17 "けいえいしゃ" の おもい
走る。走る。走る。
夜闇の中を1人、その赤の長髪を振り乱して。
周囲に自らの存在が露見するかもしれないなどという心配は、今は頭の隅に押しやって。
「はぁ、っ、はぁ……っ、あ、はぁっ」
痛む脇腹を無視して、ただ走る。
商会の護衛は壊滅的だ。この時間には、馬車を動かす御者も居ない。
御者の心得くらい会得しておくのだった、少しは身体を鍛えておくのだった、と思いはすれど、どうせ時間があったら結局"経営者"としての仕事に全てを注ぐだろう。
詮無き事だと吐き捨てて、彼女はひたすら走り続けた。
目的地はクリンブルーム邸。
そこに行けば、あのような化け物相手でもどうにか出来る男が居る。
そして、この状況からでも一手を打つことが出来る財務卿も居る。
ぐ、と歯を噛みしめた。
まただ。また自分は1人では何も出来ない。
そういう"職業"だと割り切っていても、いつも腸が煮えくり返る。
幾ら信用していると口で言って。幾ら金を手渡して繋ぎ留めても。
肝心なところで役に立たず。
せめて邪魔にならないことでしか、鉄火場に背を向けることでしか、人の助けにはなれない。
それはそもそも助けというのか。貢献と呼べるのか。
いない方がマシ。ただ、それだけの話だ。
そんな人間が、信用などされるものか。
だから、金なのだ。金でしか、人と繋がらない。否、繋がれない。
孤高の姉とは違う。
彼女のそれは、孤高ではなく、ただの孤独。
どんなに頑張っても信用などされないから、最初から期待しないだけ。
走る。走る。走る。
――無力を噛みしめるのは何度目だろうか。
忘れはしない。忘れることは出来ない。
初めて自らの無力を自覚したのは、まだ齢が3つの頃。
その存在を不貞の証として追い出された自分と母親は、首に輪を掛けられて放逐された。
思えばその日、初めて名前が変わった。新しい名前は、23番。
金で買われた先で、眼前でまわされ惨殺された母親を、彼女はただ見つめていた。
悲鳴を上げ、子を守るために死んでいく親を、ただ見ていることしか出来なかった。
――無力を噛みしめるのは何度目だろうか。
美姫たる母を好きにした彼らにとって、3つのガキなど邪魔なだけ。
捨てられたゴミ捨て場のような街で、今日を生きるためだけに、数年を足掻いていた。
"経営者"というのがどんな才能か、細かくは知らなかった。
母から聞いた、ものを売ったり買ったりするのが得意。という言葉だけを頼りに、その辺の花を売ってみた。
『おい、ガキがこんなところで何やってんだ』
『邪魔だし、臭うんだよ』
『死ねクソガキ』
いたい……。
やめてよ。
どうして……。
誰か。
誰か助けて。
頭を抱え込み蹲る童女を、寄ってたかって蹴り飛ばすは単なる遊戯の延長線。
5つと少し。その程度の歳の子供が、暴力に対して無力であるのは当然だ。だが、その時の彼女にとってはそれが世界だ。
彼らの腹いせ、気分転換の道具とばかりに悪意に晒され、打ち捨てられた彼女は雑巾同然に路上に転がっている毎日だった。
――誰も助けてはくれなかった。
ああ、力が。生き足掻くには力が必要なんだ。
馬鹿正直にものを売り買いしたって、奪われたら終わりなんだ。
――彼女の"経営者"としての才の芽吹きは、ここから始まった。
『ねえ。あんた、子供が好きなんでしょ』
接触したのは、その辺りで危険視されていた少年。
幼子に目がないとの噂を頼りに、ぎらぎらと情欲の炎を灯す瞳に真っ向から向かい合った。
『あたしのこと好きにしていいから、言うこと聞いてよ』
自らの全てを対価に、彼女は力を手に入れた。
初めて、口角が愉悦に歪んだ。
その日からしばらくして。このゴミ箱を掌握する危険な女――赤髪、と呼ばれ始めた。それが思えば、二回目の改名だった。
――無力を噛みしめるのは何度目だろうか。
詐欺、シノギ、カツアゲに殺人。なんでもやった。
自分が生きるために、他の人間のことなんて二の次でしかない。
彼女は、"経営者"という職業だけを頼りにこの街を掌握し続けた。
裏切りに逃走、逆恨みに侮蔑、どんな悪意も潰し返した。
結局のところ人間なんて、己の欲にしか目がいかない餓鬼同然なのだとよく学んだ。だから金だった。金さえあれば、上手くやれる。
"経営者"なんてごろごろ居た。そいつら全員を潰さないと、自分が生き残れないこともよく知っていた。
だから、どんなに罵られようと、徹底的にやった。
やりすぎた。
どんなに裏社会でやり合えたとて、表の権力が現れる事態になってしまえば、相応の暴力装置が待ち構えていた。
生きる為に必死になって、ただそれだけで生きてきた。
軍による"掃除"。駆除の対象になった彼女はそれでも、なりふり構わず逃げ出して命からがら生き延びた。
結局その時も。より強い力の前では、為す術もなく逃げることしか出来なかった。
――無力を噛みしめるのは何度目だろうか。
オルバ商会の会長に拾われた時、彼女は放逐された時同然の有り様だった。
何の見返りも求めず振る舞われた食べ物を、今でも口の中に残っているくらい強く憶えている。
名前が無いことを伝えたら、この前死んだ捨て猫と同じベアトリクスという名前を付けられた。
オルバ商会を大きくするのが夢だと言っていた。
ならその願いを叶えてやろう。
本気になった彼女を止められるような商会は居なかった。
だが。それは彼女が凄いだけで、他の幹部から今の会長が狙われる絶好の口実になってしまっていた。
庇い立てることも出来ず、気づけば政争に負けて、会長は暗殺された。
――無力を噛みしめるのは何度目だろうか。
『――あたしの首じゃん。一番安く済むのって』
――無力を噛みしめるのは何度目だろうか。
思ったよりも、多かった。
なんてことはない。何度折られたって立ち上がるだけ。
生き足掻くだけ。死んでなんかやらない。自分が死ぬことを望む多くの人間を、喜ばせてなどやるものか。
どんなにつらくても、どんなに悔しくても、絶対に死なない。
だから。
『好きにしていいですよ』
『……死ぬかもしれないのに、どうされようが構わないってわけ?』
『ま、そんなに生きたい理由も無いですしっ』
『……ああ、そう。じゃあ、売り飛ばすわ』
生きたい理由もない"魔女"など、理解できようはずもなかった。
『コローナ売ったこと、後悔してないのか?』
『ああなるほど? あんた、あたしに謝って欲しいってわけ?』
――あたしは、生きる。どんなに無力を感じようと。あらゆる全てを利用してでも。
『あたしは、絶対に謝ったりしないわ。あたしは、あの"魔女"が気に入らない。それに悪いことしたとも思ってない。売れるものを売るのがあたしの仕事』
それが、唯一"経営者"に許された生きる道だから。
――クリンブルーム邸。
勢いよく開かれたホールの扉に、多くの人間が注目した。
立っていたのは、フードを被った小柄な女。
それが誰かといち早く気が付いたのはフウタと、そしてルリの2人だった。
びく、と反応したルリがフウタの後ろに隠れるのを気にも留めず、彼女は駆ける。
そこでようやくリヒターも気が付いて、慌てて同じようにフウタのところへ駆け寄った。
「おい、何故貴様がここに居る」
リヒターとフウタと、そしてその少女で出来た輪を、他の誰もが遠巻きに見つめる中。
リヒターの色んな意味合いを込めた言葉に、息も絶え絶えながら彼女は答える。
「20万程度で、買収、出来るなんて、良い、警備ね」
「ぐ……!?」
こんな小娘が何を出来るはずもない、という緊張のゆるみもあったのだろうが、それにしたってリヒターの頭痛は増えるばかり。
ひょっこりとフウタの後ろに現れたコローナを露骨に無視したパスタは、フウタを見据えて言う。
「本部が、襲われたわ」
「っ!? ウィンドさんは!?」
「プリムが応戦してるけど1人。標的はもちろんアイツよ」
「なっ、このままじゃ――」
「死ぬかもね」
こともなげに告げられた台詞にフウタは反応しようとして、やめた。
もしもどうでも良いと思っているなら、彼女がこんなに必死でここまでやってくるはずもない。呼吸を乱して走るなど、彼女らしくないにも程がある。
フウタにそう告げれば、ウィンドを助けてくれるという打算はあるだろう。
けれどその程度、打算と呼べるかどうかも疑わしい。
それに。
「だから――」
そう、真っ直ぐに彼女が告げようとしたその時だった。
震える唇は悲鳴の形に変化して、喉を傷めつけるような劈く叫びがホールに響く。
「いやあああああああああああああああああああああああああ!!!」
父が死ぬかもしれないと聞かされたルリの声だと、フウタにはすぐわかった。同時、ひし、とフウタの足にしがみついてしまう彼女。
「いや、いや、いやあああ……!!」
しまった、とフウタは表情を険しくする。
フウタの腰元に顔を埋め、半狂乱に泣き喚く彼女のことを、邪魔だと引き剥がすようなことは、この場の誰にも出来ない。
かといって、聞いた話ではウィンドの状況は火急だ。
かつて、迷うなとプリムは言った。
けれどこれは、幼少期に受けた心の傷を抉られたままの彼女を放置するなど、とてもではないが出来ない。
コローナがルリを引き取ろうと手を伸ばすも、それすら拒絶する勢いだ。難しい顔をしたリヒターと、周囲で右往左往するしかない貴族たち。
どうする、とフウタは唇をかみしめた。
プリムが応戦しているから安心だなどと言える状況なら、そもそも彼女はここに来ない。
状況を鑑み、フウタが必要だと判断したからこそなのだ。
だが、ルリをこのままにしておくわけには――。
「立ちなさい」
瞬間。彼女が、ルリの胸倉を掴み上げた。
「な、おいベアト――」
黙れ、とばかりに彼女――ベアトリクスはフウタを片手で制した。
ぐ、と持ち上げたメイド服の胸元。か細いながら力んで赤くなった彼女の手。
辛そうに苦しそうにぐしゃぐしゃにしたルリの泣き顔を真正面に近づけて、ベアトリクスは告げる。
「立ちなさい。あんたにぐずってる余裕なんか無いのよ」
ぼろぼろと涙を流すルリに容赦なく刺す言葉の刃。
6歳の子供相手にすることではない。ましてやトラウマを抱えた童女に対して何を。
「ベアトリクス、この子はまだ――」
「6歳だから何? 6歳だから甘く見て貰えるほど、人生は優しくない」
切り捨てるようにフウタの言葉を遮断する彼女。
姉を想起させるようなその語気の強さには、不思議な説得力――重みがあった。
まるで、6歳の彼女自身が、苦境に晒されていたような実感。
「それは」
思わず口を噤むフウタを、しかしベアトリクスは一瞥すらしなかった。
「立ちなさい。大事なものは、失ってからでは取返しが付かない。でも、あんたの父親はまだ生きてるでしょ。なら、あんたに出来ることは何なのよ!」
邪魔をしないことか?
そんな感情を押し殺すような選択を、6歳の子供にさせようというのか。
周囲の人間みながそう思う中で。
フウタは気付いた。
鼻をすすり、苦痛に口角を下げて、今にもいっぱいいっぱいで倒れそうになりながら。それでもルリの涙が止まっていることに。
――恐怖からでは、あるのだろう。
ベアトリクスのことを嫌っていると。怖くて厳しくて嫌な人だと。ルリはそう言っていた。
なればそんな彼女からの情け容赦無い一言は辛いはずだ。痛いはずだ。
けれど。それでも。
ルリは、ベアトリクスから目をそらさずにいた。
「為すべきことをしなさい。いつ1人になるか分からないのよ。それが今日かもしれない。なら最善を尽くせ!」
声が、荒げられる。
どうしてだろう。涙が止まったルリとは裏腹に、次第にあのベアトリクスが感情的になっているように見えるのは。
感情など、無駄なものだと吐き捨てた彼女が、まるで。
彼女にとっては、ウィンドのおまけに過ぎないルリに入れ込んでいるように見えるのは。
「ただ助けてくれなんて嘆く弱者に手を差し伸べるような人間は居ない! 餌にされたくなければ立ちなさい!!」
まるで、引きつる喉から無理やり引きずり出したような声が響く。
ば、と掴み上げていたその手を離したベアトリクスは、睨むようにルリを見据えた。
急に手を放されたルリがよろめく。
真正面からの痛罵。乗せられた強い感情。
それを一身に受けた彼女を支えようとするフウタ――けれど。
ルリは、1人で、立っていた。
正面から、ベアトリクスと向き合っていた。
「あんたのするべきことをしなさい。自分の望みの為に出来ることをしなさい」
滔々と告げる。心を押し殺した冷たい声色。
それでも届いてしまう熱は、もはやルリだけが感じたものではない。
何の熱だ。
6歳の童女に。
失いたくないもののある童女に。
親を、殺されそうになっている童女に。
ベアトリクスは、何を見ている。
その答えは、ただ滔々と告げられる。
「あんたは自分1人じゃ何も出来ない」
――あたしは自分1人じゃ何も出来ない。
「出来るのは人を利用することだけ。競争相手も多い。珍しい"職業"でもない。生き残るためには、確かな実力と才能――人を動かすための知識が要る」
皇族の家に生まれ、形は違えど家を出て。
失いたくない親が居た。何も出来なかった幼少期。
このまま1人では生きていけない――定められた、"職業"。
「あんたは――"経営者"なんだから」
ルリの両肩に乗せられた手。
真っ直ぐ見つめる瞳には、互いに互いが映り込む。
「心配しなくていいわ」
ベアトリクスの声色は変わらない。
けれどもう、ルリの顔から、悲痛の感情は無くなっていた。
冷たく突き放すような言い方であったとしても。
ベアトリクスの言葉から、想いだけは届いていた。
ただ父の死に怯えるだけの子供はもう居ない。
「少なくとも、6歳の頃のあたしより、あんたはちゃんと学んでる」
「……うん」
「だから」
――無力を噛みしめることは無い。己に出来ることをしろ。
ぐす、と鼻をすすって。
ルリは真っ直ぐフウタを見上げた。
「フウ兄」
「……なんだい?」
「あのね」
『――なんか欲しいものある? 命と引き換えにでも欲しいもの』
『そうだなあ。ルリちゃんがいっぱい笑ってくれたら、俺は幸せだ』
『分かった。ルリがいっぱい笑うことが、フウ兄の幸せ!』
『なにを出せば助けてくれる?』
『――悪いが』
『欲しいものは何だってあげる。あんたの力は相当でしょ? 貴方の一番欲しいものを言いなさい。それと引き換えに、あたしに付きなさい』
報酬は金のみに非ず。自分が欲しいもののためには、動かす相手が最大限欲しいものをくれてやりなさい。
教本にも刻まれた、"経営者"としての彼女の教え。
それは確かに、ルリの中に息づいていた。
「いっぱいね。いっぱい笑ってあげるから」
「うん」
ぐずぐずと、未だに表情をうまく操ることは出来ないけれど。
頷くフウタに、精一杯の笑顔を向けて。
「――パパを、助けて」
「ああ、任せろ」
ぽん、と手を頭にのせて。
ああ、彼女は乗り越えたのだと。フウタは眦を下げた。
そんな彼の心情を証明するかのように、ルリは自ら、フウタの傍をそっと離れた。
1人でも、立てるのだと。
その様子を、ベアトリクスは鼻で笑う。
「ま、いいわ。幼さは情に訴える強い武器よ」
「お前はもう少し素直に誉めてやれないのかよ」
やれやれ、と首を振るフウタは、そのまま歩き出す。
その背にかかる声。
「待て、フウタ」
「リヒターさん?」
「ミオンに馬を手配させている。幾分かそちらの方が早い」
「いや、馬車に乗るくらいなら――」
走った方が早い、と言いかけたフウタに、背後からかかる声。
「ご安心を。馬車ではなく、馬です。"指揮官"の名にかけて、貴方を最速で目的地までご案内しましょう」
「ミオンさん」
「ということだ。行ってこい、フウタ」
「あ、ああ。ありがとう」
「なに、この件はこの女への貸しにする」
「ちょっ……」
不快そうに表情を歪めるベアトリクスに、リヒターは楽し気だ。
その光景に、フウタは眦を下げる。
「……ありがとな、ベアトリクス」
「パスタって呼びなさいよ。あんたが付けたんでしょ」
「そうだった。でも……ルリちゃんのこと」
「ああ……」
面倒臭そうに頬の裏を舌で突きながら、ベアトリクス――パスタは明後日の方角へ視線を投げた。
別に、と吐き捨てて。それから、フウタに告げる。
「あんたは、助けてって言われたら、助けるかもしれないけど。それはあんたに余裕があって、こいつと偶然知り合いだからよ。そのどちらの条件も満たさない相手だらけのところで、何れこいつは生きていかなきゃならない」
「ああ」
だから、と彼女は続けた。
「"職業"ってのはね、何の力もない子供に、たった1つだけ許された……世界が保障してくれる強みなのよ」
自身が、それだけを頼りに生きて来られたからこそ。
その一言に、フウタの表情が歪む。
それをパスタは、"無職"をなじられたからだと思い、愉快気に口角を上げた。
だが、違う。違うのだ。
「――フウタ様っ」
と、声。
振り向けば、コローナがルリを抱いていつもの笑顔で見つめていた。
「ルリちゃんのことは任せておけー? フウタ様は親父担当なっ!」
「親父担当ってなんかやだな……」
その一言だけで、フウタの表情は緩む。
がんばれー、と元気を取り戻したルリが拳を突き上げた。
「フウタ様なら大丈夫ですよっ。必ず、親父持って帰ってくるからな!」
「おやじもってかえってくるー!」
「こらこら、要らん知恵を」
ルリはもう大丈夫そうだ。
それを、しっかりと見せつけてくれたらしい。
ありがとう、と目線だけで礼を言えば、満面の笑みにぺろりんっを添えて受け答え。
「では参りましょうか、フウタさん」
「お願いします」
一息吐いて、駆ける。
玄関には既に一頭の駿馬。
「先ほど」
ミオンは手綱を握り、呟くように問いかけた。
「神妙な顔をされておりましたが、大丈夫ですか?」
「ああいえ」
ミオンには、関係のない話だ。
『"職業"ってのはね、何の力もない子供に、たった1つだけ許された……世界が保障してくれる強みなのよ』
あの似た者姉妹は。
『人間は、"職業"の奴隷ではありません』
致命的なところで、相いれないのだと。
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