閑話6:ディオラ
七歳の時、私は珍しくも美しい庭園で、一目惚れをした。
黒髪が優しく揺れる小柄な方。
微笑みを絶やさず気遣いをしてくれて、私の話を聞いてくれた。
何より言葉にできなかった私の不満を解き明かしてくださった方。
そんな聡明な方ともっと話したい、もっと一緒にいたいと思ったのだ。
その思いが恋だと、私は感じた。
「ふふ、まぁ…………」
「あら、ディオラ。楽しそうね、私にも聞かせてちょうだい。今回、殿下はなんと?」
お母さまがやって来て、私が座るソファに近づく。
私は部屋に戻る時間が惜しくて、談話室で心待ちにしていた手紙を広げていたのだ。
一年前、私はアーシャさまへの思いから結婚を望んだけれど、他国の、しかもあちらが国力は上の帝国の皇子。
私が望んだところで婚約さえできず、こうして文通が許されただけでも特別なことだと、侍女が話しているのを聞いた。
帝室では、異性と手紙を交わすことはそれほど特別なことなのかしら?
私とアーシャさまが文通できたことを、両親も驚いていたほどだ。
「はい、帝都の湖には人よりも大きな魚の魔物がいるのだそうです。しかも尖った剣のような鼻のようなものを持っているとか。アーシャさまを丸のみにしてしまうほど大きいけれど、それを獣人の方は一撃で倒してしまうのだそうです」
手紙にはまるで冒険譚のような出来事がよく書いてある。
聞いた話、図鑑で見た話、誰かの紀行文、帝室に伝わる書籍に収蔵された逸話など様々。
私も学園王国と呼ばれる国の王家に生まれたからには、読書は義務付けられている。
それでもアーシャさまほどの博学ではない。
勤勉な方、そしてそれをひけらかすことはなく、わからないことはわからないとおっしゃられる心根の真っ直ぐな方だ。
「ふん! 適当に言ってるだけだ。帝都のような場所に魔物などいるものか。すぐに騙されて、これだから子供は」
突然兄が私とお母さまの会話に入って来て、ただただ否定をする。
「アデル、否定をするなら理論的になさい。少なくとも帝都の水域には魔物が自生しています」
もちろんお母さまが窘めるけれど、兄は不服を隠そうともしない。
この兄は私が嫌いなのだと気づいたのは、アーシャさまと出会ってからだ。
兄には女が知識をひけらかすなと言われたけれど、アーシャさまは男でも女でも関係ないと、全くそのとおりなことをおっしゃったことがきっかけ。
「お兄さま、話の腰を折るのはやめてください。あまりにも不作法です」
「なんだと、妹のくせに偉そうに僕に指図をするな」
「アデル。ディオラの言っていることは間違っていません。一声かけて話に入る。それがマナーというものです。普段から気をつけなければ身につきませんよ」
またお母さまに叱られると、まるで私が悪いように兄は睨む。
けれど実際こうして話を邪魔されるのは初めてではない。
私が知る限りでは他の貴族子弟にもやっているのだ。
また、十三歳にもなってそれでは学園入学を前に不安が残る。
だからお母さまも最近では何度も窘めていた。
「そうやって僕ばかりを目の敵にするからディオラがつけあがるのに。甘やかして」
「アデル…………、今はディオラの話ではなく、あなたの行いを」
「もういいです! ふん!」
何も良くない上に、兄は自らの非を認めず改める気もない。
お母さまも困り顔でこれ以上言うべきかどうかを迷うようだ。
「そんな他人が代筆した手紙をほめそやして騙されて、馬鹿馬鹿しい!」
「アーシャさまはご立派な方です!」
見苦しい捨て台詞のように、アーシャさまを貶され、私も我慢ならず言い返す。
けれど兄は私を見下して嫌な笑い方をした。
「そんなわけがあるか。第一皇子は悪い噂ばかりしかない無能だと知らないなんて」
「噂は噂。先ほどお母さまがおっしゃったことを忘れたのですか? 否定するなら論理的に。お兄さまは決めつけがすぎます」
「そっちこそ目がくらんでるだけだろ!」
すぐ怒鳴って相手をねじ伏せようとするけれど、その決めつけへの否定にはならない。
だって兄は以前、アーシャさまの手紙を私から奪って読んだのだ。
そして内容がわからず代筆だ、別人が書いていると決めつけ、それをずっと信じ込んでいる。
「いいえ、文通の最初からずっと同じ筆跡。ましてや内容に他人の思考が介在するような矛盾やずれはありません。一人の方が書かれた文章です」
「最初から他人が書いているだけだ。第一皇子は駄目皇子。馬鹿でのろまで性格が悪く、弟を殺そうとする凶悪な」
「おやめなさい」
お母さまが強く兄の言葉を遮った。
「アデル、あなたは何を言っているかわかっているの?」
「みんな言ってることです」
「みんななどという不確かな情報で決めつけてはいけません。ルキウサリアという国を宰領するならば、他人の意見に耳を貸すことは必要でしょう。けれど頭から信じてどうしますか。正誤を正しく理解しなければならないのですよ」
またお母さまにお説教される。
そしてまた私が悪いかのように睨む。
こればかりだ、この兄は。
これだけ同じことを繰り返して、どうして行いを振り返らないのかしら。
「どうしたんだ?」
表情を険しくしたお父さまが現われたのは、お兄さまが騒ぐからでしょう。
「帝国の第一皇子が不出来なのは誰でも知っていることですよね!?」
そしてやはりわかってない。
私とお母さまが国王であるお父さまに礼を取る間に、断りもなく声を大にする。
お父さまは父親として目こぼしをしているだけなのに、だからこそマナー違反など気にしないところも兄にはあった。
「あとでお話しなければいけないわね」
お母さまが溜め息を吐く。
きっと今度はお父さまからもマナーについて見る目が厳しくなることだろう。
そして当のお父さまは、お兄さまの言葉に顔を顰めていた。
「誰でもとは誰だ? そんな不遜なことを誰が言ったというのだ」
「みんなです。だって弟皇子を暗殺しようとする帝位に強欲な皇子のくせに、何一つ成果もあげずに錬金術なんて詐欺師の手管を学ぶだけの」
「アデル」
父の怒りに気づかず、自分のことばかりで捲し立てていた兄もさすがに口を閉じる。
「第二皇子殿下だろうが、その下の皇子殿下だろうと、暗殺などという事実は、ない」
噛んで含めるようにおっしゃるけれど、当たり前のことだ。
そんなことがあれば私と文通などしていられないし、仮にしているとすれば、それは帝国が大逆を放置する無能と断じるも同じ。
そんなことを大声で言ってはいけないと、私でもわかる。
ましてやみんなというのは、母が言うように不確かでいっそ流言飛語の類。
王室の者が不用意に口にしていいことではないと兄も教わったと思うけれど。
「お前はいつまで子供のつもりでいるのだ? 口に出すべきこととそうでないことを判断すべきだ。まずは心に上ったことを口に出すまでに十を数えろ。それからその言葉が正しく口にすべきかを判断するよう心がけなさい」
「そんなに黙ってたらそれこそ馬鹿のように思われます」
「一度吐いた言葉は戻せない。失言をするよりも沈黙をもって賢明な判断を下すべきだ」
兄は父からのお説教にも不満そうだ。
何故怒られている当人であるお兄さまは、横で見ている私よりもわからないのだろう?
「だいたい、お前が十で習い覚えたことをすでにディオラは七歳で習得できた。そのディオラと対等に論を交わせる第一皇子殿下が不出来だなどと、よくも言えたな」
「それは大人が代筆してるだけで第一皇子が書いてるわけではないからです!」
お父さまは落胆を交えて溜め息を吐いた。
「まだ言ってるのか? あまりにお前が言うから確かめたぞ? 部下をやって、第一皇子殿下が返事を書くのを見たとストラテーグ侯爵が言っている。ディオラに送られてくる手紙は、確かに第一皇子殿下が書かれたものだ」
お父さまがそんなことをしているとは思わなかった。
帝国のストラテーグ侯爵はおばあさまの甥で、文通を繋いでくれる方。
父とは友人関係もあると聞いているけれど、そこまでしてくださるなんて。
結局お兄さまはお父さまに叱られて部屋に戻された。
許可があるまで部屋から出ることはできない、つまりは悪いことをした罰だ。
「あなたいつの間に? もしやあなたもこれが殿下の手ではないとお疑いになっていらっしゃったの?」
「いや、その…………あちらには緑尾のもいるしな。もしやとも、思わないことは…………。それにディオラはまごうことなき才媛。そんな娘と並ぶ才がいるものかと、な?」
お父さまはお母さまに詰め寄られて、何やら言い訳をしている。
言葉を交わせばアーシャさまの聡明さはわかるのに、その機会がないことが惜しい。
両親も、きっと決めつけばかりで理解することを拒んでいるお兄さまも、アーシャさまと語らえばわかるのに。
私は遠い帝都を思って、悔しさと共に手紙を抱きしめた。
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