14(最終話) 砕けた杯(カップ)
残酷なシーンがあります。苦手な方は、真ん中らへんを飛ばしてお読みください。
水棲魔獣の国と呼ばれるベニスィー国の中で、大貴族として名高いグラシアノ公爵家。五代前の王妃を輩出した、古くから王国を支える名門である。
王都に構えた公爵邸の、格調高い休憩室。今は亡き先々代が、ワインの赤を開ける時は必ずこの部屋だったという、由緒ある休憩室。
その部屋に、杯も割れよ言わんばかりの怒鳴り声が響き渡る。
「ふざけるな、取り返せ! 生まれた子は、俺の子だ!」
磨かれたローテーブルに、男の手が叩きつけられた。怒りのまま遠慮なく振り下ろされた拳が、怒号に負けないほど大きな音を立てる。
「落ち着け、少しは考えろ。
婚約して一年、結婚して一年、嫁……いや、アマリエラは伯爵領から出ず、一歩たりとて王都に足を踏み入れていない。別れて二年、王都にずっといたお前の子であるわけがないだろう。
生まれたのがもっと早く、それこそ腹を膨らませて結婚して、すぐにでも生まれたのであれば、お前の子だと強弁もできたがな」
怒り狂う男に、老いてなお威厳を増した声が突き放すように投げられた。だが。
「アレは俺の女だ! アレが俺以外の子を産むわけがない!」
「……アマリエラがお前の妻だったのは、もう二年も前のことだ」
「ちがう、ちがう、アレは俺の女だ! 落ちぶれて見捨てられて、誰もが蔑むアレを、俺が愛人にして飼ってやるんだ!
だから、アレが産んだのなら、それは俺の子だ! とっとと兵を出して取り返せ!」
事実を淡々と突き付ける老人に、返答は悲鳴のような叫び声だった。
男が大きく目を見開き、鬼気迫る形相で老人に迫る。
男の話す内容も、目を血走らして狂ったように拳をテーブルに叩きつける様も、もはや常軌を逸していた。
二年前の祝祭を機に、グラシアノ公爵家の周囲からは水が引くように人がいなくなった。内陸に金山を持つ公爵家だというのに、公・侯・伯爵の高位貴族は言うに及ばず、名ばかり貴族とも見下される格落ちの伯・子・男爵さえもが、関わりを避けるようになった。
グラシアノ公爵家の嫡男たる男の周囲もまた同じく。
目の前の狂乱を、それでも泰然と流していた老人は、やがて給仕に命じてワインを持ってこさせた。
「これでも飲んで、少しは落ち着け。冷静にならねば、兵を差し向ける手筈もままならんぞ」
水晶をカッティングしたそれこそ宝石の杯に、色鮮やかな赤が注がれ、男の目の前にそっと差し出される。
老人の「兵を差し向ける」の言葉に同意を得たと思った男は、ようやく叩きつけていた拳を止め、機嫌よくワインを一気に飲み干した。
年老いたこの男は現公爵、自分の父親で。この父親が決めたことで、『そう』ならなかったことはない。
だから男は、これで女も子も、自分の元に戻って来ると安心した。
安心して、次に呼吸ができないことを不思議に思って、もう一度息を吸おうとして、出来ないままに、床に倒れた。
水晶の杯が落ち、破片をまき散らして砕け散る。
男は倒れたまま老人を見上げ――邪魔な石木でも見るかのような、冷然とした眼差しと出会った。
騙したな、親のくせに、裏切り者、呼吸のできない苦しみの中、様々な感情が押し寄せ……目に入ったのは、光を弾く水晶の破片。
それは男に、光に煌めく銀色を思い起こさせた。
――もう二度と、この手に戻ってこない。
どうしようもない絶望が、男からあがく力を奪い。声にならない絶叫を最期に、男はそれきり動かず。
「こやつに子さえできれば、それを後継ぎにと思い、好きに放蕩させておったのだが……無駄であったな」
老人は、自分は飲まぬままに杯をローテーブルに置いた。給仕がそっと杯を遠くへやる。
「旦那様、若様は気分が優れぬ様子でございます。恐れながら、静養のために領地へ向かわせていただきたく」
「許す」
男を若様と呼んだ、男よりも一回り年上の給仕が、老人に深く腰を折って礼を執る。
床に敷かれた絨毯を端からくるくると回し、器用に倒れて動かない男を巻き込んだ。
「旦那様、今夜のワインをいただいていっても? 静養地に着きましたら、奉公の褒美として、今夜のワインを賜りたいのですが」
給仕が膝を突き、頭を垂れて願い出る。
「教育係として、幼い若様を導きました。長じては、側仕えとしてお仕えしました。
このような仕儀となり、役立たずの側仕えではありましたが、最後までお仕えしたく……どうか、お許しを」
「……許す」
ようよう、老人は口を開いた。
数人の使用人の手を借り、給仕――息子の側仕えだった者が、大きめの絨毯を運んでいく。
老人はそれを見送った後、残った使用人に部屋の片づけを頼み、自分が生きている限り、この部屋を使わないよう命じた。
扉を閉める直前、悲鳴のような叫び声が聞こえた気がした。
『兵を出して、取り返せ!』
「兵まで持ち出して、何を取り返すつもりだった、愚か者が……」
取り繕った威厳も剥がれ、覇気をなくした小さな背中から、誰にも聞かれることの無い哀惜の言葉が零れ落ちた。
言葉を受け止める杯は砕け散り、失われた。
二度と戻ってくることはない。
その夜、葬送の祈りもなく、弔いの鐘も鳴らされず、ひっそりと隠れるように、絨毯を積んだ馬車がグラシアノ公爵領へと向かった。
国を挙げての運河計画に沸く中、誰もそのようなことを、気づかず気にせず。
もはや誰一人として、男の名前を口にすることはなく。年月が経てば経つほどに、男がいたことを覚えている者はいなくなった。
聖杯は生命の象徴、とかいうカード図柄の蘊蓄より、サブタイトル決めました。
これにて完結です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。