3話 女子トイレにて
「これが何かわかるかい? アレタ」
広い酒場のトイレ。磨き上げられた大きな鏡と大理石で出来た手洗い場で2人の指定探索者は化粧を直していた。
アレタが薄めのリップを塗り直しながら、ソフィが差し出した端末を受け取る。
電子画面に映し出された写真。
ブルーシートの上に置かれた捻れた棒。柄の部分は凹み、緩やかにねじれている。
「ナニコレ? 使用済みの歯間ブラシみたいね」
棒の先端には砕けた黒い塊が。よく見ればそれは刃のようにも見えて。
「……斧だ。今日の探索でアジヤマが使用し、そして破損させた手斧だよ」
「……知らなかったわ。彼がキングコングの末裔だったなんて。なんで自分から教えてくれなかったのかしら」
アレタが肩をすくめ、端末をソフィに返す。
「真面目に聞いてくれ、アレタ。インパクトが強いのはこの砕けて広がった歯ブラシのようになった刃だが、特筆すべきはこの歪んだ柄だ。アジヤマは己の握力で自分の斧を握り潰している」
「……それはすごいわ。彼とハグする恋人は大変ね。常に命の危険と能わないといけない。苦労しそうなものね、まったく」
ソフィのじとりとした目つきをアレタが横目で確認する。大きくため息をついて呟いた。
「ええ、分かったわよ、ソフィ。真面目に聞く。続けてちょうだい」
「聞き分けの良い友人を持てて幸せだよ。アレタ ……アジヤマの身体にはワタシ達と同じ追跡チップが埋め込まれているのは知っているね?」
ソフィが自分の右腕を指差し、呟く。アレタもまた自分の右肩を見つめて頷いた。
「ええ。以前合衆国の救急センターに運びこまれた時でしょ? 本人には知らされていないはずだけどね」
「そうその通り。アジヤマの監視と調査の為に身体に埋め込んでいたチップだけどね、反応が消えているらしいんだ」
アレタは蛇口に手を差し出し、流水に手をさらす。
「……ねえ、ソフィ。その話ってパブのトイレでしていい話? 盗聴とか大丈夫なの?」
「安心しなよ、アレタ。どうせワタシ達指定探索者への監視はこの島はおろか世界中に延びている。場所がどこだろうと、誰かには聞かれるさ」
「……プライバシーという言葉が意味をなくして久しいわね。有名になり過ぎるのも問題だわ」
「くく、そうだね。お陰でキミの補佐探索者はSNS上で常に炎上し続けているみたいだが? 曰く、星にまとわりつく屑。キミの愛称に合わせて、星屑野郎と呼ばれてるとか」
愉快げにソフィが形の良い唇を歪ませる。色素の無い白い唇が艶めかしく動いた。
「あら、いいじゃない。あたしは好きよ? その辺にある宝石とかよりも、道端に転がっている奇妙な形の石屑の方が面白いもの。それが星屑ならなおさらレアじゃない」
アレタが切れ長の碧眼をソフィに傾ける。異なる色の美女がBGMの薄い手洗い場で静かに笑った。
「くく、そうか。アジヤマは苦労するな。タチの悪い仲間を持って」
「ふふ、グレンも大変ね。偏屈家のお世話もしないとなんだから」
くく、ふふ。
爽やかな笑い声、付き合いの長い2人の探索者が笑い合う。
もし、味山とグレンがこの様子を見ていれば、諦めたように笑いこの場を去ろうとしただろう。
しばらく笑い声が大理石に響く。ソフィが気を取り直して小さく息を吐いた。
「ふー、さて、本題に戻ろうか。その星屑野郎についてなんだがね。身体のチップ、そう、例え怪物種に飲み込まれようとも破損しない筈のチップがね、壊れているんだよ、アレタ」
「……不良品だったんじゃないの?」
「156℃もしくは429.15K。チップから最後に送信されたアジヤマの
「……確かなの? その情報」
アレタが静かにソフィを見つめる。肩をすくめたソフィが頷く。
「探索者組合、そして合衆国の研究室からの確かな情報だよ。状況から推測するに、アジヤマの身体に起きた異常現象の影響を受けてチップは破損、もしくは消失したのだろうね」
「ふうん……」
アレタが眉を潜める。
「チップが最後の反応を示したのはつい数時間前、つまり先ほどの探索の最中に起きたことだ。そしてこの写真、アジヤマが握りつぶした手斧。明らかにアジヤマには何かがある」
「それで? ソフィ」
アレタの声がわずかに低くなる。同時に周囲の空気に肌を刺す重みが加わった。
「……アジヤマ タダヒトへの査問会、及び人体解剖調査の提議が"委員会"で為されている。現在、アジヤマには探索者深度レベル3の疑いがかけられているが、先程の異常から一部の委員が早急な結論を求め始めていてね……」
「つまり、何が言いたいの? ソフィ」
美しい海を閉じ込めた瞳が、緋色の血を溜め込んだ瞳と混じる。
緋色の瞳がわずかに迷いの色を見せ、そしてソフィが口を開いた。
「……探索者資格を剥奪したのち、秘密裏にアジヤマ タダヒト誘拐監禁計画が持ち上がっている。……人類の進化のためにはやむなし、と連中は議論しているらしい。あくまでまだ議論の途中だがね」
ソフィが言葉を紡ぐ。
現れる肌に薄い針が突き刺さる感覚。この感覚をソフィ・M・クラークは知っていた。
長い沈黙。
アレタ・アシュフィールドの表情は見えない。
パブのBGMだけが薄くトイレに届く。防音セイモンタカアシガニの甲殻を混ぜて作られた建材の性能は素晴らしい。
そして、沈黙が終わる。
「ふ、ふふ。フフフフフ」
アレタが肩をふるわして笑い始める。おかしくて仕方ないと言わんばかりのその笑いは次第に大きくなる。
「フフフフフフフ、アハハハハ…… 面白いわね、ソフィ。その話。まったく連中はいつもあたしを笑わしてくれるわ。揃ってコメディアンでも目指した方が世界にとっても有益だと思うのだけれど」
笑っている。なのにソフィはまったく笑えない。
ここから先は言葉を選ばなくてはならない。ソフィ・M・クラークをしてそう思わせる雰囲気をアレタは醸し出していた。
「委員会の保守派と革新派は今のところ五分五分だ。しかしこれからはどうなるか分からない。特にアジヤマというダンジョンの神秘にわかりやすく触れている存在というのはーー」
ソフィはその先の言葉を続けることが出来ない。
アレタの笑みがそれを許さなかった。
「ソフィ」
アレタが短く、友人の名前を呼ぶ。
「……なんだい、アレタ」
それでも恐れずに言葉を返すのはソフィもまた、アレタと同じ特別な存在だった故。
「貴女は得難い友人だわ。多少気難しい部分はあるけど、貴女はあたしという存在を尊重してくれてるし、貴女の探求心をあたしは尊敬している。あたしは貴女のことが好きよ、ソフィ」
「……光栄だな、アレタ」
「貴女の立場や仕事も理解しているわ。貴女が人類の進化に興味があるのもわかる。その為に"委員会"に所属してるのも応援してる」
穏やかな口調。
しかし
「でもね、ソフィ。勘違いしちゃダメ。あたし達が友達のままでいる為にもラインは必要だわ」
アレタが言い放つ。不気味ほどに穏やかな口調。
「その先の言葉は聞くわけにはいかない。そして貴女もそれを口に出してはいけない。そうでしょ、ソフィ」
「アレタ…… しかし」
ソフィが苦虫を噛んだように表情を曇らせる。
言葉をアレタが遮った。
「ドイツ? それとも、中国、あー、ステイツも加担しているのかしら?」
「……え?」
「アハ。その表情。他にも加担してる国がありそうね。うーん、ああなるほど、彼の国、日本もその馬鹿げた考えに賛成なわけね、へえ」
おもちゃを見つけた残酷な猫のような目つき。アレタはソフィに向けて無邪気に笑いかけた。
「アハ。誰も彼もが身の程知らずなものね。誰のモノに手を出そうとしてるかまるで分かっていないんだから」
吐き捨てるようなセリフ。
アレタはソフィへ向き直り、はっきりとした口調で告げた。
「ソフィ、"委員会"の連中に伝えてもらえる? もしも、あたしの所有物に許可なく触れでもしてみなさい」
ゆらゆらと揺れる指先、ソフィに向けられたそれは、ソフィを通じてその背後の存在を指す。
「お前の国、お前の街、お前の友人、お前の家族。全てを嵐で消し去ってあげると。心しなさい、お前達の選択次第では、世界に再び嵐が生まれるってね」
「……ストームルーラーを使用する気かい?」
「そういう選択もあるだけよ、ソフィ。あたしだって、世界であたしにしか出来ない脅しとかしたくないわ」
女は笑う。
世界から嵐を消し去り、その嵐の支配権を有する英雄、アレタ・アシュフィールド。
彼女はその気になれば、世界に再び嵐を顕現させ意のままに操る事ができる。
個人にして唯一、国家を脅かし得る存在を前にソフィは額から汗を流した。
「ソフィ、顔色、悪いわよ?」
ニヤリ、アレタが笑う。
ソフィがため息をついて返事をした。
「……誰のせいだと思う? バカアレタめ。……わかったよ、キミの言葉をそのまま委員会に伝える。まったく、損な役回りなものだね」
「ふふ、ソフィ以外だとあたしに意見することすら無理だものね。ごめんなさい、イジワル言って」
「自覚があるならもう少し…… いや、無理か。だが、アレタ、これは友人としての忠告だがね」
「なあに、ソフィ」
柔らかく笑うアレタ。愉快げに揺れるその瞳は造り物と見まごうばかりに美しく。
「アジヤマにあまり肩入れするなよ。接しているとその凡庸さや毒気のなさに忘れそうになるが、彼は何かがおかしい」
「ふふ、ソフィ・M・クラークにそこまで言わせるなんて、タダヒトも捨てたものじゃないわね」
「からかうなよ、アレタ。忘れてはいけない。あくまでワタシ達は彼の監視と保護の為にパーティを組んでいることを。アジヤマはアレタ・アシュフィールドでさえ到達していない、レベル3の可能性がある人間であることをね」
鋭い視線のソフィ、切れ長の瞳をクリクリと丸くさせ愉快そうに話を聞くアレタ。
アレタが頷く。
「ええ、わかったわ、ソフィ。心配してくれてありがと」
「偉大な友人を持つと苦労するよ、本来ならワタシは苦労をかける側の人間のはずなのだがね」
「あら、いいじゃない。たまにはそういう立場を経験するのも大事なことよ。……あら?」
笑うアレタが急に怪訝な顔をする。
「どうした、アレタ?」
「ごめんなさい、ソフィ。そろそろ戻りましょ。タダヒトとグレンだけだとあの席むさ苦しいし、それにーー」
「それに?」
鏡を離れたアレタの背中に向けてソフィが問いかける。
長い脚で出口に向かうアレタが振り向き、忌々しそうに呟いた。
「お酒の匂いに混じって、嫌なニオイがするの。発情したメス猫のニオイね。ちょっと追い払ってくるわ」
それだけ告げて、アレタが足早に女子トイレを去る。
ポカンと口を開けたソフィは一拍おいて、堰を切ったように笑う。
「く、くくく、なんだそれ。……退屈しないね。キミ達は」
ソフィは笑う。誰に聞かれるともわからぬその場所で笑い続ける。
退屈しない。心地よい。
願わくばーー
「待ちなよ、アレタ」
ソフィはまだ笑いを止める事が出来ないまま友人の背中を追い始めた。
願わくば、この穏やかで血生臭く、心地よい時間が少しでも続けばいいのにーー
そんな思いを胸に、脚の速い友人を追いかけた。
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