第37話 湯浴みのひととき(後編)
キョウイチたちと交代で、私はそっと湯に浸かった。
普段は冷たい水で身体を清めていることもあって、身体を沈めた途端に自然と吐息が漏れた。
「贅沢……」
「ぞわぞわしますねぇ。ボクはあんまり得意じゃないです」
普段は表情を作ることが苦手で固まっている顔も、全身が温められては簡単に溶け出してしまいそうに思う私に対し、ファティマは立ったままでしきりに体を揺すって落ち着かない。
アポロニアはタマクシゲの方を睨みながらではあったが、肩まで湯に浸かって満足気であり、もぞもぞ動き続けるファティマにニヤニヤした表情を送る。
「やっぱり猫は水気が嫌いッスかぁ? 勿体ないッスねぇ」
「むー、犬の癖に言ってくれるじゃないですか」
負けていられるかとファティマは一気に顔までを沈めたが、瞬く間に立ち上がると大きく体を震わせた。
派手に水しぶきが飛び散り、隣に居た私の顔に降り注ぐ。
「ファティ、座って」
「うぅ……なんでシューニャは平気なんですかぁ?」
落ち着いて風呂を楽しみたい私は、表情一つ変えずに彼女の手を引いて湯に沈める。
それでもしばらくはもぞもぞと動いていたが、やがて諦めたようにその場で体育座りになって、ようやく静かになった。
ブラッド・バイトの多数生息する危険地帯で入浴など正気ではないと私は考え続けていたが、いざ湯に浸かっていると気持ちは簡単に緩む。
周囲は見通しの良い平地であり、湯浴みを終えた2人が警戒していれば危険もそうないだろうと、珍しく楽観的な思考が浮かんできて可笑しかった。
――いつから自分は、彼らをこんなにも信頼したのだろう。
ぼんやり上がる湯気を眺めながら考えるのは、キョウイチとダマルのことだ。
最初は救助された恩と知識欲から、彼らについて行く決意をしたのは間違いない。
今更ながらにそれが賭けに近い行為だったと思いもするが、今日に至るまでを思い出してみれば、私はこの賭けに大勝ちしたと言えた。
なんせ彼らは謎が多い以外、本当にただの世間知らずであり、加えて自分とファティマを守ろうと奔走してくれた善人でもあったのだから。
湯にふやかされてかもしれないが、自分の頬が僅かに緩んだように思う。
「シューニャさんも笑うんッスね」
「……さんはいらない。貴女は私を人間じゃないと思ってる?」
自分は木石ではないぞと、私は不満の視線を投げたが、対するアポロニアは苦笑しながらそうじゃないと手を振った。僅かに揺れた水面が鎖骨のあたりをくすぐってくる。
「じゃあその、シューニャ、でいいッスかね? 今までほとんどずーっと無表情だったから、何考えてるのかわからないと思ってたんッスよ」
「失礼」
感情表現が苦手なことは重々自覚しているとはいえ、それをハッキリと指摘されて面白いわけもない。
特に今まで生きてきた中では、メリットよりもデメリットの方が多かったのだ。他人からは人形だと揶揄されたことも多く、不愛想を理由に白い目で見られることもあった。
そんな過去を思い出したせいで、自然と視線が厳しくなったらしい。アポロニアは僅かに身を震わせたが、何かを少し考えてから後ろ頭を掻いて笑った。
「自分は付き合いも全然短いッスから、誰かの気持ちを理解するなんてとても無理ッスけど――」
やや言いにくそうに、だが、最後の方には少し嫌らしい笑みと半目で。
「ちょっと笑った方が、シューニャは可愛いッスよ。ご主人も、そう思ってんじゃないッスか?」
「ッ……だから、何」
僅かに反応が遅れたことに、私自身がとても驚かされた。
――今、何故自分は動揺した?
可愛いと言われたことではない。そんな何処にでも転がっていそうなお世辞などに興味はないし、それで感情を揺らせるほど子供ではないと思っている。
だが、ご主人という言葉に子供ではないはずの感情はいとも容易く揺すられ、今までに感じたことのない衝撃が、自分の鼓動を早くしている。
胸がうるさいほどに脈をうつことは、強いて言えば今まで見てきた同世代の恋愛に多かったように思う。だが、経験のない自分には絶対と言えるほどの確信が持てなかった。
水面を睨んで悩む私に、アポロニアは心底不思議そうな声を出す。
「おや、もしかして違ってたッスか? ご主人に救われたって聞いてたから、こう英雄の冒険譚みたいに淡い恋心とか」
旅芸人や吟遊詩人が演目として英雄の物語を演ずることは多い。だが、あんな極端な例などそれこそ子供が語る夢物語ではないか。
しかし、自分の身に降りかかったことは状況的に酷似しており、その後の経過に違いはあれど類似点も少なくない。
しばらく思案した結果、解明できないのは結局自分の心だという結論に落ち着いた。となればそれ以外の理論はどこへ転がしても仮説のままなので、私は素直に首を振る。
「わからない」
「苦手そうッスもんねぇ」
そう言って犬娘は苦笑する。どこか馬鹿にされている気もしたが、苦手どころか未経験では話にもならないと私は口を噤んだ。
するとアポロニアはニンマリと意地悪そうな笑みを浮かべ、ついでに大きな胸も湯に浮かべながらこちらに迫ってきた。
「じゃあ、自分が盗っちゃってもいいッスよね?」
「表現がおかしい。彼は誰かの所有物ではない」
僅かに走った胸の疼きに、再び疑問を覚える。しかし、これ以上弱点を見せたくもないため、平静の仮面を入念に貼りなおして事実だけを突きつけた。
だというのに、アポロニアは一層楽しそうに鼻を鳴らし、小さく牙を見せて目を細める。
「そうッスねぇ、誰の物でもないなら、誰かの物になっちゃっても仕方ないッス」
彼女がしているのは言葉遊びに過ぎない。しかし、そうと分かっていながら平静の仮面はいとも簡単に剥がれそうになり、私は押し黙った。
制御できない感情がもどかしく、悔しい。挙句、苦しいと思っている癖に、何かを楽しんでいる自分が居ることにも腹が立つ。
まるで迷宮に迷い込んだようだった。壁に手をついて歩いているはずなのに、いつまでも同じ景色が連続していて最適解という出口に辿り着けず、膝から崩れ落ちそうになっている。
しかし迷宮であるならば、唐突に壁が崩れることもあるらしい。
「ガボぁッ!?」
「おにーさんならボクも欲しいですよ」
ようやくのことで湯に慣れて来たらしいファティマが、横からアポロニアを直下に沈めたのである。
見事に首を押さえているらしく、暫くアポロニアは水面から手足だけを出して暴れていたが、やがて彼女がそれを解放すると一気に水面を突き破って立ち上がった。
その時に胸が大きく揺れて水滴が飛び散った光景には、それなりに衝撃を受けたが。
「ぶぁっはぁ!? ゲッホゲホ……いきなり何しやがるッスか!? マジで、マジで溺れ死ぬとこだったッスよ」
「ケーカカンサツって言われてる立場なのに、おにーさんに色目使った罰です」
「れ、恋愛くらい自由であるべきだと思うッス」
そんな苦情もファティマの大きな耳には入らないらしい。明らかに無視されているとわかると、アポロニアは垂れ下がった尻尾で派手に湯を跳ね散らして揺らし叫んだ。
「キメラリアの捕虜にああも優しいなんておかしいじゃないッスか! そりゃ惚れられてでもいなきゃありえないッスよ!」
「お湯で頭がゆで卵みたいになってるんですかぁ?」
ファティマは小首を傾げながら眉でハの字を作った。その明らかに小馬鹿にした態度に、アポロニアがグルルと唸りを上げる。
力で劣るアステリオンが凄んだところで、高い戦闘能力を誇るケットが揺らぐはずもない。しかしファティマは表情を穏やかなものに変えると、タマクシゲの方へと視線を流した。
「おにーさんは誰にでも優しいんですよ。ボクみたいなリベレイタのために
夢見る乙女、というには少々血生臭いが、少なくともファティマはキョウイチに親愛以上の何かを感じているらしい。
それは恩や感謝から生じた物なのだろうか。だとすれば自分にも同じものが当てはまると、今まで一切興味関心を払わなかった事象を、私はつぶさに観察していた。
対するアポロニアもあぁ、と声を漏らす。
「猫を助けるためとは聞いてたッスけど……やっぱり突き抜けた変わり者ってことに間違いなさそうッスねぇ」
乾いた笑いだったが、思った通りの人だと分厚い犬耳が左右に流れる。
変わり者。
それは今まで自分に向けられていた言葉だった。何事にも知ることに貪欲な私を周囲はそう言って敬遠して、裏では人の心を持たない人形だなどと笑っていたはず。
おかげで反吐が出るほど嫌いだった言葉である。だというのに、キョウイチを指して言った彼女らに、不思議と不快感は感じない。むしろ僅かな親しみすら覚えていた。
『ちょっと笑った方が、シューニャは可愛いッスよ。ご主人も、そう思ってんじゃないッスか?』
頭でリピートされるアポロニアの言葉に、また少し頬が緩む。
彼の前で笑ってみたら何かが変わるのだろうか、などと、全く似合わない想像をしている自分が居た。
そんな甘い妄想を遮ったのは、ほかならぬキョウイチの声だったが。
『警急! 南南東に未確認の生体反応、悪いが風呂から上がってくれ!』
■
ちょうど玉匣の後方に、派手な土煙が立ち上がっている。
翡翠を着装した僕は車上で狙撃銃を構えながら、レーダーが捉えた目標であろうそれらを指向していた。
『大発生とは聞いていたが、これは言葉の通りすぎるなぁ……』
『まるで
モニターに表示されたレーダー画像を埋め尽くさん勢いで、ブラッド・バイトはこちらへ迫っていた。
今の自分たちに、それだけの相手を同時に攻撃する手段はなく、突撃を抑止するための防壁や塹壕を準備する時間もない。
『サーモバリック爆弾でも落としてやりてぇぞ』
『僕も近接航空支援を要請したいが、とにかく全力退避だ。あんなのに轢き殺されるのだけはごめんだからね』
言うや否や、玉匣は全力での退避行動を開始した。
群れの端まで逃げ切ろうという作戦だが、相手の総数が見えない以上ほぼ賭けであり、追いつかれた段階で交戦は絶対である。
踏み込まれるアクセルにエーテル機関が唸りを上げ、履帯は地面を抉りながら車体を驀進させた。
『ブラッド・バイトは何を食ったらあんなに増えるんだい』
環境に適合しているというだけでは、とても説明がつけられない大発生である。ただでさえロックピラーには植物も動物もほとんど生息しているようには見えないのに、地面を埋め尽くすほどの群れをどうすれば維持できるのか。
この質問にはシューニャも無線機越しに小さく唸った。
『元々ブラッド・バイトはより南方のレッサー・グラデーションゾーンに生息していて、本来は3、4匹の小さな群れを形成するだけで生息数も少ない。食性は肉食性ながら、魚を主に捕食する――はず』
『魚好き以外全然当てはまらないんだが……』
今も土煙を上げながら津波のように押し寄せる生物が、小規模の群れしか作らないとか、生息数が少ないとか言われても納得できるわけがない。
それを目の当たりにしているシューニャも、知識と現実の齟齬が大きすぎるのか言葉を濁した。
『食性からの考えれば、レッサー・グラデーションゾーンには水源が少なく、フラットアンドアーチは水源が豊富なことに理由がある気はする。けれど……それでもこれほどに増えては魚が食いつくされる方が早いように思えて、正直わからない』
『食料を求めて大移動をしている、とか?』
食いつくしたから次の場所へ、というパターンならば現実的だろうと僕は想像したが、シューニャはそれでも疑問が残ると呟く。
『あれは元々高速移動を続けられるような持久力のある生物ではないし、食料が減少すれば共食いを始めると思う。大移動そのものが違和感』
仮説の綻びに、彼女はどうにも納得できないらしい。
しかし考えている内にも、スコープ越しに見える群れの先頭は徐々に大きくなってくる。レーダーの光点に嘘はなく、凄まじい大群が陽炎に揺れながら猛進を続けていた。
しかし、それだけではないらしいとダマルが叫ぶ。
『レーダー上に新たな反応だ! あの巨大カバにしちゃ小さいぞ?』
レーダーの察知限界付近、ブラッド・バイトの群れの後端部に、それは映り込んだ。
ブラッド・バイトよりも余程小さいが、結構な数が同一方向に進んでいる。
『あの群れを追っているということは、ブラッド・バイトを捕食するような生物が居るのか?』
『幼獣ならともかく、基本的にブラッド・バイトを襲うような生物は居ない。それに、あんな群れを襲うような生物なんて居るわけが――』
ない、と言いかけて彼女は言葉を切った。
それから暫く無線機からは短い呼吸が聞こえるばかりだったが、やがて机を叩くような音が響き渡る。
『違う、動物じゃない』
『動物じゃないって、それは……一体どういう?』
理解が及ばないと、僕はスコープを覗き込んだままで無線機越しに疑問を投げた。
まさかレティクルの中で、ブラッド・バイトが天高く舞い上がろうとは思いもよらなかったが。
『群体ミクスチャ』
震える彼女の声に、僕は小さく息を呑んだ。