまり、お姉ちゃんと「別の姿」同士で出かけることはなかったから、今、ちょっと不思議な気持ちである。慣れないっていうか、なんていうか。

 そう、あえていうと、照れくさい。

 お姉ちゃん、私に何の話があるんだろう。

「で、なんでわざわざここまでやってきたんだ?」

「ああ、今、柾木と話がしたかったから。それだけだ」

 いつものような口調で、お姉ちゃんはそう話す。その顔はとてもさっぱりしていて、あまり私に用事があるようには思えなかった。

「それ、そこまで大事な話なのか?」

「いや、なんとなくだな。僕たち、あまりこの姿で話たこともなかっただろ?」

「まあ、そうだが」

 お姉ちゃんの口調はいつも通りだったが、なぜか、私はまだ、お姉ちゃんが昨夜のことを覚えているような気がした。つまり、私が心配だったから、わざわざ来てくれたのだろうか、と思えたのだ。

 それに、最近は秀樹のこともあったし。お姉ちゃんなら、今、私に余裕があるんだから、いっしょに話がしたい、と思ったかもしれない。

「まあ、いつものことだ。気軽く行こうじゃないか」

 ちなみに、お姉ちゃんは「別の姿」の時、いつもそれにふさわしい言葉遣いを心がけている。だからいつもとは雰囲気が違うと思われがちだが、中身はいつものお姉ちゃんだ。ただ、姿が変わっているから、印象も違うように見えるだけである。

 でも、さすがお姉ちゃんだな。

 いつも「この口調は慣れない」とか言ってるのに、こうして見てると、誰から見ても立派な大人の男性だ。

 お姉ちゃん、誠実な性格なのだから、こういう振る舞いも得意なのかな。

「そう言えば僕たち、こう見ると結構印象が変わったな」

「そうか? 俺としては、あまり変わったとは思えないが」

 急にお姉ちゃんからそんなことを言われて、私はちょっと驚く。私ならともかくとして、お姉ちゃんはやっぱり、あまり変わってはいない気がするからだ。だって、お姉ちゃんは「最初」の別の姿の時から、ずっとこんな感じだったし。

「いや、柾木はけっこう変わったんだろう。昔は幼い少年みたいだったのに、もうずいぶん青年っぽくなったしね」

「そ、そうか」

 まあ、それは自覚がある。

 私って、ひょっとしたら、初めてから男として生まれたとしても、こうやって育ったんだろうな……ってよく思うし。

 だ、ダメだ。このような話題は、やっぱりちょっと恥ずかしい。

 元の姿では童顔で、別の姿では老顔とか、いったいなんだろう、これって。


 こんなふうにお姉ちゃんと肩を並べて歩いていると、まるで兄弟みたいだな、と思ってしまう。

 まあ、今はある意味、そうなんだけど……。

 とは言え、こっちは実は違うってわかっているのだから、正直なところ、違和感が凄い。

 ――やはり、お姉ちゃんとは姉妹でいたいな。

 今の姿では、いつものようにお姉ちゃんに抱きつくことすら難しい。

「そういや、最近の兄貴、あまり賭けとかやらないな」

「あ、そうか?」

 こう見えても、お姉ちゃんは賭けなどに強い。なぜかはわからないが、現場時代の頃にも、よく賭けとかに誘われて、みんなを驚かせていた。まあ、お姉ちゃんが進んで、ああいう賭けに参加することはなかったけれど。

「それは運が良かっただけだ。自分ではめったにやらない」

「まあ、そうだろうが」

 そもそも、お姉ちゃんはあまり注目に慣れていない。ポーカーとか、ブラックジャックとか、誘われたらやってはいるけれど、普段は「あまりそういうのに慣れるのもよくないからね」と距離をおいている。

「ところで、これはただ気になっただけだが」

「あ?」

 いきなりお姉ちゃんが改まった態度を取ってきたため、私はたじろぐ。な、なんだろう。これは「話したかったこと」なんだろうか?

「勘違いなら笑い流してくれ。ひょっとして柾木は、初めてお前が『別の姿』になった時、僕が喜んだと、そう思ってるのか?」

「そ、それは……」

 どうしよう、ずっと密かに思っていたことを、お姉ちゃんにバレちゃった。

 い、いや。別に確信とか、そういう話じゃないけど。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけそういうことを思っただけだ。

 やっぱり、あの時、お姉ちゃんが私に初めて「別の姿」を見せた時。

 私はお姉ちゃんに、ひどいことをしたんだから。

 お姉ちゃん、やっぱり私のこと、なんでもわかってるな。

 とは言え、今の私は、あの頃より少しは成長できてるけれど。

「……気づいていたのか?」

「ああ……とは言っても、ひょっとして、くらいだけどね」

 そこまで話してから、お姉ちゃんは苦笑いした。たぶん、ここから始まる話のせいなんだろう。

「まあ、それがなかったとしたら嘘になるな。自分だって普通の人間だし、そんなことくらいは思うわけで」

「……そうだろうな」

 私も、それくらいは予想がついていた。

 だって、私にとってはすごい存在なんだけど、お姉ちゃんはただの人間に過ぎないのだから。

「あの頃は本当に、複雑な気持ちだった。僕はやっぱり、柾木の味方でいたかったからね。だが、そういう気持ちがあったのも事実だった」

「ああ」

 やっぱり、お姉ちゃんだな。

 お姉ちゃんは確かに普通の人間だけど、やっぱり、私に対して優しい。


「とは言え、そんな姿でいるのも大変だったんだろ? 兄貴って、はっきり言って男に向いてないからな」

 私がそう話を降ってみると、お姉ちゃんはまだ苦笑いを浮かべた。

「ま、そうだな。ここまで来るだけでも、ずいぶん大変だった。今になっては慣れたつもりだが、今日も久しぶりだったからか、なかなか慣れないな」

「それとしては、ずいぶん堂に入ったように見えるが」

「僕は地道に努力ばかり重ねてゆくスタイルなのだから、柾木から見るとそうかもな」

 そう言いながら、お姉ちゃんは笑う。確かに、それはいかにもお姉ちゃんらしかった。

「じゃ、俺がだんだん『別の姿』に慣れてゆくのを見ながら、何か思ったりしたのか?」

「あ、それか」

 それは、ずっと昔から、密かに気にし続けたことだった。

 お姉ちゃんは、私がまったく「男」に慣れてなかったあの頃、いろいろこっちの世話をしてくれたんだから。

「まあ……なんて言えばいいのか。本当に、なんとも言えない気分だったな。お前がだんだん変わっていく姿を見るのが、耐えられない時もあった」

 少し考え込んでから、やがてお姉ちゃんは、そう言い出す。

「僕は誰よりも、柾木のことをよくわかってるつもりだったから、お前が徐々にそうなっていくのが複雑だったんだ。それに自分が喜んでるんじゃないか、と思うたびに、とても辛い気持ちになった」

「そうか」

「どうだ、怒ったか?」

「いや、まったく」

 お姉ちゃんの気持ちは、十分わかる。

 自分はあの頃、お姉ちゃんに確かにひどい態度を取ったわけだから。


 それから、私たちはしばらく、何も話さなかった。

 何も話さなかったって、伝わることはちゃんとある。私たちの仲なんだから、無理やり話題を絞り出す必用はない。

 だって、話さなくても、ちゃんと通じるんだから。

 それは、お互いがどんな姿でいたって、ずっと変わらないことだった。

 とは言え、やっぱり、私たち姉妹には、また伝え切れてない思いがある。

 だから、私たちは沈黙の中で、ずっとその「思い」をどう言葉にしたらいいのか、悩んでいた。

 少なくとも、ここにいる私は、そんな状況である。


 そんな時、いきなりお姉ちゃんが、こんなことを言ってきた。

「柾木は、頑張ってるな」

「あ?」

 あまりにも急すぎたため、私はどう答えばいいのかわからず、迷う。い、いきなりなんだろ。この流れは?

「ま、まあ、そうかも、な」

 私はなんとかごまかそうとするが、お姉ちゃんの顔は、思いの外真剣だった。

「こんなこと、自分がいうのもなんだが、そこまで頑張らなくてもいいんだろ? 今で十分だよ。柾木は、そこまで頑張らなくてもいい」

「そ、そうか」

 お姉ちゃんの話に、私はもっと悩む。お姉ちゃん、私をそんな目で見ていたんだ。くすぐったいっていうか、なんていうか……。

 でも、まあ、自分にも自覚がないわけではない。

 自分って、なんだかんだ言って、結構損する性格だとは思うから。

 特に、この「別の姿」になってから。

 まあ、自分の性格、そこまで嫌じゃないんだけど……。

「ずっとこんな話を、柾木と交わしたいと思っていた。だが、どうやら僕はこんなことに戸惑ってしまう性格だからか、今までずっと、それが話し出せなかったんだ」

「……」

 お姉ちゃんは、話を続ける。

「だが、最近の柾木を見ると、これは全部自分のせいだな、と思うようになった。もし僕の方が先に勇気を出していたら、柾木は今のように頑張らなくても、変に苦しめなくて済むと思ったからな」

「……そうか」

 私は、何も言い返せない。

 お姉ちゃんって、そこまで私のことを思ってくれてたんだ。

 それが照れくさくて、申し訳なくて、そして、すごく嬉しい。

 ひょっとして、お姉ちゃんが今、わざわざ「別の姿」になっているのも。

 やっぱり、私のことを考えてくれたから、なのかな。

「兄貴も、その……結構、損する性格なんだな」

 私は照れてる顔を背けながら、そんなことを口にする。

 こんな話も、やっぱり、今、この姿じゃないとできない気がした。

 だって、元の姿同士では、姉妹の仲では、いつも優しいことしか話せない。別に遠慮していたわけじゃないけど、いつの間にか、そうなってしまっていた。

 まあ、時折は私の方が意地を張ったりもするけど、それもお姉ちゃんが、そんな私を優しく受け止めてくれるから。

 だけど、今みたいな「別の姿」なら、少しだけ、ほんの少しだけはこんな態度が取れる。

 未だにそれには慣れてないけど、でも、今はこの瞬間が心地よかった。

「あはは、そうかもな」

 お姉ちゃんも、そう言いながら笑ってみせる。

 その笑い方は、どんな姿になっても、ずっと変わらなかった。


「その、これも以前から気になっていたことだが」

 だから、今の私は、ようやくこれを口にする勇気が持てる。

 ずっと、ずっと昔から、これをお姉ちゃんに聞いてみたかったんだ。

「なんだ?」

「その、あの頃のことを、ずっと根に持ってたりしてなかったのか?」

 どうしよう、ものすごく緊張する。

 お姉ちゃんにとっては笑える質問かもしれないが、私はずっと、それが辛かった。

 今までずっと、お姉ちゃんはそれを覚えているのだろうか。

 私、やっぱりしっかりと謝ってないし。

 未だに辛かったり、しないのだろうか――

「それはもう、すでに話してしまった気がするが」

 お姉ちゃんは、私を見ながら、そう話す。

「あの頃のことを根に持って、『別の姿』で柾木と接していた自覚はある。そんな感情がまったくなかった、と言ったら嘘だろう」

「……」

「だが、どんな時だって、僕は高坂柾木という人が大好きだった。それだけは揺るがなかったよ。だから、柾木もそのことはあまり気にしないでくれないか」

「そうか……」

 お姉ちゃんの正直な答えに、私はようやくほっとする。

 なぜか、その答えを聞いたら、とても落ちつけた。

 だって、私は今まで、お姉ちゃんの答えがずっと欲しかったんだ。

 むしろ、こんなふうに「根に持ってたこともある」と言ってくれて、とても嬉しかった。

「ありがとう。兄貴。俺は、その答えがずっと聞きたかった」

「そうか。どういてしまして」

 私の話に、お姉ちゃんは少し豪快に笑ってみせる。いつもと印象は違うといえ、その笑い方は、紛れもなくお姉ちゃんのものだった。

「俺だって、高坂美咲という人間が大好きだ」

「それはとても、ありがたい話だな。あはは」

 お姉ちゃんはそう言いながら、私の両肩を強く抱きしめる。なんと言えばいいだろう、それはお姉ちゃんとしては、ものすごく「男らしい」仕草だった。

 きっと、今の私たちにはこんなことしかできないから、このやり方を選んだのだろう。ここは大通りなのだから、見ている人も多いし。

 でも、お姉ちゃんの愛は、私にしっかりと伝わってきた。

 私たちは、ちょっと変わってはいるけれど、すごく素敵な姉妹なんだ。

 だから、大丈夫。

 お姉ちゃんがいるなら、なんだってできる。私はそう信じた。

「だがな、兄貴」

 お姉ちゃんから開放されてから、ふと、あることを思い浮かべた私は、さっそく聞いてみることにする。

「今度はなんだ?」

「さすがに、俺のこと、一度は殴ってみたい、と思ったことはないだろ?」

「で、それがどうなんだ?」

「せっかくだから、今度、一度殴ってみないか? そりゃスッキリするかもしれないだろ」

「はは、ははは、お前もまったく……」

 私のつまらない話を聞いて、お姉ちゃんは大笑いした。横を過ぎ去る人たちが、お姉ちゃんのことをちらっと見る。

「そんなことを自分で言うな。頼むから」

「だが、今じゃないとできないかもしれないぞ?」

「まあ、それもそうか……」

 お姉ちゃんが苦笑いした、その瞬間。

 ――タッ!

 急に、私の背中を何か、固いものが強く叩くのを感じる。それが誰なのかは、もはや確認するまでもなかった。

「さあ、これでいいだろう?」

「兄貴って、何気に力があるな」

「それもそうだろう。今は『別の姿』なんだからな」

 お姉ちゃんはまた、愉快そうに笑ってみせる。

 たぶん、こんなに殴られて心があたたまるのは、世の中でも私一人しかいないと思うけれど、まあ、それでいい。

 私と、お姉ちゃんは今。

 非常に満足しているわけなんだから。


 そうやってお姉ちゃんと別れてから、「組織」に向かってお仕事を終われせた私は。

 いつものように、家へと向かっていた。

 最近は余裕のある時も多いから、これを「いつもの」と言えて、本当に嬉しいな。

 とは言え、今日は午後のこともあったわけだから、私はちょっと照れてしまう。

 お姉ちゃん、あれからどうしてるんだろ。

「ただいま、お姉ちゃん――」

 そんなことを思いながら、家に戻って、「元の姿」で居間に向かうと。

 私は、思わず驚いてしまう。

「ああ、帰ってきたんだな」

 だって、居間にいるお姉ちゃんは。

 まだ、昼のような「別の姿」だったからだ。


「なんだ、柾木ちゃん。驚いたか?」

 私がぼうっとしていることに気づいたか、お姉ちゃんはこっちに向かって笑ってみせる。なぜだろう、この瞬間が、たまらなく懐かしい。

「まだ、戻ってなかったの?」

「なぜだろうね。少し余韻でも楽しみたかったのだろうか。今日だけは、夜までこうしていたくなったんだ」

 お姉ちゃんは、私を見ながらそんなことを口にする。その姿が、今日はとても、とても遠く、そして近く思えた。

 お姉ちゃんは窓際に立って、その向こう側に浮かんだ月をじっと見つめている。月の光に照らされたまま、その風景に身を任せていた。

 なぜか、その姿に近づくことができなくて。

 私はこの場所で、そんなお姉ちゃんのことをじっと眺めている。

 きっと、お姉ちゃんだって、あの「別の姿」で、忘れられない色んなことがあったのだろう。

 たぶん、私が知っているお姉ちゃんは、まだまだ序の口に過ぎない。

 どれだけ姉妹だとしても、いちばん近くにいたとしても。

 私は、ここまでお姉ちゃんのことがわかってないんだ。


 でも、私は勇気を出して、お姉ちゃんに一歩づつ近づく。

 だって、「今」のような関係だからこそ、私たちには、やれることがあるのだから。

 私は、未だに遠くに目を向けているお姉ちゃんに近づいて――

 そのまま、ゆっくりと抱きしめてあげた。

「……柾木ちゃん?」

 お姉ちゃんは、驚いたような目で私を見る。

 でも、たぶん、今、いちばんドキドキしているのは、ここにいる私だ。

 だって、こんな行動、自分にしてはかなり大胆なのだから。

 今じゃなければ、午後のあのことがなかったのだったら。

 私は、決して「ここまでは」やれなかったのだろう。


 お姉ちゃんの、匂いを感じる。

 いつもと違う、「男の匂い」とか、大きくて固い体とか、そういう、変わったところを感じる。

 でも、ここにいるのは、お姉ちゃんだ。

 いつも私に優しくて、ものすごく頼りになる、私のお姉ちゃんなんだ。

「あの時にも、今までも、いつも心配かけてごめんね」

 だから、今の私は、少しだけ勇気が出せる。

「お姉ちゃんには頼ってばかりで、私、何もやってあげなかった気がするの。お姉ちゃんはいつも私のことを考えてくれるのに、卑怯だよね、私」

 わかっている。今のお姉ちゃんは、「お兄ちゃん」だということを。

「別の姿」なのだから、ちゃんとそう呼んだ方が良い、ということも。

 でも、今度だけは許してほしい。

 今度だけは、私にこう呼ばせてほしい。

 私の、この「本物」の声で。

「柾木ちゃんって、未だにずっと、そんなこと考えていたのか」

 だって、私はずっと、辛かったのだから。

 大好きなお姉ちゃんのことを、自分から傷つけてしまったこと。

 今日こそ、私はちゃんと謝りたいと、そう思っている。

 今じゃないと、ダメなんだ。

「その話は、もう終わったと思ったけどな」

 お姉ちゃんは、しゃがんだまま、私の頭を優しく撫でてくれた。

 はるか昔、お姉ちゃんがいつも、私にそうしてくれたように。

「僕は、もうずいぶん嬉しいよ。その気持ちて十分だ。本当にね」

 今の私は、恥ずかしくて俯いているんだから、お姉ちゃんの表情がよく見えない。だが、なぜか私は、お姉ちゃんだって自分と同じ気持ちだと、そう思うことができた。

 だって、今のお姉ちゃんの声は、とても優しかったから。

 私が好きな、お姉ちゃんの少し低くて、穏やかな「別の姿」の声が、そこにいた。

 どんな姿でも、どんな顔でも、どんな声だとしても――お姉ちゃんは、きっと変わらない。そのままだ。

「ところで、柾木ちゃんがここまで子供っぽいとは思わなかったな。昼の凛々しい柾木はどこに行ったのかな?」

 私がずっとお姉ちゃんを抱きしめたままでいると、お姉ちゃんがいたずらっぽい口調で、そんなことを言う。お、お姉ちゃん、それを口にするのは、ちょっと反則だよ。

「……お兄ちゃんの、いじわる」

 私はようやくお姉ちゃんから離れて、そっぽを向いてみせる。

 だって、今、すごく恥ずかしいんだから。これって、あまり自分らしくないとは思うが、それでも、今はこんな態度しか取れない。

 私って、こう見えても子供の頃から大人しいって話ばかり聞いてきたし、なにより、お姉ちゃんにこんな素直じゃない態度、見せたことなんてなかったから。

 まあ、子供の頃から気が強かったわけだし、大人しいけど「大人びている」って話はまったく聞いてなかったけれど……。

 でも、今だけは、この雰囲気を大切にしたい。

 だって、やっとお姉ちゃんと心を通じ会えたことが、今はとても嬉しいから。

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