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第93話 犬娘の揺れる心

 自分の午後は酒場での情報収集である。

 今はダマルも居ないため、キメラリア単独での入店を拒まないような場所を巡ることが主で、店員や店主にコレクタや遺跡についての噂がないか聞きながら過ごしている。まさか駄賃を貰って日がな飲み歩くことが、仕事になる日が来るとは思いもしなかったが。

 しかしキメラリアが入れる店はそう数もなく、3日も情報収集を続ければ大方回りきってしまう。もちろん同じ店に行ってもいいのだが、キメラリアを受け入れるような店はほとんど常連ばかりで、新しい情報は中々入ってこない。

 おかげで自分は広場の片隅にあるベンチに座り、何かいい方法はないかと考え事をしていた。


「どーしたもんッスかねぇ」


 せっかく与えられた仕事である。流石に安酒を浴びながら、何も得られませんでしたと毎日報告するのは心苦しい。そして何より暇を持て余してしまうと、割り切れないままの心は、自然と暗い思考へと引き摺られていくのだ。


 ――もうちょっと自分は単純だと思ってたッス。


 このところご主人と居る時は訓練に座学にと忙しく、それ以外は食事中に情報を共有するか、他愛もない会話程度で今まで通りに過ごせている。それはシューニャも猫も同じで、まるで先日のことなどなかったかのようだ。

 だからといって、自分の気持ちが絶対に届かないことは変わらない。


「結構勇気振り絞ったんスけど……なんて」


 ご主人に言えば困らせてしまうことくらいわかっている。

 茜色に染まりつつある空を見上げていれば、無駄にそんなことを思い出してきて涙が流れそうになった。

 何故こんな時に限ってダマルは居ないのだろう。何故雨が降らないのだろう。何故有益な情報が転がり込んでこないのだろう。どうやっても恋が叶わないというなら、せめてそれくらい叶えてくれてもいいではないか。そんなことを考えてしまう。

 つい3日前まで隣に居た骸骨騎士は、傷心を癒してくれはしない。しかし適当に酒を飲んでは、女をナンパしたり遊郭街に溶け込もうとしたりと騒がしく、それに振り回されることで怒り呆れていた時分はこんな風に考えこむ暇がなかったのだ。

 今更になってそれに救われていたことを思い知らされ、だからといってどうにもできない現実に、自然と弱弱しい恨み節が口を突いて零れた。


「ご主人の……ヘタレ」


 想い人を亡くすのは悲しいことだ。しかしそれは世界中に転がっている雑多な悲劇に過ぎない。何ならご主人が今までに蹴散らした帝国兵たちにも、恋人や家族は居ただろう。それを息でもするように殺戮しておいて、自分は女を娶る事に怯えるなどヘタレ以外の何物でもないではない。


 ――昔の女なんて忘れろ、とでも言えれば良かったッスかね。


 あるいは自分が人間であれば沢山の道があって諦められたのではないだろうか。そう思えばシューニャが羨ましい。

 逆にご主人の気持ちを無視してでも好きを貫ければ楽になれるのか。そう思えば猫が妬ましい。

 そんなたらればを考えてしまっていること自体、自分がどちらにも転べないことの証明であり、その全てを内包したため息を膝に落とした。


「お悩み事?」


「うひゃいっ!? ――ってウィラミット?」


 突如声をかけられて飛び上がってしまった。ベンチの上で体を低くして構えれば、眠そうな表情をした白黒の蜘蛛女と目が合う。

 今まで店の中でしか見たことがなかったため何故ここに居るのかと考えて、町の人間なのだからどこに居たって不思議でもないと、自らが大いに混乱していることを再確認させられた。

 そんな内心がわかるはずもない彼女は、不思議そうに首を傾げて見せる。


「こんにちは。それともこんばんは?」


「あ、あはは……どっちでもいいッス。買い物ッスか?」


 不思議なのは自分の事ではないらしい。そうと分かれば何故か安心して、微妙な笑顔と社交辞令のような言葉が自然と飛び出していく。

 それの問いに彼女は背に抱えた編籠を見せてくれる。中には野菜や丸いパンが入っており、どうやら夕食の買い物だったらしい。しかしこれは不思議な光景とも言えた。


「食材を買うにはやけに遅くないッスか?」


 食材の類は朝市で買い集めるのが普通であり、昼でも商品は品薄となる場合が多い。夕方ともなれば市そのものが閉まっている場合がほとんどだ。

 だというのにウィラミットの籠には多くの食材が入っており、それも含めて謎だと言えば、彼女は唇に人差し指を当てて小さく笑った。


「ちょっとした取引よ。キメラリアは生きるのも大変だけれど、必要としてくれる人も多いわ」


「必要としてくれる人……ッスか」


 彼女の言葉は商売相手に向けられたものだろう。だというのにそれがやけに胸に突き刺さって、自分は顔を俯かせた。

 ただでさえ他のキメラリアは奴隷以外で生産するということに従事しにくい中で、アラネアは紡績から仕立に至るまでのあらゆる繊維に関わる仕事に特化している。それも絶対数が少ないため、彼女のような存在は貴重なのだ。

 では小さく弱いアステリオンの価値とはなんだろう。自分はご主人に何を差し出せるのか。無駄と分かりながらそんなことを考えてしまう。


「困り事なら、話くらい聞いてあげるけれど?」


「うぇ?」


 突如持ち掛けられた言葉に自分は再び顔を上げれば、ウィラミットが来い来いと手招きをしていた。


「こんなところではなんだし、店にいらっしゃい」


 普段なら気にするなと笑えただろう。しかし今の自分にはろくに相談を持ち掛けられる相手もなく、あまりに弱っている心は混乱しながらも彼女に従うことを選んだ。

 広場から街路を抜けた先。細い路地に隠れるように彼女の店は佇んでいる。ここへ来るのは3度目だった。

 事の発端であるあの日、ダマルの絵から服を準備してくれたのは彼女であり、まさかこんな心情で再度来店するとは思いもよらなかったが。

 ウィラミットは店に入るや否や、ちょっと待っててと言って奥へと消えていく。すぐに薪の燃える臭いがしはじめ、竈に火を入れたらしいことがわかった。

 しかし荷物を置いて戻ってきた彼女は、いつも通りらしいカウンターの向こう側へ落ち着き、細い編針を手に服を編み始めてしまう。


「えっと……」


「聞くから、話して?」


 どう見ても片手間なのだが、彼女にとっての集中して聞くスタイルであるらしい。言葉を急かされた自分は手近に置かれたスツールによじ上り、カウンターに肘をついて、半ばやけくそ気味に口を開いた。


「……ウィラミットは恋をしたことあるッスか?」


「ええ」


 先日聞いたところ24歳だと語った彼女は編み物から視線すら上げず、こともなげに肯定を呟く。


「じゃあ、フラれたことってあるッスか?」


「ええ」


 同じ答えが返ってくる。

 現に伴侶らしき人物も居らず独り暮らしの彼女は、失恋をしたかさせたかなのだろうとは思っていたが、どうやら失恋した側らしい。


「そういう時ってどうやって諦めたッスか? その、子供みたいなこと言ってるとは思うッスけど」


「蜘蛛とは一緒になれない、とか、人モドキは嫌だって言われたから、糸で丸めて川に捨てた」


「お、おぉう……」


 もうちょっと心を痛めるような話が出てくるかと思えば、ウィラミットは想像のはるか上を行く過激な方法をとっていた。

 相手が人間だったかキメラリアだったかはともかくとして、あまりに心ない言葉を投げかけた相手が悪いことは間違いないのだが、刃物でも中々切れないアラネアの糸で巻かれて沈められれば高確率で溺れ死んでいるだろう。


「経緯がどうであれそんなこと言う人は要らないし、好きだった分まぁ()()()死んでくれればそれでよかったの。あとはいつも通り過ごして、また好きな人ができるのを待つ。今もそう」


「ま、まぁ気持ちはわからなくもないッスけど、ウィラミットって結構非情ッスね」


「アポロニアは違う? フラれたんでしょう?」


「自分は……まぁちょっと腹の立つ部分はあるッスけど、事情が事情で噛みついてやろうとはならないッスね」


 別に酷いことを言われたわけでもない。むしろご主人は元捕虜のキメラリアというマイナス条件満載の自分を、驚くほど大切に扱う変人である。傷んだ食品を定価の倍で買うようなものだというのに、あの男はそれに自由を与え衣食住に不自由させず何なら家族と呼んで信頼するのだ。

 だからこそ自分は惹かれ、今なお気持ちを引き摺ってしまっているのだろうが。


「事情って?」


「……盗み聞きしちゃった内容なんで、秘密は守ってほしいッスけど」


 私は理解できた範囲でご主人の過去を伝えた。もちろん約束している800年前という部分を伏せ、さも現代に起こった出来事のようにだが。

 それを聞いていたウィラミットは、途中僅かに視線を向けてくることはあっても、やはり編み物の手を止めないままで聞いていた。


「優しいッスけど、ヘタレなんッスよ……あの人」


「フラれたって、キョウイチさんだったのね。だからあの時服を作ってほしいって来たの?」


 ニィと面白そうに頬を歪めて彼女は笑う。

 互いに知っている人物が好きだとバレるのはどうにも気恥ずかしく、それでも嘘をつくには無理があって自分はぎこちなく肯定した。


「う……そ、そうっスよ、悪いッスか」


「変わったお客様、キメラリアをキメラリアと思っていないような、本当に変わったお客様」


「その通りッス。ご主人は非常識な変人で、敵だった自分を助けてくれて、ご飯を美味しいって言ってくれて、頭撫でてくれて、キメラリアのために全力で怒ってくれて、自分の事家族だって言ってくれて……」


 途中からは涙声だった。

 思い出すほどにやっぱり彼が好きで、とてもではないが自分の心に区切りなんてつけられそうにない。

 決壊した心の奔流は止められるはずもなく、自然と口から出ていった。


「子供の頃両親に棄てられて流浪の民に紛れて必死で生きてきて、家族だなんて言ってくれる人はキメラリアにだって居なかったッス。どこでも上手くやり過ごすばっかりだったのに、初めて本当に居場所だって思えたんスよ……でも、求めちゃダメだったッスか? アステリオンが人並みの幸せなんて」


 どうすればよかったのだろうか。恋心を隠して生きればここまで苦しまなかったかもしれないが、幸せを求める事自体が罪だというのならそれは酷であろう。

 自分は感情が壊れたかのように、笑っていながらボロボロと零れる涙を止められない。それにウィラミットは初めて手を止めて、ゆっくりとした動きでこちらに向き直った。


「なぜ悩むの? キョウイチさんのこと、好きなんでしょう?」


「好きッス……大好きッスよ! でも自分がご主人を求めるのは我儘で――重石になりたく無いのに諦められないから悩むんじゃないッスか!」


 誰が好きな人を、愛した相手を苦しめたいものか。少なくとも自分はそんな風に歪んでいない。

 それでも割り切れない心の弱さが、吐き気を催すくらいに嫌だった。落とした視線は自分の握りこんだ手を捉え、今すぐ心なんて封印してしまえばいいのだと歯を食いしばる。

 だが、ウィラミットはそんな自分に小さくため息をついた。


「自惚れているのね」


「なぁっ!?」


 唐突に訪れた暴言に涙を散らしながら顔を上げれば、半目で眠そうなウィラミットは編み物を再開していた。

 まるで時間の無駄だとでも言いたげな様子には、流石にカチンときた。


「う、自惚れって……! じゃあどうしろって言うんスか! 過去を掘り返してまた傷ついて、そんなご主人の姿をずっと見てろって言うッスか!?」


 赤く腫れた目に牙を剥いて唸る自分に対し、蜘蛛女は自らの尾から出てくる糸を手繰りながら、チラとこちらを一瞥してまた視線を戻す。

 バカにされているのか、からかわれているのか、どちらにせよこんな奴に相談を持ち掛けた自分が間違っていたらしい。


「もういいッス!」


 スツールを蹴るようにして立ち上がり、大股でドカドカと歩いて扉に手をかける。

 しかし背中に投げつけられた言葉に、自分は黙って立ち去ることなどできなくなった。


「他人の心を推し量るなんて自惚れ以外に何?」


 奥歯を噛み締める。

 服を作ってもらった恩はあれど、ここまで言われて黙っているわけにはいかない。如何に弱いアステリオンでもプライドぐらいはある。

 一発くらいは殴らせてもらおうと拳を握りしめて振り返れば、目の前にウィラミットの薄い微笑みがあった。

 アステリオンとして耳鼻にはそれなりに自信がある。だというのに足音どころか移動した気配すら感じられなかった。

 僅かに後ずさった背中は扉にぶつかり、それを彼女は冷たい笑顔で笑って見せる。


「重石になりたくないなんて子供の我儘。伴侶になりたいなら、自分も相手の重みを背負い、相手にも背負わせる覚悟がいるわ」


 何か反論しようとしたが言葉が出てこない。扉の木目をなぞるだけの手は僅かな恐怖に汗ばみ、そんな中でも自分は不思議と次の言葉を待っていた。

 こちらの姿を眺めていた彼女は、どこか慈しみを湛えたような笑みを浮かべてゆっくりと距離を取る。おかげで自分は強張っていた体から、ようやく力を抜くことができた。


「恋は理屈じゃない、我儘を通すのは当然。大切なのはアポロニアがどうしたいか、違う?」


「自分がどうしたいか……ッスか?」


「キョウイチさんの心はきっと簡単には癒されない。けれど誰かが癒してあげないと、永遠に孤独のまま。それを誰がやるの?」


 彼女の言葉に視線は自然と足元へ落ちた。この店で買ってもらった編み上げのロングブーツは、自分で磨いていることもあってしっかりと輝いている。

 所詮自分は小さなアステリオン。力はおろか、頭の方も人並みでこれといって誇れることもない。そんな我が身に、英雄たるご主人の心を癒すなどおこがましい話ではないか。そう思いながらも、できることなら癒してあげたいと、小さな葛藤が生まれゆっくり目を伏せる。

 だが自分が悩むことをウィラミットは許してくれなかった。


「アポロニアがやらないなら、私がやってもいいよ」


「へ?」


 いきなり何をと顔を上げれば、先ほどまでの慈母のような微笑みとは打って変わって、ペーパームーンのような笑顔で頬を僅かに染める蜘蛛女。

 それは自分の背中を悪寒で粟立てるには十分な破壊力を持っていた。


「破れたものを縫い直すのは得意なの。キメラリアもアラネアも差別しないなら、それこそねっとりと愛してあげれるし……うふふ、悪くない。キョウイチさんの子供なら沢山産んであげられそう」


「――結構ッス!!」


 踏み抜かんばかりの勢いで靴底を床板に叩きつければ、恍惚としていたウィラミットが初めてビクリと肩を揺らして目を見開く。どうやら大きな音はあまり得意ではないらしい。

 おかげで自分の中にあった不快感が溶けていく。やられっぱなしで帰ってたまるかというなけなしのプライドは、ようやく不敵な笑みを浮かべさせてくれた。


「ご主人は自分のご主人ッスからね。癒すなら非力で従順なアステリオンがうってつけッスよ」


「……そう、残念」


 ガックリと肩を落とすウィラミットの姿は、ただ焚きつけたというものには見えず、自分は僅かに頬を引き攣らせる。

 危うくライバルを1人増やしかねない事態だったなんて思えるのは、やけにすっきりした気持ちだからだろうか。

 懐から取り出した銅貨を1枚弾けば、彼女に届く手前で何かによって阻まれ空中に浮いたままになる。きっと見えない程細い糸でからめとったのだろう。


「相談に乗ってくれたこと、感謝するッスよ」


「進展、期待してる。ダメなら貰いに行くわ」


「ダメなんてありえないんで、早めに次の恋を探すことをお勧めするッス」


 白い犬歯を見せて笑った自分は、今度こそ扉をくぐって外へ出た。

 既に茜色の時間は過ぎ去って黒紫の空に星が見えていたが、心の中は晴れ渡っている。

 心に決まった目標に、道に転がった石ころを蹴飛ばして拳を握りこむ。

 早く帰ってご主人の顔が見たくてたまらない。いつも通りにあの優しい笑顔を向けてくれるだろうか。考えるだけで頬が緩んだ。


「癒してみせるッスよ……何年かかっても、いつか絶対!」

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