ケーキ
小麦粉にバター、ボウルに卵を割り入れて、グラニュー糖に蜂蜜を加えて泡立てて……。湯煎して、型に流して焼き上げて、冷やして生クリームで見目を整え苺を適量。
普通の美味しいショートケーキの出来上がりだ。
レシピ通りに材料を揃えて作れればレシピ通りのものができるのは料理の素晴らしい所だと思う。それらのレシピにはアレンジなんてものは必要なくて、決められたように作ることだけが求められている。
「ショートケーキってどこまでがショートケーキだと思う?」
「どういうことですか?」
「ほら、砂山のパラドックスってあるじゃないか。例えばこのケーキの上の苺」
そう言って金髪の彼、浅田はショートケーキの上に飾られた苺を摘んで口に放り込み、もぐもぐと咀嚼する。
「このイチゴが無くなったとしてもこれはショートケーキだろう? じゃあコレが更に削られたら?」
そう言って、カチャリと音を立ててケーキの鋭角部分を彼は口に運ぶ。
「これでもまだショートケーキだろう?」
不細工な台形をフォークで指し、彼はそう言う。
「はい、そうですね」
「じゃあ更に削っていこう」
周囲にクチャクチャと音が響く。バランスを崩し倒れたケーキは彼に丸ごと頬ばられた。
「しかしこのケーキは甘くて美味しいね」
口が寂しくなったのか、彼はケーキフィルムに残ったクリームを舐めとった。日頃から乳液は欠かさないと言っていた彼の頬にはクリームがベッタリと付着していた。
「まぁ、ここまでキレイに食べきってしまえばケーキはもうケーキじゃないだろうね。……ありゃ、何の話をしようとしていたんだっけか」
そう言って彼は紅茶を口に含む。
「……、ああ、ところでもう少しケーキを食べたいんだけど貰ってもいいかな? 君は甘いものがそんなに好きじゃなかったろう?」
彼のそれとは対照的に完璧な状態を保持したままの私のショートケーキ。それが無くなるまでには三分もかからなかった。
そうして彼がまた紅茶を啜り始めたタイミングで私は口を開く
「それで浅田さん、浅田さんが思うショートケーキの限界はどこなのですか? 私は考えていたらよく分からなくなってしまいました」
「あー、少しズルいんだけどね。僕は"ショートケーキとして作られたもの"であれば全てショートケーキだと思っているよ」
「そうですか。じゃあ、もしもショートケーキって名前を付けたパンでもそれはショートケーキになるんですか?」
「天木さん、君も意地の悪いことを言うね。"ショートケーキとして作られたもの"っていうのは決められた材料と手順で作られたショートケーキのことだけを指すんだ」
パンとケーキは違う。かのマリーアントワネットだってそんなことを言っていたろう?
そう言って彼は口角を釣り上げ、狐のようにニヤリと笑った。
小麦粉にバター、ボウルで混ぜて砂糖を入れて、こねてこねて、こねてこねて、こねてこねてこねて、それで出来上がるのはパンのなりそこない。
ここから腐って焼かれたとしても結局ケーキになんてなれやしない。何せ材料が欠けている。 その上過程が間違っていて家庭が間違っていて、何より仮定が間違っていた。
それが天木奏という一人の人間の裏に書かれた成分表示と商品説明だ。
小学生の頃、友達とみんなで遊ぶことが好きだった。母とするお菓子作りが得意だった。漢字ドリルの書き取りで褒められたことがあった。音読カードを欠かしたことは無かった。夏休みも毎日宿題を消化していた。
でも、自由研究だけは苦手だった。何をすればいいのか分からなかったから。
中校生になって、私は皆よりも勉強ができなくなった。
やるべきことを誰も教えてくれなくなったから。
担任の先生さ「皆さんはもう中学生なのですから、ジコブンセキをしっかりして、ジャクテンヲウメルタメノジハツテキナコウドウをしましょう」なんてことを日頃から言っていた。
そんなことを言われても私にはそれはできなかった。
父も母そんな私を怒った。覚えろと言われた英単語帳はボロボロになるまで、端から端まで何回も何回も書きとって音読をした。やれと言われた問題集も全部1ページも漏らさずにやった。でも、それ以上に何をするべきかは何も教えてくれなかった。
高校生になって暫くして、「小さな頃は手のかからないもっとちゃんとした子だったのに」、なんて怒られた回数が両手に収まりきらなくなったような、もう家で聴く母の声が全て高くなったような、父の帰りが日に日に遅くなってきたような、そんなタイミングで、母は私を病院に連れていった。
その日から父と母は私に優しくなった。
「ごめんね奏ちゃん、ずっと気付いてあげられなくて。これからは大丈夫だからね」
母に言われたその言葉は多分、私に向けたものではなかった。
その日から父と母は喧嘩をやめて、それ以降は彼らが私に何かを言ってくることは無くなった。私のことを私よりも先に理解してくれたはずなのに、彼らは何も言ってくれなかった。だから、私は何をすればいいのか分からなくなった。
お医者さんに「朝と夜に飲むように」と言われた薬だけは毎日飲むようにしていた。眠くなったけど毎日飲んだ。三者面談の後で、父に「頼むから俺に恥だけはかかせないでくれ」と言われた。「どうすればいいの?」と聞いたら「薬を飲むな」と言われた。一ヶ月毎にお医者さんに貰う薬は机の中に収まらなくなって、気付けばそれは机の上の半分を占めていた。
母に「机を片付けなさい」と言われたのでそれらを全て捨てたら、翌日「貴女のために何百万使ったと思ってるの」という言葉と共に頬を張られた。意味がわからなかった。「ごめんなさい」と言ったらもう一回頬も張られた。怒られた時は「ごめんなさい」と言えばよかったはずなのに。頬を張られる度に「ごめんなさい」と言い続けて、母が手を止めた時には私の両頬は赤くなっていた。
母はそれを見て何か得心したような表情を見せ、優しい言葉で「奏ちゃん、貴女はね、おかしいの」と言った。それはとても優しい言葉だった。何かが腑に落ちた感覚だった。その言葉は診断書なんかよりもずっと優しく、私の心を包んでくれた。
そうか、私は出来損ないなんだ。だからそれでいいんだ。その時ようやく気付いて、涙が出てきて止まらなくなってしまった。それに慌てた顔をした母はなんだか滑稽に見えて、おかしくって涙が余計に溢れた。
それから少し、生きていくのが楽になった。というより今まで生きて来たのが辛かったことに気付いた。
大学には進学させて貰った。「親だから当然」らしい。今暮らしている家は父が30年のローンを組んだものなので世間体を気にしたのだろう。幸いにして昔から外見振る舞いは最低限普通の女の子のようにできていたからか、彼らには私を家から放り出すという選択肢は無いようだった。
「酒を飲もうが煙草を吸おうがどうでもいいが犯罪だけはやめてくれ。人に迷惑をかけるなよ」
大学への合格が決まった時の父の言葉はそれだけだった。
酒や煙草は犯罪ではないか?と思ったがそれを言う前に父は書斎へと帰っていってしまったのでそこで会話は打ち切られた。
入学してから一週間、周囲の人に誘われて初めて飲んだ酒は苦かった。けれど、どこか懐かしい味もした。暫くして関係を持つ男子も何人ができた。何をすればいいか、というのを彼らは指示してくれるのでとても助かった。
そんな折に二つ気付いたことがあった。一つは案外世の中には何も問題が無いのに言われたことも出来ない人間が多いということ。そしてもう一つは自分はそれらよりはマシということだった。
……紅茶と一緒に錠剤を飲んで、胃に落とす。少し、先程の問いに対する考えが纏まってきた。
「さっきの問いかけなんですが、浅野さん、おいしければそれはショートケーキなんじゃないかと私は思います」
「どういう事だい?」
予想外、とでも言いたげな顔で彼は私に問い返した、鼻にクリームが付けたその顔は色彩を反転させたピエロのようだった。
「レシピ通りに作って失敗したショートケーキとおいしく作ろうとしたパンならどっちがショートケーキ足り得るかって話です」
「うーん、天木さん、君の話はたまに詩的すぎるきらいがあるのがな……。まぁいいか。それじゃあ行こうか」
材料が揃ってたところでレシピ通りに作れなければケーキにはなれない。そうなれば出来損ない同士の中で優劣は決められる。
つまり私の方がお前よりマシってことだよ。