第52話 国の狭間にて
「グラデーションゾーン?」
僕はシチューを片手に首を傾げると、前でシューニャは小さく頷いた。
焚火の炎が照らす周囲を見渡してみれば、確かにロックピラーとは少々毛色が変わりつつある。
「この辺りは植物や地質が急激に変化している。ロックピラーと接する辺りは乾燥しているけれど、反対のグラスヒルに近づけば豊かな自然が広がる不思議な場所」
「じゃあこっから先は、一面茶色の面白くねぇ景色じゃなくなるってことか」
悪くねぇ、とダマルはパンを咀嚼しながらモニョモニョ話す。
同じくグラデーションゾーンに足を踏み入れたことがないらしいアポロニアは、フサフサの尻尾を大きく振って興味を示した。
反対にファティマは特に関心もないらしく、手元のシチューを啜りながら器用に欠伸を漏らす。
では自分はといえば、環境変化と言われて疑問が浮かんでいた。
「となるとそのグラデーションゾーンというのは、かなり広さのある地域になりそうだが……」
荒野のロックピラーから突如草原が現れるとなれば、貧相な自分の頭ではイメージが湧かない。そもそも、そんなパッチワーク状の環境変化が自然に存在するとは思えず、大きく環境が変化するというのなら、やはりそれなりの距離が必要になるのではないか。
だが、自分なりの安直な想像を、シューニャは首を小さく横に振ることで否定した。
「この地域は南北に長いけれど東西は短い。だから変化は急激で、その理由がわかっていない。だから、不思議」
はぁー、と気の抜けた声をダマルが出す。まるで夢物語だ。
一応にも800年が過ぎたとはいえ自分たちが住んでいた世界に変わりはなく、であるからこそ急激な環境変化がある地域など聞いたこともない。ショコウノミヤコの位置から考えても、環境変化だけで研究材料となりえるような場所はなかったはずである。
「昔の地図がありゃよかったんだがなぁ……データの欠損がひどすぎて使いものにならねぇんだよ」
「でも聞いたことはないね。ロックピラーのテーブルマウンテンもなかったんだし、800年の間にとんでもない環境変化でもあったんだろう」
予想できるのは人類による重大な汚染によるものだ。かの文明が滅んだ理由を問われれば、戦争か汚染かが理由の筆頭に上がるくらいには酷かったはず。
とはいえ、それを口に出すのはやめておいた。一瞬喋ってしまいそうになった僕を、ギラついたエメラルドの瞳が捉えていたからである。ニュースで聞いた程度の情報しか持たない自分が、過去文明の汚点について一晩中語らされるのは、拷問に他ならない。
微妙な笑いで誤魔化した僕をシューニャはジト目で見ていたが、やがて諦めたのか、改めてグラデーションゾーンから先の進路を語った。
「現在位置から東へ進めば戦争の前線があるはず。できればどちらの国家軍にも見つからずに抜けたいところ」
「最悪両方敵になりかねないもんなぁ。あのデカブツの首でも持ってくりゃよかったか?」
「ロンゲン軍団長の首と一緒に旅するのは嫌っすねぇ……」
カッカッカと笑うダマルと対照的に、気分が悪そうに顔をしかめるアポロニア。
ミクスチャの死体をずっと引き摺っていたことさえ、気持ちのいいものではなかったというのに、わざわざ人の首を持って長距離移動など正気の沙汰ではない。
唯一ファティマだけはそうですか? と首を傾げていたが、彼女は一部の倫理観が激しくズレているため努めて無視することに決め、僕は話の筋を元に戻した。
「その国境線というのは?」
「グラデーションゾーンの国境線は細い川が目印。地域を東西に分断する形になっている」
「橋はあるんだよね?」
「ない。でも底が見えるくらい浅い川だから、渡るのは容易」
成程、と僕は納得した。
元々国家間の流通路だったはずの道である。そこに川が横たわっていながら橋を作らないと言うのは不可解極まるが、渡ることが容易であれば建設も大工事で維持にも労力が必要な橋梁をわざわざ設置することもないだろう。
そして獣車程度が渡れるような河川であれば、装甲車である玉匣にとって障害とはなり得ない。
おかげで僕はそう心配することもないかと楽観的な思考になり、アポロニアお手製の美味しいシチューを啜った。
■
想像していただきたい。
底が全く見えない茶色く濁った水、物凄い勢いで流れていく倒木と岩。自然に作られた堤防がゴリゴリと削れ、早い流れがそれを押し切って外へと流れ出す。
「細い、川?」
説明と現実が違いすぎて鼻水が出そうになった。
玉匣から外へ出て眺めた景色は、轟轟と音を立てて流れる幅広の激流である。川の向こう岸までは何百メートルあるのかもわからない。
その奔流に巻き込まれたらしい、フウライと呼ばれるアンテロープに似た草食動物が流れていくのも見えた。
「あの、シューニャさん、これが言ってた奴ですかね……?」
我らが臨時社会科教師に視線を向ければ、彼女は無表情の仮面を溶接した顔で小さく呟いた。
「豪雨」
「あ、あぁー……あったね」
言われてみればそうだ。ロックピラーで遭遇した猛烈な雨はグラデーションゾーンにも降っていたらしい。乾燥帯では恵みの雨だったのだろうが、こちらでは細い川水を地形すら呑み込むような激流に変えていた。
シャルトルズは元々水陸両用としては作られていない。それこそ渡河用のオプション装備でもあれば別だが、現状の玉匣でここへ飛び込むのは、完全に自殺行為だった。
「これ、水が引くまでどれくらいかかるだろう」
明日明後日で落ち着くようには見えないが、奇抜な自然がある以上常識を覆してくれる可能性を捨てきれず、僕は期待を込めてシューニャに問うた。
「数週間くらい?」
「ごはん無くなっちゃいますね」
あっけらかんと言われてしまっては、食い下がることもできない。
架橋車両やホバークラフトがあれば話は別だが、現代にはそういった文明の利器も、それらを操る人員もない。
「昨日も聞いたが、橋はないんだよね?」
「ない。ファティの言う通り食料も持たないから、引き返すことを進言する」
ぐぅと僕は唸った。
可能な限りバックサイドサークルには戻りたくないのだ。
グランマの近くに居れば厄介事を持ち掛けられそうであり、それは全力で遠慮したい。その上、帝国軍も駐留しているのだから交戦も必至であり、これでは戻ろうという気すら起きないのも当然だろう。
さりとて、帝国の町村に逃げ込むこともできないのでは、最早八方塞がりである。
「作戦会議だね……僕の頭じゃ安全策が浮かばない」
そう簡単にいい案が出されるとは思えなかったが、とりあえず全員から意見を聞こうと玉匣のハッチへ手をかける。
しかしそれは、骸骨の緊迫した声に遮られた。
「警戒! 近くにデカい生体反応だ!」
瞬時に頭の中でスイッチが切り替わる。
勢いよく後部ハッチを開け放って、砲手席に潜り込むとレーダー情報を凝視した。
「随分多いな。大部隊か巨大な群れか」
そこに映っていたのは複数の白い光点である。
敵味方不明なのは識別装置を持たない相手の全てに対して発されるが、移動速度や集団性から人間の可能性が極めて高い。
「全員乗った」
『おし、掴まってろよ』
シューニャとファティマが車内へ戻ってくると同時に、ダマルは玉匣を茂みに向かって前進させる。
その間も光点は規則性を持って動き続けているため、僕はアポロニアに意見を求めることにした。
「アポロ、砲手席に」
「ほいほい――何ッスか?」
ひょっこりと顔を覗かせた彼女は、その小柄さを利用してこちらの背中に貼りついてくる。ポニーテールが僕の肩を撫でた。
微かに石鹸の香りを感じながら、僕は指でモニターの1点を指さす。
「この形は、何科の陣形だろうか?」
「んぇ? あー……この光ってるのが人なら、防御方陣っぽいッスねぇ……中央の穴は多分兵器ッスから、小部隊で襲ってくる敵を警戒してるんじゃないッスか?」
僕を押しのけながら画面を食い入るように見つめた彼女は、長方形気味な四角形の光点を見てうーんと唸った。
兵器と言われて戦史博物館の朧げな記憶を掘り返す。しかし、僕が何かを思い出すより早く、アポロニアはその予想を口にする。
「会戦で使うつもりなら投石器ッス。フォートサザーランドで最新型が組み立てられてるって聞いたことがあるッスよ」
「最新型……かぁ」
「まぁご主人の武器見ちゃうと、古いとか新しいとかないッスけどね」
決して馬鹿にしているつもりはないが、投石器に新しいとか古いとか言われてもピンとこないのだ。
それをアポロニアは理解してくれたようで、苦笑を顔に浮かべていた。
とはいえ、気になることもある。
「カタパルトの射程ってどれくらいなんだい?」
「自分は後備兵ッスから、実際飛ばしてるのは見たことないッスけど……でも、野戦用の奴なんて小さいッスから、川の向こうまで飛ばすなんて無理だと思うッスよ?」
彼女の答えに僕は疑問を更に深くし、顎に手を当てて唸った。
このあたりを主戦場とする軍隊ならば、川の増水はよく理解できているはずだ。にもかかわらず、わざわざ対岸へ届かないカタパルトを運んできた意味が理解できない。
敵の拠点があるのなら話は別だろうが、この濁流が国境である以上、少なくとも西岸に王国軍の基地はないだろう。
「ダマル、視認範囲まで近づいてくれ」
『ぁあ? なんで?』
「帝国軍は地勢にも詳しいはずだ。なのにわざわざ行軍してきたってことは、この川を渡る手段を持っている可能性がある」
『なるほどな。そんじゃあ、覗き野郎になるとしますかね』
ダマルはすぐに納得したらしく、茂みから茂みへと玉匣を移動させながら近づき始める。
レーダーの光点は徐々に近づき、やがて望遠状態のモニターに兵士の一団が映り込んだ。
だが、僕は列をなす兵士ではなく、その後ろに見える施設に目を奪われることとなった。
『おい、橋はないはずだろ?』
本日2度目となるシューニャ先生の間違いである。
木製橋梁の上を、ボスルスに牽かれた投石器と兵士の一団が、非常に低速で移動しているのが見えたのだ。
その言葉を聞いたシューニャはいそいそと砲手席へ入ってくると、一層窮屈な中、アポロニアを押しのけて望遠先の光景を睨みつけた。
「ぐえっ……ちょ、せ、狭いッス……」
「――本当に橋がある……このあたり雨が降るとこんな風に増水して、作った橋がすぐに流されてしまうから、豪雨の後は自然と休戦するはずなのに」
自らの知識に誤りがあったと、彼女は大いに凹む。
どうやら帝国軍は大部隊が渡河することが難しい濁流を制し、架橋することに成功したらしい。奇襲作戦にしては事前準備に時間がかかりすぎるような気もするが、相手の意表をつくという意味では悪くない考え方だ。
僕の隣でアポロニアは項垂れるシューニャを押し返しつつ、モニターに映った兵力を見てうへぇと声を上げる。
「あの規模の部隊って、会戦か攻城戦でもするつもりッスかね」
光点だけでは判断できない密集した兵の数。橋の上を兵器を護衛する部隊が進み、その両端には大部隊が襲撃を警戒してか厳戒態勢を取っていた。
しかも対岸側には木塀が築かれた前哨基地らしき地点まで備えられており、帝国側のやる気がよく理解できた。
とはいえ、それはこちらにとってどうでもいい話であり、僕は立派なその橋梁にほくそ笑んだ。
「あれなら渡れるかもね」
『まぁそりゃ……重量を分散させればいけるかもな』
カタパルトは駄載獣が2頭引きでを牽引しており、それが同時に2台渡っている。周囲には護衛の兵士も居ることを思えば、その耐荷重は中々の物だ。
『だが、連中のど真ん中を突っ切るつもりか?』
いきなり血の気の多いこったとダマルは笑うが、僕は何も部隊が蟻のように集結している中を突破しようと言うのではない。
橋の周囲に前哨基地が築かれていることも考えれば、この橋は帝国軍にとっては生命線と言える。
そしてこの場合あの基地は防御陣地ではなく、長期間戦闘を続けるための物資集積所としての役割が大きいと考えるべきだろう。そこへ投石器を含めた大部隊がやってきたということは、近いうちに攻撃へ打って出る可能性が高い。
大部隊さえ出払ってしまえば、基地の守備兵力だけとなるはず。それぐらいならば、バックサイドサークルに帰るよりも余程安全と言えた。
「敵大部隊が離れたら、夜闇に乗じて西岸側の衛兵を無音無力化。続いて翡翠を着装し橋頭保を襲撃。その混乱に乗じて玉匣は橋梁を突破。東へ向かって逃走――こんな感じでどうだろう?」
「マキナの分も重量が軽減されて安全だってか? ったく、特殊部隊は考えることがえげつねえんだよ」
「安全に行動できる可能性を、少しでも上げたいだけだよ」
ただでさえ補給に難があるという状況で、真正面から馬鹿正直にぶち当たるのは割に合わない。
加えて、破れかぶれになった敵軍に橋を落とされでもしたら、その時点で作戦は失敗であり、下手をすれば全員が溺死させられかねないのだ。
その対策として、隠密と暗殺だけで敵を排除すると僕が言えば、反対意見は誰からも出なかった。