第30話:身体強化-3
4月第2白の日。
俺は無事に朝を迎えた。
まあ、クロの寝相は悪い方ではないので、元から杞憂に過ぎなかったのかもしれないが。
「さて、今日は隣の部屋を寝室として、こちらの部屋を客間として使えるように掃除だな。午後からは足りないものを買いに行くとしよう」
「分かりました」
「で、クロに一つ課題。これからの作業は基本的に全身強化を行いつつやってもらう」
「え……」
俺の言葉にクロが不安そうな顔をする。
「全身強化の調整はとにかく回数と時間をこなして、感覚的に身に着けてしまうのが一番いいからな。アドバイスは必要に応じてするから、とにかくやってみてくれ」
「わ、分かりました」
クロが身体強化を始める。
昨日と同じようにゆっくりと黒紫の魔糸が全身に広がっていく。
このスピードの強化だと戦闘開始後では間に合わないから、もっと早くかつ効率的に強化を出来るようになってもらいたいが……そう言う話も基礎が出来てから。
基礎なしに応用に進めば、碌な事にならないのは古今東西、世界が変わっても共通事項だ。
「出来……ました……」
「みたいだな」
と、少々思考がわき道にそれたところで、クロの身体強化が完了する。
「よし、それじゃあまずは、出来るだけ力を抜きつつ、一歩だけ前に進んでくれ」
「は……い……」
クロが一歩前へと踏み出そうとする。
普段何気なくやっている歩くと言う行為には、床を蹴ると言う事、足を上げると言う事、転ばないようにバランスを取る事、様々な要素が含まれている。
つまり、全身各部を利用する動きである。
それをクロほどの全身強化を行いつつやるとなれば……
「ひうっ……」
「おっと」
まあ、力加減を間違えて、クロの前に居た俺に向かって自動車のような速さで突っ込んで来るぐらいは想定の範囲内である。
と言う訳で、俺も全身の各部に適切な強化を施すことで、衝撃なくクロを受け止める。
「す、すみません。ご主人様……」
「想定の範囲内だから、大丈夫だ。それと、全身強化の維持だけは止めないようにな。そこの維持を止めないでいれば、とりあえず大怪我はしなくて済むから」
「わ、分かりました」
俺はクロを立たせると、指先から順に強化が失われ始めているのを見て、アドバイスを送っておく。
実際、強化の維持さえ忘れなければ、今の速さでクロが転んでも、負う怪我は普通に転んだ程度で済むのだから、重要な点だ。
身体強化周りの怖い話としてよく挙げられる話にあるのが、走っている最中に身体強化が解除されてしまって加速状態のまま転んで……と言うのである点からもそれは窺える。
ネーメも一度やって、腕の骨を折った事があるしな。
「ゆっくり、ゆっくりとだ。少しずつ慣れて行けばいい。それで……そうだな。とりあえず隣の部屋にある金庫の位置を今の位置から移動しよう」
「は、はいいぃぃ……」
若干プルプルと震えつつクロが移動を開始する。
うん、やはりクロの学習速度は早い。
既に先程の失敗からどうすれば安全に移動できるかを考え始めている。
「これが金庫だな」
「こ、これが……」
とは言え、現寝室から現物置に移動し、俺個人の金庫の前に立つまでに一時間ほどかかったが。
「えと……これって……開けられる……のですか?」
俺の持っている金庫は一片が50センチほどの金属で出来た立方体で、蝶番と切れ目が付いている面は存在しているが、鍵穴や持ち手の類は一切ない。
商家や普通の貴族の家にあるような、一般的な金庫とはまるで別物である。
クロでなくとも、実用品なのか悩むのは当然の事だろう。
「俺の魔糸を使って開ける事を前提とした金庫だ。頑丈さも申し分ないから、今のクロが持っても大丈夫なはずだ」
が、そんな物でも問題なく開けられるのが金属への適性を有する魔糸。
と言う訳で、この金庫は内部構造を熟知していて、壁向こうの金属を操作する技術を持っていなければ開けられない金庫になっているのだ。
そして、中の物を守るために、頑丈さも相当な物になっている。
これならば、今のクロが扱って、何かしらの事故を起こしても、クロと金庫は大丈夫だ。
「なるほど……」
「うん、少し慣れてきたみたいだな。だいぶ話がしやすそうになっている」
「あ、はい。その……少し分かってきました」
いつの間にかクロはだいぶ話しやすそうにしている。
呼吸器……と言うよりは発声回りの調整が出来るようになってきたようだ。
「じゃあ、この金庫を、そっちの壁際まで持って移動してくれ」
「分かりました」
クロが金庫を軽々と持ち上げる。
ちなみに、金庫の重量は中身含めれば、クロと同じかそれ以上だったはずである。
この辺りからも、クロの魔糸の量と言うか、適性が窺えるな。
先日の体外に出したほんの少しの魔糸を切っ掛けに、扱える量が順調に増えているようだ。
そうして、クロの成長具合に感心しつつ眺めていた時だった。
「あっ!?」
クロが床の出っ張り……張られた木と木の継ぎ目に躓いた。
そして……
「まあ、そうなるよな」
躓いた木の板が吹き飛んで、壁に激突し、粉々に砕け散った。
「ご、ご主人様……」
「身体の強化を使い始めた頃にはよくある事だ。とりあえず強化は止めないように。修理は……まあ、午後にまとめて出しておく」
「ううっ、すみません……」
結局午前中に出来たのは金庫とベッドの移動と掃除だけだった。
なお、その間にクロは床の木の板を5枚破壊し、煉瓦の壁にヒビを入れたが、これくらいならば……まあ、いい意味で想定の範囲外だ。
もっとヒドイ事になると思っていたからな。
「筋はいいから安心しろ、クロ」
「世辞ですか? ご主人様」
「いや、本音だ。壁をぶち破って、建物の外に飛び出すぐらいまでは想定していたからな」
「……。気を付けます。本当に」
だから褒めたのだが……俺が言っている事が感覚的に冗談でないと分かったらしく、クロの動きの慎重さは増した。