雪狐
『芽吹き』
ある山に、まだうまれて間もない一匹の子狐がおった。赤ん坊と呼ぶにはいささか体が大きすぎるその子狐は、雪のように真っ白で美しい毛並みをしておった。
子狐にとっては見るものすべてが新しく、深雪の中をそれはそれは元気に駆けまわっておった。ときおり、ぴょん、と雪へ飛び込むような仕草を見せ元気にはしゃぐ子狐は、雪に埋もれておったトラバサミには気づいてはおらなんだ。雪山を走りまわるうちに、獣を猟るために仕掛けられたそのトラバサミを踏んでしもうた。感じたことのない感覚に子狐の本能が警告しておった。じゃが、しょせんは無力でか弱い子狐一匹。自分ではどうすることもできず、ただ死を待つばかりじゃった。
山中にしては比較的人通りも多く、とはいえ冬山じゃ、数える程度の人が子狐の近くを通りよった。雪を踏みわける足音が聞こえた子狐は声を上げ鳴きよったが、その声は小さく、誰の耳にも届きはせんかった。
体長も小さく雪に深く埋もれた子狐は、その毛並みもあり、なかなか発見してはもらえなんだ。もう、雪を踏む音さえせんかったが、子狐はそれでも独り淋しく哭いておった。
子狐が諦めかけたその時、ざっ、ざっ、ざっ、と雪を踏みわける音が聞こえた。子狐は最後の力を振り絞り大きな声を上げようとしおったが、小さき体にはそんな力はもう残されてはおらなんだ。
足音は遠ざかってゆく。いよいよこれはもうダメかと思ったその時、何の因果か知らぬが、男の足が子狐のほうへ引き寄せられていきよった。“運命”などというものがこの世に存在するのであれば、まさにこれがそうじゃったのじゃろう。
「おや? こんなところに小さな子狐が。かわいそうに、足を挟まれているのか。どれ、私がいまに外してやろう」男は言った。「少し大人しくしてておくれ」
大変聡い子狐は、男が自分を助け出そうとしていることを理解しておった。もとより、抵抗する力なぞ残されてはおらんかったが。
男はぶつくさと文句を言いながら、かちゃかちゃと音を立て、何やら作業をしておった。
「ははあ。さては十兵衛の奴、また罠を外し忘れておったな。まったく。人の立ち入るこの山では危険だから冬になる前に外しておけと、あれほど口を酸っぱくして言っておったろうに。『お百姓仕事だけでは食っていけぬ』と申すものだから、老婆心で狩りを教えてやったというのに。どうもずぼらでいかん。また、キツくお灸を据えてやらねばならんな」
子狐を捕らえておったトラバサミが外れ、子狐は自分の足で立とうとしおったが、産まれたての子鹿のようにぷるぷると脚が震え、立つことはままならなんだ。
「どれ、脚を見せてごらん」と男が優しく差し出した手を、子狐は素直に受け入れよった。「あちゃあ。これは深い傷になってしまっているな。これでは厳しい冬の寒さを生き抜けまい。だいたいお前、親はどうしたんだい?」
子狐が答えるはずもなかろうに男は問う。子狐はつぶらな瞳を男に向けるばかりじゃった。
「しかたがない。里へ連れ帰ってしばらくはうちで面倒を見てやろう。いいかい。傷が治るまでの間だけだからね。それ以上は置いてやれないよ。皆、食べる物に困っているんだ。ややもすればお前も喰われてしまうぞ」
男は自宅へ子狐を連れて帰るとすぐに傷の手当てをしてやり、自分の飯を分け与えた。子狐は警戒することもなく差し出された食事を口にする。勢いよく頬張る子狐の姿に、
「そんなに慌てて食べなくても誰も取りゃしないよ。よっぽど腹を空かせていたんだなあ」と男が笑って言った。
男が囲炉裏に火を灯し腰を下ろすと、胡座をかいた脚の上に子狐が乗りに行く。子狐はぬくぬくと、それは気持ちよさそうに暖を取っておった。
それから数日間、男は甲斐甲斐しく子狐の世話をしておった。子も妻もおらず独り身であった男に子狐はちょうどよい話し相手じゃったのか、子狐が人の言葉など理解できるわけもなかろうに、せっせと話しかけておった。じゃが、聡い子狐は、いく度となく男に話しかけられるうちに言葉を学んでおった。数日が経つころには言葉の意味を解するほどになっておったのじゃ。
子狐の心に芽生えた男への感謝と恋慕の情は、次第に膨らんでいっておった。男の性根はもちろんのこと、子狐はなにより、男の優しい話し方と、落ち着く匂いが好きじゃった。
男の献身的な世話もあり、子狐は通常では考えられぬ速さですくすくと育ち、足に負った傷が完治するころには立派な大人の狐になっておった。
そのあまりの変貌ぶりに、ある日ふと男は漏らしたのじゃ。
「お前……物の怪の類だったのかい。ますます里には置いてはおけないなあ」
その時すでに人語を解するようになっておった狐は、男の言葉にひどく落胆したのじゃった。
男と離れとうなかった狐は男にすり寄り、その頬をすりすりと男の脚に擦りつける。普く人々を魅了する、心を奪われそうな愛くるしいその仕草に、男は身悶えておった。狐の頭を、体を、尾を、その手で優しく撫ぜる。
「ほんに愛い奴め。そんなことをされては辛くなってしまうではないか。後生だから潔く別れさせておくれ」
男に可愛いと言われよった狐は、それはそれはたいそう喜びおった。これ以上、自分のわがままで男を苦しめとうなかった狐は、泣く泣く、男との別れを受け入れるのじゃった。――その身に男への想いを秘めたまま。
『雪女』
「お前は賢い子だから……私の言葉を理解している節がある。いいかい。なるたけ人里から離れた山奥で暮らすんだよ。生活が困窮している者はお前を取って食おうとするだろう。そうして、美しいお前の毛皮に気づき、お前は捌かれ、余すことなく人の手に渡るのさ。そんなことになってしまったら、私はとてもじゃないが堪えられない。……できることならずっとうちで匿っていてやりたいが……うちの里も、けしていい人ばかりではないからね。これが一番お前のためなんだ。わかっておくれ」
そうして、男と狐が別れてからいくばくかの歳月が流れおった。
このごろ人里では雪女の噂で持ちきりじゃった。なんでも一人のお百姓が、雪のように肌が白く、目鼻顔立ちが外人さんのような目を疑うほどのべっぴんな女子を見かけたもんで、どこの人だろうとあとを着いていったところ、人はけして立ち入らぬ雪山へと姿を消したのじゃとか。その山も昔から吹雪がひどかったわけではなく、一年中雪を被ってはおったものの、天候がよいときもあり、人の往来もあったそうじゃ。じゃが、いつのころからか吹雪がひどくなり、人が立ち入ることはできなくなったのじゃった。この話を百姓が知人に話すと、瞬く間に尾ひれをつけて広まっていったのじゃ。
さてはこの百姓、名を十兵衛と申す者で、この話が耳に入った妻と、家の中を皿が飛び交う大喧嘩をしたそうな。
そんな噂話とは関係なしに、一人の男が件の雪山へと足を踏み入れておった。この男は知り合いの十兵衛という者から雪女の噂話を聞き及んではおったのじゃが、〈どうせまた十兵衛の与太話だろう〉と、まともに相手をせんかったのじゃ。
男は寒さで悴む手を吐息で温めながら歩いておった。〈この雪山では会えるだろうか〉男の頭にあるものは雪女のことなぞではなく、この男が昔放した狐のことじゃった。
男はこの雪山のことを軽んじておった。普段自分が立ち入っておる山と変わらぬじゃろうと、たかを括っておった。その油断が命取りとなったのじゃ。
びゅうびゅうと吹雪く視界に、男は完全に居場所を見失っておった。寒さに体温を奪われ、意識が朦朧とする男はついには服を脱ぎだす始末じゃった。
意識を失い倒れ込む男の目には一つの人影が映っておった。それはこのごろ里で噂されておる雪女に違いなかったのじゃ。
女は男が倒れ、動かなくなったのを確認すると、その近くに寄うた。そして、男を担ぎ自分の暮らす小屋へと連れ帰るのじゃった。ただの行きずりの男であれば、けして助けはしなかったじゃろう。じゃが、女は男の匂いに、確かに覚えがあったのじゃ。
強靭とはいえぬその華奢な体で、男を助けようと懸命に運ぶその姿は、実にけなげじゃった。
小屋へ戻った女は囲炉裏の前に男を降ろし、すぐに火を灯すのじゃった。一人で暮らしておるときには火なぞ使いもせぬ女は、おっかなびっくりした様子で、じゃが、男のために勇気を振り絞るのじゃった。
パチパチと小気味のいい音を立てて爆ぜる薪の音で男は目を覚ました。外では雪が激しく吹き荒んでおるというのに、薪はよく乾いておった。
心地よい感触とあたたかさに包まれておった男は、目を覚ますとすぐにそこが女の膝元であることに気づいたのじゃ。男が慌てて飛び起きると、そこには雪のように白い肌をしたそれはそれは美しい女子が静かに佇んでおった。くっきりとした顔立ちに、切れ長な目、長い睫毛に腰まではあろう艶やかな黒髪をしたその女子は、この世のものとは思えぬ美しさじゃった。男はその美しさに目を奪われ、釘付けにされたのじゃ。
男が目を覚まし飛び起きても、女は何も言わんかった。二人の間にはどこか心地のよい沈黙が流れておった。
男にじっと見つめられていた女が少し照れ臭そうに俯きおった。雪のように白かった頬はりんごのように赤く染まっておる。女のその仕草に男はハッとし、
「お嬢さんが助けてくだすったのですね。なんとお礼を申したらよいか……失礼ですが、お嬢さん。お名前をお聞きしても?」と言った。
女は照れ臭そうに俯くばかりで何も答えはせんかった。この時女はいく年かぶりに聞いた、前と変わらぬ男の優しい声色に浸っておった。
間が悪くなったのか、男は右手で頭の後ろを搔きながらどうかする思いで言った。
「いやはや、恩人の名も知らぬというのは如何ともしがたい」
「……せつこ。雪子とお呼びください」
しばしの沈黙のあと女がそう答えると、男はその顔に安堵の色を浮かべた。
「雪子さんと申されるか。見た目に違わぬ素敵なお名前だ」
雪子は頬を赤らめながら言う。
「……雪子。雪子とお呼びください」
男は始め、女の言っておる意味がわからず、頭の中で女の言葉を反芻しておったのじゃが、ほどなくしてその言葉の意味を理解したのじゃった。
「いやはや、そうは申されましても……命の恩人の名を呼び捨てに、というのはいささか失礼がすぎます。これは私の沽券に関わる問題ですので……なにとぞご堪忍くだされ」
雪子は少し悲しそうな顔をしたのじゃが、男の頼みを断ることなぞできんくて、渋々、頷いたのじゃった。
男はほっと胸を撫で下ろし、
「そういえば私が名乗るのがまだでしたな」と言った。「申し遅れました。わたくし、権三郎と申します。以降、お見知り置きを」
男が恭しく言うと、雪子は「存じあげております」と、か細い声で小さく言った。
「おや。以前どこかでお会いしましたかな?」
「いえ……以前里へ降りた際にお見かけしただけです。ご存じないのも無理はありません」
本来ならば思い出話に花を咲かせたいところじゃったのじゃが、雪子はなぜか打ち明けることができんかった。
「そうでしたか。そういえば里のほうであなたのことが噂になっておりましたな。“雪女”などと随分と馬鹿げた話でしたが」
「こんな雪山に一人で暮らしているのですから……そう思われてもしかたありませんね」
「あまり立ち入った話を聞くのもなんですが……どうして雪子さんはこちらへお住まいに?」
権三郎の問いに雪子は少し逡巡しておった。〈どこまで話してよいものか〉と。
「……その昔、私を助けてくださったある方との大切な約束なのです。その方は、『お前は人里から離れたところで暮らしなさい』と、そう仰りました」
「ふむ。私には想像もつかぬ何か、複雑な事情がおありのようですな。『傾国の美女』なんて言葉もございますから、その方はそういったことを心配されたのやもしれませぬな」
雪子は三度、頬を赤らめる。その顔は実に幸せに満ちておった。
「つかぬことをお伺いいたしますが、ここいらで真っ白な狐をお見かけしませんでしたかな? それはそれは美しい狐なのですが……」
雪子はすぐには答えることができんかった。構うことなく権三郎が続ける。
「以前、うちの近くの山へ帰してやったのですが、どうも姿が見当たらないものでして。いったいどうしたものかと、心配で夜も眠れんのです。実は今日もその狐を捜しにこちらへ来まして……」
「権三郎様の捜していらっしゃる狐と同じ個体のものかはわかりませぬが……真っ白な狐でしたら何度かお見かけしたことがございます。雪の中をとても……とても元気に走り回っておりました」
「おお、そうですか。それはよかった。ずっと心配しておったのです。できることならこの目で無事を確認したかったのですが……それを聴けただけでも、わざわざこちらまで足をのばした甲斐がありました」
その時、権三郎の腹がぐーっと大きな声で鳴いた。「はは」と苦笑いをし、恥ずかしそうに頭を搔きよる権三郎に、
「すみません、気が利かず……お構いもしませんで」と雪子が言った。
「いえいえ、お気になさらず。むしろ、こちらのほうこそ気を遣わせてしまって申し訳ない。悪いのは雪山で食料も持たず野垂れておった私なのですから」権三郎はそう言うと頭を深々と下げた。「雪子さんにはこの命を救っていただいただけで充分でございます。ほんに感謝しております」
「そんな……どうかお顔をお上げください。礼など私には過ぎたものでございます」『権三郎様からお受けした恩誼に比べれば、私のしたことなど瑣末なものでございます』
そう続くはずの言葉を雪子は発することができんかった。
雪子はいまだ、あのときの礼も、胸に秘めたる想いも伝えられぬままじゃった。
「申し訳ありません……。ここには人様が食べる物などご用意もなく……せめてものお気持ちです。また迷われてはなんですから、麓までご案内いたしませう」
「何から何までかたじけない」
そう言って権三郎は頭を下げた。
吹雪の中を歩く二人の心身はぽかぽかとあたたかった。じゃが、麓に近づくにつれ、雪子の心は暗く淋しいものに変わっていったのじゃ。
雪子は権三郎ともう二度と離れとうなかった。権三郎と別れてから幾星霜、どれだけ、権三郎との逢瀬の日を恋い焦がれたか。〈もう逢えぬのだろう〉と諦めていたその心に、どれだけの幸せが降り注いだか。〈『ずっと以前よりあなたのことをお慕い申し上げておりました』と伝えることができたら……。権三郎様と二人でともに暮らすことができたら……〉
じゃが、聡い雪子はそれはけして叶わぬことじゃと悟っておった。
刻一刻と別れの時が近づく。雪子の心を締めつけるように。軋む心で、雪子は勇気を振り絞りよる。
「もし……もしよろしかったら、また! こうして会いに来てはくださいませぬか!」突然の雪子の叫声に権三郎は驚いた顔をした。「……雪山に独り、というのはあまりにも……淋しすぎますもの」
〈なるほど、言いつけ通りなかなか里には降りてこられぬのだろう〉権三郎は心の中で一人で納得しておった。そうして、権三郎がなかなか返事をせぬものだから、
「いえ、なんでもありません。どうかいま言ったことはお忘れください。こんなこと言われても……ご迷惑ですよね」と雪子が言いよった。
「失礼。少し驚いただけで、けして迷惑だなんて思っちゃいないよ」と権三郎が慌てて言う。「私なんかでよければいくらでも話し相手になるさ」
雪子は権三郎の言葉に、その身が溶けるほどの熱を持つのを感じていた。
「ではまた……」と権三郎が名残惜しそうに言う。
「私のことは決してお話にならないでくださいね」
「安心してくだされ。この事は二人だけの秘密ですよ。雪女の噂もじきになくなるでせう」
“二人だけの秘密”その甘美な響きに雪子の心は魅了され、雪子の熱情は天まで届くほどに大きく、そして、鮮烈に燃え上がっておった。
こうして、二人はまた逢う約束をして別れたのじゃが、その約束が果たされる日は来なかったのじゃ。
いく日、いく月、いく年と、雪子はけなげに待ちつづけておった。権三郎とまた逢える日を夢見て。じゃが、いく多の年月を経て、次第に雪子の清らかな心は荒んでいくのじゃった。
『その後』
このごろ人里では雪女の噂で持ちきりじゃった。雪山の吹雪は決してやむことがなく、そればかりか、年々激しさを増しておった。それが雪女の仕業じゃというのじゃ。
一人の年端も行かぬ小童がそんな、大人も立ち入らぬような激しい吹雪に纏われる雪山に足を踏み入れておった。
小童の侵入に気づきおった雪子は、追い出そうとそのもとへ向かったのじゃ。その心はひどく荒れておったとはいえ、権三郎との思い出の地を、何者にも邪魔されとうなかったのじゃ。
小童を脅かそうと、その前に突然姿を現しよった。じゃが、その小童からはたいへん懐かしい匂いがした。何年経ってもけして忘れることのできぬその匂いは、権三郎の姿を鮮明に思い出させたのじゃった。雪子の目からはぽろぽろと涙が零れ落ちた。
突然のことに驚き、困惑しておった小童が、
「もしかして……雪子さん?」と言った。
「どこでその名前を?」
雪子はたいそう驚いた。その名前は権三郎にしか教えておらぬものじゃったからじゃ。
「……おっ父から聞いたんだ。雪子さんのこと」
雪子は〈決して話さぬよう念を押したのに〉と思いながらも、逸る気持ちを抑えることができんかった。
「詳しく聴かせてもらえないかな、その話」と言って小童の手を引く。「ここではなんだから私の小屋へ行きませう」
足早に小屋へ戻ると、小童のために雪子は火に薪を焼べた。パチパチと小気味のいい音が小屋に響く。
「あなたは……権三郎様の息子さんなのね」
「うん……雪太ってんだ」
「そう……お子さんがいらっしゃるのね」雪子は悲しい顔をする。「一つ、聞いてもいい?」
「なに?」
「権三郎様とあなたのお母様は、権三郎様が私とお会いになるよりずっと以前からお付き合いしていたのかしら」
「ううん。おっ父、雪子さんと別れたあとすぐに大病を患ったんだ。それで、自由に歩きまわることもできなくなって。おっ父を看病してくれたのが、近くに住んでたおっ母だったんだって」
「そう……。もし……私のほうが先にお会いできていれば、なんて思ったのだけど、始めから私に勝ち目なんてなかったのね」
「それは違うよ! おっ母、言ってた。私は権三郎さんの二番目でもいいって。そばで支えられることができれば、あたしはそれでって。おっ母は、おっ父に他に想い人がいることをわかっていながら、それでもおっ父を選んだんだって!」
雪子の頬を静かに涙が伝う。
「あ、あのね! おっ父、死ぬ間際までずっと後悔してた。自分のせいで雪子さんを傷つけることになってしまったこと。雪子さんとの約束を守れなかったって。傷ついてるだろうって。ずっと、ずっと……」
雪子はハッとし、
「権三郎様、亡くなられてしまわれたの?」と問うた。
「うん……おいらが六歳になるころには死んじゃった」
「どうして……。もっと、もっと早く教えてくれていれば! ……雪子は、雪子は最後に一目お会いしとうございました……」
ぼろぼろと涙が零れ落ちる雪子の姿に、雪太はどうすることもできず、ただただ己の無力さに打ちひしがれておった。雪子の啜り泣く声が、薪の爆ぜる音に乗って小屋に響く……。
「ごめんなさい。あなたに言っても、しかたのないことね」
「おっ父、おっ母にも雪子さんには病状を絶対に伝えるなって言ってたんだ。そしたら、私のことを見にくるだろうって。彼女には事情があって、里には来てはならないんだって。彼女の人生を私が壊すわけにはいかないって」そう話す言葉はだんだんと力強くなっていっておった。「おっ父、笑って言ってたけど、おいらには泣いているようにしか見えなかった。それで、おいら、どうしてもこの事を雪子さんに伝えたくて。だって、こんなのあまりにも悲しすぎるよ!」
雪子は鼻を啜りながら滝のように涙を流しておった。氷のように冷たく閉ざされていた雪子の心を、権三郎への熱がとかし、一挙に溢れ出たのじゃ。
「こんな時に、こんなことを言うのは卑怯だってわかってる……でも……。雪子さん、おいらじゃダメかな。おっ父の罪滅ぼしのためなんかじゃない! おいらが雪子さんを幸せにしたいって! そう思ったんだ!」
年端も行かぬ幼子から発せられた言葉に、雪子はたいそう驚きよった。じゃが、その網膜で小童を捉えておるはずの雪子の脳裏には、権三郎の姿がしかと浮かんでおったのじゃ。
〈ごめんなさい? それとも、ありがとう?〉突然のことに驚き、初めてのことに戸惑うた雪子は、なんと答えればよいものかわからんかった。
「いいんだ、返事は。だって、わかってるから」
そう強がる雪太は笑顔の陰に涙を浮かべておった。
『幸せ』
雪太は歳の割りに随分とませたガキじゃった。子供ゆえの積極さか、奥手じゃった権三郎とは対照的に、実に熱い漢じゃった。雪子の心がここにはあらんことを知っておりながらも、子供の足で、過酷な雪山に棲む雪子のもとへ通いつめたのじゃ。……いく月、いく年と。
じゃが、雪子の心が揺らぐことはけしてなかったのじゃ。いつまでも、いつまでも権三郎の影に囚われたままじゃった。
雪太はそれでもめげはせんかった。暗く、翳ってしまった雪子の心を、いつか晴らしてあげたいと、本気でそう思っておったからじゃ。雪太は、己が雪子の心を明るく照らす太陽に、などという身のほど知らずな考えは持っておらんかった。雲を散らす一陣の風のように、たとえ雪子の心に留まることができずとも、雪子の心を晴らす一つのきっかけになれればよいと、そう考えておったのじゃ。
雪太が十六になるころには雪山に乱吹く雪も、だいぶ落ち着いておった。じゃが、なかなかどうして、雪子の心が晴れることはなかったのじゃ。
ある日、雪子は夢を見ておった。その中で権三郎は雪子に、
「私のことなぞ忘れて早う幸せになりなさい」と言った。
「どうして……どうしてそのような悲しいことを仰るのです! 私は、こんなにも、権三郎様のことをお慕い申しておりますのに……」
権三郎は黙って首を横に振る。
「悪いが……いまのお前はとてもじゃないが幸せには見えぬ。私が望むのは“お前の幸せ”ただそれだけだ」
「それならば、私もいまそちらに――」
「そんな悲しいことを言わないでおくれ」
「権三郎様がそばにいてくださるのなら、私は他に何もいりませぬ! この身も! この命も! すべて権三郎様とともに――」
「忘れてしまったのかい。私がお前に生きてほしいと願ったあの日を。私の想いを」
「私のこと、気づいてらしたのですね」
権三郎は黙って首を横に振る。
「ああ、もう時間みたいだ。もう、行かなくては」
「嫌です! 権三郎様!」
「雪子。いままですまなかったね。君と出会えて私は幸せだった」
「権三郎様! 私もでございます! あなたのことを想うだけで幸せでございました!」
「できることなら……せめて最後に君をあたためてあげたかった……」
眠っていた雪子の頬を一筋の涙が伝い、枕を濡らした。それは悲しみから零れ出したものなぞではなく、雪子の身に収まりきらぬ幸せが粒となって溢れたものじゃった。
目を覚ました雪子の心に悲しみはなく、少しばかりの淋しさと、溢れんばかりの幸せに満ちておった。
「権三郎様。たとえどれだけの年月が流れようとも、たとえあなた様が私のことをお忘れになってしまっても、私はけして権三郎様のことを忘れはいたしませぬ。いつまでも、いつまでもお慕いつづけております」
権三郎と出会ったことで芽吹いた雪子の心は、開花の時を待っておった。権三郎と奇跡の再会を果たし、大きな蕾となったその心は、その後雪に閉ざされ永遠に蕾のままじゃった。それが、権三郎と夢の中で再び相見えたことで、綺麗な花を咲かせたのじゃった。なんてことはない、雪子の幸せは、めとはなのさきにあったのじゃ。
幸せの大輪を咲かせた雪子は、前にも増して強く、そして美しかった。そんな雪子の様子に、雪太はますます心惹かれるのじゃった。
「雪子さん、また一段と美しくなりましたね。雰囲気が明るくなったといいますか」と恥ずかしげもなく言うのじゃ。
恋慕が果たされぬことの辛さを身に沁みて、誰よりも深く知っておった雪子は、雪太のことを懸命に愛そうとしたのじゃが、どうしても権三郎以外の男に心を許すことはできなんだ。
そんな雪子のことなぞ、雪太はすべてまるっとお見通しじゃった。
「いいんですよ、雪子さん。無理しなくとも。俺は、俺の想いに応えてほしいだなんて過ぎた願い、持ってませんから」雪太は言った。「俺はただ、雪子さんの幸せを願っているだけですから。たとえそこに俺がいなくとも」
雪子には、そう言う雪太に権三郎の姿が重なって見えたのじゃ。
「なーんて。何年も押しかけといてどの口が言ってんだって感じですよね」と雪太はおどけてみせおった。
よく見ればたしかに雪太には権三郎の面影があった。〈どうしていままで気づかなかったのか〉雪子はこれまで雪太のことをきちんと見ていなかったのじゃ。
雪子はいまならば、雪太のことを愛せるような気がしとった。じゃが、同時にそれは、それでは、雪太に権三郎の影を重ねとるじゃけで、真に雪太を愛しておるわけではないことも理解しておった。
「雪太くん、ごめんなさい。私……」
「……『雪太“くん”』か。雪子さんの中で俺は、いつまで経ってもあの日の子供のままなんだね」
「ごめんなさい。私そんなつもりじゃ……」
「いいんだ。雪子さんの止まってしまった時間が、いつか再び動き出すことを願ってる」雪太の瞳は潤んでおった。「安心して、ここにはもう来ない。迷惑なだけだから」
「雪太くん!」
雪太は駆けていってしもうた。
『終幕』
それから、雪太は生涯雪子への想いを貫き通した。真っ直ぐで熱い漢じゃ。言い寄る者も少なくはなかった。じゃが、雪太はその誰にも応えることはなかった。誰とも愛を育まず、誰とも子を成さなかったのじゃ。
天寿を全うし、ひとりさみしく死にゆく雪太は、死の淵に際して、子供の時分には到底理解できんかった母の幸せの意味を、その愛の形を、理解しておった。
〈おっ母は幸せ者だったんだなあ〉そう思いながらひとりしずかに息を引き取った。享年六十八歳。まさに大往生と呼ぶに相応しい死に様じゃった。
それからさらに数十年が経ち、雪子の名を知る者など誰もいなくなったのじゃが、この地には雪女の伝説が色濃く残っておった。脈々と受け継げつがれていくうちに、雪狐の伝説へと姿を変えて。
かの山ではいまもなお、雪が降りつづけておる。それはそれはとても穏やかに……
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
本作品は、よし屋@吉屋りん様制作楽曲である
『乱れ雪月花』
『月光仮面』
『芽と花の先に』
上記三曲にインスピレーションを受けて書いた作品です。(二次創作にはあたらないと考えております)