前へ次へ
70/330

第70話 夜鳴鳥亭の夜

 宿屋は1階部分が酒場となっていることが多いらしい。

 その一角、丸テーブルを囲んでいた僕らは何故か、吹き荒れる謝罪の嵐に晒されていた。


「ごめんなさぁぁぁい!」


 少女の頭が凄い勢いで上下に振られ、それに合わせて大きなリボンも激しく揺れていた。

 子どもからの、それも大泣きしながらの謝罪というのは、ひたすら罪悪感が沸き上がってくるばかりで拷問に等しいことがよくわかった。おかげで僕はとにかく泣き止ませようと必死になる。


「謝らなくていいよ。悲しい事故じゃないか。だから頭を上げてくれ」


「うぅ……はいぃ」


 僕の言葉にようやくキツツキのような動きが止まる。

 大きな目に涙を溜めて鼻をすする少女は、見た目以上に小さくなっていた。

 しかし予期せぬ出会い頭事故の被害者であるシューニャは、キャスケット帽のつばを持ち上げながら赤くなった額をさすっていた。


「……ヤスミンは相変わらず。もう少し落ち着いた方がいい」


 彼女の言葉に少女は謝罪の嵐を再開しそうになったが、しかしキャスケットから覗いたエメラルドのような瞳にあっと声を上げた。


「も、もしかしてシューニャさんですか!?」


「久しぶり」


「わ、わ、わ、おとーさーん!」


 そういってシューニャが脱帽してみせれば、少女は慌ててカウンターの向こうへと駆けていく。


「知り合いなのかい?」


「2年前にユライアシティに滞在した時もここを利用していた。あの子ももっと小さかったけれど、子供の成長は早い」


 無表情のままで懐かしむような言葉を発するシューニャが、どうにも微笑ましく思えてつい頬を緩めると、彼女からは何が可笑しいのかと非難の目を向けられた。

 その様子にダマルがカカカと笑えば、隣からファティマが爪を輝かせたのでぴたりと骨も動きを止める。


「しかしヤスミンか……そういうお茶があったな」


「えっ、ご主人ってお茶嗜んだりする系の人だったッスか!? あんな高級品、貴族様の飲み物ッスよ?」


 大きく両手を挙げてアポロニアは驚愕を表現する。話題を変えるために適当なことを口走っただけだが、どうやら現代では余程高価であるらしい。

 思い返せばバックサイドサークルで茶葉は一切売られておらず、飲食店で提供されている雰囲気もなかった。そもそもこれまで飲料など、水か酒かジュースくらいしか目にしていない。

 この中では果実を絞ったジュースが比較的高価だったように思うが、ではそれくらいなのかと問えば、アポロニアはガックリと崩れ落ちた。


「ご主人の金銭感覚はどうかしてるッス……ジュースは高くても銅貨15枚ってとこで庶民の贅沢ッスけど、お茶は銀貨が無いととても買えないッスよ」


「――そんな馬鹿な」


 現代における茶の価値に愕然とする。

 800年前、スーパーマーケットの棚に並んだお徳用茶葉の数々にペットボトルに入った激安のお茶。それらを現代に持ち込めばあっという間に成金のできあがりだ。

 自分は特別お茶好きだったというわけではないが、800年引くことの1ヶ月近く飲んでいないと、作戦室などで並べられていた安物の緑茶さえ恋しくなってきていたのだ。

 それが貴族の飲み物だなどと言われても信じられるはずもない。


「いや、だってお茶だよ? こう、これくらいの大袋に入ってて……現代なら銅貨1枚で買える感じで売られてたんだが。パックに入ってた奴なんかだったら下手すれば青銅貨数十枚で」


「あり得ないッス。あれは御貴族様の飲み物で自分たちなんて、目にすることもほとんどないッスから」


「ボクも見たことないですね」


 あからさまに非常識だと告げる4つの目。

 これには流石に耐えがたく、僕はやや無理矢理でも会話路線の変更を強いられた。


「あー……シューニャ? 現代にもジャスミンはあるのかい?」


 それは素朴な疑問だった。

 何かと軍で提供される安物の緑茶に飽きていたことから、よく買って飲んでいたな、という程度の適当な記憶である。

 建前上は運よくジャスミン茶というものが作れるなら、仕事になるのではないかという下心も添えておく。

 しかしその問いに対してシューニャは首を傾げた。


「じゃすみん――とは何?」


「えーっと、白い花、かな?」


 いざ聞き返されるとジャスミンが何物かなど、僕はほとんど知らないため返答に困る。

 白い花というのも、ペットボトル飲料のラベルにそんな絵があったことを思い出しただけに過ぎない。

 そんな曖昧な情報だったのがいけないのか、無情にもシューニャは首を横に振った。


「白い花は沢山あるけれど、聞いたことがない」


 名前が異なっている可能性はあるかもしれないが、自分の知識では見分ける術もない。

 早くも建前上のジャスミン茶製造計画は頓挫したわけだが、であれば1つわからないこともある。


「じゃあ、あの子の茉莉花(ヤスミン)って名前は?」


「ヤスミンは安らぎを司る女神の名前ッスよ。結構人気のある神様なんで、大体の町には祠があるんじゃないッスかね?」


「安らぎの女神」


 アポロニアが口にした答えに、ダマルと顔を見合わせる。多分、兜の中で骸骨も同じことを思ったのだろう。

 自分たちの今までの解釈は、世界は長い時が過ぎただけで繋がっており、けれどその途中で文明崩壊という大きな切れ目の発生により、過去の人間は滅び去ったというものだ。

 だが全くのゼロからやり直したというには、腑に落ちない点が増えてきた。

 自分たち以外の何者かが部分的に文明を伝えている。言葉がまったく同じ共通語でありながら、文字には一切繋がりがないなどその最たるものだろう。そして安らぎの女神に茉莉花の名前を与えた者は、疑いようもなく過去を知る人間だ。

 800年前の文明が滅んだ理由を知ったところで、僕が生きていることに変わりはない。それでも知りたいと思うのは、シューニャと同じ知識欲からなのだろうか。


「おお、シューニャさん。お久しぶりです」


 しかしその思考はカウンターから出てきた黒いエプロンを腰に巻いた男性によって中断させられた。

 落ち着いた物腰でシューニャに話しかけると、その手を握って優しく微笑んでいる。

 こけた頬とぷつぷつと生えた髭はどことなく不健康に見えるが、目じりに刻まれた皺からは人の好さが感じられた。髪の色と目の色が同じであることからヤスミンの父親なのだろう。


「ハイスラーは少し痩せたように見える」


「ははは、これは手厳しい。しかし妻から細身の男性が好みだと言われれば、努力するのは夫の性でしょう」


「惚気も相変わらずで安心した。またしばらく滞在させてほしい」


 そう言ってシューニャが僕らを紹介する。

 するとハイスラーと呼ばれた男性は、テーブルにつく一同を見回してほぉと感嘆した。


「以前はソロだったというのに、随分と大所帯になられましたな。今はブレインワーカーとして正式契約を?」


「ん……そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。とりあえずリーダーは彼」


 彼女が言い淀んだのは、コレクタユニオンがどのように自分たちを管理されているかわからないからだろう。

 シューニャとファティマがメンバーなのかもしれないし、もしかすると自分1人で組織とされている可能性もある。情報の正確性を大切にするシューニャらしい反応だった。

 無論、ハイスラーにしてみれば他愛のない雑談だったに違いない。客商売であることも含めて深くは踏み込まず、そうですかとだけ言って僕の方へと向き直る。


「アマミさん、でしたね。夜鳴鳥亭のオーナー、ハイスラー・コッペルと申します。よろしければハイスラーとお呼びください」


「ご丁寧にどうも。さっそくで申し訳ないんですが、2部屋お願いできますか」


 この言葉にハイスラーの表情が僅かに固くなった気がした。

 しかしそのあとに男女で部屋を分けておきたいと続けたところ再び柔らかい笑みが戻る。


「そういうことでしたら、部屋は空いていますのでお使いください」


「ありがとうございます。あと何泊するかも決まっていないんですが、前金で1週間分払っておけば大丈夫でしょうか?」


「ええ結構です。1週間を過ぎるようでしたら、また追加でお支払いください。ヤスミン、ご案内して」


 その場でハイスラーに2部屋1週間分の料金を支払えば、それを確認して彼はにっこりと微笑み、カウンターに声をかける。

 呼ばれてパタパタと飛び出してくるヤスミンは、出会い頭事故の大泣きから復旧しており、明るい笑顔を綻ばせた。


「はぁーい! では皆さま、こちらへどうぞ」


 客室案内は彼女の仕事なのか、手慣れた様子でこちらを先導しながら階段を上っていく。

 その後に続けば蝋燭に照らされた背の低い廊下に扉が並んでおり、ヤスミンはその廊下の最奥でくるりと向き直った。


「この2部屋をご利用ください。左の部屋の方が広いので、そちらが女性の方がいいと思います」


「じゃあそうさせてもらおう。ありがとう」


「いえ、何かありましたらいつでもお呼びつけくださいませ!」


 簡単な説明を終えた少女は、ぺこりと頭を下げて廊下を戻っていく。扉でシューニャをサンドイッチにした彼女とは、まるで別人のようなしっかりとした対応だった。

 おかげで僕は、あわてんぼうの子供という評価を上方修正させられている。

 ダマルと共に右の部屋へ踏み込めば、木で作られた寝台に薄いマットレスとリネン、そして藁を詰めてあるであろう枕が置かれていた。それ以外は木を編んだ籠が2つと簡素な机に燭台、肘掛け椅子が2つに飾り棚、一応床には獣の皮が敷かれている。


「カぁーっ……マぁジでこんな感じなんだな、現代」


「僕は前に似たような宿に泊まったけどね」


「玉匣の簡易寝台で娘共が喜ぶわけだぜ。お前の判断は間違っちゃいなかったな」


 そう言ってダマルは自分に割り当てられたベッドに、使い慣れたシュラフを敷き始めた。

 以前宿屋泊を経験していた僕は、ベッドの状況が悪いことを知っていた。その対策として、いつもの寝床であるシュラフを持ち出したのである。

 もちろん宿によってベッドの質が違う可能性もあった。しかし夜鳴鳥亭の寝台は想像通りのもので、綿詰めのマットレスは煎餅布団以下の薄さであり、その下には枕と同じように藁を詰め込んだクッションが2つ配されているだけで、お世辞にも柔らかいとは言えない。

 ただしこれに軍用シュラフを加えれば、分厚いマットの上に寝袋を置いたようなものであり、快適性は大きく改善する。

 揃って寝床を整え、ついでに荷物を整理して一息ついたころ、部屋にノックの音が転がり込んだ。


「キョウイチ、ダマル、いい?」


「どうぞ」


 許可を得て部屋に入ってきたのはポンチョとキャスケット帽を脱いだシューニャと、武装一切を外して身軽になったファティマの2人である。

 しかし部屋を見た彼女らは、ベッドの様子に気付いたらしく驚きの声を上げた。


「あぁっ! おにーさんたちズルいですよ! ベッドロール持ってきてるじゃないですか!」


「しまった! こんなに早くバレちまうとは!」


 急いでシュラフを隠そうとするダマルに対し、問答無用とファティマが飛び掛かる。

 骸骨は抵抗も空しく、ぐわーという叫び声と共に解体された挙句、編籠あみかごにまとめて放り込まれ、瞬く間にベッドは彼女の手に落ちた。


「んふー……ベッドロールがあると、木のベッドもいい感じですねぇ」


「確かに」


 化繊のシュラフを両手を交互に動かして揉みこんだファティマは、柔らかさを堪能して満足したのかその場で丸くなる。普段ならばシューニャは彼女を諫めてくれそうなものだが、残念ながらその気はないらしく僕の寝台へ座り込んでほふぅと息を吐いた。


「キョウイチ、これは共有するべきだと提案する」


「無理言うんじゃありません」


 予備も含めて3つしかないのだ。その内1つはアポロニア用の物だが、荷物が増えすぎることを理由に玉匣の座席に放置してきてしまっている。

 5人が2つのシュラフを共有することなど物理的に不可能だ。そんなことは最初からシューニャとて重々理解しているはず。

 つまり彼女は、自分たちだけ甘い汁を吸おうとした男性陣に対し、それなりに怒っていたのだろうと思う。


「では所有権を賭けて戦争を」


「おー、それなら公平ですね」


 無表情の瞳に戦意が宿り、隣ではファティマが口を三日月にして笑う。

 既にダマルが撃破されたことで、彼女らにとって残る敵は僕とアポロニアだけ。2人残れば決着というデスマッチに、ファティマがシューニャを狙うことはないことを考えれば、こちらが明らかに劣勢だった。なにせアポロニアは未だに戦闘に加わってすらいないのだから。

 ここで彼女らにベッドロールを譲れば、戦火の拡大は防げた可能性はある。しかし武力行使をちらつかせた恫喝に屈して、簡単に安眠を手放すのは雇い主としていただけない。

 一度臨戦態勢をとれば、頭が自動的に作戦をひねり出す。

 敵戦力を考えれば格闘能力の低いシューニャは無視し、圧倒的なパワーを誇るファティマに集中せねばなるまい。初手を外させて押さえ込めばこちらの勝ち、1発貰えばこちらの負けだ。

 互いに距離を測って身構える。何かの衝撃があれば、きっとその場から取っ組み合いになっただろう。

 ただし、戦争には運の悪い犠牲者がつきものだということを忘れてはならない。


「お待たせし――ってなんスかこの殺伐とした感じ?」


「しゃぁっ!」


 扉を開けて入ってきたアポロニアは理解不能な状況に硬直してしまった。それが運の尽きである。

 敵になりうる存在が何も知らないなら、それは何も知らない内に消したほうがはるかに楽。そう判断したファティマは、両足と体のバネでベッドを蹴って宙を舞い、無防備な犬娘に躍りかかった。


「ちょ、な、まっ……キャーンッ!?」


 戦闘態勢を整えていなかった中立国の彼女はたちまち悲鳴を上げ、それが開戦の鏑矢となったのである。

前へ次へ目次