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第71話 夜鳴鳥亭の朝

 鳥の声が夜明けを告げている。

 やや肌寒い風が吹き抜ければ、嫌でも意識は泥濘たる体の底から浮き上がった。

 しかし瞼を開いたはずが、視界は一面の黒から変化しない。

 それこそ最初は寝ぼけているだけだろうと思っていたが、それが続けば流石に危機的な状態に見舞われている可能性を考慮して混乱し始める。

 まさかいきなり失明したのかという思いから、慌てて自分の顔に手を伸ばす。

 しかしそれは予想よりも手前で()()()()()()によって阻まれ、しかも何故かそれは僅かに蠢くではないか。

 

「んぅ……ファティ、くすぐったい……やめて」


 人間とは緊急時に思考が冴えるようにできているらしい。一気に自分が置かれている状況に察しがついて、僕は全身から冷や汗が噴き出した。

 それは昨晩の動乱である。

 修学旅行の夜に似た謎のハイテンションで、他に客がいないというのをいいことに、結構な暴れ方をしてしまったように思う。

 しかし原因がどうであれ、今気にするべきは先ほどの声の主であるシューニャだ。

 自分の顔面にのしかかっているという状況で彼女が覚醒してしまえば、再び大騒ぎになるのは必至である。

 ならば混乱を回避するためにすべきことは1つ。何事もなかったかのようにシューニャを隣の部屋に戻し、あとはひたすら知らぬ存ぜぬを貫くのみ。

 即興で練られた作戦に許可の印をつき、僕はそっと頭上の身体を押し出そうと再び手を触れれば、先ほどより柔らかい感覚が手に伝わった。


「んっ……あぅ……」


 響いた艶めかしい声に体が硬直する。

 今のは触れていい場所なのかという疑問が渦巻き、そんなラッキースケベは望んでいないと意識を封印する。

 ただ、冷静に考えてみれば、腕や肩以外に触れることは大体アウトである気がして、いきなり作戦が暗礁に乗り上げた。

 それでも、一次作戦の失敗程度で戦いの敗北は決まらない。たとえ自分の鼻が不思議な甘い香りを感じたとしても、それを振り切って進む力が兵士には求められる。

 今度は逆に自分の身体をずらすことで、シューニャの下からの脱出を試みた。これならばうまくいけば彼女に触れる必要はない。

 徐々に彼女の身体が頭の向こうへと転がっていく。ここに勝利を確信して息を吐いた。

 だが敵も劣勢ならば、それを覆さんと逆襲をかけてくる。シューニャは普段であれば玉匣の寝台で丸くなって眠っているが、今日は人の頭に寝ているという極端な姿勢だったためか、大きく寝返りを打って僕の頭をかき抱くと、改めて身体を丸めた。

 視界が開けたことで失明の可能性は消滅したわけだが、脱出という打開策も完全に頓挫する。

 すぅすぅと穏やかな寝息を立てるシューニャの顔が目前にあり、僕はごくりと唾を飲み下した。

 相変わらず整った顔だとかまつ毛が長いとかそんなことが頭に浮かんでは、不純だぞ天海恭一というロゴが書かれた消しゴムで端から順に消していく。

 邪な思考を振り切って、作戦を初手のどかす方向へ軌道修正する。

 何せさっきと違って状況は見えているのだから、ラッキースケベを働くこともないのだ。肩を掴んで動かし、後は抱えて隣の部屋に放り込むのみ。


「ぶぇっくしょぉいッ!! おぉ畜生、随分冷えるなオイ……」


 だが何事にも時間は有限だった。

 足元にある籠から響き渡った盛大なくしゃみが目覚ましとして機能し、薄っすらと翠玉の瞳が開かれる。

 それは最初はぼんやりとしたものだったが、硬直して引き攣った笑いを浮かべる僕へと徐々に定まった。まるでロックオンカーソルが、自動で敵機を捉えようとしているときのようである。

 至近距離で向き合う顔と顔。

 ぱちくりと瞬きを繰り返すシューニャに、穏やかにおはようと声をかければ、無表情の仮面をつける間もなく叫び声と平手打ちの音が轟いた。


「きょ、キョウイチ!? やぁっ、な、なんで、なんで同じ寝台に――!!」


 クリティカルヒットが炸裂した頬がひりひりと痛む。それ以上に冤罪を被せられかかっている心の方が痛かったが。

 彼女らと行動を共にし始めてそろそろ長くなってきたが、このところセクハラ紛いの事件が多い気がする。そしてその全てがアクシデントに起因しているため、自分に責任はないはずなのだが、まずは彼女を落ち着かせるために努めて冷静を貫いた。


「シューニャ、落ち着いて考えて欲しい。昨夜ここで何が起こったのかをだ」


「さ、昨夜――あ」


 彼女は聡い。思考も早いし柔軟だ。それゆえに一瞬で全てがつながったらしく、今度はおどおどし始めた。


「た、叩いてごめん、なさい……さっきのは驚いたから、つい」


「うん、別に気にしなくていいんだ。いいんだけど、とりあえずこの惨状を何とかしよう」


 寝台に座って周囲を見渡せば、籠に放り込まれたままのダマル以外、とんでもない惨状であった。

 早いうちにファティマからいい蹴りを貰って撃沈していた僕は、運よく寝台上へと沈んだらしい。しかしそれは寝台を1つ失うという結果を招き、以降の戦闘が一層苛烈になったのだろう。

 ファティマは屍のように床にうつ伏せで倒れ、アポロニアは壁にもたれかかったまま力尽きている。


「あの2人相打ちだったのかい?」


「同時に頭突きをしたから2人とも倒れた。おかげで私はダマルのベッドで寝られたのだけれど――夜中にトイレへ行った後、寝ぼけて入り間違えた可能性が高い」


 自分のせいだ、と小さくなるシューニャを見かねて、僕は彼女の言葉を笑い飛ばした。


「まさかシューニャに夜這いをかけられるとは思わなかったなぁ」


「そ、その言い方には誤解がある! 勘違いしただけで、み、淫らな行為に及ぼうなんて――」


「冗談だよ。事故だってことぐらいわかってる」


 ポンポンと頭を撫でれば、珍しくシューニャは頬を膨らませた。

 寝起きではそう簡単に無表情でも居られないのか、意外と変化があって新鮮である。


「か、からかわないでほしい。そういうことを言うのはダマルだけで十分」


 決してダマルのセクハラ発言がよいものだとは思わないが、骨は骨なりに皆の心をほぐそうとしていたのだろう。自分はそういう気遣いが苦手であり、骸骨ならもっとうまくフォローできたかもしれない。

 そんなことを考えながら、人骨が詰め込まれた籠へと視線を送れば、どうやって動いたのか頭蓋骨とバッチリ視線があった。


「くしゃみしたんだから起きてるよね」


「――おはようさんシューニャ。お前があんな顔するたぁ思わなかったぜ? 恭一に特別懐いてんのはニャンコだけじゃなかったかこりゃ?」


「む……覗きは悪趣味」


 彼女が強い視線を飛ばすも、普段サーヴァントのようになっているファティマが撃沈している現状では、ダマルも視線だけで押さえられるほど軟ではないらしい。


「そうピリピリすんなよ。好意っつーのは悪ぃことじゃねえんだ。つっても、そっちの朴念仁を振り向かせるんなら、直接アタックでもしねぇと無理だろうがなァ」


「僕ぁ確かに心の機微には疎いかもしれないが、朴念仁とは失礼な」


「わ、私は別にそういう風に恭一を見ているわけじゃ――」


「ねぇって言いきれるかぁ? 俺にゃあ十分恋する乙女に見えたがな!」


 僕の苦情は一切無視しつつ畳みかけたダマルだが、最後の恋する乙女でついにシューニャの顔が真っ赤に染まった。

 素早く寝台の上に投げ出されていた自身のベルトを拾ったかと思えば、なんとそこから短剣を引き抜こうとしたため、僕は慌ててその手を押さえつける。


「お、落ち着いてくれ! 落ち着くんだシューニャ!」


「放して! この骨はやっぱり敵!」


 熟れたリンゴのように真っ赤な顔と潤む涙目。そんな怒りと混乱を全力で爆発させた少女を押しとどめるのは簡単ではない。

 挙句調子に乗ったダマルは、火に油を注ぐ天才でもある。


「カーッカッカッカ! 図星か!? 図星だったか!? 俺ぁソレのどこに魅力があるのかわっかんねぇけどよ! 生娘丸出しじゃ流石に落とせねえだろ!?」


「~~~~~~っ!! 殺すっ!」


「殺せるかどうかは知らないが、馬鹿なことはやめるんだ! ダマル! ややこしくなるから口を閉じててくれ!」


 宥めようにも、物事には限度がある。

 一応、力ずくで短剣は抜かせなかった物の、彼女の怒りと混乱がそれで収まるはずもない。おかげでシューニャは柄を押さえられた短剣から手を離したかと思えば、ベルトのポーチから小さな実を取り出して、止める間もなくそれを人骨入りの籠へと投げ入れた。

 見覚えがあるそれは何と言ったか。記憶を辿る思考は、頭蓋骨の激しい悲鳴でかき消された。


「くっせぇぇえええええええ!?」


 見事眼孔へホールインワンしたらしい木の実に、頭蓋骨は下顎骨をカタカタ言わせて泣き喚く。しかし全身が解体された状態では抵抗らしい抵抗もできず、どういう仕組みか眼孔から滝のように涙が流れ出ていた。


――思い出した。ケイヤキクだ。


 以前は自分が投げつけられた時も、遠くに居たはずのダマルがアレルギー症状を引き起こしていたように思う。それをシューニャが覚えていて、攻撃に用いたのかはわからないが。

 籠に入っただけで炸裂しなかったためか、少し離れている自分は臭いを一切感じない。

 逆に体内に投入された状態のダマルは、それでもひぃひぃと悲鳴を上げている。

 加えて鋭敏な嗅覚を持つキメラリア2人にも悪臭は届いたようで、今まで倒れていたのが嘘のように揃って飛び起きた。


「ぐぇっ、誰ッスか!? 朝からケイヤキクなんて持ち込んだ輩は! ごほっ!?」


「くしゃいですー、ボクこの臭い嫌いだって言ってるじゃないですかぁ!」


 必死で鼻を押さえながら部屋を出ていく2人。なるほどこうしてみれば確かにケイヤキク(毛嫌菊)と呼ばれるのも頷ける。

 使った本人に関しては泣き叫ぶ頭骨に溜飲が下がったらしく、ダマルを無視して部屋の片づけをはじめていた。

 口は災いの元。人をからかう行為はそれなりに覚悟しなければならないと、僕は自身を強く戒めたのである。



 ■



 冷たい井戸水で顔を洗えばさっきまでの騒動も、言葉の通りに水に流れていく。

 煮沸した川水や湧き水を中心に使っていた身としては、小さいとはいえ井戸として取水設備が整備されている場所は新鮮だった。

 そんなことを思いながら、玉匣から持ち出したタオルで顔を拭いて居れば、背後から元気な挨拶が飛んできた。


「アマミさん! おはよーございまーす!」


 聞きなれない声に振り返ってみれば、そこには衣服やリネン布が天高く聳える籠が蠢いており、驚いて僅かに体が跳ねた。

 また見たことのないキメラリアかとも思ったが、籠に回された細く小さな手にあぁと小さくため息を付く。


「おはよう、ええっと――ヤスミンちゃん?」


「はい! ヤスミンです! 早いお目覚めですね」


 布の山から顔を覗かせた赤いリボンが、明るい返事をくれる。

 天高く積み上がった布の向こうから、どうやって前を見ているのか。不思議な光景に僕ははてと首を傾げたものの、彼女がそれに気付いた様子はなく、籠がドスンと下ろされる。ようやく姿が見えた少女は、背中に回されたたすきを手早く解くと、結い付けられていた大きなタライを井戸の脇へ置いた。


「洗濯かい?」


「そうなんです。昨日は一気にお客さんが居なくなったのでその残りですよ。干せる場所も少ないから、分けてやらなきゃなんです」


 そう言われて裏庭を見渡せば、物干し用らしきロープが2箇所張られているものの、とてもではないが全てを一気に干せるほどの空間はない。これは都市という、過密空間ならではの悩みだった。

 

「よっ……と」


 成程なぁと自分が納得する横で、ヤスミンは大きな鶴瓶を井戸に落として引き上げてを繰り返す。流石に彼女の椀力では水を満載した鶴瓶は重いらしく、井戸そのものに足をかけて体重を乗せて引っ張り上げていた。

 自分も使ってわかったが、この深い井戸から釣瓶を引き上げる労力は中々の物だ。それを額に汗を浮かべながら文句も言わずに行う少女を前に、流石に黙って立ち去る気にはなれなかった。


「手伝うよ、重いだろう?」


「えっ!? あ、や、大丈夫で――」


 遠慮することも計算に入れ、僕は有無を言わさずロープをひったくる。

 そしてわたわたする彼女を尻目に、軽く引き上げた鶴瓶の中身をタライにぶちまければ、ヤスミンは何度も何度も頭を下げた。


「あぁあ、ありがとうございます」


「どういたしまして。洗濯はヤスミンちゃんの担当かい?」


「はい、ヤスミンのお仕事です! お母さんからやり方を教えてもらいました」


 石鹸をタライの水に溶かして泡立て、その中に洗濯物を放り込んで素足で踏んづける。その圧倒的物量に立ち向かう姿に、僕はおおと声が出た。

 思えばアポロニアが洗濯してくれる姿さえまともに見たことがなかったため、現代では一般的であろうやり方に見とれてしまう。

 しかし流石に凝視されていてはやりにくいらしく、ヤスミンは照れたように笑った。


「うふふ、アマミさんはお洗濯見たことないんですか?」


「あ、あぁいや、僕がやっていた方法とは違うなと思ってね」


 小さな足で踏んで踏んで踏みつけて、タライから上げれば井戸水で濯いで泡を流し、また踏みつけて軽く脱水。最後に終わった物をロープへとかけてまたタライに水を入れる。

 洗濯機を用いない洗濯は、思った以上に重労働だった。

 1回のルーチンで減らせる洗濯物も少ない上に、酷い汚れの物を揉み洗いして落とす必要もあり、とんでもなく時間と根気、そして体力を必要とする作業である。


「ヤスミンちゃんは凄いなぁ」


 それは自動機械に甘え続けていた太古の人間として当然の感情だった。

 コインランドリーに洗濯物を放り込んで、電子マネーで決済すれば後は待つだけ。そんなことに面倒だと言っていた自分の贅沢さに、心底呆れはてたと言ってもいい。


「えへへ、ありがとうございます。でもお洗濯は誰でもやりますよぉ」


「うん誰でも、誰でもか……でも偉いよ。うん、偉い」


「もぉ、そんなに褒めたってヤスミンからは何も出ませんからね?」


 褒められたヤスミンは両手を頬に当ててキャッキャと嬉しそうに笑ったが、けれど洗濯する動きは一切淀まない。

 寒くとも暑くとも、彼女はこうして洗濯を行うのだろう。そんな想像が脳裏に走って、僕は勝手に尊敬の念を高めていった。


「……ヤスミンちゃんは今いくつなんだい?」


「今年で10歳になりました!」


 10歳という言葉に、頭が揺さぶられた。

 現代での成人年齢は15歳と低いが、それでもなお子供である彼女が必死で洗濯をし、遊びたい盛りだろうに文句ひとつ言わず店を手伝っている。

 自分が10歳の頃など、勉強それなり、遊びに全力。怒られないように少し親の手伝いをしていた程度に過ぎない。しかもそれは、高等軍学校に入るまで変化しなかった。

 それを思えばヤスミンのなんと健気な事か。

 凄まじい罪悪感に襲われて、僕は井戸水を汲み上げる作業を手伝いながら、彼女を全力で褒めながら他愛のない話を続けた。

 宿のこと、両親のこと、友人のこと、好きな食べ物や動物のこと、とにかく色々である。

 邪魔になるようなら速やかに退散するつもりだったが、話しているのが楽しいのかヤスミンはコロコロとよく笑った。


「えっと……おにーさん? なんで洗濯してるんですか?」


 そんな井戸端対話は、ファティマが呼びに来たことでようやく終わりを迎える。

 その頃には洗濯物の半分がロープに干されており、僅かでも健気な少女の力になれたかと思うと、僕は素直に嬉しかった。

 ただ、水汲み奴隷と化したような自分の姿を見たファティマには、心底不思議そうな顔をされてしまったが。

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