第94話 小柄な司書は人心に悩む
昼下がり、私は夜鳴鳥亭の一室から景色を眺めていた。
とはいえ狭い視界から何か珍しい物が見えるわけでもない。夜鳴鳥亭の庭に面した窓は1つ向こうの細い通りを挟めばすぐに市壁であり、大工が吊るされたゴンドラに乗って市壁の補修工事を行っているくらいだろうか。
「彼が気になるのかい?」
張りのある声に体ごと室内へ向き直れば、ベッドで上体を起こしている女性と目が合った。
白く緩い服に身を包んだ彼女はいかにも病人といった風体だが、肌には張り艶があり赤茶けた髪もそれなりに整えられている。
黒い鼻と垂れた耳が人間ではないことを示す女性、ヤスミンの母にしてハイスラーの妻、イエヴァ・コッペルは病によって足が悪く、寝たきりの生活を余儀なくされている。それでも元来活発な彼女は、病床の人とは思えない程生き生きとしていた。
「イエヴァは会った事がないはず」
「カラの耳には内容まではわからなくても、彼が泣いていたことくらいはわかるわ。特にこんなボロ屋じゃ聞き耳を立てなくても、あなたたちが色々話していたことだって聞こえてくるもの。不愛想なシューニャが近いうちに部屋に遊びにくるだろうってことも予想できたよ」
ハイスラーやヤスミンには聞こえていなかっただろうけどね、とイエヴァは悪戯好きの笑みを見せる。
正直私は彼女があまり得意ではない。理由は定かでないが、全てを見透かされているような、それこそ自分の親かのように振舞う年上の女性を避けていた。
知識はともかく、年齢からくる経験でみれば当然ではある。しかしイエヴァはそれに加えてお喋りであり、ぐいぐいと心に攻め込んでくるため質が悪いのだ。
にもかかわらず、自分の合理思考という奴は現金であり、こうして感情の整理がつかなくなれば真っ先に頼るべき人物と判断していた。
そんなこちらの心中を察してか、あるいはただ面白がっているだけか、イエヴァはケタケタと笑う。
「まさか頭でっかちで浮ついたことにまるで興味を示さなかったあんたが、久しぶりに顔を見せたと思ったら女になってるんだもんね。子供の成長は早いって言うべきかい?」
「私は貴女の子ではない」
「変わらないよ。ヤスミンもあんたも、なんならあたしに会いに来てくれるようなお客は全員そうさ」
想像を絶する子だくさんだと思うが、母親になれば女性は変わるとも聞く。
自分も女の身である以上、いつかはそうなるのかとは考えてみるものの、理屈や理論では理解が及ばない世界過ぎて想像もつかない。そんな困惑を雰囲気から読み取られたのか、またイエヴァは可笑しいと肩を揺すった。
「それにしてもあんたをそこまで悩ませるなんて、彼もやるじゃないか。随分な色男に引っ掛かったもんだね」
「色男……? キョウイチは身持ちが固い、と思うけれど」
表現に違和感を覚えて私は首を捻ったが、この際身持ちが固いことがいいことかどうかさえ疑問である。
正直肉体関係だけを望むような軽薄な男であれば、最初から興味を抱くようなこともなかっただろう。しかしキョウイチが自分たちに興味を持たなかった理由が、過去の暗い出来事にある以上、踏み込むことなどできるはずもなかった。
おかげで曖昧な失恋状態に置かれた私は、恋愛経験の無さも相まって思考のループに陥り、こうしてイエヴァを頼ることを決めたのである。
そして実際に彼女は頼もしい。少々含み笑いが腹立たしくもあるが。
「ふふ、でもあんたを含めて3人落とされてるんだろう?」
「それは……そう」
「十分なスケコマシじゃないか。それでいて身持ちが堅いって、相当変わり者だね。若い女3人に迫られて靡かない男なんて、もしかして不能って奴だったりして」
「下品」
苦情を込めて言葉を発せばイエヴァはまたケタケタと笑いながら謝罪する。
キョウイチが恋愛に向きあえないのは、少なくとも身体が原因ではない、はずだ。彼の言に嘘偽りがないのであればだが。
「でもイチモツの話じゃないならなんだい? あんたは理由を知ってるんだろう?」
「……一応」
理解できた範囲で私はキョウイチの過去をかいつまんで話す。直接聞いていない以上不明瞭な点が非常に多いが、とにかく過去恋人との悲劇的な死別が原因だと言えばイエヴァは腕組みをして首を捻った。
「結構女々しいね彼」
「女々しい」
オウム返しをしてしまったのは、それだけで済ませていいのかと思うような状況を想像したからだ。しかしイエヴァは見事なまでに切り捨てた。
「だってそうだろうが。男でも女でも好きでも嫌いでも、そんなの命なんだから絶対死ぬし別離はあるじゃない。そりゃあたしだってハイスラーやヤスミンが死ぬようなことになったら、なんて考えると気が気じゃないけどさ、結構昔のことなんだろそれ」
流石に800年前だとは言えないが、しかし長い時間が流れたことに変わりはないので、私は小さく頷いた。すると彼女は呆れたと言わんばかりに肩を竦めてみせる。
「仮にあたしが死んだとしてだ、ハイスラーがいつまでもそれを引き摺って生きてたとすれば、あたしなら尻をひっぱたきたくなっちまうよ」
「……一理ある」
悔しいが確かにそうかもしれないと思ってしまった。
死んでなお自分を想ってくれるのは嬉しいことだが、それで苦しんでほしいなどと考えるはずもない。何よりそれは、キョウイチ自身が言っていたことではないか。
死者を愚弄するつもりはないが、言葉が交わせる生者同士が心を通わせることでさえ簡単ではないのだ。言葉を交わせない死者の思考など、とても推し量れるようなものではないだろう。
「確かに彼は優しいのかもしれない。だけど、自分が傷つきたくないからって人を愛せないようじゃ、それはただの甘えだね。まぁ大概男なんて女房が支えてやらないと弱っちいんだから、ここが女の器量の見せどころよ」
「女の器量――それは、どうすればいい?」
別に特別な事じゃないとイエヴァはパタパタと手を振って、また悪戯っぽい笑みを浮かべる。しかし私には器量と言われても、まったく想像がつかなかった。
「一応聞いとくけど、その彼に意地でもついて行く気でいるんだね? 諦めがつけられるなら、その方がいいことも多いよ」
言葉に詰まる。
初恋は実らないのが当たり前だと言ったのは誰だったか、確か姉だったような気がする。それを信じるならばここで諦めるほうが余程賢明なのだろう。
しかし頭で考えることと心で思うことは別だ。思考は制御できても想いは押さえ込むことが難しく、むしろそれができるなら相談の必要などどこにもない。そして心は時として思考を上回る決定力を持つものらしい。
「――諦めることは、できない」
「言ったね? だったら女房になる覚悟をしてあらゆる手で落としなよ?」
「あらゆる手……とは」
生唾を飲み込んだ。イエヴァの答えを必死に待てば、彼女はニィと口の端を歪めて嫌らしい表情を作った。
「そりゃ本当にあらゆる手さ。料理で胃袋を掴むもよし、着飾って魅了するもよし……だけど一番早いのは既成事実を作っちまうことだね」
「そ、それは流石に――」
「昔の女を忘れさせてやることだって優しさだよ。子どもができりゃ必然的に親になって、前に進むしかなくなるさ。その彼が誠実で甘い男で間違いないなら、簡単に子どもを捨てるような真似はしないだろうしね」
考えるだけで頭が沸騰した。
先日のメイド服だけでも中々に恥ずかしい思いをしたというのに、ここへきて身体を重ねろなんて私にはとても不可能である。
あの日もいわば寝込みを襲うような真似をしたわけだが、仮にキョウイチが自分を受け入れてくれたとして、いきなり肉体関係を求められれば私は拒絶してしまっただろう。恋が成就すればいずれ訪れる経験なのは重々理解しているが、それこそ初恋を知覚しただけでこれほど思考が不安定になる自分に、そんな覚悟などとてもできなかった。
「む、無理……」
咄嗟に俯きはしたものの、熟れた果樹のように真っ赤になった顔はとても隠せなかったに違いない。想像するだけで頭が熱を持ってぼやけ、風邪をひいた時のような感覚によろめいた。
「はぁ……そんなことだろうと思ったよ。まぁ最初なんてそんなものだけどさ――だったらせめてもう少し愛想くらい振ってやりな」
ちらと上げた視線の先には、心底呆れたイエヴァの顔があった。
しかし愛想となれば、これまた最悪と言っていいほど苦手な分野だ。作ろうと思っても、自由に笑顔を浮かべられないくらいには。
そもそも人心の機微という奴には、他人に関しても自分に関しても長い間興味がなかった。そんな女が恋をしてすぐに変われるかと問われれば、私は不可能と即答できてしまう。
「……どうすればいいのか、わからない」
「石像みたいな顔ばっかりしてるんじゃないって言ってるんだよ。大事なのは笑顔とスキンシップ! そうでもして慣らさないと、身体を重ねるなんて永久に無理でしょあんた」
完全に貶されているというのに、正論にぐうの音も出なかった。おかげで自分の中から、言われたまま実践してみる以外の選択肢が音を立てて崩れ去っていく。
だがそうして自分をアピールしていくことにも、一度振られている以上大きな不安が付きまとう。
「けれど、それが理由でキョウイチに嫌われてしまわないかが、その……凄く怖い。既に1度失敗していて、それが彼の心を傷つけているのに」
「そりゃあたしは彼じゃないからわかんないけどさ、どんな相手でも踏み込むなら覚悟がいるんだよ。相手の心に触れようとすれば、最初は距離感が掴めないから傷つけるし傷つくのが当たり前で、夫婦なんて綺麗事だけで成り立たないの。だから心の傷を恐れちゃダメだよ、自分にも相手にもね」
「……なる、ほど」
意外とこれはすんなりと心に落ち着いた。
口でなんと言おうと嫌われることはやはり怖いが、こんなに他人を想った事は過去にないのだ。そう考えれば、未経験に失敗はつきものだと開き直ることができた。
「心は決まった?」
「ん。怖いけれど、やってみようと思う」
ぐっと拳を握れば、ため息が容赦なく跳んでくる。
「顔が変わってないよ。まずは笑顔だって言ったでしょうが」
「うぐ……こ、こう?」
無理に顔に力を入れればぴくぴくと頬が振るえ、それを見たイエヴァに大爆笑された。
「だっははははははは!! 何それ、本当に笑ってんの!?」
「これでも必死」
「笑顔ってのは無理して作るんじゃないだろ。もっと肩の力抜いて自然にやるもんさ」
そんなことを言われても無理な物は無理だ。
自然に微笑んだことくらいなら今までもあっただろうが、ファティマやアポロニアのようにはっきり笑いかけるなんて、我がことながら全く想像できない。
しばらく両手で顔をぐにぐにと触っていたが、イエヴァはその様に呆れかえったらしく、わかったら早く行けと手で軽く追い払われた。
部屋の主がそう言う以上仕方ないと、私は扉に手をかける。すると背中に余計な一言が投げつけられた。
「子供ができたら教えてねー」
「下品」
最後までからかいやがってと彼女を睨みつけたものの、母親とはその程度で揺らぐような相手ではない。ピーピーと軽く口笛を吹かれて、私は無駄に敗北感を募らせたまま廊下へ出されたのである。
しかし部屋に戻ろうとして、ふと立ち止まり自分の身体を見下ろしてしまう。室内なのでポンチョは脱いでいたため、隠す物のない絶壁の身体が視界に広がっていた。
「……どうすれば育つ?」
思い出されるのは故郷の姉だ。当時は興味がなかったものの、姉はそれなり以上に胸が出ていたはず。同じ両親から生まれたはずのなのに、何故自分との間に大きな差が生まれるのか。
キョウイチの対応はファティマやアポロニアが相手でも変わらなかった。それはある意味で安心感を与えてくれたが、結局どんな身体を好むのかは謎のままである。そして物事は往々にして、ないよりある方が強いものである。
自分は小柄なため、今までは女性的凹凸に乏しいことも不自然ではないと感じていたが、一度魅力なるものを考えてしまうとやけに気になり始める。特にアポロニアなんて自分より背が低いにも関わらず、あの攻城兵器のような胸はなんなのか。
「これは、大いに調査が必要」
成長とは個人差がある。そんなことはわかっていたが、それにしたって多少の改善くらいは望んでもいいだろう。
私はキョウイチへの愛想と、魅力ある体への成長という二重課題を見据え、それを目標として邁進することを心に決めたのだった。