第53話 隠密渡河作戦
帝国軍大部隊は丸1日の休養を終え、歩兵騎兵が投石器を牽引するボスルスを囲む形で前哨基地を出発した。到着から翌々日の早朝の事である。
これによって駐屯部隊は大きく数を減らし、それも夜の帳が下りれば人間の動きも疎らになってくる。
空に雲はないものの、弓の如く細長い月は大地を照らすに弱く、闇に沈む世界に響くのは轟轟たる川の流れだけ。
背後に母国を控えることもあってか、前哨基地の西側防御は非常に薄い。
橋の西詰には物見櫓が2基と詰所が立っているものの、防御柵は低く簡易な物で、どちらかと言えば野獣の襲撃を防ぐ目的の方が大きい風にも見える。
防衛戦力は篝火を光源として櫓の上から周囲を見張る4名の兵士と、入口を固める数人の歩哨だった。
その内の1人がプラプラと手を挙げて同僚に告げる。
「ちょっとションベンしてくる」
「おう。早く戻れよ」
真面目そうな同僚は声色を変えずにそう返す。
しかしそれは、用を足しに向かう歩哨からすれば、ただの堅物的な存在としか見えなかった。
帝国側へ浸透している王国軍の小部隊は確かに存在する。しかしそれらは先日の豪雨に退路を断たれて孤立無援であろう。その日の食料を求めて補給部隊などを襲っているらしいが、川水が引くまでそんなことが続けられるはずもなく早晩駆逐されるのは目に見えている。
だから彼は同僚の言葉を鼻で笑う。
「王国軍の連中がどれだけ間抜けでも、いきなり基地を襲撃はしてこねぇだろ。返り討ちだぜ?」
「ふん……だが気を抜くなよ。あいつらは狡猾だからな」
同僚は不満そうだったが、敵国を過大評価して腰抜け呼ばわりされることは避けたかったのか、それ以上何を言うでもなく視線を再び闇に向ける。
まったく不器用な男だと歩哨は彼を嘲笑しつつ、川に面した斜面へ立って下履きをずらした。僅かに走った悪寒は夜の寒さか、あるいは放尿の快感か。
別段気にすることもないと大口を開けて欠伸を1つ。不寝番は眠気に耐えるのが一番の苦痛であり、乗り越えるためには翌朝から飲める酒の味を妄想するくらいしかない。
まさかその口を何者かが押さえ込んでくるなど、彼は思いもよらなかったが。
声を出すこともできないまま、首が燃えるように熱くなり、続いて身体に力が入らなくなって地面へと倒れ込む。
きっと彼には何が起こったか分からなかったことだろう。それを考える時間も与えられないまま、首から滔々と溢れる赤い液体は川水の一部となって消えていった。
■
まったく無警戒な奴が居たものだと思う。
しかし川の傍から防御陣地に侵入を試みたこちらからすれば、この歩哨が不真面目だったことに救われたと言っていい。用を足す際にまで警戒をし続ける者は珍しいが、そうであった場合は自分たちの場所は早くも露見していただろう。
僕は消音器を取り付けた自動小銃片手に、暗視装置を使って周囲を警戒しつつ、後ろからついてきているアポロニアに指示を出した。
「アポロ、武器の回収を」
「え、えげつなーい……」
彼女はその背後で先ほどの亡骸から屈曲した刀身を持つククリを抜き取る。正規兵のグラディウスでないのは、この兵士個人の所有品だからだろう。
「次は前の奴を潰す。その後アポロは北の物見櫓に上って無力化してくれ。僕は手前を同時に無力化する」
「了解ッス」
意思の疎通を確認し、僕は物陰に身を隠しつつゆっくりと前哨基地へ近づいていく。
その背後でアポロニアは小さく呟いた。
「本当に同じご主人なんッスよね……?」
無論、僕は僕でしかない。それを口に出すことは作戦中ということもあってしなかったが。
小さく開けられた勝手口で、先ほど会話していた相手の歩哨へ接近する。
真面目そうな彼は先に警戒すべき場所を理解しているらしく、ちょうど物見櫓の死角に当たる位置のいくつかへ視線を飛ばしている。その思考は褒めるべき部分もあるが、自分の背後から接近する気配に気づかない程の集中は減点だろう。
先ほどと同じように口を押さえ込んでからコンバットナイフで首を一閃すれば、兵士は血の泡を吹く間もなくその場に転がった。
亡骸を明かりの届かない川に面する斜面へ移動させれば、物陰から物陰へと素早く駆けていくアポロニアの姿が目に入った。元々が斥候兵だったことに加えて種族由来の小柄さと機敏さは、隠密作戦に特化していると言える。
そういう意味で今回の人選は正解だった。何せダマルは骨の音がうるさすぎて隠れることに向かず、ファティマは乱戦に強いもののどこか間の抜けた部分があって扱いづらいのだ。
アポロニアの戦闘評価を一部分引き上げたところで、僕は南の物見櫓へと駆けあがる。
梯子の入口から頭を出せば、兵士の1人が人の気配に気づいたのか、背を向けたまま声をかけてきた。
「交代時間か?今日はやけに早いな」
誰何さえしないまま交代要員が来たと勘違いしているのは、兵士としてあまりにも滑稽な姿だった。それも2人揃ってその様子なのだから、ツーマンセルの意味もなく僕は内心で呆れかえってしまう。
しかしこちらが何も答えないまま南を望む1人の背後に立つと。ようやく違和感に気付いたらしい兵士が振り返ろうとして、その首にナイフの刃が突き立った。
「カ……が?」
血の泡を吹きながら倒れた勢いでナイフを抜き取れば、東を見ていたもう1人に返す手で投げつける。
「てっ、敵しゅ―――ぎッ!?」
狙い違わず顔面に刃が突き刺さる。よろよろと後退した兵士はそのまま物見櫓から転落しかかって、危うく僕は足を掴んで阻止した。
役に立たない兵士だとはいえ、死体が落下したりすれば警報として機能する可能性もある。ここで敵に囲まれる馬鹿だけは犯したくない。
ギリギリで床へ引き摺り戻しナイフを引き抜いて反対の物見櫓を見れば、アポロニアがちょうど1人目に躍りかかったところだった。暗視装置を外して自動小銃のスコープを覗き込めば、上手く仕留め損ねたのか1人目と鍔迫り合いになり2人目が警鐘を打ち慣らそうと腕を振り上げた。
――剣の腕は課題ありだな。だが、十分だ。
距離にして100メートルもない相手など、部隊の中で狙撃訓練が苦手だった自分でも十分に当てられる。サプレッサーから空気の抜けるような小さな音が漏れると同時に、鐘を打とうとしていた兵士の兜が弾けてその場に倒れ込む。
すぐにアポロニアが打ち合っていた兵士にレティクルを合わせれば、突如倒れた味方に驚いた隙を突かれたらしく、アポロニアのククリを腹から生やしていた。
これで警報を鳴らせる人間は居ない。そこからは驚くほど容易く、残存していた歩哨は櫓からの狙撃であっという間に全滅させられた。
「西詰クリア。玉匣前進せよ」
『玉匣了解、櫓の前に停めてやるから着装準備体制で待ってろよ』
「了解」
無線を切断し反対の物見櫓で待機しているアポロニアに、手振りで合流するように指示を出す。
アステリオンは決して目がいいわけではないが、事前に伝えてあった手振りなので理解できたらしく素早く彼女は広場を突っ切って南の物見櫓の下へ合流した。
「怪我は?」
「無傷ッス。あと戦利品も」
ニィと犬歯を覗かせてアポロニアが見せてきたのは2つの革袋だった。
待機している間に暇を持て余したのだろう。開いてみれば銅貨が詰まった財布で、僅かばかり銀貨も見て取れる。
現代戦の常なのだろうがあまり褒められた行為ではないなぁと苦笑いしていれば、間を置かずにギャラギャラという喧しい履帯の音が聞こえはじめ、背の高い草を押し分けて玉匣が突入してきた。
目の前に停車すると同時に僕は後部ハッチを開き、素早く翡翠を着装しはじめる。
逆に僕がスタンバイしている間は手薄となる防御をカバーするため、ファティマとアポロニアが外で警戒し、ダマルも玉匣の砲手席で外を睨んでいた。
モニター上に表示される右腕のアクチュエーター稼働率低下警告を視線で消し、突撃銃と携帯式電磁加速砲を背に固定。手には収束波光長剣を携えてハッチを出る。
すると運転席からシューニャが無線を飛ばしてきた。
『帝国兵相手には、武装が過剰な気がする』
ミクスチャを相手にしたときとほとんど同じ装備だと、彼女は疑問に思ったらしい。
だが今回、あまりに物々しく武装した目的は別にある。
『玉匣を軽量化するためだよ。別に使うわけじゃない』
『橋の強度を気にしている?』
『そういうこと』
ダマルからは、弾薬が勿体ないから使うな、と口酸っぱく言われているのだ。
攪乱のために使えるのは弾薬制限のない長剣1本とハーモニックブレードくらいのもので、背中に抱えた武器は全てデッドウェイトに過ぎない。
昔なら考えられないくらい非効率な戦い方だが、それも現代では許容される問題なのだ。言い換えれば、それくらいにマキナは非常識な戦力ということになる。
『ダマル、僕が東詰に到着してから30秒後に渡河を開始してくれ』
『あいよぉ』
骨だけに身の入らない返事を確認し、僕は翡翠を橋の上へと進ませた。
先ほどの戦闘時よりも余程強い緊張が走る。玉匣ほどではないにせよマキナはかなりの重量物であり、それも荷重を2本の脚に集中している厄介ぶりなのだから。
海兵隊が使っていた水陸両用特務機の不銹であれば水中でも問題なく渡河できただろう。
あるいは翡翠単体ならば、ジャンプブースターで川を越えることぐらいは造作もない。
だが自分の後には玉匣が控えている以上、その耐久試験も兼ねて歩く必要があった。何せこんなところで我が家を失うことは避けたいのだから。
僕は軋む音に鼓動を早めながら、分厚い木の板を踏んで進んだ。
そんな緊張とは裏腹に、橋桁はマキナの重量に問題なく耐え抜いている。それどころか余程堅牢に作られたらしく、上で跳ねても多少は耐えられるのではと思う程だった。
橋の東詰に近づくにつれ翡翠を徐々に加速させていく。徐々に前哨基地の防壁が大きくなってくる。
そうして川を3分の2程を過ぎた頃、異変は突如対岸から訪れた。
――叫び声?
それは絶叫に近いような荒々しいものなのに、けれど不思議なことにどこか無秩序ではない。
自分の古ぼけた勘が、ヒリつくような懐かしい空気を鋭敏に感じ取り、続いて聞こえてきた金属が打ち合わされる音に身体が強張った。
『先客が居るらしい。ダマル、渡河を早めてくれ』