第31話 犬娘の博打
大変なことに巻き込まれてしまったものだと思う。
昨晩の時点で喋る骸骨が解体される様を見せられた以上、この連中が普通でないことくらい十分に理解していたつもりだった。いや、あれに関しては不思議と
それにしたって、朝食後にミクスチャと戦いにいくと聞かされるなど、誰が思いつくものか。
今も自分は走るウォーワゴンの中で縛られ続けている――ベッドロールは流石に外してもらえた――が、どうにかして逃げ出せないかと考えている最中だった。
しかし、ここを逃げ出そうにも足の速さではキメラリア・ケットに勝てるはずもなく、昨日の戦いで重装騎兵をバンバン吹き飛ばしていた飛び道具に狙われたら、結局自分は粉微塵だ。
何より、アマミがリビングメイルに乗って追いかけてきたら、運よく帝国軍部隊に合流できたとしても、丸ごと薙ぎ払われてしまいかねない。
ミクスチャは恐ろしい存在であり、軍隊が総力を結集しても叶うかどうかわからない敵だ。
しかし、このアマミという男を含めた連中になら勝てるかと言われれば、先の一方的な戦闘を思い出す限り、ミクスチャと大差がない気がしてならなかった。
どこで何を間違えたら、こんなとんでもない二択を迫られなければならないのだろうと、自分の運の無さを呪ってしまう。
自分もツキに見放されたものだ、と陰鬱な思考から落ち込んでいたのだが、しばらくそうしていると、ふと妙な考えが浮いてきた。
アマミと言う男は、髪と瞳が黒いという変わった人間だが、どうにもキメラリアに対しての偏見が驚くほどにない。朝食終わりに聞いた話であれば、800年前から生きているとかよくわからないことも言っていたが、ミクスチャに挑む理由はどうにもキメラリア・ケットの借金が理由らしい。
幾らテイムドメイルを扱えるとはいえ、こんな少人数でミクスチャに挑む。それもたかがキメラリアのために。
――怖くないんスかねぇ?
自分は死ぬのが怖い。
最初は飢餓だった。バックサイドサークルの流浪民族で両親に棄てられた自分は、とにかく何かを食べなければ死ぬと必死で仕事を探し、ゴミも漁りながら何とか食いつないでいた。
それがひと段落したのが、軍への入隊が叶ったときだろう。理由は自分が流浪民族の出身で、騎乗経験があったことらしい。斥候兵として雇われると、相変わらず蔑まれながらではあったものの、食事に事欠くような事態は避けられた。
そうすると次に出てくる問題は戦争だ。
力が弱い上に使い捨てのキメラリアである自分が、戦場で生き残るのは至難の技である。
いくつかの部隊を転々とする中、どうにかして前線で戦わない治安部隊などへ配属してもらおうと周囲へ売り込んだ結果、運良くあのイルバノ百卒隊に拾われたわけだ。
それがどう間違えばこんな目に遭うのだろう。
死なないためならば帝国も裏切るし、リビングメイルでもミクスチャでも足を舐めるくらいの覚悟はある。だからこそ、わざわざキメラリアのために命を張っている男に興味が湧いた。
今は銃剣を突きつけてくるケットも居らず、人間の女は骸骨の隣で何か喋っていてこちらに意識は向けていない。そんな絶好の瞬間に、アマミは偶然自分の傍に顔を出してくれた。
「あの、ちょっといいッスか?」
あまりにも気安すぎたかと不安に思ったが、アマミはまるで他の仲間に向けるような視線を自分に投げてくる。危うく、一応自分捕虜なんッスよね? と聞きそうになったが、藪蛇になりかねないので無理矢理言葉を飲み込んだ。
だが、それが発言を躊躇ったように見えたのか、アマミはハッとした表情を作る。
「っ! もしかしてまた――!」
「違うッスよ! というか、それは言わない約束ッス!」
ついつい睨んでしまったが、アマミは怒るでもなく悪いと頭を下げてくる。
まだ軍に入りたてだった頃、先輩だったアステリオンから聞いた話では、捕虜になると酷い虐待を受けると脅されていたが、不思議なことにそんな雰囲気は微塵も感じられない。それどころか、軍の中で過ごしていた時の方が余程ボロカスに扱われることがあったようにさえ思う。
だからこそ、この変人優男に興味が湧いたとも言えるが。
「じゃあなんだい? 昼飯ならまだ先だが」
「そういう話じゃないッスよ。ただその、アマミさんは怖くないのかなと」
「何が?」
心底不思議そうな顔をアマミはしていた。だが、その顔をしたいのはむしろ自分のほうだ。
「ミクスチャを退治しにいくんッスよね? アマミさんはミクスチャが怖くないんスか?」
「あぁ……そりゃ聞こえるよねぇ」
乾いた笑い。まるで、そんなことか、とでも言いたげだと思った。
それは今日の夕食の献立を語るように、あるいは明日の天気を想像するように、他愛のない話と変わらない口調で彼は言う。
「戦うことが怖くないと思ったことはない。けど、殺せる相手なら負ける気もない」
「うへぇ……本気ッスか? あの、できれば自分は死にたく無いッス」
これは心の底からの本音だ。自殺志願者の手で道連れにされるなど、最悪以外のなにものでもない。
キメラリアという卑賎の身でありながら今までどうにか生きてこれたのは、人の顔色を窺うことに長けていたからだとの自負がある。だが、ここへ来てその自信は綺麗サッパリ失われていた。
おかげで、自分はこれ見よがしに嫌悪感を表情に貼りつけた。釈放とは言わずとも、せめて考え直してくれればと思っての行動だったが、それでもアマミは笑って流してしまう。
自爆の覚悟を決めているように見えなくもない姿だったが、それにしては悲壮感もなく、しかし己の力を過信しているようにも思えない。
「僕が負けないなら、君が死ぬこともない。そうだろう?」
「暴論ッス」
従順な虜囚であるつもりだったのに、口から飛び出すのは飾り気のない思ったままの言葉だ。それも相手が相手なら、その場で暴力を振るわれても文句は言えないだろう。
だが、アマミは間違いないと言ってまた笑う。
――本当になんなんだこの男。
ミクスチャを少人数で倒せるような男なら最早疑いようもなく英雄だ。人間種全ての希望の光にもなれてしまう。言い方を軽くすればヤバい人。
そんな狂った雰囲気が酔っ払いと重なったからだろうか。以前に兵舎の中でやっていた、カードとサイコロの賭け事を思い出した。
『どうせ人生なんて博打だ。そいつは時間制限付きで、乗り遅れた奴は乗り遅れたってカードに賭け金を置かれちまう。しかも時々誰かが総取りになるような、イカサマバンザイのふざけたゲームなんだ。その総取りになれるかどうかってのが、博打は醍醐味だろう? ヤバくなったら時間切れの前に選んだ方が、あとくされがねぇぞ』
呑兵衛共の1人、今は亡き二番隊の十卒長が呟いたセリフである。どういう話の流れからそんな言葉を放ったのかは覚えていないが、ただの酔っ払いの妄言である以上、脈絡を求める方が間違っているだろう。
だが、今の状況には妙に当てはまるような気がして、自分は手持ちの札を想像した。
賭けられる物は我が身の全部セット1つだけ。勝ってもそのセットが返ってくるだけで、負けたら親の総取りで破産という名であの世行き。その上、既にゲームが動き出している以上、席を立つことも許されない。
だが、そんな割に合わない勝負の賭け口にたった1つ、当たれば倍々の倍にできそうな場所が見えた気がした。
他の賭け口でも負けは濃厚だったが、自分が見つけたそれは賭けとして成立しないのではないかと思ってしまうくらいに酷い。
ちらと正面に座った男を覗き見る。黒い髪の優男は、どういう仕組みなのか外が映っているらしい板を眺めてぼーっとしていた。
『僕が負けないなら、君が死ぬこともない。そうだろう?』
気障な台詞が頭で反響し、何故か少しカチンときた。
顔色を窺いながら臆病に生きてきた自分だが、沸き上がった感情はその経験を綺麗に叩き割る。
その賭け口に乗ってやろうじゃないか。どうせ勝てる見込みがないのなら、1発夢を見させてもらおう。
「ねぇ、もうちょっとお話に付き合ってくれないッスか?
驚いた顔でこっちを向いた優男。その表情に、初めて一杯食わしてやったとほくそ笑む。
これでもう後には退けない。だが、自分の賭け先を自分で決めた時点で、死んだ十卒長に笑われることはないだろう。
■
蝋燭の明かりに照らされるだけの薄暗い空間の中は、何故か薄く
まだ太陽も中天を過ぎていないような時間である。にもかかわらず、天窓も開けずに蝋燭を灯しているのは、贅沢を通り越して無駄遣いに他ならない。
その中で靄を吐き出し続けている者が居る。薄闇にボンヤリと輪郭を浮かばせながら、瞳だけがギラギラと光る様はさながら幽鬼のようだ。
そんな煙たい空間に一筋の光が走る。
「報告です」
「入りな」
主から許可を得た人影が陽炎のように揺れると、再び部屋の中は薄暗い空間に逆戻りする。その様子はまるで、部屋の主が光を嫌っているかのようだった。
中に招かれた人影は1枚の羊皮紙を差し出すと、部屋の主は揺れる炎でそれを伺い見る。
すると楽し気だった瞳が大きく開かれ、一層邪悪に見える笑みをしわくちゃな顔に貼りつけた。
「思った以上にやるじゃないか、あの小僧。ちょっとばかし詰めが甘いが、それはむしろ好都合だ。いい拾い物をしたもんだよマティ・マーシュ。褒めてやろう」
「グランマ、一体何を……?」
部屋の主、片眼鏡を炎に光らせるグランマの興奮に、マティは状況を理解できないでいた。
極秘という印が押された報告書を持っていけと言われ、いつもは近づくことも許されないグランマの部屋に通された彼女は、その表情に不安を浮かべている。
だが、そんなことをグランマは気にも留めず、長いパイプを吸い込むと大きく煙を吐いた。
「司書紛いのブレインワーカー1人と、力にしか取り柄がない一山幾らのリベレイタ1匹で、随分豪勢な魚が釣れたもんさ。これをお前が考えてやったと言うなら、あたしゃお前を副支配人に推薦したいくらいだが」
「えっ!? そ、そのような大役、私などでは……とても」
唐突に上がった役職名にマティはうろたえた。副支配人と言えば、グランマの後釜にもなれる立場である。そのポストは常に水面下で奪い合いが起こっている魔窟であり、仕事を真面目にやろうという意思だけでコレクタユニオンに入ったマティには、平穏な庶民であることを捨てるだけで何のメリットも見つけらない提案だった。
彼女には金銭欲もあれば、物欲も名誉欲も人並みにある。だがそれは、庶民的な幸福を願う慎ましいものでしかなく、権謀術数の世界で権力者として振舞うなど考えたこともない。
突然の事態に慌てるマティを横目に、グランマは首を横に振りながら煙を吹いた。
「安心しな。お前が権謀術数なんて欠片も持たない田舎娘で、運よくあれを引き寄せただけに過ぎないことぐらいわかってる」
「は、はい。仰る通りです」
グランマが事態と能力を把握していることに、彼女は大きく安堵の息を吐いた。
正当ならざる評価を受けるくらいなら、田舎娘と事実を含めて馬鹿にされた方がマシであると彼女は考える。
急激な感情のアップダウンに早くも憔悴気味のマティを見て、グランマは喉の奥でグググと笑う。
「だが、お前はツキを持っていた。これは事実だ。そいつはね、望んで手に入れることができない貴重品だが、望まなくても手に入る危険物さ。だが、たとえ持っていたって、活用できる奴はほとんど居やしない」
「活用できる、ですか?」
「ああ、そうさ。この支部じゃ今のところアタシにお前、死んだヘンメとアマミに救われたリベレイタ……甘く見積もったってたった4人ばかしだ」
マティは自分の背筋に嫌な汗が伝うのを感じていた。
できるなら小さな自分の天幕に帰って、布団を被って夢の中に落ちてしまいたいとさえ思う。この先のグランマの言葉を聞けば、自分は今までの生活と離れてしまうという恐怖心が、彼女を震えさせた。
だが、抗うことのできない力を相手に、マティは耳を塞ぐことすらできないのだ。
そして嘲笑うかの如く、グランマはその言葉を口にした。
「お前は一時的に受付事務員の仕事を離れ、ある場所に行ってもらうよ。なぁに事が済んだら元通りにしてやるさ」
「え、ええっとその、ある場所とは……?」
自分の平穏な生活が崩れ去る音を、薄闇のなかでマティは聞いた。
「お前の運を引き寄せた力は本物なんだ、今年の給料査定を楽しみにしときな」
「は、い」
グランマはマティの胸を書類の束でポンと叩き、にぃと口の端を上げて笑う。
最早覆らない現実を叩きつけられたマティはなんとか返事こそしたものの、給料査定がどうのなどと言う話は既に耳に入っておらず、出口で一礼することも忘れて覚束ない足取りで天幕を後にした。
グランマが言った通り、彼女はただの田舎娘に過ぎない。権謀術数の海を掻き分けて頂点を目指し続ける妖怪の如き老婆と同じものを見るには、あまりにも庶民であった。
再び1人になったグランマは、マティから渡された報告書に蝋を落とすと、自分のインタリオリングを押し付け蝋印とし、再び顔に笑みを湛える。
「これに帝国の糞袋どもはどう動きだすか、こんなに楽しい見物は久しぶりだねぇ」