閑話8:とある庭師
皇帝の住まいである宮殿、その建造物以上に広いのがわしの仕事場でもある庭園だ。
「はぁ、よぉし。これで終わりだ」
もちろん宮殿に仕えることは誉れだが、一介の庭師であるわしは、最近辛い腰の痛みのほうが気になるもんで。
だいたい庭師はいくらでもいる。
いや、たくさんいなければ維持ができないんだが。
ただ手入れするだけでも一日では終わらないと来る。
「あ、ちょっと! 勝手に触らないでください!」
わしがひと息つこうとした時、庭師見習いの弟子が声を上げた。
見れば、紺色の髪のドレスを着た女性のほうへ向かっている。
「あんの馬鹿…………!?」
相手が貴族じゃ、わしらは声をかけただけで首切られるかもしれないんだぞ。
ここに出入りできて、お仕着せ着てない相手なんてそういう身分だ。
わしは慌てて馬鹿弟子を追った。
「それ、まだ棘処理してないんですから! 子供が怪我したらどうするんです?」
「馬鹿! この!」
「いってぇ!?」
偉そうにドレスの女性にものを言う弟子を、後ろから拳で黙らせる。
そのまま頭を押さえつけて、下げさせた。
「申し訳ございません! 何分、出入りして日の浅い若輩者でして!」
わしも一緒に頭を下げて、非礼を詫びる。
そんなわしらにかけられた声は、下げた頭と同じくらいの位置からだった。
「いいよ、僕が怪我しないように声をかけてくれたみたいだし。こちらこそ、不用意なことをしたね」
見れば、黒髪の子供がドレスの女性の前に立っていた。
わしはすぐさま相手が誰かわかって、顔が引きつりそうになる。
「あぁ、そうだ。この辺りの柑橘類、実がなったらもらえるかな?」
「は、いえ、それは…………わしら庭師ではなんともお答えできんのです」
「でしたら、管理者に確認をなさってください」
「はい、それはもちろん」
子供の要請に明言を避けると、ドレスの女性のほうが言葉を重ねる。
そんなこと言われりゃこっちも断れもしないし、面倒なことになったなぁ。
ただそれ以上、とくに絡まれることもなく二人は去る。
わしは腹立ちまぎれに、もう一度迂闊な弟子の頭に一発お見舞いした。
「痛いですって! なんでそんな殴るんすか? 俺、間違ったことしました?」
「したのがわからんようなら、まずはわしに聞かんか、馬鹿もん!」
遠目に見ていた庭師仲間たちも、心配がてら寄ってくる。
「いいか、ここに子供なんてそういない! しかも黒髪! ありゃ第一皇子だ!」
「えぇ!? 弟と会えば必ず泣かせて、庇う相手は誰でも辞めさせる性悪って言う、あの!?」
あまりの大声に、わしはもう一発入れて黙らせた。
慌てて周囲を見るが、当人はすでに去った後で聞かれてはいないらしい。
庭師仲間が無事に済んだからこそ笑う。
「なはは、謝り損だったな。さすがにやりすぎて、宮殿の左翼から出入りすることもできなくされたって噂だぞ。ちょっとやそっと礼儀知らずでも、あの皇子を相手に処罰ってことはないだろうさ」
庭師にも聞こえる第一皇子の悪評には、こっちも困らされている。
だいたい、次の皇帝である第二皇子を泣かせたのがこの庭園の中だ。
第二皇子が突然走り出して、供回りが見失った間の凶行だとか。
そのせいで、当該区画の庭師は手入れが悪いと上から八つ当たりを受け、中には反論して不興を買い首にされた者もいる。
そのため庭師の間では、第一皇子と関わるのを避ける風潮ができた。
誰でも自分の身が可愛いもんだ。
「けど、噂より普通でしたね」
弟子が片づけをしながら呟く。
この妙な素直さが、こいつのいいところであり、悪いところでもある。
ただ、わしも同じ感想だった。
「欲しいなら千切っていくかと思ったが、棘があったからか?」
「え、そんな。皇帝の庭園でまさか」
弟子がわしの言葉を冗談の類と思ったようだが、昔はよくあったことだ。
「まだ先帝が病に倒れるよりもずっと前。貴族も多けりゃ夜会も多かった時期には、どんなに手入れしても半日で荒れ果ててな」
茂みに入って枝を折りまくる男女の火遊びは、昼も夜も関係なかった。
今よりずっと多くの皇子や皇女が住んでいた時は、帝室の者が望んだからと、庭師に断りなどなく乱暴に千切って持って行く者も珍しくはない。
そのせいで枯れた希少品種もある。
そしてその咎は庭師に降りかかったもんだ。
貴族がやることに文句など言える立場ではない。
それほどの強権、それほどの理不尽が、今は鳴りを潜めている。
「うぇ、あんまりでしょ。師匠はなんでそれで宮殿に務め続けようなんて思ったんすか?」
「庭師としてやれることは多い。触れられる品種も馬鹿にならない。それに、理不尽に首切られても、帝都を離れれば元宮殿勤めという看板で仕事はいくらでもある」
まだ青い弟子は、キャリアと理不尽をはかりにかけて悩むようだ。
わしには、もっと深刻な悩みができてしまっているというのに。
数日後、また黒髪の皇子がやって来た。
「そう…………。実はもらえないか」
第一皇子の希望は通らない。
管理者が渡さないということは、聞く前からわかっていた。
確か第一皇子に辞めさせられた者が親戚か何かで、陥れられて辞職に追い込まれたとずいぶん吠えていたのだ。
つまりは、ただの嫌がらせ。
それとわかっているドレスの女性は、唇を噛んで耐えている。
わしを怒鳴りつけても意味はないという理性がある相手で良かった。
「だったら、そこの纏められてる枝についてる実は? 摘果した後何かに使う?」
第一皇子は怒った様子もなく、そう聞いて来た。
「いえ、これはそのまま捨てますが」
「そう、だったら捨てるのでいいからもらえるかな? さすがにそんなもの許可を取る必要はないでしょ?」
第一皇子はごみに捨てる枝を拾っていった。
ドレスの女性は、そんな皇子を見下ろして泣きそうなほど目が潤んでいたのがなんとも言えない後味の悪さだ。
「…………なんか、すごい弱い者いじめしてるみたいっすね」
わしは一言多い弟子の背中を叩く。
「無駄口叩いてないで仕事しろ。どうせわしらには口も出せん」
「そうっすよね」
弟子は頷きつつも情けない顔をする。
わしも眉間に力がこもるが、それ以上言うことはできない。
今回わかったのは、噂は噂でしかなかったということだな。
思えば第二皇子をいじめたというのも噂で、元はと言えば迷子にさせた奴らの失態だ。
つまり辞職に追い込まれただなんだは、護衛としての落ち度の責任であって、第一皇子が関わらなくてもそうなったって話だろう。
それから第一皇子はよく来るようになった。
いつの間にかわしらが剪定して、ごみを捨てる日を覚えていたようだ。
あのドレスの女性はいなくなり、細身の警護が一人ついてくるようになっても変わらない。
第一皇子は穏やかで、子供というにはとても落ち着いており、我儘どころか警護相手に命令しているところも見たことはなかった。
「大変です! 師匠!」
「うるさいぞ。ったく、休憩で何処ほっつき歩いてた? さっさと仕事に戻れ。そろそろ第一皇子が来る時間だろ」
「いや、大変なんですって!」
数年ででかくなっても落ち着きのないこの弟子は、第一皇子を見習わせたいもんだ。
「第一皇子が今度は第四皇子殺そうとしたって大騒ぎですよ!」
「はぁ!?」
「馬鹿言ってんじゃねぇ!」
「そんなことあるか!」
「くだらねぇ嘘吹いてんじゃねぇぞ!?」
庭師仲間たちからも非難が飛ぶ。
第一皇子と相対したことがあれば、噂の悪意のひどさに気づくってもんだ。
そしてそれを第一皇子自身が自覚して、子供なのに窮屈な生活をしていることも。
わしらは口も出せん。
だからと言って傷ついた子供をさらに足蹴にするような、そんな非道なことをするほど落ちぶれちゃいない。
「すぐに何があったか聞いて回れ! 今度は馬鹿な噂にならんようにな!」
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