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61話 凡人探索者ダイアリー

 


 ……

 …


 2028年、10月。アレタ・アシュフィールド休業記者会見1週間後。



 〜バベルの大穴、第一階層、大湖畔地帯、林道付近にて〜









「足跡だ、タテガミさん、多分かなり近い」




「くくく、さすがは味山さん、発見しにくいカスミトラの足跡をこんな短時間で発見するとは……」




 地面を這い、土の匂いを感じつつ味山は発見した足跡に触れる。



 地面の湿気を鼻の頭に感じる、登ってくる土の匂いは地上となんら変わらない。



「ほかの地面と比べて柔らかい。湿気てる。カスミトラの足跡ですね」



 土が柔らかく、わずかに湿っている。革手袋越しに感じる湿り気。


 ここをターゲットが通ってからまだそう時間は経っていないはずだ。




「鮫島に罠の確認をさせましょう。タテガミさんが予想していた通りの巡回ルートを回っている可能性が高いです」



「くく、了解。……鮫島さん、こちら追跡班、味山さんが足跡を発見っ……! 罠の様子の報告を…… くく、了解、そのまま監視をお願いします」



「どうでした?」



 味山の問いかけにタテガミが黙って首を振る。



 事前に仕掛けていた罠にはまだかかっていないようだ。




 ここは、バベルの大穴。第一階層、大湖畔地帯。湿潤な土地が広がり、そのエリアの4割は巨大な湖畔が広がっている。



 味山の今日の仕事は、ハンティング。



 指定された怪物の駆除依頼だった。




「くくく、追跡、続行ですな、味山さん。この足跡の方向から見るに、恐らく奴は餌場を円状に回ってるのでは?」



「そうですね、奴は基本的には群れない怪物種のはずです。カスミトラの発情期は冬なので、もしかしたら繁殖に備えて食い溜めてしてるかもしれませんね」



 味山は事前に調べておいた目標のデータを反芻する。



 怪物種第81号、カスミトラ。大型の猫科の肉食獣に酷似した姿、白い毛皮に黒いたてじま。特殊な体内器官により霧を生み出すことが出来る怪物種。




「くくく、怪物も人も食が肝要なのは変わりませんからねえ。……味山さん、私の仕事に付き合わせて申し訳ありません。私としては僥倖ですが」



「いえいえ、俺としてもタテガミさんにアレの調理をお願いしてますし、仕事の紹介はありがたいです。成功させましょうね」



「くくく、了解」



 タテガミと呼ばれた大男は分厚い唇をにやりと歪めて味山に追従する。



「でもタテガミさん。その背中のでかいやつ重くないんですか?」



 味山はタテガミに話しかける。



 タテガミの背中にはその大柄な身長とほとんど変わらない大きさの布に巻かれた何かが装備されている。



「くく、これは特別製でして、私に限った話ですが存外邪魔にはならないんですよ」




 背中装備専用のベルトに斜めにかけられたそれを撫でながらタテガミが答えた。



「へえ……」



 今回の探索のメンバーは3人、味山とタテガミと鮫島。



 話の発端は2日前、味山がタテガミの経営する怪物食専門のレストランに向かった時に始まっていた。



 ……

 …



 〜2日前、美食倶楽部店内にて〜



「くく、これはこれは…… 奇怪、いやとても興味深い食材ですね」



 予約制高級レストラン、美食クラブの静かな開店前の店内。



 高そうなテーブルを挟み、目の前にいる恰幅の良い男が笑う。



「いやー、すんません。自分じゃどうにもこうにも料理出来なくて…… タテガミさんならなんとかなんねーかなと」




 味山はテーブルに置いた食材を眺めて、頭を掻いた。


 くく、と小さく喉を鳴らすように笑う男に向けて愛想良く笑ってみせた。



 テーブルに置かれた食材、食材と呼んでいいかは微妙な所だが、味山はそれを食べるつもりでいた。






「ふむ…… ふむ。質感は乾物のそれに近い。五本の指に、爪…… ナイフの通る感覚はまるでダンボールを斬るごとく。味山さん、これをどこで?」



 乾いた布に包まれたミイラのような腕、その表面にナイフを滑らせながらタテガミが首を傾げた。



「あー、中国街の雑貨…… 雑貨屋です。一応組合の公営なんですけど」



「雑貨屋…… 雑貨屋? 雑貨屋がこんなものを置いているとは…… くく、奇怪っ……!」



 よほど奇妙なことだったのだろう。タテガミが何度も雑貨屋、という言葉を繰り返す。



 まあ、たしかにあれを雑貨屋と表現していいのだろうか。



 あの胡散臭い中国人店主を思い出しつつ、味山は雑貨屋の定義に少し思いを馳せる。



「怪物種の肉にとても似ているのですが、ふむ、血液反応がすでに乾き切ってるせいか出てきませんね」



 ナイフで削いだ薄い肉片を、タテガミが小さなビーカーのような容器に入れて軽く振る。



「あー、やっぱ無理目ですかね」



「くく、何をおっしゃるかと思えば…… こんなに面白そうな食材を持ちこんで頂き、料理出来ないなど美食倶楽部の恥…… このタテガミ、是非とも調理させて頂きたく……!」




 帰ってきた返答は意外なものだった。




「ほんとですか?! 流石タテガミさん。でもこれどうやって料理しますか? その信じられないとは思うんですが…… このミイ、じゃない、乾き物、火が通らねえんですよ。焼いてもなんも変わらねえというか」




 味山がこの食材の調理を、美食倶楽部に持ち込んだ1番の理由がこれだった。




 この神秘の残り滓、奇妙なオカルトアイテムには火が一切通らない。



 炒めても、茹でても、直火でもダメだった。流石にこれを生でいく度胸は味山にもなかった。




「くくくく、それはそれは…… いえ、有り得ない話ではございません。耐火性の高い怪物種の素材には良くある話…… この腕がなんの怪物種かはわかりませんが、未知の食材に挑まんとするその姿勢……! このタテガミ全力を持って、調理させて頂きましょう!!」



 タテガミは味山の話を聞き、細い目を開いて力強く胸をドンと叩きながら応える。



「タテガミさん、いいんすか?! こんな得体の知れないモンなのに」



「くく、詳細も安全性も由来も不明…… しかし人類の食の歴史とは常に!! これ、食えるんじゃね、という身の程知らずの好奇心により進歩して来ました。この時代に生まれた私には、また一歩、食の歴史を進める義務がある!! 腕のミイラ、じゃなくて乾き物、その調理承りました!」



 その言葉は力強い。流石は怪物食という未知の料理を流行らせようと店まで構えた人物だ。



 会員制にしながらも多くの指定探索者に愛用されているのはこういう突き抜けた部分があるからなのか?



 味山ははしゃぎつつも、タテガミという人間に考えを巡らせる。





「タテガミさん、かっけえ。宜しくお願いします!!」



「お任せを、しかし火が通らないですか。ふむ、あの調理法を試したいものですが、ふーむふむ。くくく、圧倒的、設備不足……っ!」




「設備不足?」



 タテガミの言葉に今度は味山が首を傾げた。


「ええ、味山さん。この食材の調理には少しお時間を頂きたく。何せ今回は、調理用の設備を作るとこからのスタート……!」




「うおお、そんな所から。プロってやつですね。あの、お代は勿論なんですけど、何か俺に手伝えることがあれば」



 すげえ、あのテレビ番組みたいだ。味山は思わず、ろくに考えもしないままタテガミに言葉を向けた。



「……よろしいのですかな? 実はこの食材の調理にどうしても必要な資材がございまして、あまり市場やオークションにも姿を見せないダンジョン産のものなのです」



 きらん、タテガミの細目、分厚いまぶたに隠された瞳が光った、ような気がした。



「ダンジョン産…… なるほど。えーと資材っつーと、特殊金属類とかですか?」




 ダンジョン産。バベルの大穴内にはそこでしか採取出来ない特殊な資材が多く存在する。



 バベル内に生きる怪物種の素材はもちろんのこと、金属鉱石、特殊植物、それらの資材は高値で取引されている。これまでの世界になかった新たな商品の原材料として重宝されていた。




「いえ、怪物種素材です。特殊な霧を生み出す体内器官なのですが、これが今私の欲しい調理機材のキモ……っ! そして味山さんの持ち込んだ奇妙な食材の唯一の調理法、蒸し焼きならぬ霧焼きに欠かせない素材っ……!」



「霧焼き?」



 聞いたことのない調理法に味山がきょとんと言葉を繰り返した。


「知らぬのも無理はありません、私が今考案したのですから…… 熱伝導率が高い霧をカスミトラの胆石により人為的に生成、私開発の蒸し器の中でじっくりと火入れすれば必ずこの食材も調理できるるはずです…… くくく、チャーシュー…… いや、肉まん、料理しがいがありますなあ」



「な、チャーシュー…… 肉まん、ま、まさか餃子とかも?」



 味山がのどを鳴らしながら、つぶやく。



 タテガミが笑みをたたえつつうなずいた。




「怪物種51号、カスミトラの駆除依頼。どうか私の探索に味山さんの力を貸していただけませんでしょうか?」




「ええ、了解です、タテガミさん、微力ながら味山只人、探索を了解。ちょうど今はチームも休止してて、そろそろ怪物種の駆除任務で1発稼ぎたいとこでしたし」



「くく、流石はあの大立ち回りを見せた味山さん。その胆力はまさに探索者の鏡……!」



 タテガミがゆっくりと右手を差し出す。味山はにやりと笑い、その手を強く握り返した。



 からん、からん。



 ドアベルが鳴る、同時に扉が開いた。





「おーう、タテガミさんいるかぁ? 組合通しての依頼こなしてきたぜえ。大湖畔地帯の怪物種の分布調査、データを組合に提出してるからよお、そのうちあんたのとこにも…… あれ、味山じゃねーか。お前もこの店くるんかぁ?」



 どかどかと大股で歩きながら味山の存在にその男が気づいた。



 鮫島竜樹。味山と同じ民間出身のニホン人探索者の一人だ。チームを組んだりなどはしていないが、同期的なノリで味山、グレン、鮫島で遊ぶことも多い数少ない探索者の友人ともいえる男だった。



「おお、鮫島。久しぶり。なんだよ、珍しいとこで会うな」



「そりゃあ、こっちのセリフだぜ。ここは一部の指定探索者のお歴々や組合のお偉いさんびいきの高級店だぜえ? おまえがなんで…… あ、そおか、52番目の星つながりかぁ」



 鮫島がギザギザな歯をちらりと見せながら自分の疑問に、自分で答えを出す。



「悪かったな、庶民で。つーかそれ言ったらてめーも一般市民だろうが」



「けっ、ここはあめりやの女の子にも人気だからなあ。それつながりで紹介してもらったんだよぉ。なあ、タテガミ料理長」



 軽口をたたきあいながら、鮫島が近くの席に座る。店の雰囲気に慣れている、この男は確かに妙に世渡りがうまい。この店と個人的なかかわりがあってもおかしくはなかった。





「くく、これはこれは。意外……! 鮫島さんと味山さんが知己の仲だとは……」



 2人のやりとりを見ていた立神がのどを鳴らす。ふと、味山は思いついた。



「あ、そうだ。タテガミさん、さっきの話、ついでに鮫島も噛ませませんか? 俺の報酬金は最悪鮫島と折半でもいいんで」




「あ? なんの話だぁ?」



 味山の言葉に、鮫島が反応した。



「くくく、僥倖……! カスミトラの追跡には頭数があればあるほど確実になりますからね。鮫島さん、追加の仕事の話なのですが、今お時間よろしいですかな?」



 タテガミの言葉に鮫島が軽口を止めた。その眼に探索者らしい、強欲な明かりがともる。



「……ふうぅん。詳しく聞かせてもらいましょぉか?」



 鮫島のギザ歯が、にやりと覗いた


 ……

 …



 〜そして、現在〜




「しかし鮫島さんまで手伝って頂けるとは思いませんでした。くくく、これも味山さんの人徳…… 平生往生というやつですかな」



「たまたまあの時鮫島もタテガミさんの店にいましたからね。あいつも基本ソロでやってる珍しい探索者ですし、顔見知りとの探索は安定しているからでしょう」




 味山はセーフハウス付近に、トラップエリアを作り待ち伏せしている鮫島を思う。



 あいつもベテラン。決まったチームを持たずに探索者を続ける変わり者だが、その実力は確かだ。




「しかし、鮫島さんを1人にしておいてもよかったのでしょうか? くく、探索においてのセオリーは基本人手を分けないものかと」



「鮫島は怪物罠の免許資格も持ってます。拵えたトラップエリアなら1人でもそう簡単に怪物にゃ遅れは取りませんよ。入れ違いを防ぐためにも待ち伏せ役がいた方が都合が良い」




「くくく、出来ていますね、味山さん。失礼を承知で申し上げるなら、もっと味山さんの探索は豪快なものだと考えておりました」




「豪快っすか?」



「ええ、指定探索者との探索とは、私のような一介の探索者のそれとはまるで違う。豊富な人的資源、大規模な行軍、強大な火力によるパワーゲームが主流……!  てっきり味山さんも、その流れに則った探索をすると思いきや…… いやいや、なかなかどうして」



「は、はあ…… おっと、タテガミさん少しストップ。葉っぱがここだけ濡れてる…… この辺の低木だけまるで雨が降ったみたいだ」



 味山が獣道を立ち止まる。湿潤な土地に生えている低木に触れる。



 青々とした葉がしっとり濡れている、まるで朝露を吸ったかのように。



「知らせ石には反応はない。でも、これは……」



 味山が、ベルトに下げた奇妙な灰色の石を撫でる。ひんやりとした感触が指の腹に返るだけ。



「ほお、それが噂の知らせ石…… 良い取得物ですね」



「まあ、探すの苦労しましたからね。危険はないみたいだけど、怪しいな」



 味山はしゃがみ込みあたりを見回す。五感をフル活用して気を張る、しかし凡人の感覚で見通せるほど、バベルの大穴は甘くない。




 小さくため息をついた後、味山はタテガミに頭を下げた。




「ちょっと、失礼。……聴かせろ、ヒントだ」




 味山が、葉っぱに触れたまま耳を澄ます。



 キィンと、耳の中で何かが鳴ってそれから声が聞こえた。





 TIPS€ カスミトラの痕跡。カスミトラは移動時に霧を纏う習性がある。カスミトラが通った後は不自然な水気が多くみられる。身体の痒みや汚れを取るために樹皮に身体を擦り付けたりする個体も存在する。




「……近い。タテガミさん。この道で合ってそうです。ここをカスミトラが通ってからまだ時間も経っていない」



「くく、繊細…! 素晴らしく繊細な思考と探索……っ!! 味山さんの言う通りで間違いないでしょう。ほら、発見っ…… 新しい足跡、水たまりになっておるわ!」


 タテガミも付近で、怪物の痕跡を見つける。



 トラッキングは、順調だ。接敵が近い。




「ナイス、タテガミさん。おっと、そろそろ追加の匂い消しを。多分風上じゃないけど、カスミトラの周囲は空気の流れが変わるはずです」



 味山がベルトから取り出した小さなスプレーを適当に身体に振りかける。



 探索者道具の1つ、ユキシロメディカルの新商品、"ムシロくん"という名前の匂い消しスプレーだ。



 肉食の怪物種は嗅覚に優れる点が多い為、こういった追跡を兼ねたハンティングでは欠かせない道具だった。




「おっと、感謝。くくく、久方ぶりにたのしい探索になりそうです、あ、味山さん、口臭消しのタブレットはいかがですか?」



 タテガミが味山から受け取ったスプレーを返しながらポケットから飴玉のようなタブレットを取り出した。



「あー、いや、口臭はその敢えて消さないようにしてるんです。その、保険というか、なんというか」



「保険……でしょうか、それはーー」




 タテガミが、味山の言葉に首を傾げた。



 その時だった。




 ピコン



 ピコン。




 同時に鳴る小さな電子音、人間だけにしか聞こえない周波数で作られた端末の着信音だ。




「……着信」



「確認します」




 味山が周囲を警戒しつつ、端末の画面を確認。短い定型文が画面に踊る。





[トラップアラーム。同期しているトラップに反応アリ。直ちに急行してください]




「っ、ナイス、鮫島。タテガミさん、罠にかかったようです。ポイントはセーフハウスの本命のエリア。すぐ向かいましょう」



「くく、了解。腕が鳴るわ」



 味山とタテガミが来た道を戻ろうと振り返る。





「は?」



「っ、これは……」




 霧。



 濃く。




 深く。




 来た道が、ない。



 一瞬だった。気付き、振り返れば、進んでいたはずの獣道、その脇に生えている低木、それすら包み隠すほどの深い霧が、後戻りする道を、塗りつぶしていて。





「何が、起きている……?」



 明らかな異常事態にタテガミの歩みが止まる。パニックにならない辺り、タテガミの実力がわかる。



 味山は深く息をして、落ち着こうとーー








 TIPS€



 同時、頭の中、耳に届くヒントの知らせと同時だった。




 熱。



 ベルトに拵えた危険を知らせる取得物、"知らせ石"が熱を帯び、持ち主に命の危機を知らせる。



 その知らせはいつも確実で、しかし怪物種という理外の存在の前ではあまりに遅かった。





 TIPS€ お前たちは、奴らの狩場に誘われた





「っ!? ふ、はぁ!!」



「アジヤマさん!?」




 それは半分勘だった。



 予想外の事態、背後に広がる濃霧、不親切なヒントに、遅すぎる危機の知らせ。




 味山は反射的に、息を吐く。



 口臭が、それを誘うのを期待して。



 味山は反射的に、後ろを振り返る。



 捕食者のやり方はいつもスマートだと知っていたから。



 味山は当然のように、斧を構えていた。それが自分の仕事だと理解していたから。






「グオオオオオ!! オオオオウ!」




「ガッ、うお!? ぐお!!」



 目の前に映る巨大な牙、それが牙だと理解する前に味山は斧を自分の顔の前に構えていた。



 ギャぎ。



 牙と斧の刃がかち合う。



 背後からの肉食獣の奇襲。味山は間一髪で即死を免れる。



 備えていた。


 身体に纏った匂い消し、わざと消さなかった口臭、事前に得ていた猫科の肉食獣型の怪物種の特性情報。



 その口臭に誘われてか、はたまた決まりきった習性か、突如現れた怪物は味山の顔を狙った。




「グルルオオオオオ!! グオオ!!」



「がっ、は?!」



 牙の一撃を防ぐ、しかしその巨躯にたまらず味山は仰向けに倒れ、のしかかられる。血走った眼、牙の隙間、真っ赤な口内から届く臭い獣の匂い。



 圧倒的な命の塊が、味山を押さえつける。とっさにあごをひいたおかげで後頭部をぶつけることはなかった。斧で押さえきれない爪が頬をかすめる、痛みはない、肩をその太い脚で押さえられる、ぺきんと肩の中で音が鳴る。



「グアア!!」



 腹の底が痺れるような捕食者の唸り声、カスミトラが大きく首をもたげ、下敷きになった味山の首を狙う。




「くっそ!! 死ね!!」



「ギャアオウ?!!」



 身体が浮いたその瞬間、味山が足を振り上げてカスミトラの腹を蹴り上げる。



 しゃきんという音ともにコンバットブーツの靴先に仕込んでいた刃が飛び出し、その毛皮を貫いた。



 もがく、もがく。


 互いが互いの獲物になりうる関係。



 探索者と怪物種のちみどろの戦い。





「ガルルルルらオオオオオ!!」



 腹に刃が突き刺さったのも気にせず、カスミトラが大きく身体を沈まこませた。



 下敷きにした獲物を確実に殺そうと、全体重をかけながら、その牙で首を再び狙う。












「耳の大力を使用する」






 獣の呻き、男の怒声。


 それらの隙間から現れた静かな声。




「ギャ??!!」



 ふわり、あたりに霧が舞う。


 味山を押さえつけていたカスミトラが身体に霧を纏いながら、浮かび上がるように飛び退いた。




 肉食の獣にとっての必殺の体勢、圧倒的優位をカスミトラは自ら捨て去り、身体を低くして唸り続ける。



 カスミトラのその選択は正しかった。あとコンマ数秒でも退くのが遅れていれば、すでに決着はついていた。




「チッ、厄介だな。野生の勘ってやつか?」



 味山が爪で裂かれた頰の血を拭いながら立ち上がる。肩をぐるぐると回す、折れてはいない、筋を違えた程度、なら問題はない。



 狩れる。仕事の時間だ。



「グルルルルル」



 カスミトラが味山の動作を警戒するように姿勢を低くし、身体の周りに纏う霧を深くしていく。



「喉を握り潰してやろうと思ったのによお…… 化け物が」



「味山さん、無事ですか? 一瞬あの化け物が総毛立ち怯えていたような気がしましたが……」



「なんとか無事ですタテガミさん。それは気のせいですよ、でもコイツはダメだ。勘が良く、冷徹で、残酷。いい化け物だ、ここで確実に駆除しちまわないとさらに強くなる」



 霧の中、味山が笑う。頰を伝う血を舐めとり、足元に落ちた斧を拾った。



 アドレナリン、怪物の体重の重さ、圧倒的な生命の存在感と自分の命の危機が酔いの呼び水となる。



 もう、恐怖は少ししかない。あるのは浮かされる高揚感、手に握る斧の確かな感触。



[緊急通信受信、ざ、ザザザ…… 味山ぁ! 鮫島だぁ!! トラップエリア2に目標を確認!! 早く来いぃ!]




 操作を待たずに端末から音声が届く。




「こちら味山。現在、目標と思われる怪物種と交戦中。また想定外の事態だ」



[ああ?! カスミトラだぞぉ?! コイツらは縄張りが重なる事ねえだろうがぁ?! 群れを作る怪物でもねえ! どういう事だぁ?!]



「知らん、はっきりしてんのは殺さねえと殺されることだけだ。超急ぐから、なんとか粘ってくれ」



 あり得るなずのない二頭目、想定外の事態。それでも問題はない。想定内に終わる探索など今まであっただろうか?



[ケッ、粘るだぁ?! なめんじゃねえよ。俺1人でやってやらぁ!! 味山ぁ、タテガミさん、死ぬなよ]



 ブチっ、通信が切れる。通信の狭間に怪物の呻き声が聞こえていた。




「タテガミさん、鮫島がやばい。急ぎましょう」



「くく、緊急事態、血沸く、踊るっ……! これこそがこの仕事の醍醐味ですな」


 タテガミの様子には恐怖やパニックは見当たらない。いいぞ。この男もいい感じにイカれている。味山は同行者がきちんと探索者であることに安堵した。


 霧が濃くなる。味山のかさついた唇が、霧の湿気で潤う。液体になるのではないかと錯覚するばかりの霧。斧の刃が濡れ、しずくが垂れ落ちた。





「消えた……」



「逃げ、た?」



 獣の低い声も、茂みを踏む音もしない。



 ただ、肌を潤わす霧だけが2人の探索者を包む。





 TIPS€ 奴はお前に恐怖している。より確実に狩りを完遂するためにまずは、同行者を狩ろうとしている




「っ!! タテガミさん!! 来ます! 狙いは貴方だっ!!」



 味山が叫ぶ、と同時にタテガミの背後の霧が質量を増した。



 カスミトラは霧を、霞を纏う。特殊な臓器、特殊な汗腺から噴き出す揮発した汗が、その身を隠す。



 天性のハンター、霧が虎を象っているようなその姿、ダンジョンの神秘が人間を、獲物を喰らい殺そうとしてーー




 間に合わない、味山はカバーに入ろうとするもそれがきっと間に合わないことを感じた。













「くく、安直」



 流れるごとく、水の流れる如く。



 味山はそれをみた。



 タテガミが背中に備えていた大きな布で包まれた何か。


 それがあまりにも、あまりにも滑らかにタテガミの両手に収まる。




 振り返り、それが当然のこととばかりにタテガミがその両手に握った大きな何か。



 柄と、丸い板で出来たそれを奮った。




 バオオオオオン!!



「グルオオオン!?!!」




 カスミトラの牙を、額を、爪を、タテガミが受け止める。



 それは完璧なタイミングだった。




「くくく、活きが良い。だが、駄目っ……!  安直、素直、下手……! 片方がダメならもう片方を、その受け身の思考が死を招く…!」



 ぎ、ぎぎぎ。



 大柄なタテガミが、大きな丸い板でトラの化け物の突進を受け止める。


 拮抗する両者、じりりとタテガミのコンバットブーツが湿った土にめり込んだ。




「タテガミさーー」




「心配、ご無用。この為の秘密兵器。くくく、調理の時間…… ! さあ、ご覧あれ。美食倶楽部の狩りを」




「あ?」



 味山が目を剥く。


 タテガミの丸い板に阻まれながらも、なお攻撃をやめないカスミトラの威容にではない。




 丸い板。



 それをくるんでいた布が、焼け落ちた。



 布が、火の粉を吐きながらみるみるうちに焼け崩れた。




「準遺物、"鉄火大鍋" 火入れ開始」






「ふ、フライパン……?」




 赤熱した、フライパン。じゅううううっと火にかけられたような音が鉄なべから響く。それはタテガミの狩りの始まりの号砲。


 味山の呟きに、タテガミが分厚い唇をにいっと吊り上げる。


 熱によってたじろいだカスミトラの頭蓋に、準遺物がそのまま振り下ろされた。




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