31. 会えない時間(2)
最後の書類にサインをし終えるとセフィロスは羽根ペンを置き、ゆっくりと息を吐いた。
日はとっくに沈み、月が夜空に浮かんでいる。
「失礼致します」
終わるタイミングを見計らったかのように、守護天使長のノクトが部屋に入ってきた。無言のまま書類の束を渡すと、ノクトはパラパラとめくって確認をする。
「……お加減でも悪いのですか?」
「どうしてそう思う?」
ノクトは表情に乏しく、感情を読むのが難しい。とは言え人のことは言えない。自分も同じだと言うことくらいは分かっている。似たもの同士だ。
「最近少し、仕事をこなすスピードが落ちているなと思いまして」
今持っている書類は、今日中に必ず終わらせなければならない必要最低限の分。いつもならそれ以上の量をこなしている筈だと言いたいらしい。
「お前は私にもっと仕事をしろと言いたいのか?」
「いいえ、むしろもっと減らしても良いくらいかと。それから、明後日の午後2時以降の予定が空いておりますが、いかが致しますか」
ノクトがほんの少しだけ、何かに期待するような口調で聞いてきたが、それを無視して答える。
「それなら久しぶりに風の都を見て回ろう」
直轄地の管理も大事な仕事のうちの一つだ。直に見て回らなければ分からないことも多い。
「……かしこまりました」
何か言いたげな顔をしたが、すぐに気を取り直すと「失礼します」と言って出ていった。
何を言いたかったのか、という事くらいは分かっている。もう20億年以上傍で仕えてくれているのだ。
ほんの少し前までなら、少しでも時間に空きがあればアイリスの所へ足を運んでいた。
「アイリス様の所へは行かれないのですか」
ノクトが言いたかったのは、そんな所だろう。
そう言えばここ最近のノクトは、以前にも増して顔が強ばったように感じる。
そう思うのはアイリスの所へ行くと、いつもは無表情を顔に貼り付けているノクトが、珍しくリラックスしていたからだろうか。
空気に流されるなんて事はほとんどないのに、虹の天使たちのあの穏やかな、と言うよりもおおらかで少々呑気すぎる所が、ノクトのピンと張った糸を緩めているのかもしれない。
そう言う自分も、アイリスの少し抜けているところに、随分と笑わせてもらったなと思う。いつも自信が無いながらに一生懸命で、それなのに空回りしてしまう所が、いかにも生まれたてと言った感じがした。
初めてアイリスの所へ訪れる時、自分が周りからどんな風に見られているか、という事は知っているので、風の天使の中でも取り分け人懐っこくて明るいエレノアを連れていくことにした。
それが功を奏したのか、初めはガチガチに緊張していたアイリスは直ぐに気楽に接してくれるようになった。
最近読んだ本の話、面白かった出来事、美味しくできた料理の話……。
なんて言うことの無いはずの会話なのに、自分にとっては新鮮だった。
堅物で通っているせいか、皆が自分に振ってくる話題と言えば、政の事や、医療、財務……仕事の事か堅苦しい話ばかりだ。 初めは小さな子供を愛でるような気持ちでいたが、次第に彼女の心に惹かれるようになって行った。
アイリスは使用人の子供達が贈った髪飾りをよく身に付けていた。上・上級神と言う立場にあって全てが1級品で揃えられている中、お粗末な物だと言うのに、随分と気に入っていたようだった。
もしかして自分が来た時だけのパフォーマンスかと思ったが、布で出来た造花の部分はくたびれて、他の部分も何度も手直しした跡があった。きっと普段から付けていてくれるのだろう。
神獣や神鳥を得た時もそうだった。ユニコーンと言う美麗な生き物を選んだかと思えば、神鳥は皆から『怪鳥』と呼ばれているような鳥を選んだ。その鳥をアイリスはいつも「かわいい」と言って撫でていた。
外見ではなく、内面を見ることの出来るその心が、心底美しいと思った。
自分の心が彼女に奪われそうになるのを感じている時に、天使達の会話を聞いて気が付いた。
アイリスの神気に当てられているかもしれない、と。
守護天使の為に用意してある談話室の前を通る時に、ノクトとエレノアの話し声が聞こえてきた。いつもなら気にせず素通りするものを、この時はエレノアの言葉が耳に入り立ち聞きしてしまった。
「セフィロス様はもしかしたら、アイリス様の神気に当てられているんじゃない?」
その台詞に、ギクリとした。
「そんな訳無いだろ。セフィロス様はアイリス様より上位にあるんだぞ」
ノクトがバカらしいといった声で答える。
「あら、絶対無いなんて何で言い切れるのよ。だってアイリス様にお会いする時のセフィロス様はいつもと全然違うもの。流れ込んでくる神気がまるで春風みたい」
エレノアが反論する。それ以上の会話は聞かずに、すぐにその場を立ち去り自室に戻った。
――迂闊だった。
上位の自分がアイリスの神気に酔うとは思ってもみなかった。ましてやまだ立神前。本来持てる力の数割程度しか出せていないと言うのに。
エレノアの言う通りだ。アイリスに会うようになってからの自分はどこかおかしい。絶対無い、なんて保証はどこにもない。
そう思うと、アイリスに会うのが恐ろしくなった。
もし自分を見失い、抵抗することの出来ないアイリスを襲ってしまったら――。
考えただけでゾッとする。
毒気が抜けるまで、アイリスに会いに行くのは止める事にした。
「またお越しくださいますか」
そんな別れ際の社交辞令にさえ気持ちを込めて言ってくれる彼女の事だから、急に来なくなったら不審がることは分かっていた。
それで何度も手紙を出してみようと思った。
『仕事が忙しくて、しばらく行けそうにない』
ただそう書けば良いだけの物を、彼女に嘘をついているような気分になった。かと言って本当の事を書くことも出来なかった。
案の定リアナやテスカに、アイリスが来ない事を気にしていたと言われたが、それでもまだ気持ちに収まりがつかないでいる。
――どうしたものか。
セフィロスは目を閉じ、再びため息をついた。