第80話 漂う記憶は朧げに
俺は裏庭で不味い煙草を吹かしていた。
ふと感じた人の気配に振り返れば、蝋燭も灯っていない暗い酒場で1つの影が佇んでいる。
最初はハイスラーかと思ったが、何か妙な胸騒ぎから闇を凝視してみれば、そいつはゆっくりと俺の方へ近づいてきた。それもぼんやりと月明かりに照らされた顔は、妙に疲れ切っているではないか。
ガス欠には早すぎるぜ早漏野郎。いつも通りの軽口は、明らかに様子がおかしい相棒に、言葉が喉元でつっかえて出てこない。
「お、おい恭一。なんでお前がここに――娘共はどうしたよ?」
「……皆なら部屋に居るよ。だが、僕には荷が重い」
俺の手は咄嗟に恭一の胸倉をつかんでいた。
自分の計画が上手くいかなかったことなどどうでもいい。女から逃げてきただけでなく疲労の上に滲む被害者面が俺には許せなかったのだ。
「お前、あいつらのことちゃんと見てんのかよ」
表情が出せないというのがここまで鬱陶しく思ったことはない。おかげでできるだけ声に感情を乗せて、俺は煙草を吐き捨てる。
だが恭一は僅か程も揺るがず、ああ、と小さく言った。
「振ったのか。あいつら全員お前の趣味じゃなかったってか?」
「言っただろう。僕には荷が重い」
思考回路が焼ける臭いがした気がする。腸なんてどこにもありはしない癖に、元々臓物があった場所がグラグラと煮えかえる。
思った以上のクソ野郎だ。いつもは昼行燈な良識人を気取っておきながら、ここ一番でどうすれば尻尾を巻いて逃げれるのか。
握る拳に力が入り、骨の結合部分がガリと嫌な音を立てた。
「おいこらふざけんじゃねえぞ。あいつらがどれだけ本気でお前を見てると思ってやがる。お前の趣味じゃねえってんなら仕方ねぇだろうが、軍内きってのエースパイロット様がなんだ? 女に迫られて荷が重いなんて言い訳でよぉ!? あいつら全員泣かせようってのか!?」
「僕が本当にエースなら、女性を泣かせたりするものか……ッ!」
ギシリと鳴った音に視線を落とせば、恭一の拳が血のにじむほどに握られていた。
まさか、と俺は相棒の胸倉から手を離し、僅かに1歩後ずさる。恭一は動かなかったが、おかげで予想が確信へと変わり、沸騰していた頭は突如氷点下まで冷え込んだ。
「お、お前……何か思い出したのか?」
ああ、と小さく呟かれた声に、本当にそんなことが起こりえるのかと、俺は震えるような思いだった。
生命保管システムは肉体とアストラル体を分解して保存し、一定期間の後再構築する装置だ。そこではもちろん記憶も電気信号として保管される。だが、保管されていたデータが破損していた場合、再構築された肉体にアストラル体がうまく戻されたとしても、電気信号としての記憶が戻ることはない。経年劣化で破損したデータが、ポッドを出た後で復活するなど、とても考えられなかった。
にもかかわらず、相棒は失われていた記憶を一部取り戻したらしい。よりにもよってこのタイミングでと思わなくもないが、娘共の好意が引き金になったとすれば、この状況は遅かれ早かれ必然的にやってきたのだろう。
「……聞かせろ、何があったんだ。お前の過去に」
「何故、君が?」
まるでおかしなことをとでも言いたげな表情だったが、俺は至って冷静だった。
昨日娘共に聞かれた時、俺はこいつのことを大して知らないことを理解している。だがそれは今まで、本人さえも曖昧な部分がほとんどだったからだ。何かを思い出したのなら、腰を据えて聞いておきたかった。
だから俺はこう答える。
「お前は、俺の、相棒だからだ」
■
風切り音と共に振り下ろされた模擬戦用の長剣が、頭部ユニットをかすめて通過していく。
たたらを踏むようにして避けたが、どうにも相手はそれを隙だと踏んだらしい。ジャンプブースターにまで点火して一気に間合いを詰めてくる。
猪突猛進型の相手はやりやすくていい。振り下ろされた位置で長剣を握りなおした以上、次の一撃は確実に斬り上げがくる。接近警報が鳴り響き、予想攻撃位置が表示されるがその全てを無視した。
その代わりにジャンプブースターを一瞬だけ点火して、斬り上げてくる間合いを僅かにずらしてやる。攻撃姿勢に入ったままつんのめるようにブレーキをかけた相手は、転倒を避けるためにオートバランサーの働きで機体が一瞬硬直した。
その隙はこちらが長剣を振るにはあまりに小さい。これを必殺としないのであれば一度距離をとって仕切りなおせばいいだけだが、わざわざチャンスを逃す手はないだろう。
僕は長剣を手放すと軽く膝のバネだけで跳躍しながら、空いた右手で相手の頭部ユニットに掴みかかった。勢いと自重を乗せた攻撃には流石の玉泉重工製オートバランサーも耐えきれず、相手はしっかり地面へと倒れ込む。
マウントポジションから止めとして貫手を作って首元へ突き付ければ、ホイッスルが鳴り響いた。
「そこまで! 勝者、天海恭一少尉」
わっと同じ部隊の同僚たちが沸き上がる。
その反対側では相手の隊員たちがポカンとしていた。それも当然だろう、マキナはこんな風に格闘戦をすることを想定していない。
それは自分の記憶に狂いがなければ、今も快活に笑いながら歩み寄ってくる立派な白髭を蓄えた老翁が、著書の中で語っていた言葉だったように思う。
「天海少尉、感服したよ! まさか黒鋼でうちのテストパイロットと殴り合いをしてみせるとはな」
「恐縮です、リッゲンバッハ教授」
その場でマキナを脱装して敬礼すれば、サンタクロースのような教授はうむと鷹揚に頷いて見せる。
「新進気鋭のエースパイロットとは聞いていたが、流石笹倉君の直弟子だな。まさか彼の徒手格闘技術を、対マキナ戦闘に取り入れてくるとは思わなんだが」
「黒鋼は素銅と比べてより柔軟な動きができますから。マニピュレータの強度に多少不満がありますが」
「拳が脆いか! それはワシも予想外の意見であるな! ハァッハッハッハァ!」
呵々大笑するリッゲンバッハ教授に気に入られたのは、間違いなくこの時だっただろう。
当時の僕はまだ准尉から上がりたての少尉で、笹倉中佐の指揮していた機甲歩兵大隊で新米小隊長を務めていた。年齢も20歳になったばかりだったと記憶している。
戦闘の個人戦績はそれなりによかったが、部隊の指揮経験などあるはずもなく、先任曹長から指導を受けつつ訓練を重ねていた。
そんな忙しい時期に、何を思ったか笹倉中佐が軍経由で話を回したらしく、玉泉重工から模擬試合を申し込まれたのである。
マキナ同士の格闘戦に興味がある方がいらっしゃるとだけ聞いていたので、まさかカール・ローマン・リッゲンバッハ教授というマキナ開発の権威が直々に現れるなど思いもよらない。おかげで若い自分は巌の如くガチガチに緊張したが、話をしてみれば意外とただのオッサンで気があったからなのか、これ以後何かと親睦を深めていくことになる。
この気さくなリッゲンバッハ教授だが、その内情は戦争相手国である共和国からの亡命者だった。元々は共和国のマキナメーカー、カラーフラインダストリの主席研究員であり、万能機甲歩兵論を提唱して第一世代型のフクシヤや第二世代型のヴァミリオンを作り出したが、共和国政府の腐敗に嫌気がさして家族諸共企業連合に亡命したという経歴を持つ。
とはいえ、無事企業連合に属してからはその技術力を生かし、第二世代型マキナの設計に後れを取っていた玉泉重工に協力して傑作機である黒鋼を設計。その非常に優秀な性能と堅牢さから、企業連合側が戦争において長く優位を保つ大きな力となった。
それだけ聞けば企業連合への尽力は勲章物で、伝記にもなりそうな偉人に違いないのだが、僕はこの爺さんに何かと振り回された。
なんせとにかく大酒飲みで、仕事をしていない時はもっぱら赤ら顔が基本。その時分から既に黒鋼の後継機である第三世代型マキナの設計を行っていたらしいが、何かに行き詰まる度、勲章ものの強権を振りかざして前線から自分を呼び戻し、愚痴を聞けだの意見を言えだの無茶苦茶言ってくるのだ。
最初は尊敬の念が強かったこともありそれにも付き合っていたが、徐々にそれも薄れて、僕も中々に投げやりな対応をした気がしている。特に問題視されることもなかったが。
しかし変化が起こったのは、リッゲンバッハ教授の鬱憤晴らしに付き合うようになってから、ちょうど1年後のことである。僕は小隊運営にもなんとか慣れることができ、危なげなく任務をこなしつつ、大体月1回後方に酒飲み爺から強制呼集を受けながら過ごしていた。
だからその日も、何かしら愚痴を聞いてほしいというのが理由だったと思う。
「あーっ!! お爺ちゃん、まーたお酒飲んでる!」
そんなことを言いながら突如部屋に飛び込んできたのは、小柄な金髪碧眼の美少女だった。まだまだあどけない雰囲気がしていたが、それでも顔立ちはどこかのアイドルかと思ったほどである。
だが、お爺ちゃんと呼ばれたリッゲンバッハ教授がゲェッ!? と蛙のような声を上げたので、どうにも親類であることに間違いはないらしい。サンタクロースのような教授とは驚くほど似ていなかったが、青い目は共和国人に多い特徴でもあったため、遺伝子異常だろうと無理矢理自分を納得させた。
「飲んどらん! 飲んどらんぞ!」
「誤魔化すならもうちょっとちゃんと誤魔化せ! トマトみたいな顔して、その上これだけ部屋の中が酒臭かったら子どもでもわかるわ!」
少女は素早くリッゲンバッハ教授から一升瓶を奪い去ると、それを背中に隠してキッと目じりを釣り上げる。教授は何か言い訳を口にしようとしていたようだが、少女の強い視線には耐えられず、恰幅のいい身体をギュッと小さくして、ごめんなさいと頭を下げた。
「もー、ママに怒られるの私なんだから! 呑ませるなって言われてるんだからね!」
「ぐぬ……我が娘ながら、いくら自分が忙しいからって孫娘を使うとは汚いだろう……」
「汚いのは肝臓の数値がヤバいのに、こそこそ隠れて呑んでるお爺ちゃんの方でしょーが!」
「はいそうです、爺ちゃんが悪いです、汚い糞爺です」
憎々しげに歯ぎしりをする教授だったが、途端に少女がそれを厳しく諫めれば途端に卑屈になって頭を下げる。その様子には慣れているのか、彼女は呆れて肩を竦めて見せた。
ここまで自分は完全に置いてけぼりである。目の前で茶番を見せられているとしか言いようがなく、かといって血縁者の会話に入っていくのもどうかと思って、僕はちびちびと水を口にしていた。
そんな僕の存在に気付いたらしく、少女はチラとこちらを見て顔を顰める。
「お爺ちゃん、この人は? もしかして呑み仲間――」
「待て誤解するんじゃないぞ。その人は爺ちゃんの研究を手伝ってくれている兵隊さんだ」
危うくこちらにまで火の粉が飛んでくるところだった。僕としては禁酒を言い渡されている事すら聞かされておらず、なんとすれば自分自身も酒なんてほとんど飲めない下戸だというのに、完全な冤罪で少女に裁かれるのは勘弁願いたい。
彼女は教授の言葉をふぅんと話半分に聞き、くるりとこちらへ向き直り上から下まで僕の恰好をジロジロと確認してからふむと小さく頷く。
「あなた、名前は?」
別に普通に名乗ればよかったのだろうが、妙な疑いをかけられている上に、かなり年下であろう小娘が自ら名乗りもせずに誰何してくるのである。いくらなんでも素直に名乗ってやるというのは癪だったので、僕は作り物のような満面の笑みを顔に貼りつけ、できるだけ穏やかな声で、
「はじめまして兵隊です」
と言ってやった。
すると再び少女はムスッとした表情を浮かべ、ズカズカとこちらへ歩み寄ってくると、僕の胸へ細い指を突き立てる。
「もしかして意味わかってない? 私が聞きたいのはあなたの実名、仕事じゃなくて」
「学がないものでね。ただ両親から、自ら名乗らない人間に聞かせる名前を貰わなかっただけだよ」
フッと肩を竦めてやれば、彼女は馬鹿にされていることが分かったらしく顔を真っ赤にして膨れっ面を作った。思い返してみれば、自分は随分陰湿なことをした気がするが、あの反応を見られたことを思えばそれも悪くない。
それが面白かったのか、後ろで呑兵衛翁がガッハッハッハと大笑いしたことも相まって、少女は一層の怒りに身体を震わせた。
「意地悪っ!」
「おお、なんだっけ? トマトみたい、だったか」
「うぅー……ヤな奴ぅ……わかったわよ、私から名乗ればいいんでしょ?」
フンだと言って彼女はこちらとの間に1歩半距離を取ると、尊大に腰に手を当てて全く起伏のない胸を張ってみせる。
「私はストリ・リッゲンバッハ! 14歳よ。これでいーい?」
「上出来だよお嬢さん。僕は天海恭一という、さっきも言ったが兵隊だ」
「キョーイチ……変な名前ね」
そうなのだろうか、と首を捻った。
名前に関して変だとか変でないとか言われたことがなく、まして気にしたこともない。だがどうしてか、ニヤニヤするストリの顔を見ていると感じたことの無いイライラが込み上げてくるので、近くに転がっていたストローにその包み紙を装填し、額に向かって吹き付けてやった。
「いたぁっ!? ちょ、何するのよ!」
「いきなり人の名前にケチをつけるもんじゃない」
「だって本当のことじゃない」
「それは素直に傷つくぞ」
名前だけで貶されるとは思わなんだと言えば、ストリはクスクスと笑う。
こうして僕はこの礼儀の欠片もない少女との出会いを果たしたわけだが、これより後、何の因果かしばらく僕は彼女と行動を共にすることになった。いや、なってしまったのである。