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14.あの子の事情

 次の日の朝。

 秀樹がここで過ごすのも二日目になり、ようやく余裕が出てきた私は、「いつものように」ジャージに着替えてから外へ出た。本来なら毎日の日課である、ジョギングをするためだった。

 朝の空気は、胸いっぱい吸い込むだけで爽やかな気持ちになる。

 「組織」の建物の前にある、小さなグラウンドを軽く一周して、息を整えていたら、遠くから聞き慣れた声が聞こえた。

「おーい、柾木!」

 もちろん、その声の主は秀樹である。どうやって私がここにいることに気づいたのだろう。別にこの日課を離しておいたわけでもないのに。

「どうした?」

「別にー運動してるんだ、と思ってね」

「何かと思えば……」

 これって、そこまで面白く見えるのだろうか。秀樹のことは未だによくわからないし、私としては別にどうでもいいけど……。

 ともかく、私は再びグラウンドを走り始める。

 秀樹は相変わらず、入り口の前に立ったまま、私をじっと見つめていた。


「おつかれ~」

 ようやくジョギングが終わって、私が入り口へ戻ると、いつの間にか、秀樹はスポーツドリンクを手にしていた。

「ほら、これ飲んでよ」

「ありがとう。気が利くな」

「えへへ、どういたしまして」

 秀樹は照れくさそうに、こっちを見ながら笑ってみせる。

 なぜかこっちも照れくさくなって、そっと視線を逸した。

「すごかったなーものすごく早くて。俺よりも運動神経、良いんじゃない?」

「まあ、そうかもな」

「へーあっさり認めるんだ」

「別に、子供の頃から運動とかはよくやってきたし」

 そんなことを言ってから、私は秀樹の差し入れであるスポーツドリンクを口にする。涼しい味が喉にまっすぐ流れてきて、とても気持ちがいい。体を動かしてから飲むスポーツドリンクは、普段の何倍も美味しく感じられる。

 そう、「別の姿」になって間もない時に、体を動かしまくってから飲んだスポーツドリンクも、このような味だった。

 あの時には、「元の姿」よりも遥かに運動神経がよくなってしまったことが、ただただ悔しかったっけ。

 もちろん、秀樹にも話したように、昔から体を動かすのは得意だったし、走ることだって誰にも負けないつもりだったけど、この姿で出せたパワーは、元の方と比べられないレベルだった。

 たしかに、いつもよりも早く、力強く走れたことは嬉しい。嬉しいんだが、やっぱりそれが、どうしても悔しく思えてしまう。

 だって、あの頃の自分は、元の姿じゃなくて、自分がいちばん嫌いな「男」の姿だったのだから。

 素直にそれを受け入れるのが、とてもつらかった。

 まあ、今になっては、これはこれでいい、と割り切れるようになったと思うけど……。


 気がつけば、秀樹がさっきのように、こっちの顔をジロジロと見ていた。

「今度はなんだ?」

「いや、スポーツドリンク飲んでる時の柾木、なんだかカッコよくてさ」

「……別に、褒めてもなにも出ないからな」

「ほんとだよ?」

 曇り一つもない顔で、秀樹は私をじっと見る。

 なぜかまた照れくさくなって、私は再び視線を逸した。


 それから昼になった頃。

「おっ、ここにいたんだ!」

 一階にある、いつもの社員食堂で昼食をとっていたら、突然秀樹が現れた。そういや、余裕のある時にはここで食事をしている、と言っておいたっけ。

「まさか探してたのか」

「まあ、どこで昼ごはん食べるのかなーと気になってね。いっしょに食べてもいい?」

「そりゃ構わないが……」

 そうして、私たちはここで、いっしょに昼ごはんを食べることになった。

 だいたい一人で食べたり、慎治と食べたりするくらいだから、他の人、それも部外者である秀樹といっしょにご飯を食べるのは、少し新鮮な気分である。

 まるで、学園にいるみたい。学食とか、そういう感じ。ここだって、学食と同じ一階にあるわけだし。あまり学食に行ったことはないけど。

 そんなことを思いながら食事をしていると、また秀樹にジロジロと見られていた。

「野郎が食べてることを見てて、そこまで楽しいのか?」

「だって、柾木だし」

「いや、それはその……」

 恥ずかしい。

 人がご飯食べてる姿なんて、いったいどこが面白いんだろう。

「それに、柾木ってめっちゃ食べてるし」

「当たり前だろ。この姿なのだから」

 なんか照れくさくなって、私はそっと視線を逸らす。

「でも、うらやましいな~俺って、今そこまで食べられそうにないよ。悔しい……」

「あ、そうだろうな」

「不思議だよね。そういや、俺の端末、朝に返ってきたんだけど、今でも普通に操作できてビビった」

「そっちの調査も終わっていたのか」

「うん。まあ、俺だって昨日の午後は調査漬けだったけどね」

 当たり前だけど、今のような世の中で、端末を持たずに歩いている人間はそうそういない。もちろん、秀樹だって、自分の端末くらいはいつも持っているはずだ。

 端末の画面に「形」はないけど、実はナノロボットのような、目に見えないくらい小さな「本体」があって、その端末の持ち主の周りに浮いている。つまり、その本体が持ち主をずっと追いかけているからこそ、いつ、どこにいても画面を呼び出し、端末を操作することができるわけだ。

 秀樹の端末も、もちろん持ち主の近くで見つかったんだけど、今のように誰でも端末を持つ時代に、「反軍」がそれに気づいてないわけがない。当たり前だが、こっちで調べた時には、すでに関連した記録などが消されていたようだ。秀樹が今朝に返してもらったというのは、その調査が終わった端末のことなのだろう。

「そそ。俺って、今はこんな姿だろ? なのによくも操作を受け入れてくれてるなーと思って」

「あれは個人の生体情報に反応しているわけだからな。俺や秀樹のように、姿が変わったくらいなら問題ないはずだ。現に俺がこうやって使いこなしているわけだし」

「へーけっこうハイテクなんだな」

「今の時代で生きてるやつが何を言う」

 私が呆れた口調で、そんなことを言った時だった。

「あ、柾木……えっと、その子は誰?」

 それは雫だった。どうやら、雫も私のことを探していたらしい。

「こいつは橘秀樹と言って、ただの知り合いだ。ちょっとこっちが面倒を見ることになって」

「へーそうなんだ」

 雫はそう言いながら、秀樹の方へと視線を向ける。そういや、秀樹と雫は、今が初対面だった。

「えっと、綾観雫です。よろしくね」

 二人はよそよそしく、そう挨拶を交わす。なぜか今の雫は、いつもと違って、ずいぶん緊張しているように思えた。

 いや、本当にそうなのかもしれない。

 一応雫は、信じていないふりをしているけど、「私のこと」についてちゃんと知っているわけなのだから。


 そうして雫が去ってから。

「あの人が綾観さんなんだ。えっと……たしか、誰だっけ?」

 やはりと言うべきか、秀樹はよくわからないという顔でそう聞いてきた。さっきまでの反応を見ると、それも当たり前である。

 でも、いったい私と雫の関係をどう話せばいいだろう。

 雫について話すためには、どうしても、それを頭の中で考える必要が出てくる。

「俺の……婚約者だ」

「えっ?!」

「気持ちはわかる。こっちにもいろいろ事情があるからな」

 そう言いながら、私は視線を逸らす。

 雫との出会いは、まだ何年か前くらいだと言うのに、まるではるか昔の出来事のように思えた。


 今はこっちにぞっこんな雫だが、初めてからここまで馴れ馴れしかったわけではない。むしろその逆だった。

 初めて出会ったあの時、「ある理由」で男のことを怖がっていた雫は、一応「男」であった私すら警戒していた。

 あの頃には、私もどうやって雫に接すればいいのかわからなかったため、お互い遠慮しがちというか、ものすごくよそよそしい関係だった。

 二人の間にあったのは、なかなか縮まらない、確かな距離。

 実は私も、雫とこんなに近い関係になれるとは、あの時、考えもしていなかった。


 初めて雫と出会った瞬間は、今でもよく覚えている。

 あれは四年くらい前のことで、まだ私が、男のことを嫌っていた頃だった。


 雫は、小学校に通っていた五年くらい前の頃に、ある男に襲われた。

 私が聞かれたのは、ある平日の昼ごろに、事情があって学校に行かなかった雫が、近くの遊び場で遊んでいたということだ。

 平日だったからか、あまり人気もなかったらようで、雫は一人でブランコに乗っていたそうだ。その時、一人の男性がやってきて、雫に道を訪ねたらしい。

 そこは、昼にもどこか暗い感じがする、いわゆる路地裏。

 だが、子供の頃から、誰かをあまり疑わなかった素直な性格の雫は、その時だって、男の言っていたことをそのまま信じた。


 その時、端末はまだ、市販され始めたばかりだった。

 確かに、IT企業の娘であり、優れた端末を手に入れるのも難しくなかった雫だが、あの頃の端末の性能は、あまり優れていたとは言いがたい。当時によく使われていたのは、今になっては端末に打って変わったスマホという機器だった。雫は子供の頃から「新しい」ものが好きだったため、スマホのことは家に置いといて、代わりに端末をいつも触っていたらしい。

 そこで、さっきの性能の話に戻る。今は使用者の位置を追いかけるのが当たり前の端末だが、当時にはそうでもなかった。そもそも、当時の「本体」は、さすがにスマホよりは小さかったが、「手に持てるくらい」の大きさだった。今の本体は手ところか、目に見えないレベルだから、どれくらい技術が進歩してきたのかがよくわかるんだろう。


 それに、あの頃の端末は、今のものに比べて性能も低かった。それところか、バッテリーの減りも早かったらしい。五年くらい前には、すでにワイアレスモバイルバッテリーが一般化されていたのだが、さすがに、あの時の端末はスマホより燃費がかなり悪かったようだ。

 あの日、雫はうっかり、そのモバイルバッテリーを家に置いてきたらしい。あの時には端末が市販化されたばかりだということもあって、外でもあれこれ弄っていたせいか、雫の端末の電池は完全に切れていた。

 ――どうしよう、バッテリーなくなっちゃった。予備のものも置いてきちゃったし……。

 あの男は、初めからそれを聞いて、雫に近づいた。


 今ならば、絶対にありえない話だと言い切れるのだろう。

 今は自分がどこにいても、携帯機器の電池切れなどの事態が起こらないように、国家でワイアレス充電ネットワークを構築し、それをほぼタダで提供しているからだ。端末の普及が進むにつれて、端末のような携帯機器がなければまともな生活すら送れなくなる、という問題が出てきたため、何年かの構築期間を経て、こういうシステムが作られたと覚えている。電池切れが死活問題になってしまい、「誰もが携帯機器の電池持ちを保証される権利」が謳われている、今のような状況だからこそ実現できたシステムだと言えるのだろう。

 だが、あの時には、そんな便利なシステムなど、構築されてなかった。もし、今の時代ならば、雫は助かったのかもしれない。

 ……あまり意味のない考えではあるが。


 あの時以来、雫は男のことを怖がるようになった。

 当たり前だ。あんな経験、怖くなかったわけがない。それに、「自分のせいだ」と雫が思い込んでしまったことも大きかった。自分がもっと慎重だったのなら、少しでも気をつけていたのなら、雫はずっと、そんなことを考えていたらしい。

 そんな雫を、親たちが心配しないわけがなかった。

 あそこまで明るかった娘が、部屋に一人きり閉じこもって、泣きじゃくっている。暗い部屋の中で、まったく出ようとしない。雫の親にとって、あれほど悲しい瞬間があったのだろうか。

 時を同じくして、私はお父さんの話によって「別の姿」、すなわち男の姿になった。その話は、お父さんと親しかった雫の親の耳にも入る。

 すでに語ったとおり、 雫の父は、今なら誰でも知っているITサービスの運営をやっていて、現在はエネルギー関連でもかなり名が知られている人だ。今になってはIT企業も古くてお硬いところって印象があるから、雫は筋入りのお嬢様、ってことになるのだろう。

 もちろん、そこまで「偉い」人なら、「集団」と「組織」という、今、密かに世界を揺るがす勢力の抗争もよく知っている。従って、雫の父は、私のことも早いところからすでに知っていた。

 ともかく、雫の親は、あの時、こんなことを思いついたらしい。

 ――もし、高坂さんさえよければ。

 私を雫の「婚約」ということにして、少しでも娘を立ち直させられないのだろうか、という考えが。


 そこで、雫の父は、男を徹底的に怖がる雫のために、偽りの婚約を結びたい、と言ってきた。その事情はすでに聞かれていたため、お父さんはそれを軽く承諾した。

 「組織」だって、忙しくない時なら外部から人が出入りできるし、雫と私の婚約には、何の問題もなかった。


 もちろん、私も初めてから雫との婚約を受け入れたわけではない。

 「別の姿」になれ、とお父さんから言われた時よりはマシだったけど、そんな突飛なお話、そうすんなりと受け入れられるはずがなかった。

 でも、雫の気持ちは、痛いほどわかる。

 たしかに私は男のことが嫌いだったが、あの子、雫に少しでも力になるのなら、受け入れてみたい、と思った。


 ――あんた、誰?

 そうして初めて出会うことになった雫は、私を見て、とても怯えた。

 いちおう、父親より話は聞いていたようだったけど、どうも、私が実は女の子だということをまったく信じていないらしい。まあ、「実は」とは言え、あの時の私は紛れもない男だったけど。

 あの時の私は、本当にどうすればいいのか、よくわからなかった。

 自分を明らかに怖がっている女の子に、いったいどうやって話しかければよかったのだろう。

 今でも私は、それがよくわからない。

 あの時には、そんな雫の顔を見ているだけて、辛くて仕方がなかった。


 それからも、気まずい時間はしばらく続いた。

 雫は私のことをまったく信じてくれず、いつも距離を置いていた。同じ空間にはずっといられたけど、二人の距離は中々縮まらなかった。

 でも、私は雫と親しくなりたい、と思った。だって、いつも辛い顔を見られるのはとても苦しい。雫はあの頃だってとてもかわいかったのだから、笑っている姿が見てみたかった。

 「今」の私が、男であるのが悪かったのかな。

 自分だって無愛想な方だし、誰かと親しくなるだなんて、とてもむずかしい。でも、とりあえず雫とは友だちになりたかった。

 あまりお話が得意な人間でもなかったけど、雫と親しくなりたかったから、いつも何か、強引に話題を作り出した。もちろん、雫はまったく答えてくれなかったけど、私はせいいっぱい勇気を出して、自分のこととか、慎治たちのこととかを喋っていった。

 ――柾木って本当に一所懸命だったもんね。そこまでよく喋る性格でもなかったというのに。わたしのためにそうしてくれて、本当に嬉しかった。

 後になって、雫はあの頃のことを振り返し、くすくすと笑いながらそう話してくれた。

 ものすごく、ありがたかった。こっちが照れそうになったくらいだった。

 自分から喋るのがそこまで得意じゃなかった私が、ここまで他の人と話せて、「誰かを引っ張れる」ようになったのは、全部、あの頃の雫のおかげである。

 今の私って、自分から他の人の気配りをしたり、話しかけたりするのが得意って思われるようだけど、雫と出会うまでは、まったくそうじゃなかった。


「今の柾木って、ものすごく難しそうな顔してるね」

 私はそこまで考え込んでいたのだろうか。秀樹がこっちの顔を、じっと見つめている。

「そうか?」

「うん。綾観さんって、柾木にとって大切な人だな、と思った」

「……ああ」

 それは、間違いなく本当のことだった。

 だって、私と雫は――

「体のつながり」だって、ちゃんとあるのだから。

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