01. 遠い日の記憶(1)
それは今より昔の話。
私がまだ普通の女の子であった、幼い頃の話。
「ねえ」
いつものとおり、私はお姉ちゃんに長い髪をとかさせてもらっていた。
幼い頃からよくおませさんと言われていた私は、この歳になっても未だにお姉ちゃんに髪を結ばせてもらっているのが、ちょっぴり恥ずかしかった。
お姉ちゃんはそんな私の思いをよくわかっていたんだけど、いつもそんなことは知らないふりをして、私の髪を結んでくれた。
私はいつかお姉ちゃんに「これは自分でするよ」と言いたかったんだけど、それを言うのも照れくさくて、結局言えずにいた気がする。
「ねえ、柾木ちゃん」
そんなことをぼんやりと思っていた時、お姉ちゃんが再び私を呼んだ。
「う、うん?」
私はびっくりして、自分も知らぬ間に大きな声を出していた。
す、すごく恥ずかしい。
お姉ちゃんにだって、こんなゆるんだ姿はあまり見せないのに。
「あら、私の話、聞いてなかった?」
「そ、そんな事ないよ。ただ、ちょっとね……」
慌てて手を振ると、お姉ちゃんは私を見ながら、くすっ、と笑った。
――お姉ちゃん、ずるいよ。
普通は私よりも大人びてるのに、こんな時だけそんな態度を見せるなんて。
「それはいいの。ちょっと話したい事があってね」
お姉ちゃんはそう言いながら、私の髪を優しく撫でた。
今でも目をつぶれば、お姉ちゃんのぬくもりが伝わるような気がする。
「話って、何?」
「そんなに大げさなことじゃないの。ただ、柾木ちゃんにはわかってもらいたいな、と思って」
「何? 私が知らなければいけないことなの?」
「うん。ちょっと、柾木ちゃんにはわかってもらえないかもしれないけど」
その時のお姉ちゃんの声は、どこかぎこちなく感じられた。
――今日のお姉ちゃんって、どこかおかしい。なぜだろう。
私はただ、そんなことしか考えられなかった。
以後、どんなことが起こるかは思いもせずに。
「お姉ちゃん」
だから私は、ずっと黙っていたお姉ちゃんにそう話しかけてみた。
「なんで黙ってるの? 私とお姉ちゃんのことでしょ? 私、全部聞いてあげるから」
私は、少しでもいいから、お姉ちゃんの力になりたかった。
名前だって、「美咲」と「柾木」と言う、女の子と男の子のような、ぴったり合う名前をそれぞれ分けてもらったはずだ。
お姉ちゃんは私の名前に可愛げがないことをいつも気にしていて、「もし私が男で生まれたら、柾木ちゃんも女の子らしい名前をもらったはずなのに」とか言ってったんだけど、私はそんなの、ぜんぜん気にしていない。
別に悪い名前でもないし、淑やかに育てられたお姉ちゃんと違って、こちらはちょっとたくましく育てられたわけだから、私は今の「高坂柾木」でよかったと思った。何より、これはお父さんがつけてくれた、大切な名前だから。
ただ、それをクラスメイトの男たちがからかうのは、ものすごく大嫌いだったんだけど。
そんなことなんて、気にするつもりはない。
誰から見ても淑やかなお姉ちゃんと違って、私は外で遊ぶのが大好きだったし、言いたいことも言い放題だったから。ちっさい背とこのツインテールがなかったら、男と見られたかもしれないくらいに。
……甘いものとか可愛いものとか、そういうこともものすごく好きだけど。
自分の事は、ちゃんと女の子だと思っているんだけど。
「話してよ、お姉ちゃん。私、ぜんぶ信じるよ?」
ともかく、お姉ちゃんが困っているような気がしたから、私はお姉ちゃんに話をせがんだ。
背が高くて大人びているお姉ちゃんと違って、私は子供の頃からちっちゃかったため、よく比べられた。
でも、そんなの、ぜんぜん嫌いじゃなかった。お姉ちゃんにはお姉ちゃんの、私には私の良さがあるとずっと思っていた。お姉ちゃんだって、同じ思いだったと思う。私はこんな自分が、かなり好きだった。
背が小さくても、体はちゃんと動かしているし。
かわいい服だって、たくさん着られるからよかったのに。
「実はね、お姉ちゃん、これからすごいことになったの」
しばらくしてから、お姉ちゃんはそんな事を話した。
何の意味かわからなかったけど、いったん黙って、おとなしくお姉ちゃんの話を聞くことにした。
「それがね、今まで誰もやってないことなの」
なぜだろう。幼い頃の私にもはっきりとそれがわかった。
あの優しいお姉ちゃんが、今でも崩れてしまいそうな気がしたのだ。
「なんで、お姉ちゃんがそれをしなきゃいけないの?」
私は気になったから、お姉ちゃんにそう聞いてみた。
お姉ちゃんは戸惑いながらも、いつものような優しい声で答えてくれた。
「それはね、誰かは絶対やるべきことなの」
お姉ちゃんの声が、また震えた。
「それに、それができる人って、今はわたししかいないらしいの」
その時の私はまだ何も知らなかったんだけど、お姉ちゃんが今、ものすごく怖がっているのだけははっきりとわかった。
――やらないで、お姉ちゃん。
そう言いたかったんだけど、なぜか喉から声が出てこなかった。
「それって、いったいなんなの?」
私は、自分の声も震えることを感じながら、お姉ちゃんにそう聞く。
実は、私だって怖い。そんなの、知りたくない。
でも、お姉ちゃんが困っている。
それを放っておくことなんて、私にはできない。
「ねえ、『はんぐん』って、知ってる?」
お姉ちゃんがそう言ってから、私は自分の記憶を辿ってみた。
――それは、たぶん「反軍」の事だと思う。
警察であるお父さんが、最近よく使っていた言葉。
よくわからないけど、なぜか嫌な予感がした。
「うん、知ってる」
私の答えを聞くと、お姉ちゃんはまだ震える声でそう言った。
「うん。さすが柾木ちゃんね。よく知ってる」
「それはどうでもいい。さっきのそれって、『反軍』と関連があることでしょ?」
「……うん。実はそう」
お姉ちゃんはそう言いながら、鏡の前の私から視線をそらす。
それは、いつもの優しいお姉ちゃんとは違う、年相応の、まだ大人になってないお姉ちゃんの姿だった。
「だからね、これからはちょっと忙しくなると思うの」
お姉ちゃんはまた、私の髪を優しく撫でた。
「柾木ちゃんはいい子だからお姉ちゃんがいなくても大丈夫だと思うけど、これからは気をつけてね。もうお姉ちゃん、手伝ってあげられないから」
お姉ちゃんはそれを言ってから、ようやく私の髪を綺麗に結んだ。
鏡を見なくても、お姉ちゃんの結びはよくわかる。
「お姉ちゃん、それ、そんなに大変なことなの?」
私はもう一度、そう話しかけてみた。
「うん?」
「別に死ぬわけじゃないし、ここでいられなくなるわけでもないでしょ?」
「うん。そうだね。あまり多くはいられないんだけど」
「それなら大丈夫でしょ。私、もうそんなの、我慢できるから」
「うん。ありがとう。偉いね。柾木ちゃんは」
お姉ちゃんはそう言いながら、私のもう一方の髪を結び始めた。
その仕草が、なぜか今日はちょっとぎこちなく感じられた。
「でもね」
お姉ちゃんは私の髪を結びながら、話を続けた。
「たぶん、びっくりすると思うの」
その声は、もうどうしようもないくらいに、ひどく震えていた。
「あの、柾木ちゃん」
「うん?」
お姉ちゃんは、何も知らない私に向かって、そう言った。
「もしも、お姉ちゃんが違う姿になったとしても、ね」
「うん」
「お姉ちゃんのこと、ずっと好きでいてくれる?」
「当たり前でしょ。お姉ちゃんだもの」
「お姉ちゃんが、たとえば柾木ちゃんが知らない姿になっても?」
「大丈夫。お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから」
私がそう答えると、お姉ちゃんはなぜか嬉しそうな顔になった。ここからはよく見えないけど、なぜかそんな気がした。
「ありがとう。お姉ちゃん、がんばるね」
「それ、そんなに大変なの?」
「うん。でも、今は全然平気。柾木ちゃんがいるから」
「あまり無理しないでよ。私が心配するんじゃない」
「うん、ありがとう。お姉ちゃん、今日は凄く嬉しかった」
「どういたしまして」
「ほら、もう終わったの。鏡を見てみて。綺麗に結んだから」
私は前にある鏡を、じっと見つめた。
いつものとおり、綺麗になっている私の髪が見える。
ツインテールで、長い髪。
一番好きな、自分のかわいい姿。
「お姉ちゃん、ありがとう」
いつものように、私はお姉ちゃんにそう言った。
「どういたしまして」
お姉ちゃんは微笑みながら、さっきの私のように、そう答えてくれた。
「これからは、私が髪をいじってやれないんだから」
お姉ちゃんの声は、お日さまのように優しかった。
「お姉ちゃんのやり方、ちゃんと覚えていてね?」
それは、はるか昔の出来事。
もう忘れかけていてもおかしくないくらい、古くなった話。
でも、私は忘れない。
忘れることはないんだ。たぶん、これからもずっと。
「実はね、お姉ちゃん、これからすごいことになったの」
しばらくしてから、お姉ちゃんはそんな事を話した。
何の意味かわからなかったけど、いったん黙って、おとなしくお姉ちゃんの話を聞くことにした。
「それがね、今まで誰もやってないことなの」
なぜだろう。幼い頃の私にもはっきりとそれがわかった。
あの優しいお姉ちゃんが、今でも崩れてしまいそうな気がしたのだ。
「なんで、お姉ちゃんがそれをしなきゃいけないの?」
私は気になったから、お姉ちゃんにそう聞いてみた。
お姉ちゃんは戸惑いながらも、いつものような優しい声で答えてくれた。
「それはね、誰かは絶対やるべきことなの」
お姉ちゃんの声が、また震えた。
「それに、それができる人が、今はわたししかいないらしいの」
その時の私は何も知らなかったんだけど、お姉ちゃんが今、ものすごく怖がっているのだけははっきりとわかった。
――やらないで、お姉ちゃん。
そう言いたかったんだけど、なぜか喉から声が出てこなかった。
「それって、いったいなんなの?」
私は、自分の声も震えることを感じながら、お姉ちゃんにそう聞く。
実は、私だって怖い。そんなの、知りたくない。
でも、お姉ちゃんが困っている。
それを放っておくことなんて、私にはできない。
「ねえ、『はんぐん』って、知ってる?」
お姉ちゃんがそう言ってから、私は自分の記憶を辿ってみた。
――それは、たぶん「反軍」の事だと思う。
警察であるお父さんが、最近よく使っていた言葉。
よくわからないけど、なぜか嫌な予感がした。
「うん、知ってる」
そう答えると、お姉ちゃんはまだ震える声でそう言った。
「うん。さすが柾木ちゃんね。よく知ってる」
「それはどうでもいい。さっきのそれって、『反軍』と関連があることでしょ?」
「うん。実はそう」
お姉ちゃんはそう言いながら、鏡の前の私から視線をそらす。
それは、いつもの優しいお姉ちゃんとは違う、年相応の、まだ大人になってないお姉ちゃんの姿だった。
「だからね、これからはちょっと忙しくなると思うの」
お姉ちゃんはまた、私の髪を優しく撫でた。
「柾木ちゃんはいい子だからお姉ちゃんがいなくても大丈夫だと思うけど、これからは気をつけてね。もうお姉ちゃん、助けられないから」
お姉ちゃんはそれを言ってから、ようやく私の髪を綺麗に結んだ。
鏡を見なくても、お姉ちゃんの結びはよくわかる。
「お姉ちゃん、それ、そんなに大変なことなの?」
私はもう一度、そう話しかけてみた。
「うん?」
「別に死ぬわけじゃないし、ここでいられなくなるわけでもないでしょ?」
「うん。そうだね。あまり多くはいられないんだけど」
「じゃ、大丈夫じゃない。私、もうそんなの、我慢できるから」
「うん。ありがとう。偉いね。柾木ちゃんは」
お姉ちゃんはそう言いながら、私のもう一方の髪を結び始めた。
その仕草が、なぜか今日はちょっとぎこちなく感じられた。
「でもね」
お姉ちゃんは私の髪を結びながら、話を続けた。
「たぶん、びっくりすると思うの」
その声は、もうどうしようもないくらいに、ひどく震えていた。
「あの、柾木ちゃん」
「うん?」
お姉ちゃんは、何も知らない私に向かって、そう言った。
「もしも、お姉ちゃんが違う姿になったとしても、ね」
「うん」
「お姉ちゃんのこと、ずっと好きでいてくれる?」
「当たり前でしょ。お姉ちゃんだもの」
「お姉ちゃんが、たとえば柾木ちゃんが知らない姿になっても?」
「大丈夫。お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから」
私がそう答えると、お姉ちゃんはなぜか嬉しそうな顔になった。ここからはよく見えないけど、なぜかそんな気がした。
「ありがとう。お姉ちゃん、がんばるね」
「それ、そんなに大変なの?」
「うん。でも、今は全然平気。柾木ちゃんがいるから」
「あまり無理しないでよ。私が心配するんじゃない」
「うん、ありがとう。お姉ちゃん、今日は凄く嬉しかった」
「どういたしまして」
「ほら、もう終わったの。鏡を見てみて。綺麗に結んだから」
私は前にある鏡を、じっと見つめた。
いつものとおり、綺麗になっている私の髪が見える。
ツインテールで、長い髪。
一番好きな、自分のかわいい姿。
「お姉ちゃん、ありがとう」
いつものように、私はお姉ちゃんにそう言った。
「どういたしまして」
お姉ちゃんは微笑みながら、さっきの私のように、そう答えてくれた。
「これからは、わたしが髪をいじってやれないんだから」
お姉ちゃんの声は、お日さまのように優しかった。
「お姉ちゃんのやり方、ちゃんと覚えていてね?」
それは、はるか昔の出来事。
もう忘れかけていてもおかしくないくらい、古くなった話。
でも、私は忘れない。
忘れることはないんだ。たぶん、これからもずっと。