32. 会えない時間(3)
会議が終わりひと息つこうかと言うところで、突然扉がバンッと開いた。
水の女神・リアナだった。
「よくも私のかわいい娘を泣かせくれたわね」
怒りを露にした彼女は、開口一番に言い放つ。
「なんの事だ?」
「アイリスの事よ。あなたに会えないって、大泣きされたわ。どういう事なの?」
テーブルに置いてある水差しの水が、リアナに共鳴して波打つ。この部屋の水という水が、怒気を孕んでいるかのようだ。
「…………。」
「ど・う・い・う・事なの?!」
今にも胸ぐらを掴んできそうな勢いで迫ってきた。ググッと顔を近づけて睨みつけて来る瞳を受け止めきれずに、思わず顔を背けて答える。
「……アイリスの神気に当てられているかもしれない」
「……は?」
歯をむき出して怒っていた表情から一変して、ポカンとマヌケな顔に変わる。当然だ。最上位にいる自分が、まだ立神前の神の神気に酔うなんて普通では考えられない。
リアナに取りあえず座るように促し、事の経緯を話した。
アイリスへの心境の変化や、守護天使達の会話、そして何故遠ざけていたのか……
正直、自分の胸の内を話すのはかなりの抵抗感があるが仕方がない。このまま1人で悩み続けても前に進む事は出来ないのだから。
話を聞き終えると、リアナはどこか呆れたような顔をする。
「あなた、本気でそう思っているの?」
ついでに「セフィロスだから仕方ないか」と小声で失礼な台詞を呟くのも聞こえた。質問に答えないでいると、リアナは今度は真剣な顔で話し始める。
「あなたが人からどう見られようと気にしないのは、与える愛に見返りを求めていないから。って言うのは、最上級神みんなが知っているわ。だから冷たいだのなんだのって誤解されちゃうわけだけど」
「誤解? 私がした行動の結果で実際にそう思ったならそれでいい」
「ほらね、そういう所よ」
ふふん、と鼻を鳴らしてみせる。
「まあ今はそれはいいわ。でも今回は……アイリスには違うんじゃない? アイリスには求めてしまう。そういう事でしょ?」
「だからそれが、私が彼女の神気に当てられているのだという……」
「違うわ」
言葉を遮りリアナはキッパリと言い切る。
「あなたはアイリスの神気が欲しいんじゃなくて、アイリスの心が欲しいのでしょう?」
リアナの言葉に何も言えなくなる。
そうだ。あるのは自分を想って欲しい、もっとそばに居て欲しいという欲求だ。
アイリスに例え神気が全て無くなってしまったとしても、きっとこの欲求は止められない。
「いいんじゃない、たまには求めても。いつも与えてばかりなんだもの。アイリスならきっと、答えてくれるわよ」
「そう言うのは厚かましいと言うものだろ」
リアナは、はぁーーーっと盛大にため息をついてみせる。
「ほんっとに生真面目と言うか、頭が固いというか。少しは自分の欲求にも付き合ってあげなさいよ。アイリスと会うようになってからのあなたは随分と柔らかくなったと思っていたけど、まだまだね」
何を言っているのか分からず怪訝そうにリアナを見やると、ぷッと吹き出された。
「ノクトを見ていて分からないの?あなたの映し鏡みたいな子なのに。それに20億年も一緒にいるけど、初めて見るわよ。あなたのそんな顔」
つい先日、ノクトの変化について考えたばかりだ。自分もあんな風に変わっていたのだろうか。
「まだ分からないって言うんなら、あなたが持つその感情について愛の女神・ヴィーナスなら喜んで……そうね、あの子の事だから半日はかけて説いてくれるわよ」
黙ったまま俯いていると、リアナがさてと、と席を立ち扉へ向かう。その様子を見ていると、リアナはクルリと振り返り捨て台詞を吐く。
「いい? 今度またアイリスをあんな風に泣かせたら、あなたの身体中の水分、全部抜いてやるんだからね」
リアナは昔から気に入らない相手を溺死させる、なんて言う水のムダ使いはしない。水の恩恵を全て奪い取る。
相変わらずだな、と思わず笑ってしまうと、リアナも勝ち誇ったかのような顔で笑い、去っていった。
******
――期待してしまった自分がバカだった。
アイリスは虹の滝を眺めながら、独りごちる。
テスカがセフィロスに言っておいてくれると言ったから、ほんの少しだけ、何か起こるんじゃないかと期待してしまった。
それでも何もなく日々が過ぎていくから、先日、来てくれたリアナにとうとう泣きついてしまった。
もう春は終わりかけて、爽やかな暖かい風が吹いている。真夏に生まれたアイリスは、最後の成長期を目前にしていた。
成長期は誕生した日ピッタリではなく、前後数ヶ月のズレがある事も珍しくない。早ければいつ来てもおかしくないのだけれど、そんな事はもう、どうでも良くなっていた。
立神なんて、その後の自分の事なんて、どうでもいい。
ただただ逢いたい。
その事しか考えられなくなっていた。
目を閉じれば、あの風を思い出す。
いつもセフィロスとここへ来ると、寒い時には暖かい風を、暑い時には涼しい風を吹かせてくれた、あの風を。
「アイリス様、いらっしゃいましたよ」
一緒に付いてきてくれたジュノが、アイリスにそっと耳打ちする。
だれが?と聞く前に、ジュノは「お先に失礼致します」とだけ言って去ってしまった。
「アイリス」
声を掛けられた方を向くと、ずっと逢いたいと思っていた、その人がいた。
「セフィロス……さま……?」
突然の出来事に、頭が上手く回らない。名前を呼んだその後に続く言葉が見つからずただ見つめていると、セフィロスがゆっくりと近付いてきた。
「隣に座っても?」
「あっ、はい。もちろんです」
アイリスは慌ててベンチの端に座り直す。
「突然来なくなってしまってすまなかった」
「いえ、えっと、その……お元気なのでしたら、それで良かったです」
驚きと嬉しさと久しぶりにその姿を見る緊張とで、舌がもつれそうになる。見つめられるとますます思考が停止しそうだ。
しばらくお互い無言になってしまった。こうなると、どうしたらいいか分からない。天気の話でも振ってみようかと訳の分からないことを考えていると、セフィロスが口を開いた。
「実は私は、其方の神気に当てられているんじゃないかと思っていた」
「私の神気に、ですか?まさか……」
いくら何でもそれはない、と思う。1階級違いとはいえ、最上級神と上・上級神の間には大きな力の差がある。立神前の自分の神気に酔うとは、とてもじゃないけど考えられない。
「それをリアナに言ったら、鼻で笑われた」
セフィロスが自嘲めいた笑みを浮かべる。
「私が当てられたのは、神気に、ではなく其方自身にだったようだ」
「ええと、よく分からないのですが、嫌われた訳では無いという解釈でよろしいでしょうか?」
セフィロスはこくりと頷くと、その手をアイリスの頬に伸ばしてきた。手のひらが肌に触れると、思わず子犬のように頬を擦り寄せる。大きくて暖かい手だ。
「良かった……ほんとうに」
色々と聞きたいことや言いたいことがあったような気がするのに、全て吹き飛んでしまった。
何でもいい。理由なんて。こうしてそばに居てくれるだけで、もうそれだけで充分だ。