第60話 ヒロイックテイルと野性の夕暮れ(後編)
――待て待て落ち着け落ち着くんだ自分。信じろ理性を、砕け野生を。
首を素早く動かして周囲の状況を確認する。異臭もしなければ謎の湿り気もない。
強いて言えばファティマの頭から不思議と甘い香りがすることくらいである。だが、それを意識して違うそうじゃないと唸った。
深呼吸を1つ。
とにかく状況をファティマ本人に説明してもらおうと、僕はその肩をゆっくりと揺すった。
「ぁむ……あ、おにーさぁん……おはよーございます」
「お、おはようファティ」
意識してしまったせいか、暗闇の中でボンヤリと相好を崩すファティマの表情に頬が熱くなった。おかげで僕が挨拶に混ぜた笑顔は空前絶後のぎこちなさだったに違いない。
まるで本物の猫のように前足から順に身体を伸ばし、最後に大きな欠伸を1つしてから彼女ははたと僕の方を見て固まる。
それは信じられないものを見た時の反応であり、ゴシゴシと目を擦ってから、再度金色の瞳でこちらを捉えて首を傾げた。
「あれ? なんでおにーさんがボクの寝床に居て、なんで今が夜なんですか?」
「そりゃこっちが聞きたいんだ。なんせ僕にはここがファティの寝台じゃないことくらいしかわからない」
「んーと? なんでおにーさんとボクが、一緒に――寝て?」
そこまで言って硬直する猫娘。いつもはユラユラと揺れる尻尾さえ、凍り付いたかのように動かなくなれば、部屋は静寂に包まれた。
階下からの歓声が聞こえているが、何故か非常に音が遠く感じられる。
そんな長い沈黙の後、ファティマは茹でられたかのように顔を赤く染めていった。
「おに、おに、おにさん、おにーさん、ぼぼぼぼぼぼぼぼ」
「落ち着いてくれファティ、ぼじゃ言いたいことがわからない」
寝台で身体を起こした僕はそっと彼女に手を伸ばしたものの、何故か凄まじい反射速度の猫パンチで弾かれてしまう。
そしてファティマは軽く身を翻すと、部屋の隅まで一気に後退し毛を逆立ててフシャーと叫んだ。
ここまで大混乱されると逆に自分は冷静になってくる。合わせて二日酔いの頭痛が復活したため、額を押さえながら話すことになったが。
「ファティ、もしかして君がここまで運んでくれたのかい?」
「えぅっ……そ、そう、ですよ? じゃ、なくてですッ!」
ブンブンと首を振れば、大きな耳が羽のように振り回され、ややあってからしゅんとしなだれる。全身を緊張させ続けていることに疲れたのか、倍ほどに膨らんでいた尻尾も力なくだらりと垂れ下がった。
「お、にーさん、ボクに何かしました?」
「目覚めてからは何も。起こしただけだ」
「ほんとーに?」
「本当に」
彼女はジッとこちらを睨んでいたが、しばらくして納得したように歩み寄ってくると、さっきまでとは打って変わって自らベッドの横に腰を下ろした。
「女の人を触ったりするのは、よくないことですからね。おにーさんでもダメですよ」
「分かってるよ。恋人って訳でもないんだから」
そもそもの前提条件が間違っていると、僕は肩を竦めてみせる。
すると何故かファティマはムッと眉間に皺を寄せ、ぐっと顔をこちらへ寄せてきた。
「やっぱりおにーさんはそっち系なんですか」
「何故そうなる。これでも健康な男子だ。恋愛対象は女性だよ」
出会ったばかりの夜と同じ問答に、ないないと僕は首を振る。
しかし、ファティマはあの日と違って、だったらと、身体を寄せてくる。
「それって、ボクには触りたくなるような魅力がない、って意味ですか?」
ふぅんと言って流されると思っていただけに、この反応には驚かされた。
確かにファティマは懐いてくれているように思う。
しかしその度に只の自惚れだと一笑に付していたことから、この発言は意外だったのだ。
「何を言いだすんだ。いやその、ファティは十分魅力的だと思うが――」
「じゃあ……もしかして、おにーさんはボクのこと、嫌いですか?」
大きな耳が聞きたくないとばかりに後ろに傾く。
それはまるで捨てられたくないと言っているように聞こえて、彼女の中で自分がどういう存在かなどという些末な問題を一瞬でゴミ箱に投げ捨てる。
今朝シューニャに対して父性から庇護欲を感じた気がしたが、それは彼女に限った事ではないのだろう。
それこそ慕ってくれている仲間に対してなら、惜しむ必要はどこにもなく、僕は表情筋をようやく緩めることができた。
「そんなことあるわけないだろう。嫌いな相手と旅を続けられるほど、僕はお人好しじゃない」
ぐしゃぐしゃとオレンジ色の髪を撫でる。
ファティマはしばらく釈然としない表情をしていたが、やがてゆっくりと僕の手を両手で握りこんだ。
「ファティ?」
「ボクは愛とか恋ってよくわからないんです。親のことも知らないですし、今までずーっと戦うことだけしてきましたから、それしかできません」
まるで祈るような姿勢になった彼女は、鎧戸の向こうから差し込む薄い月光に照らされて白く輝く。
その独白はどこか神々しく、けれど何故かとても儚いように自分の目に映り、そこに居るのは普段飄々としている少女ではないようだった。
「けど、おにーさんはボクより強いです。だから、いつか役立たずだって捨てられるんじゃないかって不安で……ボクはおにーさんに嫌われたくないんです」
握られた手は微かに震え、光を反射する金色の瞳は不安に揺れる。
けれど、そこまでの不安を抱きながらなお、信頼と好意を向けてくれる少女が素直に愛おしかった。
いつも泰然としている姿から忘れていたが、彼女はまだ17歳だ。それも壮絶な人生を歩んできて、未だにキメラリアという種族の枷はどこかで彼女を苦しめている。
――僕が差し出せるものは何だろうな。
思いつくすべては所詮エゴイズムであろう。ならばと理屈は全て投げ捨てて、結局残ったのは、細い体を抱きしめてやることだけだった。
「僕にとってもファティは大事な家族だと思ってる。家族を捨てるようなことを、するわけないだろう?」
「……信じていいんですか? ボク、好きなものにはしつこいですよ」
小さく鼻をすする音が聞こえる。
1人で思い詰めるくらいなら、普段から飄々としている必要なんてどこにもない。
「むしろ、信じてもらえないと背中も預けられない。前にも言っただろう、ファティには助けられてるんだ」
ポンポンと軽く頭を撫でれば小さな嗚咽が漏れる。しかし腕の中で顔を上げたファティは笑っていた。
自分が大人として情けないと思う。それどころか心の機微を感じてすらやれない自身を、大人と呼ぶこと自体間違っているのかもしれない。
それに戦う以外何もできないのは僕も同じなのだ。ミクスチャとの戦いを終えた夢の中で、笹倉大隊長が叫んでいた言葉がそれを強く物語っている。
『それとも誰かを好きになるのが怖いか? そんなだからお前はいつまでも無謀な戦い方しかできんのだ!』
いつからか、また何が原因かは全く思い出せない。けれど、大切な人を置いて死ぬことを恐れていることだけは事実だった。
ただし今この瞬間だけは、ぐりぐりと頭を擦り付けてくるファティマの姿に、些末なことだと思考を切り捨てた。
「おにーさん」
「ん?」
ゆっくりと身体を離しながらファティマは両手を僕の肩に置き、赤く染まった頬を隠そうともしないで彼女はゆっくりと体重をかけてくる。
抵抗しそこねた僕は再びベッドの上に倒され、身軽なファティマが馬乗りの姿勢になる。
様子がおかしいことに気付いたのはこの時だろう。
奇妙な光を宿した瞳は蕩け、上気した頬はどこか酔っ払ったような雰囲気なのだ
「ちょ、ファティ? ファティマさん!?」
「ボク……なんだか身体が、とっても熱くなってきて……ねぇ、これどうしたらいいですかぁ、おにぃさぁん?」
危機感が体に走る。何が起こっているのかわからないが、とにかく逃げろと頭が警鐘を鳴らした。
だが、ファティマはキメラリアであり、ただの人間である自分が力で抗えるはずもない。その上、馬乗りで押さえ込まれた状態では、藻掻く事さえ困難である。
「ふわふわしてるのに、とってもドキドキで……ボク、凄く切ないですよぉ」
「お、落ち着けファティ! 急になんだいこれ!? 毒か何か盛られたか!?」
やけに色っぽい目をしたファティマは、自分の胸甲を器用に片手で外すと、更にその下に着ていた皮製のインナーを脱ぎ捨てようと手をかけていく。
「この熱くて切ないの、おにぃさんは、埋めてくれますか? ねぇ、ねぇ」
綺麗な形をした胸が、今にも服の内から露になりそうだという時に、まるで目を離せないのは自分の意志が弱い故か。
それでも、最早ここまでと自暴自棄になる事だけは、全力で堪え続け。
「そこまでッスよーっ!」
「ファティっ!!」
結果、天は自分に味方した。
彼女の柔肌が見えるか見えないかというところで、突如盛大な音と共に部屋の扉が蹴破られ、2人の救世主は舞い降りる。
廊下側からの光で影しか見えない彼女らは、手に持った何かをこちらへ向かって大きく振った。
「お?」
普段より明らかに鈍い反応を返したファティマには、ほぼ見えていなかっただろう。
甕に並々と入れられた水が、自分の頭部に向かってぶちまけられている様などは。
■
「咄嗟とはいえ、ごめん」
シューニャは全身ずぶ濡れなった僕を、布で拭きながら何度も何度も謝った。
「いや、むしろ助かったよ。だから謝らないでくれ」
申し訳なさそうに身体を縮こまらせる彼女を宥めながら、しかし、僕は先のファティマの異常な行動に首を捻っていた。
なんせシューニャ達が乱入してくれなければ、今頃どうなっていたかわからないのだ。それこそ一時的な流れだけで、ファティマを傷つけた可能性も否定はできない。
「……あれは、なんだったんだろうか」
奥でアポロニアから尋問を受けつつ、同じように身体を拭かれているファティマへ視線を向ける。
するとシューニャは非常に言いづらそうに、けれどハッキリとその答えを口にした。
「ファティが起こしたのは、その……発情というキメラリア特有の変化。キョウイチには、きちんと知らせておくべきだった」
「発情? それは動物のような、というか」
話題の内容が不健全方面である為か、シューニャは恥ずかしそうに頬を染めつつ、しかし、今後のためにと思ってくれたのか、意を決したような表情を浮かべてこちらに向き合った。
「キメラリアには、動物と違って発情に特定の時期はない。逆に本人が強く望んだり、興奮するような環境が生まれると、ああして発情してしまう可能性が常にある、と言われてる」
「そうなのか……厄介だな」
「ファティは特別。普通、キメラリアたちは発情を抑えこむ術を、親から教わっているもの。けれど、あの子はそれが欠けていたから、今回のようなことになったんだと思う」
幼くして奴隷だったという、特殊な環境における弊害だろう、とシューニャは語る。
しかし、現代における成人年齢から、既にファティマは2年が経っていることを考えれば、少し疑問が残った。
「今までにもこういう事故が?」
「少なくとも私は見たことがない。だからこそ、今まで気にしたこともなかった」
彼女はそう言って、ごめんなさいと項垂れる。責任を追求されるとしたら、むしろ酒に呑まれて倒れていた自分の方だろうに。
だが、謝る必要なんて、と言いかけた矢先、背後でギィと蝶番が鳴いた。
「これは重症ッスよ……発情したときのこと、ほとんど覚えてないみたいッス」
呆れ顔で頭を搔くアポロニア。ファティマもそれに続いて、頬を染めながら俯きがちに歩み出てきた。
「覚えてないって……そんなことあるのかい?」
「は、はい」
本人も相当混乱しているのだろう。何かを探るように、ファティマは断片的に、自分の中で起こった変化を口にした。
「ボク、おにーさんに抱っこされて、嬉しかったことまでは覚えてるんです。けど、そこから先はなんだか全部ぼんやりしてて、気づいた時にはずぶ濡れで――シューニャ?」
「なんでもない、続けて」
一瞬、シューニャの視線が険しくなったような。しかし、ファティマが首をかしげると、彼女はいつも通りの涼しい顔で続きを促して見せる。
「あの、ボク、おにーさんに何か、酷いことしませんでしたか?」
自分の記憶が曖昧というのは不安なものである。故に彼女は耳を伏せながら、怯えたような表情を浮かべていた。
とはいえ記憶喪失に関して言えば、自分ほど感覚を理解できる人間も珍しいに違いない。
「大丈夫、何もされていないから」
何もなかったのだとハッキリ伝えれば、ようやくファティマはホッと胸を撫でおろす。ついでに一連の話を聞いていたアポロニアもやれやれと両手を挙げた。
「猫が初心なのは知ってたッスけど、まさか発情を抑える方法まで知らないとは思わなかったッス。まぁこれからは自分が教えるんで、暴走はないと思ってもらって大丈夫ッスよ」
「そりゃあ何よりだ。一応、後学のために聞いておきたいんだが、抑えるっていうのはそう簡単な物なのかい?」
自分に何ができるわけでもないだろうが、知識としては持っておきたいと言えば、アポロニアは少し悩んでから、わかったと頷いてくれる。
「体が発情しようとする感覚を掴むのが大事ッスね。それがわかっちゃえば、とにかく意識を逸らすことに集中してれば避けられるッス。余所事を考えるとか、最悪は口の中に苦い薬を仕込む、なんて方法もあるッスよ」
発情のサインを感じてから実際に発情するまで、そこが重要なポイントだと彼女は言う。また一度発情に失敗すると、しばらくはその状態に陥らないのだとも教えてくれた。
それはキメラリアにとって、貞操の自衛手段でもあるらしい。発情という特性を悪用されれば、性犯罪等に悪用されかねないこともあり、発情を制御する技術の習得は重要なのだとか。
「とまぁ、色々大変なんッスよ。逆に発情しないと子どもが絶対作れないってのもあるんスけどね」
「そ、そうかい」
腰に手を当ててカラカラと笑って見せるアポロニアだが、僕はとんでもないことを聞いてしまった気がして頭を掻いた。
今までの話は知識として黙って聞いていたシューニャも、子作りという内容が挟まった事で顔を逸らす。ファティマに至ってはさっき自分が陥った状況がそうだったと言われているようなもので、顔を赤らめるどころかむしろ青くなっていた。
「ボク、危うくおかーさんになってたかもしれないんですか……?」
「ご主人の鋼の意志に感謝するんスね。それと、何が原因でそうなったのか、ちゃーんとご主人と話しといたほうがいいッスよ。自分たちは聞かないッスから」
「う……ありがとうございます」
珍しく素直に頭を下げるファティマに、調子が狂うとアポロニアは頬を掻きながら、シューニャをつれて部屋を出ていった。
彼女らが居なくなったことで部屋が静まり返ると、急にファティマは尻尾を足に巻き付けてもじもじと身体を動かしはじめる。
なんせ年頃の娘なのだ。自ら言い出すのは恥ずかしいのだろうと考えた僕は、こちらから話題を切り出した。
「ファティ、どこから体調がおかしくなったかはわかるかい?」
「えっと……おにーさんが捨てないって約束してくれて、抱っこしてもらって、嬉しいなって、あったかいなって思ってたら、急に体が熱くなってきて、それから」
「抱きしめていたことが原因かな。肌を近づけすぎたのが不味かったのかもね」
それならばスキンシップを控えればいいというだけで、対処は簡単である。
しかし、自分なりの暫定的な策を伝えようと顔を上げれば、爛々と金色の瞳を輝かせるファティマの顔が目の前に迫っており、驚きのあまり声が喉の奥に引っ込んだ。
「ボク、おにーさんに撫でてもらいたいです。抱っこもしてほしいです」
「し、しかしそれでは、また今日みたいな事故が起こる可能性も――」
「犬からちゃんと教えてもらいます。だから、おにーさんは何も気にしないで、なでなでしてくれていーんです」
更に近づいてくる顔に体が反り返る。額がぶつからなかったのが不思議なくらいだ。
何がそこまでの気迫を持たせるのかはわからないが、一切の二言を許さない勢いに僕は一瞬で屈した。
「りょ、了解、しました」
「じゃあ、そういうことで」
カクカクと頷く僕に、ようやくファティマは影を落とした輝く瞳を収めてくれる。
それどころか上機嫌に笑うと、弾んだ調子で部屋を出て行った。
「年頃の娘というのは、本当に難しいなぁ――ヒッ!?」
そんな年寄り発言を呟きながら彼女の出て行った扉を眺めると、そこから4つの目がこちらをジッと睨んでいた。
「キョウイチ、ちょっと話が」
「ご主人、自分からもいいッスか」
地獄の第2ラウンド。その開始を告げるゴングが鳴り響いたのを、僕は確かに聞いたのである。