人を呪わば穴二つ
ぽっちゃり、肥満化要素が好きな方に少しでも刺さればと思い書きました。
拙い部分は多々あるかと思いますが、感想などいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。
人を呪わば穴二つ。
他人を陥れる者には、必ず同じような不幸が訪れる。
高校二年生に進級してから1か月程が過ぎた初夏。
そんな言葉は嘘っぱちだ、と椎名茉優は思った。
「えーっ、日曜は遊べるって言ったじゃーん!」
誰に遠慮することもない、世界は自分を中心に回っていると言わんばかりの女の声が休み時間の教室に響いた。
茉優は読んでいた小説から顔を上げて、声の方に目を遣る。
そこにいたのは、いかにも青春を謳歌している美男美女達。集まって喋りやすい教室の窓側、後方がクラスの中心的グループである彼ら彼女らの定位置だった。明るい日の光に照らされながら友達と過ごす彼ら彼女らと、その対角線上、日陰になった教室の隅で丸い背中をさらに丸めて一人本を読んで過ごす茉優。それはそのままクラスでの立ち位置を表しているようだ。
茉優からすれば全員が眩しいくらいのそんな彼ら彼女らにも、目には見えないグループ内の序列があるらしい。
「悪いって。大会近いからって監督が急に練習するって言い始めてさあ」
そのまま清涼飲料水のCMに使えそうなさわやかスマイルで、軽く手を合わせる男子。
彼の名前は早瀬翔。某アイドル事務所でセンターにいそうなさわやかイケメンで、次期部長の呼び声高いサッカー部のエース。おまけに家柄も良いらしく、学校でも一、二を争うほど女子人気の高い生徒だ。
「でもぉ、すっごく楽しみにしてたのにぃ」
そんな翔に、グループ内でも一際華やかな女子が上目遣いの猫なで声で甘える。
白崎姫奈は、その名前の通りお姫様のように美しい少女だった。
緩く巻かれた艶やかな髪に緻密なガラス細工のように整った顔立ち。制服に包まれたウエストはモデルのように細く、それでいてブラウスの襟元からは適度に膨らんだ谷間が覗いている。
そんな美男美女が仲睦まじくしていれば、当然目立つに決まっていて。姫奈と翔は、ろくに友達のいない茉優でさえ知っているほど、有名なカップルだった。
「まあまあ姫奈ちゃん。残念なのは翔も同じだって」
「そうそう。今年は翔のおかげでいいとこまでいけそうだからって、監督張り切ってんだよ」
「そうなの!? 翔くんすごーい! さっすが姫奈ちゃんの彼氏!」
「大会終わったら、またみんなで予定立てよ?」
察するに週末6人で遊ぶ約束をしていたところ、急遽サッカー部の練習が入り、都合が合わなくなってしまったらしい。
遊びに行けなくなったのは皆同じはずなのに、残りの4人が口々にフォローに回るあたり、姫奈・翔カップルが中心のグループなのだとよく分かる。
「ごめんな、姫奈? 大会終わったらデート行こうな」
トドメとばかりにさわやかスマイルでポンポンと頭を撫でる翔。
「いや俺らとの約束は!?」
そこを盛り上げ役の男子が大げさにおどけて、それでようやく姫奈も機嫌を直したらしい。
「ん。じゃあ我慢する……」
「やだ、姫奈ちゃん可愛い彼女すぎ」
「代わりに今日はうちらが付き合うからさ、ぱーっと遊ぼうよ」
女子2人がおだてると、「いいねー」と姫奈はすっかりご機嫌になって、
「じゃあ私、カラオケ行きたいなー」
その言葉が聞こえてきた瞬間、茉優の身体がびくりと跳ねた。
ばっと顔を俯かせ、小さく縮こまる。呼吸がどんどん浅く、早くなっていく。机の下では膝ががくがくと震えている。
「えー、またー?」
「姫奈ちゃんちょっとカラオケ好きすぎない?」
姫奈の言葉を受ける女子2人の声音にも、途端に嘲りの色が混じる。
小説を持つ茉優の手に神経症的な力がこもり、ページがぐしゃりと音を立てて破れた。
「うわ、茉優ちゃんまた太ったんじゃない? もうスカートのホック破けちゃいそうだよ」
「ブレザーのボタンも弾けちゃいそう! 仕方ないから脱がせてあげるね」
「って、ブラウスもぱっつぱつじゃん!」
カラオケ店の個室に女達の声が響き渡る。
しかし、それはメロディに乗せた歌声ではなく、不協和音のように耳障りな嘲笑だった。
放課後。
茉優は、姫奈のグループの女子3人と駅前のカラオケ店に来ていた。
言うまでもなく、仲良く遊びに来たというわけではない。
むしろその逆だった。
「あ、あのっ……やめ、てくださいっ……」
「え? やだ(笑)」
「茉優ちゃん暑そうだから、脱ぐの手伝ってあげてるんじゃん」
「そーそー。ほら、ブラウスもっ!」
スカートに収められていたブラウスが乱暴に捲り上げられ、真っ白なお腹がぶよんと顔を出した。
「やばっ! 鏡餅みたい!」
「え、待って。お臍どこ?」
「お肉が段になりすぎてお臍埋もれちゃってるんだけど(笑)」
スカートに収まりきらず、まるで浮き輪のようにウエスト部分にでんと乗っかった贅肉を指さし、女子三人が猿みたいに手を叩いて笑う。
必死にお腹をへこますというせめてもの抵抗も、折り重なった脂肪の山をぷるぷると震わせることしかできなかった。
俯いた茉優の顔が羞恥に歪み、声にならない嗚咽が漏れる。
身長158センチで体重72キロ。茉優はいわゆるところの肥満体型だった。
「っぐ、あ、あのっ……ほっ、んとに、やめっ……」
泣いて懇願する茉優に、姫奈は「えー?」とわざとらしくとぼけた声を張り上げて、
「そんないじめみたいに言うのひどくない? お腹見せ合うのなんて、女子同士の軽いノリじゃん、ほら」
自身のブラウスをぺろりと捲ってみせると、すらりと臍が縦に伸びたウエストを見せつけるように、茉優の腹の肉に擦り付ける。
「いやそこで姫奈ちゃんが見せるのはトドメでしょ(笑)」
「くびれやばっ! え、待って、2人ってほんとに同じ生物?(笑)」
「脚とかもう倍くらい違うんだけど」
すると、女子三人はまた手を叩いて笑い、茉優はますます惨めな気持ちになる。
彼女達によるいじめが始まったのは、今年の4月。初めて同じクラスになってから、わずか2週間後のことだった。
それまで特に面識があったわけではない。学年でも有名人である彼女達のことをもちろん茉優は知っていたが、向こうは茉優のことなど認識すらしていなかっただろう。そしてそれは同じクラスになってからも変わらないはずだった。彼女達との因縁など何一つなかったのだ。
にもかかわらず、ある日の放課後呼び出され、いじめは突然始まった。
なんのことはない。因縁など関係なかったのだ。いじめのターゲットに茉優が選ばれた理由はただ一つだけ――。
「じゃあそろそろいつものやっちゃう?」
「いえーい。じゃあ、前回負けたから姫奈ちゃんからね」
「頑張れー、発案者!」という野次に「うるさい(笑)」と答えながら、姫奈はフード注文用のタッチパネル式のリモコンとにらめっこする。
「決めた! じゃあ最初はラーメンで!」
「ええー、いきなり攻めすぎじゃない?」
「茉優ちゃん太ってきてるから一発ドボンあるよ!」
はしゃぎながら注文を確定すると、間もなく店員がラーメンを運んできた。
捲られたブラウスを下ろした茉優の元に丼が置かれる。注文したのは姫奈にもかかわらずだ。
「はい、じゃあ茉優ちゃん食べて」
断ることは許されない。これはそういうゲームなのだ。
『おデブちゃん危機一髪』という名称らしい。
名前の通り、『黒ひげ危機一髪』を基にしたゲームで、彼女達3人は交互にフードやドリンクを注文していき、茉優に与えていく。そして次の人の注文メニューを食べ始める前に『ドボン』を迎えたら、その人の負けというシンプルなルールだ。
では『ドボン』とは何か?
「んっ、んっ」
「さすが茉優ちゃん、いい食べっぷりー」
半ばヤケクソ気味に食べ進めていく。昼食から5時間経っているとはいえ、油と炭水化物のコンビネーションによりどんどんお腹が膨れていく。ただでさえきついスカートのホックがミチミチと引っ張られていく。
ほとんど噛まずに流し込むようにして、なんとか丼を空にした。
「おおーっ、セーフ!」
女子2人の感心した声に、姫奈がドヤ顔を作っておどける。
「次はわたしかー」と今度は取り巻きの1人がリモコンとにらめっこする。
「ピザ行っちゃえば?(笑)」
「いやピザは絶対アウトでしょ! えー、どのくらいならいけるかなあ?」
順番を終えた姫奈の無責任な野次にツッコミながら、彼女が吟味するような目つきで見つめるのは、茉優のお腹。
より正確に言えば、スカートのホックだ。
茉優にどんどん食べ物を与え、スカートのホックが破れたら『ドボン』。それがおデブちゃん危機一髪のルールだった。
発案者は姫奈。
昔のバラエティ番組であった、巨大風船をポンプで順番に膨らませ、割った者が負けというゲームを見て思いついたらしい。
当然、ゲームをするには太った人間が必要になる。それこそが茉優がいじめのターゲットに選ばれた理由だった。
その後もポテトに唐揚げ、パフェといったカロリーの塊を茉優は順番に平らげていく。いじめを受け始めてからわずか数週間で、茉優の体重はすでに5キロも増えていた。
「すごい、まだ耐えるんだ」
「スカートのホックが意外に強い(笑)」
順番が進むにつれ、茉優のお腹は目に見えて膨らんでいった。
内側からの圧力に押され、弛んだ二段腹だったものが丸々とした太鼓腹になっている。ブラウスの生地がギチギチに張り詰め、豊かなバストよりもさらに大きく張り出したお腹のラインがはっきりと浮かび上がっていた。
いくら幼い頃から食べるのが好きだという茉優でも、ここまでくれば拷問のようなものだ。
大好きなはずのパンケーキでさえ、今は口に運ぶのが苦痛でしかなかった。
そして――。
「あっ」
プスッという間の抜けた音とともにお腹の締め付けがわずかに楽になる。
スカートのホック――ではなく、先に限界を迎えたのはブラウスのボタンだった。弾けたボタンの隙間から、生地の伸びきったキャミソールが覗いている。
「はーいっ、姫奈ちゃんの負け~」
「えーっ、これ負けなの!? ホックの方はセーフじゃん」
「ボタンもアウトでしょ。ていうか、あそこからパンケーキは無茶だって(笑)」
ルールがああだこうだと盛り上がる3人。それをよそに、茉優は声を上げて泣きたくなるのを必死でこらえる。
太っているとはいえ女子は女子。人前でボタンを飛ばして恥ずかしくないわけがない。
どうして自分がこんな目に遭わないといけないのか。どうしてこんな人を人とも思っていない人間がその報いを受けずに、平気な顔で青春を謳歌しているのか。
人を呪わば穴二つ。
そんな言葉は嘘っぱちだ、と茉優は世を呪った。
カラオケ店を出ると、姫奈達3人はそのまま繁華街の方へと消えていった。
1人家路につく。
食べ過ぎでブレザーのボタンが届かず、ぱんぱんに膨らんだお腹を隠すこともできない。
すれ違った女子高生達の「なにあのお腹」とくすくす笑う声が聞こえてきた。
この格好のまま家に帰るわけにもいかない。
『今日は友達とご飯食べて帰るね』
そう母にメッセージを入れて、あてどなく夕暮れの町を彷徨い歩く。
それはまったくの偶然だった。
「あれえ? 茉優?」
背後から耳慣れたのんびりした声が聞こえてきて、ぴくりと身体が固まる。
「やっぱり茉優だぁ。春休みぶり! 今帰り?」
軽い調子でぽむと肩を叩いてきたのは、マッシュルームボブにお洒落な丸眼鏡が特徴的なサブカル系の女子生徒。
彼女の名前は、春川ことり。幼稚園の頃からの友達で、高校が別々になってしまった今も一番の親友である。
「わ、わー、ことちゃん偶然!」
お腹を隠すように顔だけで振り返り、ぱっと明るい笑顔を作る茉優。
しかし、気の置けない幼なじみを相手にそんな強がりが保つはずもなく――。
「うっ、うぅ、うわあああああん」
「え、うええ!? ど、どしたの、茉優? 茉優ぅ?」
困惑しながら背中をさすってくれる幼なじみの腕の中で、茉優は子どもみたいに声を上げて泣いた。
「――まさかこの1か月ちょっとの間にそんなことになってたなんて……」
近くの公園に移動し、新学期になってからのことをつっかえつっかえ話すと、ことりの表情はみるみる悲痛に歪んでいった。
「ごめんね、茉優。気づいてあげられなくて」
申し訳なさそうに言う幼なじみに、茉優はぶんぶんと首を振る。新学期になったばかりで何かと忙しいだろうと、茉優の方が遠慮していたのだ。
「でも茉優にそんなことするなんて許せない! 特に白崎とかいうやつ!」
もちろんいじめに加担している時点で3人とも同罪である。が、あの中で誰が主犯かといえば、それは間違いなく白崎姫奈だった。今日だってカラオケに行きたいと姫奈が言い出さなければ、こんなことにはならなかったはずである。
「ほんとムカつく! ねえ、茉優。白崎のやつに仕返ししてやろうよ!」
「仕返しなんて無理だよ……」
ことりを含めても2対3なうえ、向こうにはバックに男子達もいる。そしてそもそもことりを人数に含めるつもりもなかった。それで彼女まで姫奈達の恨みを買ってしまったらと思うとぞっとする。まるで自分のことのように怒ってくれる、その気持ちだけで十分過ぎるほど嬉しかった。
「もちろん暴力なんてしないよ。茉優にそんな危ないことさせるわけにはいかないし」
「? じゃあどうやって?」
たとえば姫奈の私物に嫌がらせをするといった間接的な仕返しでも、今の状況ではすぐに茉優が犯人だとバレてしまうだろう。
「――『脂肪回路』って聞いたことある?」
「しぼう、え、何?」
どういう漢字をあてるのか、すぐには分からなかった。
「『脂肪回路』。身体のお肉の脂肪に、電気回路とかの回路で、『脂肪回路』。一種の呪いなんだけどね」
彼女の説明を要約すると、ある特定の相手との間に『脂肪回路』という名の目に見えない回路を接続する呪いらしい。『脂肪回路』を接続すると、49日間の間、自分の身体の余分な脂肪が自動的に相手に送られていくのだとか。つまり自分はどんどん痩せていく一方、相手をぶくぶくと太らせることができるということだ。
たしかにそんなことができれば、秘密裏に姫奈に仕返しすることができるだろう。幸い――ではないが、送る脂肪には困らないし。だが――。
「え、えーと、ことちゃん……」
本気か冗談か、疑ったような目で幼なじみの顔を見つめる。
彼女には、子どもの頃から呪いや都市伝説の類の収集癖があった。一見、普通の可愛い女の子な彼女だが、部屋に行くと呪いや黒魔術の本なんかが平気で出てきたりする。
そんな彼女の話はいつもユニークで、もちろん茉優も好きだけれど、さすがに今はそんな話に付き合う気分にはなれなかった。
「まあまあ、茉優の言いたいことは分かるけどさ。でも、この呪いが本当なことはもうこの目で確認済みなんだよね、ほら」
差し出されたスマホの画面を覗き込む。
そこには――丸々と太った女性の写真が表示されていた。顔は写さないから身体を撮らせてくれとでも頼んだのだろう。白い壁を背景に下着姿で、体型がよく分かるように撮られている。縦も横も茉優より少し大きく、体重でいえば80キロくらいはありそうだ。
「うちの学校の先輩の姉の友達の、名前を出すのは悪いからA子さんにしとこうか。この写真を撮らせてもらったのが今年の1月9日で、次はこっち」
次に見せられたのは、モデルのようにスタイルの良い女性の写真だった。ちょうど姫奈くらいだろうか。先ほど見たばかりの彼女のお腹同様、ウエストはきゅっとくびれ、うっすらと腹筋の縦線が浮かんでいた。
しかし、驚くべきはこの写真の撮影日だ。
「2月28日!? うそ、2か月も経たないうちにこんなに痩せちゃったってこと!?」
どう軽く見積もっても30キロ以上は痩せている。通常のダイエットではあり得ないペースだろう。
「すごい――けど、なんだか怖くなっちゃうね。そんなに上手い話があるわけないっていうか」
「分かってるじゃない。それでこれが先々週の写真ね」
最後の写真は、1枚目の写真の焼き直しのような写真だった。ほんの2か月足らず前にはあったはずのくびれは脂肪に埋め尽くされ、きゅっと縦に伸びていた臍は潰れ、二段腹の間に飲み込まれてしまっていた。
「戻っちゃう、ってこと? あっ、そうか。だから回路!」
「正解。つまりね、一定の周期で脂肪が2人の間を循環するだけなのよ」
最初の49日間はたしかに相手に脂肪を送ることができる。が、その先の49日間は、逆に相手から脂肪が送られ続けるということだ。
「なんで49日なんて細かい周期が分かるのかって思ったでしょ? 実はA子さんが相手を呪ったのって高校時代、もう5年も前のことなんだって」
「それ以来、49日周期で太ったり痩せたりを繰り返しているってこと?」
「呪った相手と互い違いにね」
単純に考えればもうすでに40回近く、30キロ以上の体重の増減を繰り返している計算になる。
ことりの話によると、高校生当時、A子は古書店で見つけた呪いの本によって、『脂肪回路』のことを知ったらしい。しかし、その本には相手を呪う方法、そして相手に脂肪を送ることができるとしか記されていなかったそうだ。それで、いつも体型をしつこくからかってくる友人をつい出来心で呪ってしまったというわけである。
呪った側からすれば、元々ついていた脂肪が行ったり来たりするだけだから、一見、損はないように思える。が、それは理屈の上だけの話。実社会において、ほんの2か月足らずの周期で30キロ以上もの体重の増減を繰り返す人間など、異常者以外の何者でもないだろう。
人生を狂わせたいほど呪った友人のことを恨んでいたわけでもない。だから、A子は呪いを解きたいと藁にもすがる思いで、呪いや都市伝説に広い知識と人脈を持つことりを頼ってきたらしい。
「『脂肪回路』のお話は分かったけど、でも、ずっと体重が増えたり減ったりするのは困るな……」
「もちろん茉優にA子さんと同じ失敗なんてさせないよ。親友だもん、茉優にだけリスクを背負わせたりしない」
こちらに向き直ると、茉優の両肩を掴み、まっすぐに見つめてくる。
「A子さんの話を聞いて、一つ思いついたことがあるの。聞いてくれる、茉優?」
丸眼鏡の奥にあることりの瞳には、すでに覚悟の火が灯っていた。
――脂肪回路の接続を確立しました。
結局のところ女の最大の武器は美貌だ。
これまでの人生で、白崎姫奈はそう強く確信していた。
美貌さえ磨いておけば、誰もが羨むような男を射止めることができるし、決して良くはないと自覚している性格でも周囲に人が集まってくる。お姫様のごとき我儘も笑って許されてしまう。
だから、美貌を磨かない女ほど馬鹿なやつはいないと思う。
無論デブなんてもってのほかだ。戦場で武器を錆びつかせておく愚図など、どう扱われたって文句は言えないのだ。
姫奈は美貌を武器にこれまでの人生を生きてきた。
そしてこれからの人生も同じように、美貌を武器にして生きていける。
――そう思っていた。
「あ、あれ? なんか、きつ……」
最初にきつくなったのはブラだった。
自宅の脱衣所。
シャワーを浴びた後、身体を拭いてお気に入りの下着をつける。
目を瞑っていてもできるような慣れた作業だが、胸の膨らみがブラのカップから溢れ、ぷにっとした脂肪がこぼれていた。
「おっかしいなあ」
カップの中に手を入れ、バストの位置を調整するが、やはり上手く収まらない。
「姫奈? 何してんの?」
「ぎゃっ!? ちょっ、翔!?」
首をひねりながら、鏡の前で格闘していると、恋人の早瀬翔ががらりと引き戸の隙間から顔を覗かせた。
姫奈は両手を胸の前でクロスさせながら、抗議の声を上げる。
「もーっ、翔! 部屋で待っててってば」
「いやあ、待ちきれなくてさ」
悪びれもせず、脱衣所の中に入ってくる。
そして当たり前のように身に着けているのはパンツ一枚だけだった。サッカーで鍛えられた肉体が惜しげもなく晒されている。
ちなみに姫奈の両親は、遠い親戚の結婚式に出席するため明日の夜までは留守だ。だから彼を泊まりに誘ったというわけである。
「で、どしたん? 鏡の前で難しい顔して」
姫奈の華奢な身体を背後から抱きしめ、耳元でささやく。学校では聖人君子然としているが、2人きりだと姫奈が耳が弱いことを知っていて平気でこういうことをしてくる。自分にしか見せない彼のそういうところが姫奈は好きだった。
「んー、なんかちょっとブラがきつくて」
「マジ? もしかして俺が揉みすぎたせい?」
「ふふ、そうかも。翔、おっぱい好きだから」
くすくすと笑って、鏡の前でじゃれ合う。
身長160センチで体重45キロ。それでいてバストはDカップという高校生女子として一種の理想形ともいえるスタイル。それが自分の最大の武器であることを姫奈は誰よりも自覚していた。
「まあでも大きくなる分には良いんじゃん?」
「翔は、でしょ。太って見えたりもするから女子的には微妙なんだからね?」
「胸が大きくなるなら、ちょっとくらい太ってくれてもいいんだけどなあ」
「もう、ばか」
ブラのことなど忘れたかのように、脱衣所を後にし、絡み合いながら姫奈の部屋へ向かう。
下着からこぼれていたのはバストだけではない。脇肉や腰肉もぷっくりと余り始めていることに、この時の姫奈はまだ気づいていなかった。
2時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると、途端にクラスは慌ただしくなった。
3時間目は体育だ。
女子は着替えを持って更衣室へ向かい、一部の男子はまだ教室に女子が残っているのもお構いなしにさっさと着替え始めていた。
「姫奈ちゃん、今日なんか元気ない?」
「あ、私も思った。なんかちょっと苦しそう?」
更衣室までの道すがら、いつも一緒にいる友人の千花と瑞希にそう問われ、姫奈は慌てて明るい表情を取り繕う。
「え、なんで? 全然普通だよ。体育がちょっとだるいだけ」
「あー、わかるー」「ほんとそれー」軽口を叩いている間に、更衣室が見えてくる。
中に入ると、そのまま流れで3人横並びのロッカーを確保する。
憂鬱なのは、この着替えだった。
脱ぎっぷりの良い2人の着替えを横目でこっそりと覗き見る。
キャミソールから伸びる二の腕も、時折、裾から覗くお腹もいつも通りほっそりしている。
姫奈はきゅっとお腹に力を入れると、意を決してブラウスのボタンを外し始めた。
「あれ? 姫奈ちゃん、なにか――」
ブラウスをロッカーに仕舞い、体操服に手を掛けたところで声が掛けられ、ぎくりと身体が固まる。
「な、なに?」
じーっと見つめてくる友人達に、内心気が気でない姫奈。答える笑顔は、ひくひくと引き攣っている。
「もしかして、またおっぱい大きくなった?」
「あーっ、やっぱり? 私もそうじゃないかと思ってた」
キャミソールの生地を大きく持ち上げる谷間を見つめて、きゃっきゃっとはしゃぐ2人。内心ほっとしながら、「ちょ、見んなしー」と表面上は明るくおどけ、さっさと着替えを終えてしまう。
「ごめーん、私ちょっと先にトイレ行ってくるねー」
そうして手を合わせると、逃げるように個室へと滑り込んだ。
ふうううううう、と身体中の空気をすべて吐き出したような、安堵のため息が漏れる。
と、同時にぴちっと体操服の生地が張り詰め、身体のラインが浮かび上がってきた。
「うぅ、ほんと、なんでこんなことに……」
以前よりも少し豊かになったバスト。その下には一回り厚みを増し、むちむちと贅肉が乗ったウエストのラインが浮かび上がっていた。腰周りにも脂肪が乗ったおかげでなんとかくびれは残っているものの、お臍周りはぽっこりと前に張り出している。なんとか体操服の中に隠れているが、二の腕や太ももにも余分な柔肉がまとわりついていた。
昨夜測った体重は54キロ。最初にブラがきついなと思った先週の体重が49キロで、そこから10日も経たないうちに5キロも増えていることになる。元の体重からすれば、すでに10キロ近くの増だ。
言うまでもなく、ダイエットには取り組んでいた。食事は低脂質、低糖質、高タンパクを徹底しているし、日課のジョギングの距離も倍近く伸ばした。
にもかかわらず、体重が落ちる気配はまるでない。
そして急激に増えたのは体重だけでなく、体脂肪率もだった。ここ数週間で18%から30%まで跳ね上がっている。計算上、9キロの体重増、そのほぼすべてが体脂肪の増加によるものだということだ。
つまり単純な数字以上に身体つきはだらしなくなり、その影響は運動能力にも及んでいた。日課のジョギングはずいぶんゆっくりペースになったし、最近は登下校の歩きさえ息が上がりそうになる。
自分の身体に何が起きているのか、まったく見当もつかない。
が、こんなだらしない身体を誰にも知られるわけにいかないことだけははっきりしていた。
姫奈はきゅっとお腹に力を入れ、お腹のラインが浮いていないことを確認すると、トイレの個室を後にした。
茉優は姫奈の着替えの一部始終を注意深く観察していた。
まだ体重的には標準くらいのはずだが、姫奈の基準では完全にアウトな体型なのだろう。以前までは取り巻き達と喋りながら、だらだらと着替えていたのに、ここ最近はずいぶんこそこそと着替えるようになった。
しかし、いくら手早く着替えても、太った事実は到底隠しきれるものではない。
本人は気づいていないだろうが、着替えの最中、軽く屈んだりした時には、下腹がハーフパンツのゴムの上から溢れていたし、ふとした拍子に腹筋の力が緩み、本来のぽっこりお腹が垣間見えていた。
太ったと周りにバレるのも時間の問題だと思う。
姫奈がトイレへと逃げていった後、茉優も素知らぬ顔で着替え始めた。
心だけではなく、以前まで窮屈だった体操服の生地にも、少しずつ余裕が生まれ始めていた。
体育の授業が始まった。
整列は出席番号順になっているため、茉優は姫奈の隣で準備運動をすることになる。
少し前までは体型をからかわれるのが嫌な配置だったが、今は姫奈の様子を観察するのにちょうど良かった。
準備体操はお互い無難にこなし、あとは腕立て伏せと腹筋15回ずつを残すばかりとなる。
「いーち、にーい、さーん……」
級長の号令に合わせて、一斉に腕立て伏せを行う。
ぽっちゃり体型の茉優にはとても無理なペースだ。が、身体が軽くなったおかげか、以前よりはかなりついていけるようになった。
それとは対照的に、隣の姫奈はまったくついていけなくなっていた。
当然だろう。1人だけ10キロ近い重りを背負ってやっているようなものなのだから。
耳まで赤くして、懸命に腕を曲げ伸ばししているが、茉優より多少マシ程度のゆっくりペースだった。以前まで軽々としていたのが嘘みたいだ。
結局、みんなが15回やる間に、姫奈は10回もできずに終わった。
次は腹筋。出席番号順でペアになる。
茉優のペアは姫奈だ。
今思えば、新学期最初の体育で「え、待って。茉優ちゃん腹筋1回もできないの?(笑)」とからかわれた時から、姫奈はいじめの標的として茉優に目を付けていたのではないかと思う。そう考えると因縁深い気がしてくるから不思議だ。
「私、足押さえるから先やって」
腕立て伏せでへとへとだからだろう。相談もなしに順番を押し付けてきた。無論、言い返す勇気などないので、素直に地面に寝転がる。
「あれ? なんか、痩せた?」
足を押さえながら近くで見て、ようやく気付いたらしい。
「ええ、一応。腹筋もなんとかできるようになりました」
自分は太り続けているからだろう。途端に面白くなさそうな顔になる。
「ふーん……。いっても全然デブだけどね。腹筋も全然ペース追いついてないし。起き上がるたびに段になっちゃってるよ、お腹(笑)」
そんなことを言ってられるのも今のうちだ。歯を食いしばって嘲笑に耐えながら、どうにか腹筋を終える。次は姫奈の番だった。
級長が号令を始めた途端、姫奈の顔色が変わった。
「んっ、んぐうっ、んんんん……」
身体中にまとわりついた贅肉がいかに腹筋の邪魔になるか、今初めて思い知ったのだろう。たった1回身体を起こすのもずいぶん辛そうで、顔中が真っ赤になっている。顔にも少しずつ脂肪がついてきているようで、起き上がろうと顎を引くたび、たぷたぷとした二重顎が形成されており、力んだ表情も相まって、決して美人とは言えない顔になっていた。
それでも姫奈はなんとか回数をこなしていく。
が、すでに腹筋は限界に近いのだろう。
段々お腹をへこませる力が弱くなってきており、滲んだ汗も手伝って、体操服の上からでも脂肪を見て取れるようになっていた。
起き上がろうと力を込めるたび、ぷよぷよとみっともなく震える贅肉。身体を曲げると、逃げ場を失って、ぽよんとハーフパンツから溢れる下腹。起き上がるたび、お臍が横に潰れて、無様な二段腹が顔を見せている。
もうしばらく見ていたかったが、やがて級長の号令が15回目を数えると、姫奈もやや遅れて無事15回目にたどり着いた。
その直後だった。
「――な、なに笑ってんのよ!」
「っ!?」
押さえていた足を離す間もなく、突然、肩を突き飛ばされた。
「べつに今日はたまたま調子悪いだけだし! デブがちょっと痩せたからって調子に乗らないでくれる!?」
尻もちをついた茉優を見下ろし、ふんと鼻を鳴らして去っていく。そんな姫奈に取り巻き達が「どしたの!?」「大丈夫!?」と駆け寄っていた。
一方、茉優は立ち上がるのも忘れ、呆然としていた。
――笑っていた?
自分の内に芽生え始めていた感情の正体を、茉優はまだ理解できないでいた。
その日の放課後。
姫奈は千花と瑞希とともに、茉優をカラオケ店に呼び出していた。
本人にあまり自覚はないが、姫奈が茉優をいじめるのは決まって、何か自分の思い通りにいかないことがあった時である。
要はストレス発散だ。
これまでそのストレスの原因は茉優とは関係のないことばかりだったが、この日ばかりは違っていた。
3時間目の体育の授業。
以前のような腹筋ができなくなっていた自分を見る茉優の不愉快な視線。
最近、自分の体型のことばかりで、茉優に構っていられなかったせいだろう。自分の身の程というものを今一度思い知らせてやる必要があった。
「茉優ちゃーん、最近ちょっと痩せたんじゃない? どのくらい痩せたか、ちょっと見せてよ」
嗜虐的な笑みで言う姫奈。少し痩せて、良い気になっているお腹を散々にこき下ろした後、いつもの『おデブちゃん危機一髪』で腹をぱんぱんに膨らませ、芽生え始めている自信をへし折る。そういう算段だった。
意外なことに、茉優は抵抗する素振りもなく、ブレザーのボタンを外し、ブラウスの裾をスカートから引き抜き始めた。
嫌に素直だ、と思う。
少し前まではお腹をあらわにするだけで泣きそうになっていたのに。
「……これで、いいですか?」
裾をぺろりと捲って、自分から白いお腹を見せる。
服の上からでも分かっていた通りの、ぽっちゃりお腹だ。お臍にはぷよんとした横線が入り、スカートのウエストに下腹が乗っかっている。
が、それでも数週間前にここでいじめた時とは見違えていて、わずかではあるがくびれのラインが形成されつつあった。
――あ、あれ? もしかして、私よりも……。
「? 姫奈ちゃん?」
千花の言葉ではっとする。
頭にかすめた馬鹿げた考えを振り払って、蔑んだ笑みを作る。
「え、待って? ごめん、思ったより全然痩せてない(笑)。思いっきりスカートの上にお腹乗っちゃってるじゃん」
千花と瑞希も姫奈の言葉に続く。
と、思いきや、先に口を挟んだのは茉優の方だった。
「ええ、たしかにまだ太ってます。――けど、白崎さんも最近太りましたよね?」
「…………は?」
思いもよらぬ反撃に素っ頓狂な声が漏れる。
「ブレザーでうまく隠してますけど、実は白崎さんもスカートに乗ってるんじゃないですか? そのお腹」
「はあ!? そ、そ、そんなわけ――「そんなわけないでしょ!」
金魚みたいに口をパクパクさせながら否定しようとすると、それに被せるみたいに千花が反論した。
瑞希もヒートアップする。
「姫奈ちゃんがあんたみたいなデブ腹と同じなわけないじゃない!」
「ちょっと痩せたからって調子に乗って!」
「ていうかこの前も見たでしょ!? きれいにくびれたウエスト!」
姫奈が口を挟む隙もない勢いだが、悪くない流れだった。
太ったことは、まだ2人にはバレてない。
と、内心安堵しかけたその時だった。
「もういい! 姫奈ちゃん、もう一回こいつに見せてやろうよ!」
「…………は?」
頭が追いつかず、再び素っ頓狂な声を上げてしまう。
「それがいいよ! ちょっと痩せたからって姫奈ちゃんに追いついた気でいるみたいだし」
「は? え、ちょっと……」
「あんたなんか姫奈ちゃんの足元にも及ばないんだから! ほら、姫奈ちゃん、あいつの隣座って」
茉優を含めた3人の視線が姫奈の元に集まる。
あれよあれよという間に、姫奈がお腹を見せる空気が出来上がっていた。
ここで断れば、スカートにお腹が乗るくらい太っていると認めるようなものだ。
やるしかなかった。
茉優の隣に腰を下ろし、ふう、とこっそり深呼吸する。
大丈夫、大丈夫。体重的にはまだ標準体型なんだから。全力でお腹をへこませれば、まだごまかせる範囲のはず。
息を吸って、限界までお腹をへこませてから、ブレザーのボタンを解いた。
ブラウスを引っ張って、スカートの中から裾を出す。指に伝わるお腹のぷよんとした感触が、先に進むのを躊躇わせる。大丈夫、さすがにお腹をへこませていれば、スカートには乗らないはず。
最後にもう一度自分に言い聞かせて、ひと思いにブラウスをめくり上げた。
「ほ、ほらっ、スカートになんか乗るわけないでしょ! あんたみたいなデブとは違うんだから!」
勝ち誇った笑みで言うと、援護射撃を期待し、千花達の方を見る。
が、そこには「あ、あれ?」という戸惑った表情が広がっていた。
姫奈と目が合うと、はっとした顔になる。
「そ、そうだよ。姫奈ちゃんの方が、全然細い……」
「ね、ねっ! くびれだって、姫奈ちゃんの方が……」
一応、加勢してくれるものの、さっきまでの語気が嘘のように頼りなくなっていた。
やがて「言っていいのかな?」と躊躇いがちに、姫奈に尋ねてくる。
「その、なんか姫奈ちゃん、顔赤くない?」
「というか、なんか――お腹へこませてるような……」
さあっと背筋が冷たくなる。
「そ、そそそそんなわけないじゃん! これはその、そう! 今日なんか熱っぽくて。身体もむくんでるし、だからそう見えるだけで……」
苦しい言い訳だ、と自分でも思う。しかし――。
「あ、なーんだ、そうだよね!」
「びっくりしたぁ。姫奈ちゃんがこんなに太いわけないもんね」
やはりこれまでの痩せていたイメージが強いのか、2人はあっさりと納得してくれた。
太い、という言葉に引っかからなくもないが、これ以上墓穴を掘るわけにもいかない。
「というか、ごめん! マシになったと思ってたんだけど、熱がぶり返してきたみたい! 悪いけど、今日は先帰るね」
まるで茉優にしてやられたみたいで悔しいが仕方ない。話の流れに乗って、今日のところは一時撤退することにした。
「大丈夫?」「家まで送ろうか?」と心配する千花達に手を振りながら、個室を後にする。彼女達をうまく丸め込めただけでも良かった、とそう納得することにした。
姫奈が出ていくと、茉優は残りの取り巻き2人とカラオケ店の個室に取り残された。
ばたんと扉が閉められた後もしばらく無言の時間が続く。
1分以上経っただろうか。
もう確実に姫奈に声は届かない。
そう確信できる程度の時間が過ぎてからのことだった。
「ぎゃーはっはっはっは」
ダムが決壊するように、取り巻き2人が手を叩いて笑い始めた。
「あんなぶよぶよお腹でごまかせるわけないじゃん!」
「どんだけデブったこと認めたくないの(笑)」
「めっちゃ必死にお腹へこませてるのマジ笑えたんだけど!」
「そのくせ脇腹、スカートに思いっきり乗ってるっていうね」
「『ほ、ほらっ、スカートになんか乗るわけないでしょ! あんたみたいなデブとは違うんだから!』」
「ちょ、モノマネやめて。マジでお腹痛い……っ」
お腹を押さえ、目に涙を浮かべながら、ひーひーと引き笑いする2人。
彼女達が嘲笑っているのはもちろん、先ほど姫奈が見せたぽっちゃりお腹のことだ。
お腹をへこませれば、まだなんとか太ったことをごまかせると踏んだのだろうが、見込み違いもいいところである。たしかにお腹をへこませたおかげで、お臍まわりの脂肪はスカートに乗り出していなかった。が、脇腹にもたっぷりお肉は余っており、それはあるがままの姿でスカートから溢れ出していた。
お腹をへこませた状態であれだ。ひとたび腹筋の力を緩めれば、みっともない二段腹が形成されることは想像に難くない。本人もお腹が段になるのを嫌ってか、妙に背筋を逸らせながら力むものだから、お腹を必死にへこませているのがバレバレだった。
「はー、やばい。ほんとお腹痛い」
ひとしきり笑って、ようやく1人ぽつんとしている茉優の存在を思い出したらしい。取り巻きの1人が涙を拭いながら笑いかけてくる。
「やー、茉優ちゃん、ありがとね。めっちゃ笑わせてもらったわ」
いえ、と軽く首を振って、少し躊躇ってから、茉優は「あの、」と顔を上げて、
「――どうして助けてくれたんですか?」
姫奈の友人であるはずの取り巻きの2人に、そう尋ねた。
姫奈がお腹を見せるきっかけとなった、先ほどの茉優の反撃。もちろん姫奈が太っていることは知っていたが、だからといってこんな1対3の場面で反撃できるほど怖いもの知らずではない。そういうふうに言え、と2人に指示されたのだ。
「えー? べつに茉優ちゃんのこと助けたわけじゃないよ?」
「そーそー。いじめてきた人間をそんな簡単に信用してたら将来騙されるよ」
あっけらかんとして言う2人。
「だったらどうして」
「だってさー、太ってるって分かってる人いじるより、デブったこと必死で隠してる奴いじった方が面白いじゃん」
「ほんとそれ。大体、茉優ちゃん最近めっちゃ痩せたでしょ。いつもみたいにいじめてもあんま笑いどころなさそー」
「『おデブちゃん危機一髪』やっても、時間かかるばっかで、もうホック破けなさそうだし」
「今なら白崎でやった方がすぐホック飛びそう」
「いいねー、それ。やっちゃう?(笑)」
にやにやと思い出し笑いをする2人。姫奈のいないところでは白崎と呼んでいること、そして表向き友人を演じているだけで実は彼女のことをあまり快く思っていないだろうことがすぐに分かった。
姫奈はずっとクラスの頂点に君臨しているように見えていたが、意外なほどに脆い地面の上に立っていたらしい。
――あれ?
その時だった。
――なんだろう、この気持ち。
驚きとも憐みとも違う、得体の知れない感情が胸の奥から湧いてきて、そんな自分に戸惑いを覚える。
まるで自分が自分でないような、不思議な感覚。
「にしても、どうするんだろうね、修学旅行」
取り巻きの声ではっと現実に引き戻された。
「それね。隠せるつもりでいるのかな、あのお腹で」
どうやら来週に迫った修学旅行での姫奈のことを言っているらしい。行先は京都・大阪で3泊4日のなんてことない国内旅行だが、当然、宿泊する部屋はグループごとだし、夜にはクラスごとの入浴もある。体型を隠し通す難しさは体育の授業の比ではないだろう。
「お腹へこませれば何とかなると思ってるんじゃない? 馬鹿だから」
「ちょ、待って。旅行中、隣で一生お腹へこまされてたら、笑う自信しかないんだけど」
「なんならバレてないと思って『私いくら食べても太らないんだぁ』とか言い始めるかも」
「ぶっ、ちょ、ほんとにやめて? マジで言われたら吹き出しちゃうじゃん」
と、そこで取り巻きの1人がふと思い出したように、
「そういえばホテルって、茉優ちゃん同室だっけ?」
「え、あ、はい、そうです」突然話を振られてキョドリ気味に返す茉優。
旅先でもいじめるつもりなのだろう。部屋決めの際、ぽつんとしていた茉優を、姫奈の方から誘ってきたのだ。おかげで少し前まで茉優は修学旅行が憂鬱で仕方なかった。
頷く茉優に、もう1人の取り巻きが「へえ、うちらと白崎と茉優ちゃんの4人」と意味深に笑う。
そうして2人は顔を見合わせ、にやりと口の端を歪めて言った。
「じゃあその時に――また茉優ちゃんのこと助けてあげよっか?」
その悪魔のささやきは、ひどく甘美な響きをしていた。
進級したての頃は楽しみにしていた修学旅行。
その行きの新幹線で今、姫奈は3度目のトイレに立っていた。
べつにあの日だとか、お腹を下したというわけではない。
ただ、それだけトイレに籠らなければ、もう身体が保たなかった。
「はあ、はあ、ふうううううう」
個室の入った途端、ブレザーのボタンを外し、ブラウスをたくし上げ、ホックの留まらないスカートのファスナーを下ろす。すると、衣服という枷から解放されたお腹がぶよんと、あるがままの姿に戻った。筋力に比して、過剰に脂肪がついているためであろう。ぽっこりと膨らんでいるというよりは、たぷたぷとした柔肉が衣服の中から溢れ出したような締まりのないお腹である。
先日のカラオケからおよそ一週間。
修学旅行に向け、さらにダイエットに力を入れた姫奈だが、その努力も空しく、さらに5キロも太っていた。
すでに体重は60キロの大台目前。子供の頃からずっとスタイルが良いと褒められ、50キロ台さえデブと吐き捨ててきた姫奈からすれば、体重計が壊れたとしか思えないような数字である。
しかし、それが紛れもない現実であることは、日に日に窮屈になっていく制服が証明していた。
もはやスカートのウエストがきついなどというレベルではない。
ブラウスのボタンを留めるのさえお腹をへこませる必要があるほどで、ブレザーのボタンすら窮屈に感じるようになっていた。
こうなってくると、人前で腹筋の力を緩めることすら怖くなってくる。新幹線のボックス席なんかは特にそうだ。向かい合わせで、身体への視線を遮るようなテーブルもない。ほんのわずかでも気を抜けば、太ったことがバレてしまうのではないか。自分の体型が周りにどう映っているかが気になり、友人達との会話どころではなかった。
だから結局、こうしてトイレに籠って、制服を緩めている時が一番楽なのだった。
といっても、ずっとこうしているわけにもいかない。
トイレの前で誰か並んでいるのだろう。コンコン、とドアがノックされた。
「はーい」
答えながら、着崩していた制服を整える。
ブラウスの裾を下ろし、お腹をへこませながらスカートのファスナーを何とか半分まで上げて、ブレザーでその惨状を覆い隠す。不幸中の幸いは、太った分だけバストも大きくなっていることだ。ブレザーのボタン周りが窮屈そうな皺を作っていても、胸が大きいせいにしか見えないし、相対的にウエストも細く見える。顔には比較的脂肪がついていないこともあって、制服を着ている分にはなんとかスタイルをごまかせていた。
無論、ブレザーを脱げば、一発でばれるのだが。
夏までには痩せないと。そう決意して個室の扉を開ける。
トイレの前で待っていたのは、他クラスの女子生徒2人だった。
そして、その中の1人を見て、姫奈は、おや、と目をわずかに見開く。
直接話したことはない。が、それでもはっきり覚えているのは、彼女がサッカー部のマネージャーだからだ。もっといえば、1年の時、彼女が翔を狙っていたという噂を聞いたことがあったからである。
しかし、だからといって、どうということもない。
それなりに努力しているのはわかるが、顔立ちは精々中の上。スタイルも、モデルのように痩せているわけでもなければ、男の気を引くような胸もない。つまるところ姫奈にとっては取るに足らない存在だった。
さっさと皆のもとへ戻ろう。そう思ったが、ここでちょっとした問題が起きた。
新幹線のトイレ前の通路はあまり広くない。すれ違おうと思うと、お互いが端に寄りながら譲り合うのが普通である。
ところが彼女達は、若干左にずれている程度で、少しも端に寄る気配がなかった。
互いにアイコンタクトを取りながら、含み笑いを浮かべている。
嫌な感じ、後で翔にチクってやろう。
そう心に決めて、壁に背中をくっつけるようにしながら、半身になって彼女達の隣を通り過ぎようとした時である。
「っ!?」
人1人分通るくらいの幅はある。そう見えたはずなのに、無常にも彼女の肘にお腹がつっかえ、脂肪を擦り付けるような格好になってしまった。
「あ、ごめーん。狭いから通れないよね」
わざとらしく手を合わせて身体をどかせる彼女。そしてくすりと笑って、
「それにしても白崎さん、思ったよりお肉ついてるんだね(笑)」
「っ!?」
ぽんぽんと姫奈のお腹を叩いた。
姫奈の顔がかっと赤くなる。言うまでもなく、いくら制服の着こなしでスタイルをごまかしても、触れられれば一発だ。力士やレスラーなどのそれのように、内側に筋肉の弾力があるわけでもない。ただただ不摂生に贅肉を溜め込んだような、締まりのないお腹。彼女の手のひらに収まった感触を思うと顔から火が出そうになる。
「着痩せするタイプ? でもそろそろダイエットしないと制服入らなくなっちゃうよ(笑)」
「~~~っ」
憐れむような勝ち誇った笑みに、ろくに言い返すこともできない。
相手も特段スタイルが良いわけではない。が、スカートのホックを留めることもできない今の姫奈と比べれば、その差は歴然だった。ぶくぶくと太った体型を暴かれた今、何を言っても負け惜しみにしかならないだろう。
美貌という武器を失った今の姫奈にできるのは、しっぽを巻いてこの場から逃げることだけだった。
「付き合ってからあんなに太るとか詐欺だよね(笑)」
「ほんとそれ。翔くんかわいそーっ」
以前なら歯牙にもかけなかったような容姿の女達の嘲笑を背に受けながら、姫奈の唇は恥辱に震えていた。
お昼前に京都に着いた後、昼食を挟み、有名な寺社仏閣をいくつか回ると、時計の針は午後2時半過ぎを指していた。
ここから宿へ出発する午後6時までの約3時間は、自由行動の時間となっている。
当然、姫奈は彼氏の翔含む、いつもの6人グループで行動するつもりだったが――。
「ね、ねえ、翔。この後2人で抜けちゃわない?」
「ん? いいけど、どうした急に?」
「だってせっかくの旅行だし。2人きりの時間も欲しいなって」
「ああ、たしかに。最近練習ばっかで、デートとかできてなかったしな」
ここ数週間、デートに行けていなかったのは事実だが、サッカー部で忙しい翔と中々予定が合わなかった――わけではなく、姫奈が意図的に避けていたからである。2人きりの時間が欲しいのは山々だが、それ以上に太ったとバレることが怖かったのだ。
にもかかわらず、ここにきて急にデートに誘った理由は、先ほどの新幹線での出来事が胸に引っかかっていたからである。あのサッカー部のマネージャーの目は、明らかにまだ翔のことを諦めていない目だった。
以前の姫奈であれば、彼氏を狙う女がいても何も怖くなかった。磨き上げた美貌に絶対の自信を持っていたからだ。たとえ宣戦布告されても、奪い取れるものなら奪い取ってみろと堂々と受けて立っただろう。
しかし、今の姫奈は違っていた。
少し触れられるだけでも、ブレザーをたった1枚脱がされるだけでも、簡単に白日の下に晒されてしまう弱みを持っている。
つまるところ、容姿では勝てないから媚びることで彼をつなぎとめておきたい、と。以前の姫奈なら鼻で笑うような、そんな負け犬じみた思考が今の彼女を突き動かしていた。
ともあれ、翔からグループの皆に断りを入れてもらって、2人きりで街にくり出す。自分達の仲を囃し立てる皆の声が今は何より嬉しかった。
「ふふ、デート嬉しい。どこ行こっか」
「そうだなー。じゃあ、あそこは? 千本鳥居のとこ」
「ああ、伏見稲荷、だっけ? 行ってみたいけど、時間大丈夫かな?」
京都の中心部からは少し離れたイメージだ。
「ここから電車で20分くらいだって。3時間もあったら全然楽しめそうじゃね?」
ぱぱっとスマホで調べてくれる。移動時間を差し引いても、2時間以上は観光に充てられる計算だ。
「それにほら、あんまり他の生徒が来なさそうなところの方が落ち着いてデートできそうじゃん?」
たしかにすでに京都の中心部にいるのに、限られた自由時間にわざわざ電車で移動するのは少数派だろう。大半はそのまま京都市街をぶらぶらすると思う。グループの他の皆もそうすると言っていたし。
「お、なんか色々食べ歩きとかもあるみたいだぞ。ほら」
話しているうちにどんどん行きたくなってきたのだろう。まるでプレゼンするみたいにスマホの画面を見せてくるのがちょっと可愛い。
「ふふ、食べ歩きはいらないかも。夜ご飯の時、後悔しそうだし(笑)」
「それも旅行の醍醐味だって(笑)。いいじゃん、姫奈痩せてるんだし」
屈託のない笑顔で言う翔。
元々女性の容姿の変化に疎い方だと思っていたが、姫奈の体型の変化にもまったく気づいていないようだ。というより、姫奈が太るなど夢にも思っていないのかもしれない。
一旦、落ち着いて考える。
言うまでもなく、今回のデートの目的は彼に楽しんでもらうことだ。やっぱり自分といるのが一番楽しい、そう思ってもらわなければならない。であれば、彼の希望はできるだけ叶えてあげたい。
それに、いらないとは言ったものの、姫奈自身、食べ歩きにはかなりそそられるものがあった。連日のダイエットで我慢は限界に近づいている。
他の生徒の目がない場所で、体型の変化に疎い彼と久しぶりのデート。
――今日くらいは羽を伸ばしてもいいかな。
心の天秤がそちら側に傾くのに、長い時間はかからなかった。
翔が調べてくれた通り、伏見稲荷までは徒歩移動の時間を含めても30分もかからなかった。
「っしゃ、着いた! どうする? 千本鳥居の前に食べ歩きいっとくか?」
「もう食べたいだけじゃん(笑)」
「いやいや姫奈のためだって。先に食べ歩きして、腹ごなしついでに参拝すれば晩ご飯も食べられるだろ?」
「ふふ、ありがとう♪ じゃあ早速行っちゃおっか」
腕を組んで、2人仲良く歩き出す。
「見て見て! きつねの顔のおせんべいだって!」
「お、いなり寿司あるじゃん。稲荷稲荷言ってたら食べたくなってきたわ」
「私、豆大福好き~♪ やっぱ京都って行ったら和菓子でしょ」
「このカフェ、抹茶のガナッシュが人気みたいだぞ。京都に来て、抹茶味わわずに帰れないだろ」
目についた品物を片っ端から買って、ツーショット写真を収めた後、今度はそれを胃袋に収めていく。
「こんなに食べたの久しぶり~。もうお腹いっぱい!」
ここのところ周りの目ばかり気にしていたこともあり、知らない土地で誰に憚ることもないデートは本当に楽しかった。おかげでお腹はぱんぱんで、後で体重計に乗るのが怖いが、それさえも後悔しないほどに幸せな時間だった。
「じゃあそろそろメイン行っちゃいますか」
「行こ~♪」
本殿でお参りをした後は、いよいよお待ちかねの千本鳥居である。
「わ、すごいすごい! 本当きれい……っ」
思わずうっとりとした声が漏れる。
鮮やかな朱色の鳥居がずらりと並んだ光景は、優美で、どこか幻想的でさえあった。
「な、ここにして良かったろ」
「ここにきて急にドヤ顔するじゃん(笑)。でも本当良かった! 豆大福も美味しかったし」
「結局食い物かよ!」
なんて笑い合いながら、映える写真を撮りつつ、優雅な散歩に興じる。
そんなふうに楽しめたのも最初だけだった。
「はあ、はあ、はあ……っ」
「大丈夫か、姫奈? ちょっと端の方で休むか?」
「う、ううん。ふう、ふう、へ、平気、だよ」
千本鳥居というのは、奥宮から奥社参拝所までの参道、10分もあれば通り抜けられるような短い区間である。
が、じつは鳥居自体は稲荷山の頂上まで連なっており、千本鳥居から先はちょっとした山道になっているのだ。「せっかくだから上まで登ってみようぜ」という翔の言葉に頷いてしまったのが運のつきだった。
翔が息一つ乱していないようにガチ登山と比べればなんてことない勾配なのだろう。が、ここ数週間で15キロ近くも増量した今の姫奈には、十分険しい道のりになっていた。
「本当に大丈夫か? 体調悪いのに無理してるとか……」
「う、ううん。はあ、はあ、ほ、本当に、そんなんじゃないの。それより鞄、ありがとね」
姫奈の体力のなさに戸惑っているのだろう。2人分の学生鞄を背負いながら、翔が心配そうに眉を困らせている。無理もない、2人よりずっとお年を召した中年女性達にも次々と追い抜かされているのだから。
「この先の四ツ辻ってとこまで行ったら景色がきれいらしいからさ。そこまで頑張れるか?」
「ふう、ふう、もちろん。よゆー、よゆー♪」
メイクが崩れないように額をハンカチで拭いながら、精一杯の笑顔を浮かべる。
最後に、そんな姫奈を嘲笑うかのような勾配のきつい階段を上ると、ぱっと景色が開けた。
「よく頑張ったな、姫奈」
どうやら目的地の四ツ辻に着いたらしい。ちょっとした広場になっており、そしてそこから京都市街を見渡せるようになっていた。
甘味処の軒先にあるベンチに座らせてもらい、呼吸を整える。
そんな姫奈を正面から見下ろして、翔は当然の疑問を口にした。
「大丈夫か? 暑いんだったらブレザー脱いだ方が……」
ここまで汗をかきながらも、姫奈が頑なにブレザーを脱ごうとしない理由は言うまでもなく、そんなことをしたら、ぶよぶよのボディーラインが一発でバレるからだ。
「そ、そうだねー……」
暑いのとは別の汗を背中に感じながら、少し考えて、
「あ、それより私、そこでお手洗い借りてくるね。翔は先に景色楽しんでて」
持ってもらっていた鞄を受け取り、トイレに避難することにした。新幹線から数えて「こいつ何回トイレ行ってんだよ」と思われそうだが、背に腹は代えられない。
個室の中で一旦、ブレザーもブラウスも脱いでしまい、汗拭きシートで身体中を拭いた後、もう一度身だしなみを整える。
「え、なにこれ……」
そこでブレザーのボタンが取れそうになっていることに気づいた。
まるで何か強い力に引っ張られたみたいに、ボタンを縫い付けた糸が伸びきってしまっている。その強い力が、日に日にボリュームを増しているお腹周りであることは明らかだった。
「っ、なんで、こんな……っ」
せっかくのデートの最中に、サイズの合わない衣服を緩めるためにトイレに籠っている自分。
毎日倒れそうなくらい走って、食べたいものも全部我慢しているのに、それでも増え続ける体重。
ほんの少し前までは考えられなかった現状に、悔しくて、情けなくて、じわりと涙が込み上げてくる。
姫奈の心も、そのボタンと同じだった。訳もわからず太り続ける日々に擦り切れ、もうとっくに挫けそうになっていた。
「――行かなきゃ」
かぶりを振って、目元を拭う。
吹っ切れたわけではなかったが、これ以上、翔を待たせるわけにはいかない。彼の存在が、ぎりぎりのところで姫奈の心を支えていた。
手鏡で涙の痕が残っていないことを確認しつつ、改めて制服を整える。幸いブレザーのボタンも、気をつけていれば今日くらいは保ちそうだった。
トイレを出て、笑顔の準備をしながら、翔の姿を探す。と、すぐに見慣れた制服姿を見つけた。
「翔――っ⁉︎」
駆け寄ろうとした脚がピタリと止まる。
彼の隣には、思いもよらぬ人物がいた。
「……茉優、ちゃん?」
そこにいたのは、4月からずっといじめてきた相手――椎名茉優だった。
べつに何ということはない。姫奈がトイレに行っている間に、たまたま行先がかぶっていたらしい彼女とばったり会ったということだろう。わざわざ電車に乗って、他の生徒があまり来なさそうな観光地に来るなんて、いかにも友達のいない彼女らしい自由時間の過ごし方だ。
それだけの、本当になんてことない些細な偶然。
にもかかわらず、姫奈の瞳は驚きに見開かれていた。
「わっ、見て見て! あのカップル、超美男美女!」
「本当だ、修学旅行生かな。彼女かわいい〜」
「一軍カップルって感じ? すっごくお似合いだよねー」
まるで姫奈の内心を代弁したように、近くの女子大生らしきグループがはしゃいでいる。
学校でも一、ニを争うほど人気の翔。その翔と並んでも見劣りしないくらいの美少女がそこにいた。
この前のカラオケから一週間で、またストンと体重が落ちたのだろう。少し前まで脂肪に埋もれていた顔立ちはすっきりし、見違えるほど可愛くなった。
ここまで登ってきて暑くなったのか、今の彼女はブレザーを脱いでおり、昨日まで気づかなかった体型の変化がはっきりと見て取れる。すでに標準体型といって差し支えないほど、彼女の身体は余分な脂肪を脱ぎ捨てていた。
無論、ブラウスに浮かぶ身体のラインや、スカートに包まれたウエストをよく見れば、まだまだムチッとした肉感は残っている。しかし、バストはそれ以上に残っていて、雑誌の表紙を飾るグラビアアイドルのようなメリハリのあるスタイルになっていた。
それでも少し前までの姫奈であれば、大したことないと嘯くこともできただろう。いつまでもこんなところに立ち尽くしたりせず、堂々と2人の間に割って入ったはずだ。
しかし、今――姫奈は楽しそうに話す2人を遠巻きに眺めるばかりで、少しも彼らのそばへ近づこうとはしなかった。
自分以外の、それも周りの目を引くくらい可愛い女の子と二人きりで話す彼の姿など、無論見ていて気持ちの良いものではない。本当だったら、すぐにでも2人の間に割って入りたい。
けれど――怖かった。
美しくなった今の茉優の隣に並ぶのが、ただただ怖かった。
他の生徒の目がないところで、制服の着こなしで誤魔化しながらでないと美しさを保てない。本当に可愛い子の隣に並べば、そんな見せかけの魔法さえ解けてしまうのではないか。スカートのホックも留められず、ブレザーのボタンさえ飛ばしかけている。見る影もなく醜くなった本当の自分を見抜かれてしまうのではないか。
そうした恐怖が姫奈の身体を動けなくしていた。
もちろんそれは「自分の容姿ではもう茉優に敵わない」と心のどこかで自覚しているからこその恐怖に他ならない。ずっと目を逸らし続けていたその事実に、姫奈は打ちのめされようとしていた。
「――姫奈ちゃん、姫奈ちゃん」
自分を呼ぶ声にはっとする。
気づけば、千花と瑞希がじっと姫奈の顔を覗き込んでいた。
「あ、えっと……、あはは、なんだっけ?」
「そろそろお風呂向かわないとだから、準備しなきゃだよって」
「あ、ご、ごめん、すぐ準備するね」
慌てて鞄を漁って、着替えや愛用の洗顔石鹸などを手提げバッグに詰め替える。
「大丈夫? 自由時間から帰ってきてから、夕食の時も元気なかったけど……。もしかして翔くんと何かあった?」
最後の方だけ、茉優の目を気にして、こそっと耳打ちしてくる。
その気配を察したのか茉優は「私、先に行ってますね」と誰に言うでもなく断りを入れて、部屋を出ていった。
誰も返事することなく見送り、3人だけになった部屋で姫奈は答える。
「う、ううん、翔とは何もないよ。千本鳥居も景色もきれいで、楽しかった」
最後に邪魔が入らなければ、という言葉を心の中だけで付け加える。
結局、あの後しばらくして、茉優が先に山を下りていったのを確認し、姫奈は翔の元へ戻った。その後、2人で景色を眺めたりもしたが、純粋に楽しめたといえば嘘になる。さっきまで茉優と過ごしていた翔の目に今の自分はどう映っているのか。そればかりが気になって、なんともぎこちない雰囲気のまま自由時間は終わってしまった。
2人でクラスの集合場所に戻り、ホテルに移動。
そして先ほど夕食も終わって、姫奈は自分達の部屋に戻り、入浴の準備をしているというわけである。
「お待たせ。じゃあ行こっか」
明るく振る舞おうとするも、やはりもやもやして虚ろになってしまう。
お風呂に向かう間も2人が気を遣ってあれこれと話しかけてくれるのだが、何を話したかまったく覚えていない。
体型を隠す生命線である衣服を、これから脱がなければならないというのに。
我ながら迂闊としか言いようがなかった。
「――あれ? 姫奈ちゃん、ちょっとむちっとした?」
千花の言葉で、一気に意識が現実に引き戻された。
場所は脱衣所。3人並んで確保したロッカーの前である。
2人が隣にいるというのに、ぼんやりしていた姫奈はつい家でするのと同じように、さして身体を隠すことなく下着姿になってしまっていた。
一応お腹はへこませている。が、それでもなおショーツにぼってりと乗る下腹があらわになっていた。
――しまった。
と、凍りつく姫奈に、瑞希が庇うように、
「えー? そう見えるだけじゃない? 姫奈ちゃん、また胸大きくなったみたいだし」
「あー、たしかに! 最近ブレザー越しでもすごいって思うもん」
2人の注目がバストに集まり、ほっと一安心。
そう思ったのも束の間、千花がにやーっと口許を歪めて、
「なーんて、えいっ」
「っ、ひゃあっ」
彼女の手がさっとお腹に伸びてきた。
ぽってりと膨らんだ柔肉をさわさわと撫でながら、「やっぱり♪」とからかうように笑う。
「ち、ちち違うの! これはその、あのっ――「姫奈ちゃん、旅行だからって食べ過ぎたんでしょー」
「…………へ?」
姫奈の言い訳を遮って、千花は屈託のない笑みを浮かべた。
「ふっふーん、私の目は誤魔化せないよ! いつもよりちょっとお腹出てるし、微妙に柔らかいし」
「あー、言われてみれば確かに! ふふ、姫奈ちゃんでもつい食べ過ぎちゃうことあるんだ」
「ねっ! いっつも完璧だから急に親近感! 可愛い〜♪」
見る影もなく肥え太った体型がバレた――のではなく、どうやら「旅行で色々と食べ過ぎてしまったせいで一時的にプニっとしている」と勘違いされているらしい。
お腹をへこませているおかげだろうか。それでも二の腕や太ももの肉付きを見れば一目瞭然な気がするが、しかしせっかく勘違いしてくれているのにわざわざ自白する必要もない。
「ちょ、やだもぉ、恥ずかしい〜」
「えー、いいじゃん、修学旅行の時くらい。照れてるところも可愛いよ」
「ねー、旅行中だけのレア姫奈ちゃんだ」
姫奈自身、「いつもは痩せているけど、ちょっと食べ過ぎちゃった私」を演じて、きゃっきゃっとはしゃぎながら、堂々と下着を脱いでいく。
3人並んで身体を洗う時にも、体育の着替えの時のようにこそこそ隠れたりしない。以前のように、友人達とのお喋りを楽しみながら、だらだらと洗う。
それでも15キロもの大幅な体重増を指摘されることはなかった。
ここ最近ずっと、着替えなどのたびに人目を気にしてきた姫奈である。
――堂々としてれば、まだ裸でも誤魔化せる範囲なんだ。
その事実は、落ち込んでいた彼女の気分を明るくするのに十分だった。
身体を洗い終えると、タオルで軽く前を隠しただけの状態で湯船に向かう。歩くたび、バストと一緒にお腹や太もももプルンプルン揺れていたが、本人はまったく気に留めていなかった。
上機嫌で湯船に浸かると、そんな姫奈の顔を見て、千花と瑞希がくすくすと顔を見合わせた。
「? なに?」
「んーんっ」「なんでも〜(笑)」
尋ねても、2人だけで笑い合うばかりで中々教えてくれない。
「もーっ、気になるぅ」と姫奈が身体を前に乗り出すと、2人はようやく、
「――姫奈ちゃん、やっぱり太ったでしょ?」
一瞬、ドキリとする。
が、2人に悪意がないことは表情を見ればすぐに分かった。
「いつの間にかね、腹筋の線が消えちゃってるかなーって(笑)」
「それにぃ、座った姿勢になると、ちょーっとだけね! お腹がプニって(笑)」
にやにやと人懐っこい笑みを浮かべながら、「白状しなよ〜」とからかってくる。
けれど、そこにはやはり15キロもの体重増を指摘するような深刻さはなく、せいぜい「2、3キロ増えた?」くらいのノリだ。
――やっぱりそのくらいにしか見えないんだ。
ずっと恐れていた太ったという指摘にもかかわらず、恥ずかしさよりはむしろ嬉しさの方が勝っていた。
折れかけていた自信が少しずつ立ち直っていく。
――それが偽りの自信であることにも気づかずに。
姫奈はすっかり調子に乗って、
「あは、あはは……、やっぱりわかる? 最近お腹とかやばくて」
自信満々に、そんな自虐まで溢してしまう。
「へー、どれどれ……、あ、ほんとだ。ちょっと柔らかい(笑)」
「それにちょっとだけぽっこり?(笑)」
「ちょ、ひどいーっ」
もちろん千花も瑞希も、からかった後にはおだてることを忘れない。
「まあ、姫奈ちゃんの場合、いっても元がめっちゃ細いしねー」
「ねっ! ちょっとプニってるくらいちょうど良いかも」
「むしろ私らのお肉もついでにもらってほしい」
「えー? どれどれ」
「きゃっ、もう、仕返しー」
旅行のテンションがそうさせるのか、3人ともついスキンシップが激しくなってしまう。
姫奈も彼女達のわずかなお肉を摘んだりしたが、「あっ、姫奈ちゃんもお腹摘めるようになってる!(笑)」と倍返しにされてしまった。
もちろん多少は照れるものの、今の姫奈は変に狼狽することもない。むしろ自分のことを棚に上げ、制服では痩せて見えたクラスメイトのお腹の緩みを2人に耳打ちする始末だ。
千花達のおかげで、姫奈は完全に自信を取り戻しつつあった。
そうして友人達とじゃれ合っていた時である。
不意に浴場の一角がわっと沸いた。
「うわっ、椎名さん本当痩せたねーっ!」
「ねっ! くびれもできてきてるし!」
「太ももも隙間できたねっ!」
振り返ると、クラスの女子数人が集まっており、その中心には茉優がいた。
まだ少し肉付きの良いくびれのラインをなぞられ、くすぐったそうに身体を捻っている。
「なにあれ」「声でかすぎー」
さっきまでご機嫌だったのが嘘みたいに、千花と瑞希が不快そうに顔をしかめる。
しかし、2人のクレームは向こうには届かなかったようで、今度はこんな会話が聞こえてきた。
「ねえねえ、何キロ痩せたの?」
「えっと、大体――15キロくらいです」
隣で千花が「はんっ」とせせら笑った。
「15キロってことは、まだ57、8キロくらいじゃん」
「ね、普通にデブっていう(笑)。ま、元があれじゃあねー」
4月の身体測定でからかった時の体重が72キロだったので、たしかに今の体重はそんなところだろう。
かなりスタイルが良くなったと思ったが、身長体重的には今の姫奈とほぼ変わらないようだ。たしかに改めて見れば、Gカップ近くありそうなバストを差し引いても、全身のむっちり感は否めない。
今の自分とさして変わらない。そう思うと、今更になって昼間の出来事に腹が立ってきた。茉優相手にビビってしまったという屈辱。それが茉優本人への怒りへと変わっていく。
「――でもまあ、面白くなってきたよね」
茉優の肢体を品定めするように眺めていると、不意に千花がそんなことを言い出した。
「どういう意味?」と尋ねると、「だあって」と人差し指を立てる。
「いじけてるやついじるより、勘違いしてるやつの鼻っ柱へし折ってやる方が面白くない?」
「あーたしかに! 最近男子に人気あるからって、あいつ完全に調子乗ってるもんね」
「男子なんて胸ばっかで腹見てないってだけなのにね」
「そうそう! 本当はデブだって気づかれてないだけだっての」
姫奈の怒りを察したように、千花達のボルテージも上がっていく。そして、姫奈が口を挟む隙もないうちに、その提案は千花の口からポロッと溢れた。
「ねえ、あいつがデブなの皆の前でバラしちゃわない?」
そうして千花の提案する作戦を聞きながら、姫奈は思わず笑ってしまいそうになった。
ほんの些細な悪戯程度だが、成功すれば溜飲は下がるに違いない。その時の茉優の焦った顔が目に浮かぶ。
「ねえ、姫奈ちゃん、どう?」
千花達も同じ気持ちなのか、笑いを堪えきれないとばかりに、口許をにやにやと歪めていた。
ずっとクラスのトップカーストとして生きてきた姫奈である。
友人達が自分を嵌める可能性など、少しも考えていなかった。
翌朝。茉優を油断させるため、昨夜は何もせず早めに寝たので、頭はすっきりしていた。
最低限の身だしなみを整えると、まだ準備のできていなかった茉優を置いて、3人で朝食の会場に向かう。
昨日の食べ歩きで食欲中枢が刺激されたのか、ついつい朝ごはんのおかわりまでしてしまい、「姫奈ちゃん、そんなに食べて大丈夫?」と千花達にお腹を撫でられてしまった。
よく考えれば、それはぽっちゃりキャラへのいじりに他ならなかったが、姫奈はまったく気づいていない。
昨夜、千花に提案された作戦が楽しみで仕方なかったからだ。
朝食の後は、今日の旅程のため、一旦部屋に戻って制服に着替える。千花からは昨夜の間に仕込みは済んだと聞いている。いよいよ作戦の時だった。
つい笑みが溢れそうになるのを堪えて、表面上は淡々と着替えを進めていく。
「――あ、あれ?」
声は部屋の隅で着替えている茉優の方からだった。
ブラウスに着替え、ハーフパンツを脱ぎ、制服のスカートを手に取ったところで、茉優が目を丸くしていた。
「どうしたの、茉優ちゃん?」
「い、いえ、なんでも……」
声を掛けると、かぶりを振って着替えを再開しようとする。
平静を装っていたが、声には明らかな動揺が表れていた。
当然だ。なにせ一夜明けたら、スカートが小さいサイズのものにすり替わっているのだから。
今、茉優が手に取っているのは、姫奈のスカートだった。昨夜、皆が寝静まった後に、千花がすり替えておいてくれたのだ。
姫奈のスカートのサイズは7号。いくら痩せたとはいえ、今の茉優にホックが留まるはずない。似たような身長体重の今の姫奈でも、ファスナーを半分上げるので精一杯なのだから。
サイズの合わないスカートを無理やり履いている。それをクラスの皆の前で指摘して、恥をかかせてやろうというのが千花の作戦だった。
千花達としめしめと顔を見合わせてから、姫奈も茉優のスカートに脚を通し、ウエストまで引き上げようとする。
――? あ、あれ? ファスナーが引っかかっちゃたのかな?
「あ、あれ? 茉優ちゃん?」
千花の戸惑った声ではっと顔を上げ、姫奈は驚きに目を見開く。
――え? な、なんで……っ?
そこには、ホックまできっちり留めて、スカートを完璧に着こなした茉優の姿があった。
「ま、茉優ちゃん、そのスカートきつくないの?」
焦った瑞希が思わず、半分自白とも取れるような質問をしてしまう。
「あ、やっぱりこれ、他の人のスカートだったんですか? 通りでおかしいと思ったんです」
まだ少し余裕のあるスカートのウエストを引っ張りながら、茉優は言った。
「サイズ合わないのにいつも無理やり履いてたんでしようね。ウエストの生地が伸び切って、緩々になっちゃってますよ、これ」
誰のスカートなんですか、これ?
そんな茉優の疑問に答えるように、千花と瑞希がこちらを振り返り、――そして見た。
パツパツのブラウスのボタンの隙間から贅肉を覗かせ、下腹でつっかえた茉優のスカートを必死に引き上げようとする姫奈の姿を。
茉優が美しくなった顔で、くすりと笑う。
「もしかして白崎さん、私のスカートが上がりもしないんですか?」
「っ、そんなわけないっ! あんたみたいなデブのスカートなんて……っ」
反論しながらファスナーが全開になったスカートをぐっ、ぐっ、と懸命に持ち上げようとする。
が、無情にもブラウスの内にボンレスハムのように詰め込まれた下腹がそれを阻み、傍から見れば、ただ贅肉を揺らす踊りをしているようにしか見えなかった。
「ひ、姫奈ちゃん……っ?」
「なに、その身体……」
「ち、違うのっ! これは、その……っ」
千花と瑞希が唖然とした顔つきで慄く。言うまでもなく演技なのだが、オーディエンスの存在が姫奈の羞恥心に拍車をかけていた。
「ふふ、どんなに頑張っても無理だと思いますよ? 白崎さんのスカートと違って、そっちは正真正銘の7号ですから」
7号? いや、そんなはずはない。158センチに57、8キロではさすがに7号はきついはず――。
もしかして体重を――?
「あ、もしかして体重を逆サバ読んだと思ってます? 違いますよ、私の今の体重は58キロです。白崎さんが増えたのが15キロなんですから簡単に計算できるじゃないですか」
あ、ごめんなさい。白崎さんは計算できること知りませんよね。と、くすくす笑う。
姫奈は頭が追いつかない。計算とはどういう意味か。どうして増えた体重がぴたりと当てられたのか。
「といっても、じつは私も7号だとまだホック留められないんですけどね。でも、あと10キロは落ちそうなので、小さめサイズで買い換えちゃいました。白崎さんもあと10キロは増えるはずなので、そろそろスカート買い換えた方が良いですよ」
不気味な笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。
目の前の相手がずっといじめてきた相手と同一人物とは思えない。怖い、怖い、怖い、怖い――。
「私が158センチで58キロ。白崎さんが160センチで、元の体重が45キロくらいだとすると今は60キロくらいですか? 不思議ですよね、似たような身長体重なのに、私のスカートが白崎さんには上がりもしないなんて」
「う、うっさい! 来ないでっ! 近づかないでっ!」
「やだ、いじめられっ子相手にそんなに怖がらなくても。足、震えちゃってますよ? お腹にたっぷりついたその脂肪もですけど」
茉優の放つ雰囲気に飲まれ、じりじりと後ずさる姫奈。
その時だった。
「いや、やめて、来ないで――きゃあっ!?」
上がりきらなかったスカートが脚に絡まり、ドスンと尻餅をついてしまう。
姫奈にとっての不幸は、その拍子にお腹をへこませていた力が緩み、パツパツに張り詰めていたブラウスのボタンまで衝撃で一斉に弾け飛んでしまったことだろう。
すっかり大きくなり、脂肪の重みでやや垂れ下がり気味のバストに、鏡餅のように分厚い脂肪が折り重なったお腹。
昨夜のお風呂の時のような――腹筋に力を入れ、かろうじてくびれを作っていた――紛い物のウエストではない。醜く肥え太った、ありのままのお腹があらわになった。
「うわ……」「やば……」
演技を忘れた千花と瑞希の、素でドン引きした声に、慌ててお腹をへこませるが、いかんせん体勢が悪い。
尻餅をついた体勢では、いくらお腹に力を入れても、みっともない二段腹を震わせることしかできなかった。
「うふふ、すっごいお腹。もう腹筋なんて1回もできないんじゃないですか? いくらスレンダーだった白崎さんでも、脂肪だけで15キロも太ればそうなりますよね。――えいっ」
「い……っ!?」
お腹を隠そうとする腕を捻り上げられ、まるで両手を縛るように壁に押し付けられる。
必死に抵抗するが、まったく振り解けない。似たような身長体重のはずなのに。
「力で敵うはずないじゃないですか。私、ほんの少し前まで70キロ以上の体重を支えていたんですよ? そこから脂肪っていう余分な重りがなくなれば、運動が苦手な私でもこのくらいはできますよ」
姫奈の締まりのないお腹を見下ろして、「でも」と続ける。
「白崎さんは大変そうですよね。だって元の40キロそこそこの体型相応の筋肉しかないのに、15キロも脂肪を押し付けられちゃったんですから」
シボウカイロにこんな副作用があるなんて、嬉しい誤算です。余裕の笑みで、独りごちる茉優。
シボウカイロ――? 意味が分からない。しかし、まるで姫奈が太ることを知っているような、否、自分が姫奈を太らせたかのような口ぶりだった。
「ここまで言えば頭の悪い白崎さんにも分かりますよね。似たような身長体重なのに全然体型が違う理由。私は今で20%ちょっとですけど、白崎さんのおうちの体重計って体脂肪率が測れるやつですか?」
痩せていた頃の機敏さもなければ、太っているなりの力の強さもない。頼みの美貌も、脂肪の内に埋もれてしまった。
今の自分は、ただ鈍重なだけの豚なのだと思い知らされ、姫奈の身体から抵抗する気力が失われていく。
そんな姫奈を、茉優はお座りのできた飼い犬を見るような目でくすりと笑って、
「さて、とりあえず追い詰めてみましたけど、どうしましょう? せっかくの仕返しのチャンスですし、私もおデブちゃん危機一髪をしてみたいですけど、今の白崎さんじゃホックの留まるスカートないですよね。もー、太りすぎですよ、めっ」
冗談めかして、つんと腹肉をつつく茉優。
そこで「あ、いっけない」と手を合わせる。
「せっかく良い格好になったんですから忘れないうちに写真を撮っておかないと。もう、私ったら手際が悪くて。いじめに慣れてないのがバレバレで恥ずかしいです」
「ひうっ、やめ、やめて……」
嫌がる姫奈に構うことなく、スマホを構えて、腹肉の溢れた下着姿をパシャパシャと写真に収めていく。最後にはもちろん「今後、余計なこと考えるのはやめてくださいね?」と釘を刺すのを忘れない。
「ふふ、とっても可愛い写真。せっかく昨日ライン教えてもらいましたし、愛しの早瀬くんにも見せてあげましょうか。昨日話した時も私の胸ばかり見てましたし、きっと喜びますよね。まあ一緒に映った可愛いお腹の方はどう思うのか分かりませんけど」
「いやっ! やめてっ、お願い……、お願い……だから」
「あらあら、だから力では敵わないって言ってるじゃないですか。うふふ、冗談です。こんな可愛い写真、誰かに見せるなんてもったいないですし、それにせっかく白崎さんが目の前にいるのに、そんなのつまらないですもんね」
さて、とスマホをポケットに仕舞いながら、茉優はすでに置いてけぼりにされている千花と瑞希の方を振り返る。
「お二人は先に行っててくれませんか? 腐ってもお友達。ここから先は見てるのも辛いと思いますよ?」
まさかあの茉優がここまでするとは思っていなかったのだろう。息を飲んで、棒きれのように立ち尽くしていた2人がはっとした顔になる。
茉優の迫力に気圧されたのか、2人は着替えもそこそこに荷物をかき集めて、転がるように部屋を出ていった。
それを見送って、再び姫奈の方を向き直ると、彼女は「ひうっ」と身体を縮こませた。
「やだ、もしかして乱暴すると思われてます? するわけないじゃないですか、あんなの方便ですよ。私はただ――姫奈ちゃんと二人きりになりたかっただけです」
すると、茉優は片手で姫奈の両手を押さえたまま、もう片方の手で器用にブラウスのボタンを外し始めた。スカートのホックも外し、ファスナーを下ろす。パサッ、とスカートが足下に落ちる。
そうして下着にブラウスを羽織っただけの、姫奈と同じ格好になると、茉優は「んしょっと」と姫奈の太ももの上に跨った。
「ごめんなさい、まだちょっと重いですけど、我慢してくださいね?」
そうして茉優が馬乗りのような姿勢になると、ちょうど2人は抱き合うような格好になった。
豊満に実った互いの乳房がむにむにと押し合う。サイズはほぼ同じだが、その質は似て非なるものだった。つんと張りのある茉優のそれと違い、ただ余分な脂肪でサイズアップしているだけの姫奈のバストはスライムのようにやわく、茉優の双丘に押し負け、たゆんと潰れてしまっていた。
「何をされてるのか分からないって顔ですね。まったくもう、お腹を見せ合うのなんて女子同士の軽いノリ、そう教えてくれたのは姫奈ちゃんの方なのに」
えいっ、という掛け声とともに、姫奈の腹肉に擦り付けるように、茉優は自らのお腹を突き出した。
「あは♪ 姫奈ちゃんのお腹、もちもちで気持ち良いです。たっぷりついた姫奈ちゃんのお肉が、私のお腹に吸い付いてきて。お腹だけならもう前の私と同じ――あっ、もーっ、せっかく姫奈ちゃんのお肉を楽しんでるのに、お腹へこませないでくださいよぉ」
くすくす、と嗜虐的な笑みを浮かべて、ぷるぷると羞恥に震える姫奈の耳元で茉優は囁く。
「本当に筋肉ないんですね。お腹に力を入れてるはずなのに、指がプニってお肉に埋まっちゃいます。こんな腹筋でいつまで保つでしょうか。ふふふ、もう震えてきちゃってますよ? もうちょっと、あと10秒頑張りましょう? いーち、にーい、さー――あっ、やだ、姫奈ちゃんのお肉がたぷんってお腹に当たるの癖になっちゃいそうです♪ もう一度お腹へこませてくれませんか?」
馬乗りになった今、たとえ反撃されても怖くない。
そう判断したのだろう。
茉優は姫奈の手の拘束を解いた。
「姫奈ちゃんも感じますか、私のお腹? 恥ずかしいです。まだぽよぽよしてるでしょう? うふふ、いいんですよ? 前みたいにからかっても。今ならまだ全然お肉も摘めちゃいますし。ほら」
姫奈の右手を取って、自らのお腹に誘導する茉優。
しかし、いくらお腹に当てても、その手が茉優の脂肪を摘むことはなかった。
啜り泣く声が聞こえて、はっと我に返る。
見下ろすと、手で顔を覆い隠して、しゃくり上げるように涙を流す姫奈の姿があった。まるで小さな子どものように、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返している。
弱々しく怯えるその姿に、かつてのいじめっ子の面影はどこにもない。
茉優は途端につまらなそうな顔になって「あんなに大好きだったいじめももうできませんか」と呟く。
「私ね、このひと月くらい、ずっと姫奈ちゃんのこと見てたんです。少しずつ、少しずつ、太っていくたびに、何かをできなくなっていく姫奈ちゃんのことを」
茉優の声には、どこか寂しそうな響きを含んでいた。
「まず胸を張ることをやめましたよね。姿勢が悪くなってきてるの気づいてますか? きっとお腹が出てきちゃったからですよね。胸を張ると、お腹のラインが目立っちゃうから。いつもの堂々とした姫奈ちゃんが見れなくなっちゃいました。
次にお友達さんから距離を取るようになりましたよね。物理的な意味の距離ですけど。お話しする時も前より一歩離れるようになりました。女同士のスキンシップが怖かったんですよね? 身体に触れられたら太ったことがバレるから。
体育なんて、もう全部が嫌でしたよね。皆と一緒に着替えるのも、薄着なのも、太った身体で運動するのも。授業中もわざと手を抜くようになりましたよね。本気でやってできなくなってることに気づくのが怖かったんでしょう? 最近の体育じゃ準備運動もサボり気味でしたもんね。
昨日、早瀬くんとデートに行ったのは意外でした。太ったってバレないように距離を取っていたことにも気づいてましたから。何か心境の変化でもあったんですか? ――でも、デートも上手くできなくなってましたね。山登り中のブレザー、暑かったでしょう。そこまでして早瀬くんに嫌われたくなかったですか? 好きな人のためならこんなに我慢強いんだっていうのも意外でしたし、それに――早瀬くんと二人きりの時の姫奈ちゃんは正直ちょっと可愛かったです。猫被ってるってだけじゃないですよね。本当に好きなんだなーっていうのが伝わってきました。性格悪いだけじゃなかったんですね。好きな人の前ではちゃんとできるのに、私にはなんで……っ、なんで、あんな……っ。
……ごめんなさい、話が逸れちゃいましたね。何が言いたかったんでしたっけ。ああ、そうそう、そうなんです。姫奈ちゃんって決して悪いだけの人じゃないんだなって話なんです。いやもちろん性格は悪いと思いますよ? 無自覚に傲慢で、相手の痛みにも鈍感で、もう最低です。……でも、好きな人や友達のことは無条件に信じてしまうような、そんな可愛いところもあるんだなって。要するに良い悪いじゃなくて、子どもなんですよね、甘やかされた。気が小さくて、癇癪を弱い者いじめで発散するところなんてそのまんま。正直がっかりですよ。復讐する方の身にもなってください」
まるで呪咀のように吐き捨てると、茉優は冷めた顔つきで立ち上がった。
身体を丸め、動けないでいる姫奈をよそに、自分の制服を拾い上げ、手早く身支度を整える。
「あなたには悪いだけの人であってほしかった」
今はもう、最悪な気分です――。
最後にそんな言葉を残して、茉優は部屋を後にする。
部屋に残されたのは、ただただ醜く肥え太っただけの鈍重な豚だった。
「あっ! 茉優、茉優ーっ!」
「あ、ことちゃん! 偶然だね」
駅へ向かって歩いていると、幼なじみで親友の春川ことりとばったり出会った。
彼女も行先は駅の方らしい。追いついてくるのを待って、一緒に歩き出す。
「いやー、今日もあっついねー」
「ねー。もう夏休みも終わるのに」
色々あった初夏も遠く過ぎ去り、夏休みも残すところ一週間となっていた。
「あれから身体は大丈夫?」
「ふふ、もー、ことちゃん。最近会うとそればっかり」
「だってぇ、一応呪いだし」
「心配してくれてありがとう。昨日の体重も問題なし! ずっと45キロのまんまだよ」
ぶいっ、と満面の笑みで返す。
姫奈に脂肪回路の呪いをかけてから、ちょうど今日で98日目。本来であれば、茉優から姫奈へ送った脂肪は、49日目を境にどんどん茉優の元へ還ってきているはず――が、丈の短いワンピースに包まれた茉優の肢体は、すらりとしたモデル体型そのものだった。唯一脂肪がついているのは、太っていた状態からほとんどそのまま残ったバストだけである。
「良かったー! うん、今日まで大丈夫ならもう安心だと思う」
「えー? もしかして、ことちゃん、じつは危ないかもって思ってたってこと? 親友の私にそんなことさせてたの?」
「っ、いや、大丈夫だと思ってたよ? 大丈夫だと思ってたけどぉ、呪いだし、一応万が一を考えてっていうか」
「ふふ、うそうそ♪ 分かってる。ことちゃんも――えいっ」
「ひょわあっ!?」
不意打ちでことりのお腹に手を伸ばす茉優。
「うんうん。ことちゃんも大丈夫そうだね♪」
「普通に口で訊いてくれない!?」
やったなー、と脇腹をくすぐってくることりに、茉優は「きゃー♪」とはしゃぐ。
修学旅行からおよそ2ヶ月半。痩せて自信がついたことで、引っ込み思案だった性格もすっかり明るくなっていた。
「まあ私はともかく、ことちゃんに何もなくて本当良かったよ。最初聞いた時はびっくりしたもん。まさか――ことちゃんまで脂肪回路で呪いをかけるなんて」
脂肪回路をかけた茉優の体重がどうして49日を過ぎてもそのままなのか。
その鍵を握っていたのが、この春川ことりである。
じつは茉優が姫奈に脂肪回路をかけた日、ことりも茉優に脂肪回路をかけていたのだ。
といっても、その時点ではその行動にあまり意味はない。ことりは元々痩せぎすの体型なので、茉優に送られた脂肪もほとんどなかっただろう。
それが意味を持つのは49日目。今度はことりが姫奈に対して、脂肪回路をかけた瞬間である。
それによって50日目〜98日目の脂肪の動きはどうなるか。
まず姫奈と茉優の間では、姫奈が送り手で茉優が受け手。つまり、そのままいけば茉優が太り続けることになる。
しかし、茉優とことりの間にも脂肪回路はつながっており、そちらでは茉優が送り手でことりが受け手。つまり姫奈から受け取った脂肪は、茉優を素通りしてことりが受けることになるというわけだ。
ここまで説明すれば、49日目にことりが姫奈に脂肪回路をかけた意図は分かるだろう。
回り回ってことりの元に来た脂肪を、姫奈の元へ還すルートを作るためである。
つまり50日目〜98日目の間は、姫奈から茉優、茉優からことり、ことりから姫奈、とただ脂肪を一周させているだけ。もちろん99日目からは送り手と受け手が入れ替わるが、その場合も姫奈からことり、ことりから茉優、茉優から姫奈、と反対回りに変わるだけだ。
3人の間により大きな回路を作ることによって、呪いの効果を打ち消したのである。
脂肪の送り手と受け手が入れ替わる49日という周期。そこに目をつけたことりの策だった。
「ワンチャン、私も茉優のここのお肉分けてもらえるかなーってね♪」
「きゃっ、もーっ、ことちゃんったら」
つん、と茉優の胸をつついて、にしし、と笑うことり。
茉優に対するいじめをまるで自分のことのように怒ってくれたうえ、呪いに手を染めるというリスクまで共に負ってくれた彼女には、もちろん感謝してもしきれない。
けれど――。
「白崎のことなら気にしちゃダメだよ」
茉優の表情が陰るのを先読みしたように、ことりは言った。
「もー、ことちゃんには隠し事できないね」
ぽっかりと浮かんだ入道雲を見上げながら、茉優はかつてクラスの中心にいた彼女に思いを馳せる。
「いじめは本当に辛かったし、許せないし、助けてくれたことちゃんにもすっごく感謝してる。……でもね、やっぱりちょっと可哀想なことしちゃったなって気持ちも少しだけあって。なにせ私が子どもの頃からモリモリご飯食べて蓄えた脂肪全部渡しちゃったし」
ばつの悪そうに頬を掻きながら、たはは、と笑う。
「せめて10キロくらいは自力で落としてからできれば良かったんだけど」
「でもほら、なんて言ったっけ、あのゲーム?」
「ああ、おデブちゃん危機一髪?」
「あんなことされながら体重落とすなんて無理でしょ。むしろあれ以上太らされる前にやったおかげで向こうの傷も最小限で済んだとも言えるんじゃない?」
「それはまあ……。いや、そもそもあのゲームされる前から太る一方だったんだけど」
「せっかく綺麗になったんだから頑張ってキープしなよ」
はあい、と頼りない声で答えると、くすくすと笑みを交わす。
そして真面目な話に戻って、
「それで? その後、白崎は?」
「夏休み前の話だけど、段々今の体重に筋肉が追いついてきて、運動はある程度できるようになったみたい」
逆に茉優も太っていた頃の筋肉はすっかり落ちてしまって、元の運動音痴娘に逆戻りだ。
「ダイエットも頑張ってるみたいだけど……」
「……ああ、それはお気の毒」
脂肪回路によってつけられた脂肪は、いくらカロリーを消費しようが落ちない。その事実をことりから聞いたのも、もう3ヶ月以上前のことだ。その点については、さすが呪いといったところだろう。
つまり姫奈がずっと磨き上げてきた美貌は、半永久的に失われたということである。
それは同時に、彼女のトップカーストからの転落も意味していた。
衣替えにより、ブレザーという体型を隠す最後の砦を剥ぎ取られたことで、彼女の激太りは誰もが知るところとなった。もっともその時に驚いていたのは鈍感な男子くらいで、女子のほとんどはとっくに気づいていたが。
結果、修学旅行の後、しばらくして翔にも振られてしまい、彼女は本当の意味で独りになった。もはや彼女を慕う者は誰もいない。ただ教室の隅で脂肪を晒しているだけのオドオドしたデブ、それが今の姫奈だった。
「そういえばいじめてきた残りの2人はどうなの? あの後、何か言ってこなかった?」
「全然。もう大人しいもんだよ」
結局、彼女達には何の覚悟もなかったのだろう。姫奈は子どもだったが、彼女達はそれ以上に小者だった。
修学旅行2日目の朝。あの時の茉優の迫力に今も怯えているのか、茉優の姿を見つけると、こそこそと隠れるようになった。今頃、軽い気持ちでいじめに加担したことを後悔しているに違いない。姫奈ほど孤立しているわけではないが、彼女達ももはやクラスの中心とはいえなかった。
「いやー、でも私も見てみたかったなー。茉優のブチ切れたとこ」
「っ、やめてよー。あの時はもう本当に頭が真っ白になって、もう思い出すのも怖いんだからぁ」
ケラケラとからかってくることりに、「もーっ」と右手を振り上げる真似をする。
自分を元気付けようとおどける親友の優しさが身に染みる。
「まあ、あれだよ。いじめもなくなって、茉優も綺麗になって、A子さんに呪いを打ち消す方法も教えられて、これで良かったんだよ。一件落着」
「うん……。そう、だよね、これで良かったんだよね」
言葉とは裏腹に、やはり茉優の表情は優れない。
そんな茉優を、ことりは「もー、茉優は優しすぎ」と笑って、
「人を呪わば穴二つ。こんな優しい茉優に酷いことしたんだから、私達が何もしなくても、あいつらには災いが降りかかってたの! この世紀の呪いマスター、ことり様が言うんだから間違いない!」
「ふふ、なにそれ」
「いや、呪いを1つ攻略したわけだし、そろそろそう名乗ってもいいかなーって」
もう、と茉優は呆れ笑いを浮かべて、
「ありがとう。ことちゃんに会って元気出た」
よし、とことりは満足げに頷くと、空気を変えるようにパンと手を合わせた。
「てかさ、この後ひま? 私、駅前の薬局におつかい行くだけなんだけど、その後どっか遊び行かない?」
「あ、ごめーん。じつはこれから約束あって」
「お、なんだ? 例のサッカー部エースのイケメン彼氏か。喧嘩か?」
「ちーがーいーまーすっ。今日はお友達と遊ぶだけだもん」
「え、ついに高校にも友達できたの? やったじゃん」
「まだこれからちょっとずつ仲良くなれたらって感じだけどねー」
そのまま駅の改札前まで一緒に行き、「頑張れよー」と彼女に見送られながら、茉優は約束の場所へ向かう。
約束の場所は、高校の最寄り駅。南口前にあるカラオケ店だった。
「私ね、今なら少しだけ分かるんです。姫奈ちゃんの気持ち」
カラオケ店の一室。
タッチパネルを操作し、軽食の注文をしながら茉優は続ける。
「外見を磨いて、それを維持するのってすっごく大変なこと。姫奈ちゃんくらい綺麗で頑張ってる人からしたら、前の私みたいな――何の努力もせず、ただぶくぶく太った人なんて、視界に入るだけでも鬱陶しかっただろうなって」
とんこつとしょうゆだったら、どっちが好きかな、と一瞬悩んで、両方とも注文カゴに入れてしまう。
「私もちょっとは成長したってことなんですかね? 最近、姫奈ちゃんのことを見直すことが多いんです。嘘じゃないですよ? やっぱり私にはまだ嫌な人ってイメージもありますけど、でも翔くんと話してるとね、よく感じるんです。姫奈ちゃん、翔くんの前では本当に可愛い彼女だったんだなーって」
操作ミスで、焼きそばとパスタも注文カゴに入れてしまって、あ、しまった、と口を押さえる茉優。
「……あ、ごめんなさい。翔くんって呼び方は不快ですか? でも、許してくださいね? だって今は私の恋人――なんですから」
炭水化物ばかりに偏らないように、スイーツのページを開く。
パンケーキは外せないし、パフェも色んな種類のものを頼んでおいた方がいいだろう。食べ比べした方が飽きないだろうし。
「翔くんの名誉のために1つだけ誤解を解いておきたいんですけど、翔くんが姫奈ちゃんを振ったの、べつに太ったからじゃないですからね? ふふ、姫奈ちゃんにも見せてあげたかったです。姫奈ちゃんが酷いいじめをしていたと知った時の翔くんの驚いた顔」
ピザか……。姫奈自身は、じつはあまり好きではない。けれど、自分が食べるわけでもなし、せっかくだから全種類注文しておこう。
「……ごめんなさい、ショックでしたか? もしかして姫奈ちゃんが今もダイエット頑張ってるのって、元の体型に戻ればまた翔くんと付き合えるかも――なんて思ってたからだったりします? ……そういうところ本当に可愛いですよね、素直に好きです」
彼女のためにも揚げ物は必須だろう。甘いものと塩辛いもののコンボは無限に食べられる最強の組み合わせだ。きっと喜ぶに決まってる。
「でもそもそもダイエット自体無理があると思いますよ? いえ、姫奈ちゃんが努力家なのは知ってますけど、脂肪回路でついた脂肪は落ちないようになっててですね」
注文ボタンを押して、タッチパネル式のリモコンをテーブルの上に置いた。注文を見たキッチンは、今頃てんてこ舞いだろう。
「じつはことちゃんの方法って1つだけ落とし穴があるんですよね。脂肪回路の効果を無効にしているんじゃなくて、あくまで脂肪は循環しているってこと。脂肪回路でついた脂肪は落ちないってことと合わせると、すごく大きな違いですよ、これ。だって姫奈ちゃんが自前でつけた脂肪も、私達を経由して姫奈ちゃんに戻ってきたら脂肪回路でついた脂肪ってことになっちゃうんですから」
席を立ち上がって、彼女の隣に腰を下ろす。
「ああ、ごめんなさい、こんなこと言われても分かんないですよね。要するに姫奈ちゃんはもう――一度ついた脂肪は二度と落とせない体質、つまり太る一方ってことです。むしろ合点がいったんじゃないですか? 最近太り方すごいですもんね。ぶくぶくぶくぶく、ついに100キロ。夏休みが明けたら、きっと皆驚いちゃいますね」
シャツを捲り上げて、スカートのウエストを確認――しようとしたが、スカートから溢れた脂肪が覆い被さって見えなかった。贅肉を持ち上げて、なんとか確かめる。えらい。このサイズでも、言いつけ通りにホックで留めるタイプのスカートを履いてきている。
「あら、思ったより軽食が届くの早いですね。作り置きでしょうか。――ああ、いえいえ、なんでもないです。2人で食べるのでテーブルの上に置いてってください。この子よく食べるんです。………………うわっ、ちょっと頼みすぎましたかね。やだ、もう姫奈ちゃんったら、まだ食べ始めてもないのに弱音吐くのは早いですよ?」
テーブルの上に所狭しと並べられた食べ物、食べ物、食べ物。そんな光景さえ、茉優はもう異様とは思えなくなっていた。
名残惜しむように、姫奈の腹の肉に顔を埋める。これだけのものを食べれば、きっとまた体重が増えるだろう。そしたらもう二度と落ちない。今日の体重の姫奈と会えるのは今日だけなのだ。
「そういえば今日ことちゃんがね、こんなことを言ったんです。姫奈ちゃんがこんな目に遭ったのは、私をいじめたからだって。人を呪わば穴二つだって。どう思います、姫奈ちゃん? こんなことしてたら、いつか私も酷い目に遭っちゃいますかね。それとも――、うふふ、今度は姫奈ちゃんが復讐してくれますか?」
人を呪わば穴二つ。
他人を陥れる者には、必ず同じような不幸が訪れる。
「そんな言葉は嘘っぱちだって、私が証明してあげますね♪」