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32.姉妹の夜

「それで、私、秀樹と付き合うことになって」

「あら、そう?」

 その日の夜。久しぶりにお姉ちゃんと、二人きりになれた日に。

 私はようやく、それを打ち明かすことができた。

 実は、お姉ちゃんにこんなこと、話すだけでくすぐったいけど……。

 それでも、やっぱり、こんな「悩み」を聞いてくれそうな人は、お姉ちゃんしかいない。

 ――私と同じ、「普通の人」ではなくなったことのある、お姉ちゃんしか。


「それでね、私」

 そんなことを思いながら、私は、話を続ける。

「とても嬉しいし、幸せなんだけど、その、私でいいのだろうか、って」

「どうして?」

「だって、秀樹は普通に生きていけたはずなのに、私のせいで、普通じゃなくなっちゃったから――」

「え、橘くん、柾木ちゃんにそんなこと言ってたの?」

「いや、別に、そんなわけじゃないけど、どうしてもね」

 そう、私は未だに、悩んでいた。

 別に秀樹は、私を責めたりしていない。むしろ私のことを、困るくらい深く愛してくれていた。

 ま、まあ。まだ付き合って一ヶ月も過ぎてないし、それはちょっと置いといて……。

「私、秀樹とえっちなこと、やっちゃったから。その、別の姿で」

「あら、そうなの」

「そ、それに、昨日はその、私が好きな黒ロリを秀樹が着たまま、その、え、えっちなことを……本能のままに……」

 ああ、また恥ずかしくなってきた。昨日のことが、再び蘇る。

 秀樹が私のことを好きなのは、本当だ。それは、今までの出来事で、よくわかっている。

 だけど、だからこそ、今の私は、いつか上手く行かなかったらどうしよう、と思っていた。

「そうね。柾木ちゃんって、あの服が大好きなんだから」

「こんなこと、絶対に普通じゃないよね。だから、いつか嫌われたらと思うと、怖くて」

 そう、私はその可能性を、何よりも恐れていた。

 たぶん、これからも私と付き合うと、そんな、恥ずかしいことばかりされると思う。

 だから、私みたいな変な女の子、いや、人間と付き合って、果たして大丈夫なんだろうか、と心配してしまうんだ。

 ――初めてだから。

 誰かを、こんなに好きになったことは。


「つまり、柾木ちゃんは不安なのね」

 私の話を聞くと、お姉ちゃんは、そう言いながら微笑んでくれた。

「わかるわ、その気持ち。わたしだって、そうだったもの」

「お、お姉ちゃんも?」

「うん。わたしだって、普通じゃなくなったからね」

 まるで遠いところを見つめているような口調で、お姉ちゃんはそう語る。

 そうだ。お姉ちゃんだって、そういう悩みはあるはずなんだ。

「恥ずかしい時だって、もちろんあった。それは柾木ちゃんも同じだよね?」

「う、うん。私だってそうだよ」

 慌てながらも、私はそう頷いた。

 そんなこと、言い出すと本当にキリがない。

 たとえば、自分を慰めることとか。

 今ではずいぶん慣れたものの、初めての頃は、どれくらい大変だったか――


 それは、だいたい二年くらい前のことだった。

 あの時、私は本能のままで、「胸が大きい」自分好みの女の子たちが出てくる写真とか、とにかくそういうのを見ながら、自分を慰めていた。

 ものすごく、後ろめたい気持ちだった。だが、どうしてもそれを止められない。

 ――何やっているんだろ、私。

 あの頃の私は、子供の頃の自分との矛盾、「女の子」であるはずの自分が、「別の姿」でこんなことをやっているという悩み、そして「自分って、いったいなんだろう」という混乱を共に抱いていた。

 だが、結局、それをやめることはできなかった。

 今になってはずいぶんマシになったが、未だに私は、それに悩んでしまうことがある。

「あら、柾木ちゃんもそうだったのね」

 勇気を出して、あの頃のことを話してみたら、思いの外、お姉ちゃんはそう頷いていた。

「え、お姉ちゃんも?」

「もちろん、私だって、実はすごく怖かったの」

 いつものように優しく微笑みながらも、お姉ちゃんはそんなことを淡々と口にした。

 ちょっと驚く。お姉ちゃんのことだから、どれだけ「別の姿」だとは言え、そういうのとは無縁なんだろうと思いこんでいた。

 でも、そんなわけがない。

 お姉ちゃんだって、れっきとした「女の子」なのだから。


 お姉ちゃんの話によると、自分も初めて「ああいう衝動」に侵された時には、怖くて怖くて、どうすればいいのかかなり悩んだらしい。

 だって、お姉ちゃんのことだ。お淑やかで、そういうことに積極的な性格でもない。そもそも、お姉ちゃんはあの時まで、「元の姿」でそういうのをやることもあまりなかったようだ。

 だが、さすがに「別の姿」になってからは、自分の内なる衝動に勝てられなくて、結局心の向くままに「励む」しかなくなったってことだ。

「だから、柾木ちゃんのその気持ち。わたしにはよくわかるな」

「そ、そうなんだ。お姉ちゃんも……」

 あまりにもいつものような態度のお姉ちゃんに、私は戸惑う。お姉ちゃんだって、あの頃はずいぶん辛かったはずだ。なのに、今のお姉ちゃんは、とても平穏に見える。

「今でも辛い時は時折あるの。わりと乗り越えた気はするけどね。でも、あの頃には本当に大変だった。わたしだって、柾木ちゃんのように何度も悩んだんだから」

 私が戸惑っていることに気づいたか、お姉ちゃんはくすくすと笑いながらそんなことを語る。そうだ。お姉ちゃんだって、最初はまんざらでもなかったはずなんだ。


 でも、やっぱり驚いてしまう。

 私は今まで、お姉ちゃんはものすごく強くて、そんなことにはまったく悩まないだろう、と思い続けてきた。私にとって、お姉ちゃんはいつもそうだったから。

 だが、それは違う。

 お姉ちゃんだって、「普通」の女の子だから、それで悩むのは当たり前なんだ。

「もちろん、それ以外にも辛い時はあったの」

 お姉ちゃんは、話を続ける。

 そもそも、私と違ってたいへん女の子らしく育てられたお姉ちゃんにとって、「別の姿」での生活は決して容易くなかった。初めて「男たるもの」を経験した時、同僚たちと付き合う時、いつもお姉ちゃんはものすごく悩んでいたらしい。

 それに、今の私とは違って、あの頃のお姉ちゃんには、相談できそうな仲間すらいなかった。

 もちろん、お姉ちゃんのことだから、あの頃の「何も知らなかった」私には、そんなことを打ち明けることすらできなかったらしい。だからお姉ちゃんは、いつものように「平然な」フリをした。変にそんなことが知られて、私が苦しむことは見たくなかったから、と言いながら、お姉ちゃんは穏やかに微笑む。

 でも、私が知らないところで、お姉ちゃんは確かに困っていたのだ。

「それでも、わたしは今、ここにいる」

 そんなことはあったけれど、お姉ちゃんはどうにか、今まで生きてこられた。

 私が知らなかっただけで、お姉ちゃんは今まで苦しい夜をいくつも過ごしてきたし、ずっと手探りで「男」をやり続けていた。それでも、今、お姉ちゃんは確かに「ここ」にいる。

「でも、あの頃には、柾木ちゃんが本当にうらやましかったな」

 昔を振り返るような口調で、お姉ちゃんはそんなことを言う。今なら、私にだって、お姉ちゃんの気持ちが、ちゃんとわかった。

 ……だからなんだろうか。そんなことを聞いてしまったら、お姉ちゃんを見るのが少々辛くなる。

 だって、今までの私は、お姉ちゃんにずいぶんひどいことをしてしまったのだから。

 「あの日」に、お姉ちゃんの「別の姿」を見て、私がとっていた態度。

 今でも私は、忘れることができない。

「ごめんね、お姉ちゃん」

 そんなことを思ったら、私は思わず、お姉ちゃんに謝っていた。こういうこと、くすぐったいからあまり口にはしなかったけれど、やっぱり、今は自分から話したい。

「いいの。わたしだって、柾木ちゃんの気持ちは十分わかるから」

 そんな私の頭を、お姉ちゃんは優しく撫でる。

 なぜだろう、今、私はとても、救われた気持ちになった。

 限りなく穏やかな気持ちが、今、私を包み込んでいる。


「でも、わたしだって、柾木ちゃんのおかげで助かってるの」

 そんな私をじっと見ながら、お姉ちゃんはそう語る。

 私がこうやって「同じ立場」になる前にも、お姉ちゃんは、自分の心をわかってくれた私に感謝していたそうだ。私としては、やっぱり自分は頼りにならないかな、と思ってしまうけど。

 でも、今の私たちは、お互いに頼り合っているって、私は信じてみたい。

 こんな、他の人には決して言えない恥ずかしいことだって、私たち姉妹は、全部話し合うことができた。

「あの、お姉ちゃん、私、もっと話してもいい?」

 そんなことを思いながら、私は今まで悩んでいたことを、もっとお姉ちゃんに打ち明かす。秀樹に思わず興奮してしまって恥ずかしいとか、雫とも最近大変だとか、そういう、他人に聞かれると恥ずかしいことを口にする。

 でも、お姉ちゃんは笑わなかった。

 お姉ちゃんは、いつものように微笑みながら、「わたしも大変だったの」と、私を落ちつかせてくれた。

 ああ、これは自分だけじゃなかったんだ。

 私はまだ、お姉ちゃんのおかげで勇気が持てる。

「自分はひとりじゃない」ことに、何度も安心してしまう。

 きっと、これはお姉ちゃんも同じだ。

 お姉ちゃんだって、こんなふうに、私に救われたりするんだ。


「ちなみに、わたしはね」

「うん?」

 そんなことを思っていたら、いきなりお姉ちゃんが、私に話しかけてくる。

 お姉ちゃんの場合、「別の姿」で自分を慰める時、ああいうのは写真を見るだけでも恥ずかしかったから、必死にイメージとか、そういうのを思い浮かべたそうだ。最初にはもちろん上手く行かなくて、何度も試行錯誤しながら、なんで自分がここまで熱心になってるんだろう、と辛くなったらしい。

 それを聞いた私は、不覚ながら、いかにもお姉ちゃんらしいな、と思ってしまい、ちょっとふふっと思ってしまった。

 お姉ちゃん、ああいうのには初心なのに、よくもあそこまでがんばれたな。

 私も、お姉ちゃんがそこまで恥ずかしいことを明かしてくれて、よりお姉ちゃんが近くなったような気分になった。

 いつか、お姉ちゃんとまた、こんなふうに話せるかな。

 もしそうなら、今度は今までよりもっと、心の底まで明かしたいと、私はそう思った。


 この頃の私は、そんなことばかり考えていて。

 まさか、その次の日に「あんなこと」が起きるとは、考えもしていなかった。

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