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24 フウタ は しょけいのやいば と うちあった!


 この場所で初めて目が合った時、彼がやろうとしていることには気が付いた。


 なりふり構わず助けてくれるつもりだと、その瞳の意志が言っていた。



 あの時どうして、「やめて」と口に出せなかったのか。



 その理由は、まだ分からない。















「何をしている! ――おのれ、あの闘剣士は何者なのだ! 早く殺せ!」


 ガーランドの口角泡を飛ばしながらの訴えに、騎士たちは懸命に応えようと鎗を振るう。

 しかしその全てがたった1人の青年によって、打ち払われているのが現状だった。


 その上、増援を寄越そうにも演舞場入り口付近に詰めさせていた騎士たちは、鉄鐗を両手に握った壮年の男が次から次へと再起不能に痛めつけていく。


 その一撃はまるで昏倒させることよりも恐怖を植え付けることを優先しているようにさえ見えて、騎士たちの腰が引けてしまう。


 加えて中央付近では、先ほどまでの流麗な舞踏に加えていつの間にか神龍騎士団の鎗技すら身に着けてしまった東国の少女闘剣士が暴れている。


 こんな状況になっているというのに、観客はあの少女から目を離せない始末だ。


 明らかに、王家の用意した儀式をふいにしようとする動きにも拘わらず、王都議員どころか貴族や衛兵に至るまで、何故動こうとしない。


 ここに来て、ようやく何かを察するガーランド。


 王女殿下は何も出来ず、立ち上がることもままならない。


 国王陛下は慌てて衛兵に何かを伝えているようだが、それでも目立った動きは見えないまま。


 既にこの場は、何者かに掌握されている?


 誰に?


 そんなもの決まっている。


 "奸雄"に意識を持っていかれすぎたのだ。


 "魔女"を売り渡し、あの闘剣士を送り込み、この場を支配してみせているのは――


「あの商会の小娘がァ!!」


 ――あたしじゃないわよ!!!!!!!!!!!! という怒鳴り声は当然ここまで届かない。


 この国では、貴族同様に王都議員が力を持っている。王都議員と貴族が異なるのは権力基盤。即ち、家柄か権力かの違いだけだ。


 オルバ商会が持つ王都での影響力は計り知れず、その情報だけを持っているガーランドにとっては――この状況を演出し、貴族たちを沈黙させているのがオルバ商会だと思ってしまっても仕方がないのだ。


 ――物事を見定める時は、1つの決定的証拠よりも、多くの状況証拠が物を言う。


 仕組まれた痕跡、黒幕のシルエットは、そうしたところに浮彫になるのだ。


 その結果ガーランドの瞳にくっきりと見えてきたのは、ほかならぬ赤髪の商工組合会長であったわけだが。


 "魔女"を使ったマッチポンプ。


 オルバ商会はきっと、法国と王国との同盟を嫌ったのだ。


 それでわざわざ"魔女"という餌を使い、この状況を演出してみせた。


 やってくれる、と歯噛みするガーランド。


 法国を虚仮にして、敵に回すのも構わないと来たものだ。


 法国にとって"魔女"がどういう存在か分かって売りつけてきて、


 このタイミングで御前試合を吹っかけることで王女を動かし、


 根回しを済ませたのち、闘剣士を送り込んで"魔女"を回収する。


 その後はどうせ、別のところに売るなり何なりするのだろう。



「――ふざけるな。"魔女"を商品か何かと勘違いしている。あれは災いそのものなのだぞ」



 あの女は凄腕の"経営者"であった。

 なるほど、この状況を事業と見定めれば、彼女の手腕が完璧であることは認めざるを得ない。ガーランドは"神官"であるが故に、"職業"による説得力を重視した。


 神を冒涜する女を、法国神龍騎士団長として、ガーランドは許すわけにはいかなかった。



 だから。儀式が台無しにされた今、彼に出来ることは1つだった。


 "魔女"を奴らに回収されてはならない。



「神よ、贄を粗略に扱う私をお許しください」



 そっと目を閉じ、呟く。


 そして。





「縄を切れ!! ギロチンを落とせ!! ――"魔女"を、狩れぇ!!」






 その命令が下った瞬間、フウタは弾かれたように顔を上げた。


 視界に飛び込んでくるのは、処刑台周辺を守っていた騎士たち。


「ぐぁ」

「ぎゃっ」


 フウタの槍術に容赦は無かった。兜と鎧の薄い隙間を、プリムの模倣である常山十字:流星一矢が神速で貫く。


 絶命する2人を気にも留めず、その屍の背を蹴って視界全体を意識に叩き込む。


 前方、処刑台。大切な人の表情は――今は関係ない。


 繋がれたロープ、張っている。あれが弛んだ瞬間、彼女の命はない。


 縄の行き先は右方向。移動式の処刑台、その右端に括りつけられた銛のようなものに縛り付けられている。


 解くのは時間がかかる。だが儀式用の斧が傍にある。


 騎士の数は1人。


 斧を取り上げるか? 否、手には鎗を持っている。この状況でも儀式に則って斧を振るうのか――それとも、そんな悠長なことをする必要はないと鎗を振るうのか。


 駆ける一瞬で思考するも――フウタの頭は、ライラックのようには出来ていない。


 どうする。


 視界に入っていた大切な人の表情が、困ったように変化して。


「やめて」と動いたような気がした。








「迷うな!!!!!!!!!!!!!!!」








 叫ぶ声に、フウタは振り向かずとも背後の少女の意志に気付いた。


『どっちか選べていれば、お兄ちゃんは――目の前で食われずに済んだんだ』


『誰かの命の危機にあって、"動かない"という選択だけは、私は二度としないと決めている』


『――今のキミを激励する自分語りであったことを望むよ』



 迷うな。動け。


 この選択が果たして正しいのかどうかは分からない。

 けれど、その一瞬でフウタは選んだ。


 自らが右手に握りしめていた鎗を、騎士の肘目掛けて投げつける。


 ――決して、誰かの投擲技術を模倣したわけではなかった。


 彼は狩猟に長けた"職業"でもなければ、精密射撃を得手とする"職業"でもない、ただの無職だ。


 それでも。積み上げた鍛錬と、たった一度を間違えない意志だけで、男の肘の関節を貫いた。



「がああああああああああ!!!」



 叫ぶ騎士を取り押さえるほどの時間は無い。


 だが、たった1歩、彼女に近づくことが出来た。一瞬の時間稼ぎ。



「おのれ異端者が!!」



 宗教に心の拠り所を見出した人間は、強い。

 人間は誰しも心の拠り所を支えに生きている。

 その拠り所が多く、そしてそれぞれに浅く支えて貰っている人間は心の病になりにくく、その反面爆発的な意志力を持たないが。


 たった1つの拠り所を持つ人間は、こういう時にその為なら何だって出来る強さを持つ。


 貫かれた腕を全く意に介さず、痛みに手放してしまった鎗も気にせず、左手で斧を持ち上げると、勢いよく、ギロチンを支える縄を断ち切った。




「おおおおおおおおおおおおあああああああああああああああ!!!」




 フウタは、その一瞬で間に合うことに賭けたのだ。



 1歩、2歩、3歩。



 たとえば俺が、落とされる処刑の刃と打ち合ったとして。










 ざしゅ、と。鈍い音とともに。



 彼女の頬に、赤く生温かい液体が降りかかった。







「――なん、で?」





 ぽたり、ぽたり。無理やり顔を上げれば、涙のように彼女のこめかみから滴る血。


 それが誰のものか、分からない彼女ではない。



「ごめん、汚しちゃったか……」



 ふう、と大きく息を吐く――フウタは。



 鎗を投げた方とは反対の、左手で。



 落ちてきたギロチンを、押さえ込んでいた。





「ば、ばかな!? 40ウェイトもあるんだぞ!?」





 驚愕するガーランドの声は、フウタにも届いた。


 40ウェイト――なるほど、この勢いでコローナが降ってきたのと同じ重さが、今片手に乗っているのか。そう、フウタは1人思考する。


 左手がざっくり行かれなかったのは、指を下にして叩き込んだ掌底で、ギロチンの刃とレールを変形させたからだろう。


 鋭利であるが故に薄い部分だからこそ今も握り込んでいられる刃は、打ち合ったフウタの拳を受けてなお、気を抜けば落下は免れない。


 その指先が薄い鉄板を陥没させていることは、他の誰にもまだ見えない。


「間に合って、良かった。なんとか……ああ。なんとか、間に合った」


 震える左腕。筋肉が限界を超えたように痙攣している。

 我ながら無茶をしたと思う。


 ただ。


 人間は誰しも心の拠り所を支えに生きている。

 その拠り所が多く、そしてそれぞれに浅く支えて貰っている人間は心の病になりにくく、その反面爆発的な意志力を持たないが。


 たった1つの拠り所を持つ人間は、こういう時にその為なら何だって出来る強さを持つ。


 それは決して、宗教に限った話ではない。


 たとえこの腕が二度と使えなくなったとしても。代えられない拠り所が、目の前に居るのだから。



「どうして……?」


 彼女の瞳には、いつもの気力は無い。

 フウタの手――血みどろの左手へと向けられていた視線には、憐憫と、罪悪感。


「痛いでしょ? 離してくれて、いいですよ? 重いだろうし。騎士の人たちに、めちゃくちゃ顔も覚えられちゃうし、良いことないですよ」

「構うものかよ、そんなこと。――でもまあ、確かに重いや」


 そう言って、彼は右手も添えて、体勢も整えて、ギロチンを完全に押さえた。

 落ちてくる力がなくなれば、40ウェイトくらい大したことはない。


 少なくとも、フウタにとっては。


「これで問題ないな」

「……なんで、なんでこんな」


 心底困ったように、眉は下がったまま。

 フウタも困ってしまった。彼女にこんな顔をさせるために、助けたわけではないのだから。

 けれど、笑った。

 だって、いつも自分がこんな顔をしている時、キミは笑ってくれていたから。


「前にも言っただろ。俺は、キミに生きていて欲しいんだって」

「フウタ様」

「しかし参ったな。このままじゃ、コローナの枷、外せないな。早く来てくれねえかな、プリムとか」

「フウタ様。良いって。腕、めっちゃ震えててかっこつかないですから」

「そっか。やっぱダメだな俺は」


 見下ろせば、木の板に首を通されたコローナが、不安げにフウタを見つめ返す。


 その首は刃が落ちた時に邪魔にならないよう、髪が丁寧に分けられていた。


 ――そのうなじは確かに綺麗なものではあったけれど。貫頭衣じみた布に、首元から覗く背中に、フウタは少し目を細めた。


 打ち据えられたような跡、明らかな刃の切り傷。

 ほんの僅かだが、首元からだけでもはっきり見えた。


 きっと、彼女の背には――背どころか、全身……。


「"魔女"に生きてる価値なんてない。みんな言ってたっ」

「……」

「――自分でも、そうだなーって思うっ」


 背に向けられた視線に気付いたのだろう。

 コローナは、とびきりの笑顔をフウタに見せた。


「だから、忘れよ? ほら、来てますよ、騎士の人たち」

「大丈夫だ。たとえ全員殺してでも――」

「フウタ様」


 覚悟は決まっているのだと。

 そうでなくとも、迫りくる騎士たちはプリムが全て押しとどめてくれると信じていたから。

 そう告げようとしたフウタに、コローナはなおも言葉を挟む。


「貴方にそこまでさせて生きたい理由なんて、ないよ」

「っ……」


 にへら、と微笑む。

 悲しい顔、困った顔、嫌な顔をしたら、フウタも嫌な気分になるから。

 せっかくこうして最後に会えたのだ。笑って死ねば、せめてフウタも気は楽になるかと。そんな想いを込めた笑顔。


「どーせそんなに長生きしないんですよ。何だったら、明日には死ぬかもしれないんです、実は」


 それはある種の真実であった。

 寿命を削って扱う魔導術。録術の使い手である彼女は、これまでに何度も躊躇なく魔導を行使してきた。

 最初にあった寿命がどれだけあったかなんて知らないし、今どれほど削れているかもわからないけれど。

 それでも明日、ぱたりこっ、と死んでしまってもおかしくない。


 そんな自分の為に、こんなことをするだなんて、バカげてる。

 だというのに、フウタは。


 コローナの言った言葉を軽く受け止めた風でもなく。

 おそらく本当に長生きしないのだと信じたように眦を下げてなお。


 間髪入れずに、言った。 


「だとしても、俺は命を掛けて今日、キミを救う」


 思わず、顔にきゅっと緊張が走った。


 人生で一度も経験がないから、これが何なのか分からない。


 どうやら異変は顔だけではないらしい。声がなんだかつっかえるし、何だか少し視界がぼやけた気がするし。


 だから、零れた言葉は普段の口の回りに比べてあまりにも乏しいそれ。


「どう、して……?」


 何が貴方にそこまで言わせるんだろう。


 何が貴方にここまでさせるんだろう。


「言っただろ。俺は、キミに生きていて欲しい」

「わかんない。わかんないよ。生きてることに、何の意味があるの」

「生きる意味。――生きたい理由か」


 目を細めて、フウタは先の彼女の言葉を思い返す。


『貴方にそこまでさせて生きたい理由なんて、ないよ』

『"魔女"に生きてる価値なんてない。みんな言ってたっ』


『――自分でも、そうだなーって思うっ』


 きっとその全てが本心なのだろう。

 だからこそ、彼女の胸の内に全てを求めることなんて出来なかった。

 心の奥底に生きたいという思いが眠っている、なんてこともない。


 騎士や、フウタが、心の拠り所が少ない人間だとしたら。


 彼女には、それが1つもないのだ。



 フウタは、気の利いた台詞なんて未だ1つも言えない。

 なんて言えばコローナが手を取ってくれるかなんてわからない。


 だから。





『嫌だ!!!!』




『貴女と同じくらい、あの人のことが好きなんだ! 一緒に居て欲しいんだ!』




『一緒に居て欲しいから、連れ戻します。あの子が、コローナが何で居なくなったのかなんて知りません。俺が嫌なんです。俺が、居なくなって欲しくないから、連れ戻します』

『……単なる、わがままではありませんか』

『わがままですよ』




『俺はあの子のわがままに、救われてきたんです。それが、別れも言えずに居なくなるなんて、俺は嫌だ』



 今回のことは全て、フウタのわがままだ。


 だから最後まで、フウタはわがままを貫き通す。



「――俺の言葉じゃ、ダメか?」



 その問いかけは、あまり意味を含めていなかった。

 だからコローナは、その何かを堪えるような顔のまま、小首を傾げる。

 なんと言ったら、伝わるだろうか。

 フウタは考えるままに、言葉を紡ぐ。


「キミに生きていて欲しい。俺にとって唯一無二のキミだから、生きていて欲しい。キミ以上に価値のある人なんて、この世に居ない」


「俺はキミが死んだら死にたくなる。いや、たぶん死ぬ。うん、死ぬ。ライラック様に捧げたこの命だけど、キミが居なかったらきっと俺は役に立たない生きた屍だ。そんな奴を、ライラック様が必要とするとは思えない」


「ああ、だからどのみち、俺は死ぬんだ」


「俺が生きるためには、キミが必要なんだ」


「だから……生きたい理由は、俺じゃ務まらないかな」


 コローナは、何を言われているのか、分からなかった。


 自分を見るなり、笑顔の人々が怯えたように目の色を変える。

 生きていればいいことがあるなんて嘘だった。

 自分が居なければ――みんなずっと笑えるんじゃないか。

 実際それは真実で。今日もきっと、自分の首が落ちるのを、みんなみんなが待っていた。


 ――そうじゃ、なかった。


「……なに、言ってるのか、ぜんぜん、まったく、ちっとも」

「あー、うん。自分で言ってて、整理がついた気がする」

「……ぇ?」


 なんだかだめだ。

 そう思って顔を逸らした矢先、今度は耳が真っ直ぐフウタを向いてしまった。


 何を言われるのか、分からなかった。

 でも、なんか、言われちゃダメな言葉な気がする。


 ぐるぐると困惑に頭を持っていかれてしまったコローナに、しかしフウタは空気を読まない。


 息を吸って、告げた。



「お願いだ。頼むよ」



「生きる意味も、生きたい理由もないかもしれないけど」



「俺は、キミが居なくちゃダメだから」


「だから」





「――俺のために、生きてくれ。そしたらきっといつか、俺がキミの"生きたい理由"になってみせるから」






 ああ。


 もう、なんもかんもむちゃくちゃだぁ。







 フウタは、言い切ってから、ふと顔を上げた。

 視線の先――フィールドを分けた壁の上にある客席に、諦めたように目を閉じた1人の青年の姿があった。


 投げつけられ、フウタの足元に突き刺さるグラディウス。


 フウタは右手でそれを拾って、彼女を戒める枷を断ち切った。


「ふん。そんな状態でよく長話をするものだ」

「ありがとう。そんな状態でよく剣を投げてくれた」

「黙れ。――何から何までお前らの勝ちだ。もう、そのメイドの命があった方が僕としても得だ。プリムのヤツが暴れてはいるが、まあ全部この女の責任になるだろうさ」

「……ああ。まあ自業自得だな」

「お前、こいつには結構辛辣だな」


 グラディウスを眺め、フウタはふと思う。

 この男は、彼女が録術を使うことを知っていながら、最初から最後までたった一度も、彼女を"魔女"と呼んだことはなかったなと。



 ゆるゆるとコローナが処刑台から外れたところで、フウタは重いギロチンを手放した。

 勢いよく突き立った刃が、彼女の頸に落とされていたらと思うとぞっとする。


 足元がおぼつかないのか、ふらふらと立ち上がるコローナ。


 フウタは手の怪我も衆人環視も全てを気にすることなく、彼女を正面から抱きしめた。



「……ぁ」

「決めてたんだ。必ず、次は檻なんか隔てずにこうしようって」


 ボロ布と、血濡れた手。誰かを抱き留めるシチュエーションとしては最悪も良いところだ。ライラック辺りならノーを突き付けるところであろうが、今は関係ない。


 ただ、無事で良かった。胸の内に彼女が居る。

 その安心感だけで、フウタは満たされていた。


「……あ、の。フウタ様、手」

「ああ、これか」


 処刑台から出るなり急に抱きしめたのだ、混乱するのも仕方ない。

 フウタは申し訳なさを覚えつつ、そっとその温もりを遠ざける。


 正面に移した彼女の顔は、いつも通りとはいかないようで。


 呂律の回らない口を懸命に動かして、本当に困惑したように告げる。


「どうしよう。フウタ様。その手、治せるけど――」


 そうだ。

 録術を使えば、すぐにこの手は治せる。フウタが望むなら、自分だって彼の怪我を見ていたくないから。――普段であれば、聞きもせずに勝手にやっているだろうそれ。



「ああ、この手か? そのままにしておいてくれ」

「えっ?」


 録術が寿命を使うことは、フウタは知らないはずだった。


 だというのに、やけにあっけらかんとそう言って、血濡れた左手を軽く振る。痛そうだというのに、どうして。


 その答えを、コローナが知ることは、今は無い。





 右手にも、ある夜にナイフを握りしめた傷跡が残っている。



 左手にも、きっと消えぬ傷が残ることだろう。



 無敗を築く男が唯一残した両手の傷。



 右手はライラック、左手はコローナ。




「俺にとっては、勲章なんだ」




 そう、フウタは屈託のない笑みを見せた。



 その笑顔を、コローナは呆然と見つめていた。










『――"契約"をしましょう』



『――生きたい理由も、死にたい理由もないのでしょう』



『――ならその力、わたしの為に振るって下さい』



『――まずは1年。更新するかは貴女の自由』



『――ここで無為に命を散らすくらいなら、わたしの役に立ちなさい』








『役に立てば、なんか変わります?』







『――さぁ? そんなもの、わたしに分かるはずがないでしょう』


『――わたしはただ、放っておけば腐り落ちる果実を拾いにきただけです』


『――否と言うならこの場で果てろ。応と言うなら、まあ、"可能性"は残りますか』






『ぷっ。あははっ。可能性、可能性! そんなもの――この10と余年、どこにもありませんでしたよっ?』


『そんなものに縋れと、貴女は言う感じですかねっ?』






『――は? 自ら摸索しない者に道を拓いてやる道理がどこにありますか。見苦しいですね。これだけの過酷を受けていながら、貴女はただ救いを待っていると?』






『どうでもいいだけですよ。死にたいの?』






『――わたしは、生きたい』






『……』






『――わたしが生きるために、貴女の力は有用です。これは、わたしが貴女を利用する一方的な提案です。貴女のメリットなど、考えていません。だって』


『――求めるものが本当(・・)()無いのなら、利を提案する意味なんて無いでしょう?』




 あはは、そっか。


 貴女は、最初から知ってたんだね。


 わたしは。





 ――生きたい理由が、欲しかったんだ。



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