第34話 なんでもない夕餉前の一幕
大地が夕闇に沈む頃、玉匣は泉の傍で停車した。
今まで視界のほとんどを埋め尽くしていたテーブルマウンテンは標高を下げ、開けた場所が増え始めている。それはつまり、フラットアンドアーチにかなり接近していることを意味していた。
周囲に人間や野性動物の姿はなく、危険がないことを確認して、僕は下車の許可を出す。
それに合わせて、長く車内で揺られていた面々はようやくと外へ出ると、大きく伸びをして身体を解していた。
それから間もなく、ファティマがアポロニアを伴って夕食の準備を始め、ダマルは運転に疲れたと泉に生えていた木に背を預けて電子タバコを吹かす。
対する僕はといえば、シューニャからブラッドバイトについての説明を受けていた。
「ブラッドバイトは外皮以外が極端に熱に弱く、体内に火傷を負わせられれば致命傷になる。だから普通は火矢を口に打ち込んで倒し、焼けていない範囲の皮を剥ぎ取って使う」
「用途としては何がある?」
「普通は高級な鎧の材料になる。ブラッドバイト革の鎧は金属鎧より軽く、それでいて斬撃にも打撃にも強い。でも、今日使った武器で攻撃すると全体が燃えて使えなくなってしまうから、私たちでは手に入れにくい」
今回は戦力評価と防衛戦闘だったため、あれが最良の手段だったことは間違いない。
しかし、鎧の材料と言われると少々勿体なかった気もしてくる。
ファティマが着ている鎧は、この仕事が終われば全て返却しなければならない。その際の交換用にできることを思えば、軽くて強い鎧というのは実に彼女向きな代物だった。
「ということは、素材を求めるならハーモニックブレードでの接近戦がいいか……あれなら焼くようなことにはならないだろうし」
「……よくわからないけれど、それで簡単に狩れるならいい資金源になる。町に持っていけば売り先にも困らないはず」
それほど珍しい品だと彼女は続けた。
実際、1匹狩猟するのに何人も死者を出しかねない相手である。出回ることも稀なのだろう。
「町……かぁ」
現代の町を想像してみる。それはきっと自分の知っているものとは、大きく異なるのだろう。
文明レベルの隔たりは余りにも大きく、現代を生きる人々に己が紛れ込むことは、酷く歪に思えた。
「なんで僕はあの場所に入れられてたんだろうねぇ」
「理由なんて今更だろ? 何があったか知らねぇが、文明が滅んだあとでも生きてられてるんだ。文句言うのは贅沢ってもんだぜ」
一服を終えたらしいダマルは、呆れたように言いながら僕の隣に腰を下ろした。
800年前、自分は特殊部隊所属とはいえ一山いくらの尉官であり、ダマルもまた整備中隊の整備班長に過ぎなかったと聞いている。
それに対して、生命保管システムに登録されていた人名は
どうすればそこに天海恭一という名が刻まれるのだろうか。
ダマルに関してはデータが破損していて名前は見れなかったが、どちらにせよ異質が過ぎる。
「キョウイチ」
「ん?」
考えこんでいた僕の隣に、いつの間にかブラッドバイトの皮を片付けてシューニャが座っていた。
その表情は相変わらずの鉄仮面だったが、何かを言いづらそうに口籠っている。
知識量は大人顔負けどころではないシューニャとはいえ、実年齢から見ればまだ子供である。女子高生が大人の男に聞きづらいことくらい多々あるだろう。
だからこそ、僕は努めて柔らかい声でシューニャに問う。
「なんだい、言ってごらん」
彼女は驚いたように目を見開き、やがて胸を押さえながらおずおずと質問を口にした。
「キョウイチは、会いたいと思う? その、貴方と同じ、太古の人に」
「うーん……それはどうかな」
800年前の記憶に、家族や恋人の姿はない。
様々な知り合いの顔が浮かんでは消えていき、しかしそのどれもが会えるならば会いたいが、と言った程度にとどまっている。
その中で順位をつけるなら、自分の近接格闘術の師でもある大隊長、笹倉大佐には会いたいと言えるだろう。逆に会いたくない方では、高月師団長が筆頭だろうか。
しかし、そんな彼らもすぐに霧散して消えていった。
自分は他人への執着が薄いのではないかと苦笑してしまう。であれば、友人でもない見知らぬ人に会いたいかという問いへの答えはハッキリしている。
「ない、だろうねぇ」
「何故?」
少し安心したような表情で、しかしシューニャはそんなことを言う。
「うーん……最初からずっと1人だったなら会いたかったかもしれないけど」
思えば目覚めてからここまで、僕は1人になったことがほとんどない。
最初の1ヶ月ほどは準備作業に忙殺され、外に出てからは食料確保と情報収集に奔走し、あれよあれよという間にシューニャ達が加わった。そこからはむしろ、騒がしいくらいの日々と言えるだろう。
そう思えば、僕は自然と答えに行きついた。
ついつい零れた笑みに、シューニャが首を左へと倒す。
「いや、そうだね。君たちに救われているんだろう」
「私……たちに?」
「ダマルが居なければ玉匣も翡翠も動かせないから、僕はあの施設で狂っていたかもしれない。シューニャとファティマに会わなければ、僕らは早晩野盗になっていただろうしね」
シューニャはふと俯いた。何かを考えているのか、前髪に表情も見えない。
代わりに料理をしていたアポロニアが戻ってきて、木椀をびしりと掲げたことで彼女の方へと向き直る。
「はいッ! 自分は、自分はどうッスか!」
「うーん、今はまだ捕虜ってだけかなぁ」
「ちょっ、酷い!? 地図、地図出したッス! あれ自分の命より重い機密だって言われてたんスよぉ……」
自分の覚悟を返してほしいと泣き叫ぶアポロニア。実際は既に彼女のことをただの捕虜などとは思っておらず、ただ経過観察中だからという理由でわざと意地の悪いことを口にしただけだ。
「冗談だよ。感謝してる」
「うぅ、ご主人は意地悪ッス」
僕があっという間に掌を返せば、彼女は恨めしそうな目で睨んできたが、表情と違って太い尻尾を派手に振り回していた。
「私は、貴方の役に立っている?」
思考の海から帰ってきたシューニャは、唐突にそう聞いた。
最早今更と言う他にないだろうと思う。
「秘密を全部伝えたから、それが理由で一蓮托生ってのも間違いじゃないけど、実際シューニャには助けられているんだ。それに、これからも助けてほしいとも思っているよ。もちろん、ファティマにもね」
隣でシチュー鍋を抱えたまま、じっとこちらを眺めていたファティマにも話を振れば、彼女は長い尾をピンと立てて満面の笑みを浮かべた。
「ですってシューニャ。そんな不安そうな顔しなくていいんですよー」
「――そう」
僕の返事を聞いたシューニャは急に立ち上がると、誰が止める間もなく早足に泉の方へと歩いて行ってしまった。
その際にファティマに何か耳打ちしていたようだが、彼女は何も言わないままで大きな鍋を中央に置くと、シチューを木椀に注ぎ始める。
「何か悪いこと言ったかな、僕ぁ」
「そりゃあんな小っ恥ずかしいこと言われりゃ誰でも逃げるだろ。俺も腹いっぱいだわ」
「あぁ……いや、自分でもそうは思うけど、本心を伝えないと誤解されたら不味いじゃないか」
「そりゃそうだけどよぉ! 肌もねぇのに鳥肌立ちそうだし、筋もねぇのに背筋がぞわぞわしてんだよ!」
ダマルはガチャガチャと両腕を振り回して全身を掻きむしって見せた。
そんな反応が面白かったのか、スプーンを準備していたアポロニアが骨に向かってニヤニヤした表情を向ける。
「あれぇ? ダマルさん照れてるんッスかぁ?」
「うるせぇぞ犬っコロ!
バタバタと手を振って彼女を追い払おうとする骨であったが、身のこなしが軽いアポロニアはそれを踊るように躱して、僕の背後へと隠れる。
しかしさっきの仕返しか、彼女は顔を耳元に寄せてくると実にねっとりした口調で矛先をこちらに向けた。
「ご主人もよくあんなこと言えるッスねぇ? もしかして口説いてるんスかぁ? シューニャさん可愛いッスもんねぇ」
「口説いたつもりはないよ。それに色恋の話は勘弁してくれ。僕ぁその類がからっきしなんだ」
発言のどこに要素が隠れていたのかと考えようとして、すぐに止めた。
以前からそうだが、僕の頭は色恋を考えると碌なことにならない。そういう心の機微を感じ取るセンサーも、それを処理するデバイスも、生まれたときから僕の頭には搭載されなかったらしいのだ。
おかげで肩に顎を乗せてくるアポロニアをぐいと押しのけ、さっさと逃げに転じる。
「しかしそうか……やっぱりシューニャは可愛いのか」
「お前何言ってんの? ありゃ十分美少女だろうが――いや、まぁ正直こいつらの顔面偏差値は全員高い方だと俺は思ってんだけどよ」
「なるほど。いや、女性の容姿に関してどうこう言うのは自信がなくてね。間違ってなかったかと再確認しただけだよ」
しかしダマルとアポロニアの2人の意見が一致したと言うのであれば、少しは自信を持ってもいいのかもしれない。
「ご主人はああいう知的な女の子は嫌いッスか? というか、ご主人は大人ッスけど結婚とかは?」
「言うように色恋の話は苦手なんだ。独り身だよ」
どうにも犬娘はゴシップ好きなのか、僕にパートナーが居ないとわかるや、また悪戯を思いついたような笑顔を作る。
「へぇー……じゃあシューニャさんは悪くないじゃないッスか。寝込み襲ったりとかすれヴァッ!?」
「するわけないだろう。僕を何だと思ってるんだい君は」
言葉を言い切る前に、僕は肩に乗った頬をがっちりと手で掴まえた。
しかしそれでもアポロニアは懲りなかったのか、にへらと表情を緩める。
「みひゃめのふぁりにひゃいっひゅねぇ」
「わかるように喋ってくれ」
僕がもちもちした頬から手を離すと、アポロニアは身体をゆっくりと立たせながら、押さえられていた顔を擦る。
「ねぇご主人、天然ジゴロって言葉知ってるッスか?」
未だにニヤつく表情で、彼女はさらりとそんなことを口走る。
おかげで僕は全ての優しさを封印し、なんなら捕虜取り扱いに伴う法令をも踏みにじることを決定した。
一気に冷えた僕の視線にアポロニアも気づいたのか、あっ冗談ッス、と小さく零したが、それが何だと言うのだろう。
「ファティマ、食事の前に悪いんだけど、コレをその辺に捨ててきてくれるかい?」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!! ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ、ご、め、ん、な、さぁいぃ!! 靴でもなんでも舐めますから、どうかお慈悲、お慈悲をぉぉぉぉ」
途端に今朝方言われていた
素早く地面に伏せると、僕の足にぐりぐりと縋りついてきた。
勿論僕は本気でそんなことを言っているわけではないが、彼女としては死活問題である。そのあまりの切迫した様子に、見下ろしていたファティマの目は完全に馬鹿にしたものとなっていた。
「ケーカカンサツって言われてるのに、余計な事喋りまくる犬が悪いと思うんですけどね」
「捨てないでぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「賑やかになったもんだなオイ。冷めないうちに食おうぜ」
空しく響く犬の遠吠えは、夕餉の煙に消えていく。
シューニャがあまりの喧しさに戻ってきたのは、それからすぐの事だった。