12.自分自身のこと
そうして会話を終わらせた私たちは、自分の執務室から出て、廊下を歩いていた。
理由はもちろん、秀樹がこれから過ごす部屋へと案内するためだった。
でも、未だに信じられないな。
別に自分が呼び捨てにされるのは構わなかったけど……まさか自分まで呼び捨て「する」ことになるとは。
そちらの方がいいと思うし、おかげで秀樹もすんなりと呼び捨ててくれたけど、自分からああいうのをやってしまったのが、なぜか少し恥ずかしい。
「えっ、ここで暮らしてもいいの?」
「じゃ、どこで過ごすつもりなんだ?」
ここは、この「組織」用の建物の中にある、もしものための空き部屋だ。元々は警察だけのための建物じゃなかったため(合同庁舎だったのだから)、ここにはこういう余った部屋がわりとたくさんある。
一応、こういう非常事態を考えて、人が過ごしやすいようにはなっているけど……やはり、家よりは少々劣るんだろうな。
「マジで? ありがとう! 俺のためにここまでしてくれて」
「いや、別に、こんなのなんでもないんだから」
別に、そこまで豪華な部屋でもないというのに。
そう褒められると、こっちも照れてしまう。
「じゃ、お、おやすみ」
「うん。柾木もいい夢見てね!!」
それに、まさか職場の廊下でこんなやり取りをする日が来るだなんて。
秀樹と離れてからも、私はなぜか、顔が赤くなっているような気がして仕方なかった。
まるで、大きなしっぽがついたわんちゃんみたい。青くてふさふさな体毛の、人懐っこくてこっちも困っちゃうくらい元気な犬。今の秀樹は、正しくそれだった。
今は私の方が大きいはずなのに、なぜここまで、秀樹に振り回されるような気がするのだろう。
執務室まで戻ってきた。
今日はあまりにもいろんなことがありすぎて、頭が痛い。まるで猛スピードで時間が過ぎ去ったような気分だ。
一息つくために、事務室の中にあるトイレへと足を運ぶ。トイレつきの個人オフィスって、よくあるのかどうかはわからないが、こっちとしてはありがたい待遇だった。
トイレに入ると、鏡の前に立って、そこに映った自分をじっと見つめる。
鏡にはワイシャツを着てネクタイを締めた、「別の姿」の自分が映っていた。
いつものことながら、やはり鏡の中の自分はちょっと滑稽に見える。昔ならともかく、今は……正確には二年くらい前から、元の方とイメージがかなり変わって、よく見ないと「同じ人」だとは感じづらくなってしまった。
でも、確かに印象は似ているからか、お姉ちゃんからは「柾木ちゃんらしい」と言われている。それを言われるたびに恥ずかしくなって、私はいつも言い訳をしながら逃げていった。
そういや、秀樹も似たようなことを言ってくれたっけ。
あれは、素直に嬉しかった。
こんな「別の姿」があるだなんて、他の人には絶対に話せないし。
気がつけば、鏡の向こうにある「別」の自分の姿を、ぼうっとした気持ちでずっと見つめていた。
あんなに長いツインテールだったのに、すっかり短くなってしまった髪の毛。たしか子供には見えなくなったが、少々ごつく感じる顔立ち。
元の姿を思い出せないくらいには、しっかりと大きくなった身体。家で黒ロリとか着ている人間だとは考えられない、ワイシャツやネクタイがよく似合うこの「男」の姿。
顔も体もぎっしりとなってしまって、「元」の姿とは少し違って見える。若干青藍に近かった髪の毛も、今は彩りを失い、真っ黒になっている。
この姿が、今の私、「高坂柾木」であった。
複雑な気持ちがまったくない、と言ったら嘘になるが、でも、今のこの姿が、「社会」での私の姿ということになる。
無意識の中で、今度は鏡を見ながら体を動かしていた。
鏡の中にいる自分は、私の思っている通りに腕を動かし、髪の毛をいじる。
もう慣れているつもりだったのに、今はその「自分」が、どこか遠く感じられた。どうもぎこちない気がして、馴染めない。今の私だって、れっきとした自分だと言うのに。
――やっぱり、まだ、私はそこから抜け出していない。
「自分を裏切った」という、この後ろめたい感情から。
ともかく、無事にシャワーを浴びた。
現場担当の時代には、当たり前だけど大人数でお風呂に入るしかなかったため、実は、今のような状況はまだ新鮮な気持ちだったりする。
まあ、それももう昔の話だけど。
今日は余裕もあるし、明日のためにじっくりと寝ておこう。残していた仕事はあったのだろうか……。
あれ、なんか連絡が入ってる。
知らないところからの連絡だけど、これはいったい?
――あなたに話がある。応じるつもりがあるのなら、このアドレスに返信してほしい。
これ、いったい何なんだろう。
当たり前のように、発信者のところには何も書かれていない。これは匿名だ。
その文面を見ながら、しばらく悩む。
自分の勝手に、この怪しいメールに返事してもいいのだろうか。
私の一存で決めるのは、少し危険かもしれない。
とりあえず、今度は見送った方がいいかも。