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EP フウタ は おうじょ の ヒモ に ジョブチェンジ した!




 ――その日の夜。


 さる貴族の"善意の申し出"により、フウタの祝勝会が開催された。


 場所は王宮に用意された会場の一つ。


 三階に位置する広間には煌びやかな意匠の装飾がちりばめられ、音頭を取った者の口から出た言葉がフウタへの賛美。


 それを皮切りに何人もがフウタの元へと挨拶に来て、その1人1人をフウタは必死に覚えていた。


 表面的な賞賛で、内心はどう思っているか分からない者たち。

 そう分かっては居ても、無下にすることは出来ない。


「けど……なんか、こう、あれだな」


 フウタはしばらく挨拶のラッシュを受け続け、その後は放置された。


 彼にどれだけ渡を付けても意味が無いと考えたのか、それよりほかの人間との関係を優先したのか、理由は幾つも考えられるが――フウタにとっては、ある種幸いだった。


 広間から直接出られるバルコニーにやってくると、寒空の下ということもあってか人気は無い。


 欄干に腕を引っかけて眺める夜空は美しく、パーティの喧騒も全く聞こえない静かな世界。


「……有難くはあったけど」


 それ以上の台詞を、口に出すことは無かった。

 けれど、人々からの賛辞を初めて受けた感想は、そんなに舞い上がって喜ぶほどのことではなかった、という一言に尽きた。


 仮にも祝われている立場でそんなことを思う申し訳なさが先に立って、その感情を表に出すことは無かったが。


「――良いシチュエーションですね」


 そんなことを考えていると、背後から声。


 ゆっくり振り返れば、美麗なナイトドレスに身を包んだライラックが1人佇んでいた。


「王女様。おひとりで出歩いて大丈夫なんですか?」

「フウタに会いに行く、と言ったら皆遠慮してくれました。今日のことは、思っていたより響いていたみたいですね」


 くすくすと微笑みながら、彼女はフウタの隣へと歩み寄る。

 そして同じように空を見上げて、呟いた。


「そういえば、初めて会った日も1人のわたしを心配していましたね」

「ああ――1人で出歩いて良いのですかと、聞いた気はします。あの時は、普通に、王女様ともあろうお方が、という感じでしたけど」

「というと、今は違うのですか?」

「今は――どちらかと言えば、会場の混乱を心配しています」

「まあ」


 ふふっ、と楽しそうに笑みを浮かべ、彼女は首を振る。


「席を外すとは告げてきました。そして何より――わたしが居ない方が話しやすいことも多いでしょう」

「……」


 ライラックがその瞳に何を映していたかは、フウタには見えなかった。

 けれど、寂しそうに思えてしまったのは仕方のないことだ。


 彼女が今の台詞に寂寥を乗せていなかったとしても、フウタがどう思うかはまた勝手。


 思い返すことは多い。


『はぁ、わたしから闘気が? そんなつもりはありませんでしたが』

『……なるほど、道理でここ数年、人に避けられていたわけですね』


 誰もが彼女に伝えることなく、周囲から遠ざかっていたこと。


『背中への防御は、俺が会ってきた剣士の中でもダントツだった。まるで、いつでも裏切りに備えているみたいに』


 剣技から伝わる、1人であることを前提とした鍛錬。


『教えてやる。お前にはまだ分からんだろうが……枷が必要なのだ』

『枷……貴方は、王女様に何がしたいんだ』

『違う。僕が何かをしたいのではない。殿下が危険なのだ』


 周囲からは露骨に警戒され、


『利害関係ってヤツですよーっ。仲良しだからくっついてるわけじゃないですっ。悲しいけどねっ』

『でまー、姫様はメイドに限らず、商業組合とも"契約"って形で色々と人脈作ってますしっ? プライベートに人は絶対寄せ付けないぜっ、って感じですよ。フウタ様の距離感ですら、下手すると姫様に一番近いかもっ』


 一番近しいはずの少女でさえ、"契約"以上の関係ではなく。


『殿下の"職業"を考えてみろ。国王も工作によって騙されている。このままでは国が――』

『姫様の"職業"は、ずるがしこーい英雄、って昔から言われてるアレですよ』


 "職業"によって、彼女は"狡猾さを以て旗頭となる英雄"である、という色眼鏡で見られ続けてきた。



 そんな彼女から零れる、自分が居ない方が良いという言葉。


 生真面目なフウタにとっては、感じ入るなという方が無理な話だった。


 たとえ彼女が、その全てを受け入れて開き直っていたとしても。


「――その、王女様」

「なんですか?」

「……俺の過去のこと。すみませんでした。俺から言うべきだったのに」

「いえ。わたしに告げるのは勇気が要るでしょう。構いませんよ」

「王女様」


 はい? と振り向いた彼女の瞳を真っ直ぐ見据えて、フウタは告げた。


「俺は二度と、八百長なんかしません。信じてください」


 ぱちくり、目を瞬かせて。ライラックは小さく吹き出した。


「フウタ。貴方にとっては、不愉快な話かもしれませんが」

「はい?」

「貴方のことは粗方調べてあります。どんな経緯での行動だったのかも、おおよそ把握しているつもりです。そして、こうして何度も言葉と剣を交え、貴方の人となりは理解出来ました。……だから、貴方が過去にしたことは、わたしにとってはどうでもよろしい」

「――」


 ぴしゃり、と言い切って。


「今、貴方はわたしの期待に応えると言い、そして実際に応えてみせた。わたしにとっては、それで十分なのですよ。フウタ」


 笑みを崩すことなく告げるライラックに、フウタは息を吐く。


「……ありがとうございます」


 また、救われたような心地だった。


 今まで、誰もが見向きもしなかったフウタのことを。

 その小さな努力を認めてくれる人が居る。


 彼女がどれほどフウタにとって大きい存在なのか、きっとライラックは理解していない。


「礼は不要です。わたしも貴方との"契約"には無いことを、わたしの都合で幾度もさせてしまっているのですから」

「いえ、そのくらいは」


 と、そこまで口に出して、ふと思う。


 幾度も、と彼女は言った。

 彼女から頼まれたのは、プリムとの立ち合い一度だけ。

 確かに暗殺者やリヒターの件は不手際と取ることも出来るだろう。

 けれど、コローナの言葉通りであれば、ここまで主導したのは全てライラックということになる。


 そして彼女は最初に言った。


 "証明"をしてみせる。と。その結果が、文句なしのこの状況だ。


「全部、上手く行きましたか?」


 だから、問うた。

 今までのことが全部計算通りだったとしても、フウタは構わなかった。


 ただ。それを全部1人でやってのける彼女のことを、もうただの才女だとは思えなかった。


 彼女が今まで必死に生きてきた、その"努力"の賜物のようにしか思えなかった。


「――なんのことでしょう?」


 返答は、慈愛に満ちた微笑みだった。


 いつか、何故最強になりたいのかと問うた時のように、暗に聞くな、と言っている。


「王女様を不快にさせるつもりはありません。ただ……」


 ただ、自分に手を差し伸べてくれた少女が、本当に1人ぼっちで剣を振るっていた事実があって。

 自分に何か出来ることがあるならと、そう思っただけだった。


「――」

「王女様?」


 フウタを見つめる視線に、気が付いた。

 瞳に映る感情は、隠すことのない思案。


 まるで、「目の前の男をどうしようか」といったような。


 そこまでの猜疑を抱かれるほどとは思わず、フウタは口を開こうとして――遮られた。


「ひょっとして、私の職業の"奸雄"を気にされているのですか? でしたら、大丈夫ですよ。治世では能臣になる、という噂ですから」


 ですから、ご安心を。

 そういう意図で告げられた言葉。


 "奸雄"が治世では優れた臣――即ち能臣になる、という話は、フウタも知っていた。

 ただそれは、コロッセオのある公国から少し離れた国で、『能臣になれただろうに』と惜しまれた"奸雄"の叛逆者の噂だ。


 それに。


 諭すように安心材料を持ってきたライラックの言葉は、フウタにとっては意味のない代物だ。


 フウタはライラックが"奸雄"であることを警戒などしていない。


 むしろ、その逆だ。


 だがライラックにとってもまた、"奸雄"である自分が怖れられることはあっても、想われているなどということは今まで無かった。


 無かったことを想定など、出来るはずもないのだ。


「……それでも、不安ですか。フウタ」

「王女様。……俺は、模倣が得意です」

「? ええ」


 唐突に告げられた言葉に首を傾げるライラック。


 構わずフウタは続けた。


「模倣出来るのはこれまでの鍛錬の軌跡であると、俺は王女様に言いました。……感情を汲み取れるわけじゃないです。でも……どんな鍛錬を積んできたのかは分かるんです」

「――っ」


 それだけで、ライラックは察したようだった。

 目に見えて表情が引きつる。


 初めて、表情の仮面が割れたような気がした。


「王女様の鍛錬は、"背中"や"足"に対する護りが異常だ。まるで、いつでも裏切りに備えているかのように。闘剣士なんかよりよほど、1人での戦いを意識していました」


 だから、と続けた。


「ただ"最強"に憧れているわけではないことは分かっていたんです」


 フウタには、ライラックのような環境も知識もない。

 だから、ライラックのことを調べる、などということは不可能だ。


 だが、ライラックが情報をかき集めてフウタを知っていたように。

 フウタもまた、剣を交えてライラックのことを知っていた。


「そう、ですか」


 瞬間。

 まるでバルコニーが凍り付いたような、冷たい闘気が周囲を包んだ。


 ぞっとするような笑顔は、フウタには見せたことの無かった冷徹なそれ。


「ちょっと想定外でしたね。――剣は人を表す。貴方のような人であれば、確かにわたしのことも理解出来てしまいますか。……それなりに、優しい王女であったつもりでしたが」

「……」

「結局、この身を識別する業は変えられない。わたしの本質は、貴方の為と嘯きながら、想定通りの状況に持っていった狡猾な方でしょう。去ると言うのなら止めはしません。もとより"契約"の打ち切りは貴方の自由ですから」


 ただ。


 そう言って、彼女はドレスの中から小さな短剣を引き抜く。


 冷たい目だった。

 今まで、フウタに向けられたことなど一度もないような。

 消すと決めたら消す。迷いの無さは重ねてきた経験を裏付ける。


「もしも王宮内に吹聴するというのなら」


 その短剣の刃を、すぐさま自身の腹部にあてがうライラック。


「貴方を死罪にするくらい、別にどうとでも――」


 できますよ、と告げる彼女の言葉はしかし、途中で行き場を失った。





「――あっぶな!? 急に何をするんですか!」





「……フウタ。貴方こそ」


 一瞬の出来事だった。

 ライラックが反応する間もなく眼前に現れたフウタ。


「本当に刺すつもりは、まだ無かったのですよ……?」

「え、あ。いや、すみません。あまりにも普段と雰囲気が違うものだから、めっちゃ焦って」

「めっちゃ焦った結果がこれですか」


 ぽたり、ぽたり。

 赤い斑点が、バルコニーに滴り落ちて溜まっていく。


「……貴方の大事な右手を、よくもこんなにあっさりと。わたしが刃を引けば、その指全て落ちますよ?」

「分かってますよそのくらい。これでも剣の理解は深いつもりです」

「なら、何故……」


 右手で握りしめた刃は、確かにライラックの手が腹部へ向かうのをとどめていた。


 自ら剣を握る利き手を犠牲にして。


「何故って。王女様が怪我するじゃないですか」

「致命傷にならない部位くらい心得ています。……ではなく。貴方を死罪にしようと言う人間の自傷を何故、わざわざ利き腕を使って止めたのかを問うているんです!」

「利き腕の方が、反射で出しやすいから……っていう話は、別に重要じゃないと思うので置いておきますけど」


 ライラックにとっては、重要な部分の一つではあったのだが。

 フウタはあっさりと自身の腕の話は打ち切って、続けた。


「俺は死罪になんかならないし、言いふらしたりもしません。王女様さえよければ、この先も置いてください」

「――わたしのことを分かった上で言っていますか?」

「はい。俺の命の恩人ですよ。だから別に俺の利き手なんてどうなろうが――ああでも、王女様は手合わせ出来ない俺は要らないか。そうすると命も手も大して変わりませんね」


 はは、と笑ってみせるフウタに対し、困ったように眉を下げるライラック。

 その表情は、普段の威厳も余裕も感じられない、迷子の子犬のようだ。


 ――致し方のない話ではあった。


 自分の本性を理解したうえで、こうも献身的になる人間など理解が出来ない。


 "奸雄"として生を受けて17年。

 好意的な人間など、1人も居なかった。


 王女として生誕したから猶更だ。国と自身の安寧を願う者しか居ない王宮にとって、彼女の存在は邪魔だった。


 誰からも、心配なんてされたことがない。


 ずっと1人で生きてきて、この先もそうだと分かったつもりでいた。


 だから――なんだろう、この真っ赤な手は。


 本気で、意味が分からなかった。

 ただ、理解が出来ないものを怖れていた。


 恐怖に交じって、何故だか胸が痛かった。



「王女様の勘違いを、訂正しないといけないんですよ」

「わたしの、勘違いですか?」


 至近距離で朗らかに微笑むフウタ。


「ただ、俺はそれこそ言葉のセンスが無くて、何て言ったら王女様が安心してくれるか分かんなくて」

「わたしが安心……? 貴方ではなく?」

「そうなんですよ。俺は、王女様を安心させてあげたいんですよ」


 どういえばいいんですかね。

 そう、悩むように告げる彼の一言。


 飾りっ気など、要らなかった。


 こんな状況で、手を赤く染めあげて、痛みすら厭わずに言葉を続ける。


 正面から、真っ直ぐに。


 洒落たどんな言葉よりも、馬鹿正直で素直な言葉が響くのだと、ライラックは知らなかった。


 だって、言葉を飾ることでしか、生きてこられなかったから。



「――ああ、そうだ」


 思いついたような彼の声に、思わず顔を上げる。

 胸元から見上げるようなライラックの視線を見返して、フウタは笑って言った。



「俺の人生、全部王女様にあげます」



「……はい?」


 惚けたような言葉が漏れた。

 それを、伝わっていないと勘違いした男が1人、懸命に続ける。


「俺の人生、王女様が居なかったらもうあそこで終わってたんですよ。それだけでも十分すぎるのに、この1月くらいは人生で一番楽しい時間でした。俺にとってはそれで十分で、王女様に利用されようがもう、全然どうでもいいというか」


 そこまで言って、違う違うと1人首を振る。


 ぼうっと見上げている彼女の目にも気が付かずに。


「どうでも良いってわけじゃないんですよ。"奸雄"と"無職"じゃ全然違いますけど、俺にとっては一緒というか。えーっと、俺を救ってくれた人が、本当に1人ぼっちで剣を振ってたんだって思ったら、もう、どうにかしてあげたい一心だったというか」


 あー、だの、うー、だのフィラーを交える姿は、"貴族"のような優れた弁舌も、"詩人"のような美しさもない。


 ないけれど。


「だからむしろ俺に出来ることなら何だってしたいんですよ。こんな右手なんて安いもんです、マジで。はは、剣が左手で十分とかそういうことが言いたいんじゃなくてですよ?」


 どんなつまらない冗談だと、平時の自分なら呆れているだろう。


 今の自分の頭が、心が、彼の冗談どころの話ではなくてパニックになっているだけだ。


「ほら、職業に囚われるなって、言ってくれたじゃないですか。王女様こそ、自分の職業とか考えずに――は、無理か。王宮で大変ですもんね。じゃあ、俺の前では気にしない、とかどうですか? その方がきっと気楽なんじゃないかって。少なくとも、1人でずっと生きるの、俺は滅茶苦茶しんどかったです。しんどかったことに気付けたのも、王女様のおかげなんです」


 ――職業に囚われない。

 それだって、ライラック自身がどうしようもないほど囚われていたからこそ、フウタという人間を眩しく思えたのだ。


 自分の"職業"があるからこそ、今までありとあらゆる人間に一挙手一投足を警戒されて生きてきた。ひたすら、生きるために全てを利用してきた。


 なのに。


 これ以上、ありのままの自分を肯定されてしまったら。


 これ以上、無条件に寄り添われてしまったら。


 どうにかなってしまう気がして。



「だから。俺は大したことない人間かもしれませんけど」


 真っ直ぐにライラックの瞳を見つめて。


 綺麗な言葉でも、美しい言葉でもないけれど。


 素直で、一番欲しい言葉を、フウタは告げた。



「俺だけは、何があっても貴女の味方で居ます」


 ――どうにかなってしまった気がした。




「嘘だ!!!!」




 どん、と突き飛ばす右手に、もう短剣は存在しない。


 いついかなる時も生き足掻く為に、肌身離さず持っていたものは、動揺の中に零れ落ちた。


 目の前の男が理解出来ない。


 一目見れば何者の真実も見抜けるその瞳は、まるで赤子のように恐怖に揺れていた。


「嘘だ……嘘だ、嘘だ!」

「王女様……」


 明確な拒絶。一歩退いたフウタと、同極の磁石のように距離を取る。


 困ったような顔をしたフウタの顔を見て、きゅっと痛んだ胸を抑えて。


 喉から熱く流れ込んでくるような、人の温もりの感情を必死に拒絶した。


「――わたしの味方なんてどこにも居ない!!!」



 叫んだ。

 子供の癇癪のように、差し伸べられた手を振り払う。

 その手を取った先にある"不確かな未来"が怖い。誰かと手を繋ぐのが怖い。どうせみんな、握った瞬間引き戻して背中を刺す。


 だって。


 みんなそうだったじゃないか。



 父親はいつも、娘の"職業"に怯えていた。


 いつかこの子は自らを脅かすのではないかと、一度として自分と向き合わなかった。


 母親はいつも、娘の"職業"を否定した。


 こんなに可愛い我が子が"奸雄"のはずがないと言い切って、自分を愛して拒絶した。


 愛していると、味方でいると言った側からみんな自分を遠ざけた。



 宮中では、何かあった時にライラックを殺せるマニュアルが用意されていると知っている。


 侍従には、ライラックの言葉に耳を貸さないよう命令が下されていることも知っている。


 誰も彼もが自分を怖れて、心に必死で壁を作って、騙されないよう飲み込まれないよう用心していることを知っている。


 もはや自分は、誰かとの繋がりを"契約"によってしか構築できないことを、どうしようもなく知っている。





 生まれた時から、自分は1人で生きていくしかないと知っている。




 知って、いた。のに。



「王女様」


 血みどろの手を意にも介さず、フウタはライラックの手を取った。


 振り払おうにも、振り払えない。


 目の前の男は、どうしようもなく自分より強い。

 振り払えない。


 たった1人で生きてきて、唯一。こういうことを怖れていたのに。


 力も、心も負けていた。


「なんなんですか……」


 真っ直ぐに見据える彼の瞳には、一切の虚偽が無かった。


 だから怖かった。

 そんなことがあるはずがない。

 自分は、やろうと思えば幾らでも彼を利用できる。


「……自分が強いから、わたしなんて怖くない。そういうことでしたら、驕りが過ぎますよ」


 か細く呟くのは必死の抵抗だった。

 目を逸らして、眼前に迫った彼から、視線だけでも逃れようとする。


「流石に俺も、今の王女様が適当なことを言ってるのは分かりますよ。俺が強いだけでどうにか出来る世界なら、そもそも貴女と出会っていません」

「……」

「聞いてください。……俺はただ、王女様に恩を返したいだけなんだ」

「恩に着るほどのことではないと、わたしは」

「貴女にとってそうだったとしても。俺は、一生貴女に尽くすくらいの恩を受けたと思ってるんだよ!!」


 ぐ、と握られた手の力が強まった。

 出血量が増えるのも厭わずに、彼はそのままライラックに顔を近づけた。


 初めて浴びせられる大声に瞠目するライラックを置いて、フウタは言う。


「1人きりで生きてきた人生だった。誰も俺のことを見てくれなかった。"無職"だなんだって職業のことばっかりで、俺の努力は誰にも顧みられることは無かったんだ」

「――っ」


 息を飲んだ。

 調べて、知っているつもりになっていたことだったのに。

 正面から言葉にされて、そして本人の口からその辛さを吐き出されて。


「貴女だけだったんだ」


 筋張った両手が、ライラックの右手を包み込む。

 今まで必死に、命を繋ぐため刃を握ってきた、利き手を。


「俺にとって、貴女だけが。初めて俺の心を、命を認めてくれた。肯定してくれた人だったんだ。俺の方こそ言わせてくれ。"職業"なんて関係ない、俺はただ、最初から貴女という人の為に生きたいと思ったんだ」





『貴方は強かった。剣の腕に、たゆまぬ鍛錬の跡が見られた。どんなに模倣の力があったとて、自らの力量が追い付いていなければ、ああ上手くわたしの技を真似することなど出来ません』


『――人間は、"職業"の奴隷ではない。貴方は身をもってそれを魅せつけてくれました』


『100の気の利いた台詞より、1度の貴方との手合わせを、わたしは望むということです。どんな詩人が現れ、わたし好みの詩文を紡ごうと、貴方との時間を失うくらいなら全員解雇します。分かりましたか?』


『貴方の才能ですよ。わたしは、"職業"に踊らされることが何より嫌いです。"職業"とは、人間が利用するものであって、決して言うことを聴いて生きるためのものではない。今はこの世の殆どの人間が、"職業"の奴隷ではありますが』




 数えきれない恩があった。


「……王女様。聞かせてくれ」

「……」


 その蒼い瞳を真っ直ぐに見つめて、フウタは問う。


「それとも俺は。貴女を期待させられなかったのか?」

「それはっ……」




『いずれ、お話することもあるかもしれません。ただ、それは今ではなく――ああ、そうですね』

『貴方に出来ることは、そう。わたしが、わたしの全てを話したくなるくらい、ずっと期待させてください』




 期待させられなかったのか。

 その問いの答えを、ライラックは既に持っていた。


 持っていたからこそ、開こうとする口が震える。


 幻滅したのであればこんな無礼を働かれる前に処分して仕舞だ。

 そうでない時点で、もう彼女の答えは決まっているのだ。


 でも。もし、ライラックの答えが"そう"だったとしても。

 フウタにとってのライラックが、彼女には分からない。


 揺れる瞳。葛藤。困惑。


 十七年の人生で、こんなことは一度として無かった。


 動揺もそう。けれど、大事なのはそこではない。


 "自分に人生を寄越す"とまで、本音で言い放った人間。


 利用されても構わない。貴女の職業がなんだっていい。


 そんなことを言われて、どうしていいのか分からなかった。


「……分かった」


 何を想ったのか、フウタはライラックの手から温もりを消すと。

 おもむろに、転がった短剣を拾った。


 びく、とライラックの肩が揺れるのも構わず、彼はライラックに短剣の柄を握らせた。


「なにを――」




「嫌だったら刺してください。俺は、言葉が下手だから」




 言うや否や、抵抗する間もなく抱きしめられた。


「フウ――」

「貴女に親愛を」

「……」


 握った短剣は、軽く引き戻すだけで無防備な彼の背中を突き刺せる。


 それを承知で、非礼を承知で、今この男は。




 抱きすくめられて、すっぽりと収まるほどに自分の体は小さくて。


 そして。

 初めて全身で感じる人の温もりは――どうしようもなく温かかった。




「……ほんとうに?」




 辛うじて漏れた言葉は、あまりにも情けないものだった。



「本当だ。――王女様?」



 からん、と軽い音を立てて、短剣が落ちた。


「……貴方、人を抱き留めた経験は?」

「ないです。すみません、強すぎましたか」

「ええ。……でも、痛いくらいの方がちょうどいい」


 空になった手の行く先は、守るべき大切な相手の背中。


「貴方の気持ちは、まだよくわかりません」

「えっ」

「でも。……分かろうと努力してみよう、なんて思います」


 くす、と微笑む彼女の表情は、長身のフウタには見えなくて。


 ただ一つ、バルコニーの床に零れた一雫すら、フウタには知りようもないけれど。


 でも。



「何度考えを巡らせても。どんなに頭を働かせても。貴方が、嘘を言っている可能性は無に等しい。……そんなこと、あり得ない――なんて、感情で分析を跳ねのけるわたしは、まだ未熟ですね」

「……世の中、色んな人が居るらしいですよ」

「まあ。それは……これから学んでいかなくてはなりませんね」


 そっと、影が二つに別れた。


 小さく微笑んだライラックは、そっと見えないように目元を拭うと。



 ドレスの裾を引きちぎり、彼の手を取って包み込む。


「ちょ……凄ぇ高そうなのに」

「以前も言いました。物事には優先順位があると。ドレス程度、安いものです」


 優しく手を布で覆う。

 誰かに手当をするなど、まるで自分の母親のようだとライラックは1人微笑んだ。正しく"貴族"であった彼女は、よくおてんばな娘の手当をしていた。慈愛に満ちた笑みと一緒に、『この子が"奸雄"であるはずがない』と常々口にして。


「……最強になりたかった理由を、まだ話していませんでしたね」

「え、ああ。最初の」

「怖かったんですよ」


 ライラックを見やるフウタ。

 彼女の視線は、彼の手から逸れぬまま。


「自分より強い人間が居るかもしれない。居ないかもしれない。分からないのが、怖かったんです」

「……俺が居て、良かったんですよね?」


 その言葉には答えず、ライラックはフウタを見据えた。


「この国をぶち壊す」

「……えっと?」

「"職業"の奴隷を解放し、全ての人に可能性を見せる。それは秩序の終わり、混沌の始まり。でもわたしは、その混沌は悪くないと思うのです」


 口から紡がれるのは、嘘偽りのない彼女の望み。


 フウタと無職の話をした時に片鱗を見せた、彼女が"職業"に抱く想い。


「まずは、職業"貴族"を平民と同列にし、"国王"を引きずり降ろす」


 言い切って、彼女はフウタを見据えた。

 どこか不安の入り混じった瞳は、初めて他者に目的を明かしたが故、そして、彼の言葉を信じてみたくなってしまったが故。


「1人でどうにかしないといけなかったから。わたしより強い人間が居るというのは、怖かった」


 だから。


「――ついて来てくれますか?」

「もちろん」

「……即答、ですか」


 ライラックは小さく微笑む。


「以前も言いましたが。案外、ストレートな言葉というのも悪くはないものですね」

「ありがとうございます……?」

「ふふっ」


 思わず、吹き出す。


 ああ。自分のことを全て吐き出して、それを全部受け入れて貰えた。


 言葉にすれば簡単なこと。

 けれど、その心地良さたるや。

 胸に手を当てて実感する。こんなにも早鐘を打ち、高鳴ることが人生で一度でもあっただろうか。


「でも、最強になりたかった、ってことは。もう良いんですか?」

「ええ。その代わり、もっと楽しそうな夢が出来ました」

「っていうと?」


「闘剣士のチャンピオンになってみたい。貴方の見た景色を、いつか見てみたい。フウタでも出来たのですから、わたしが夢見ても良いでしょう?」


 ぺろ、と舌を出して、からかい交じりに彼女は言う。


「国に示す。どんな職業であっても関係ない。自分の得意なものを、自由に扱える場所が、この国なのだと。そのためにも、ちょうど良いでしょう?」

「そうですね。俺に出来ることがあれば、何でも言ってください」

「ですか。――では」


 そう言うと、ライラックはいたずらっぽく微笑んで両手を上げた。


「くるくるしてください。コローナに出来ると言ったのですから、わたしにも出来るはずです」

「えっ」

「冗談です。そういうのは、彼女が喜びますからやってあげてください。わたしは、そうですね――せっかくですから」


 そっと差し出される手。

 何を意味するのかが一瞬分からず、フウタは首を傾げる。


「踊りましょう。夜のバルコニーで、星々に照らされながら。せっかくここは、貴方が初めて王城へやってきた塔や、手合わせをした庭園が見えるのですから」


 楽しそうに、嬉しそうに、ライラックは告げる。


「俺で良ければ、喜んで」

「ええ、貴方が良い」


 手を取って、一歩、二歩。


 不器用で、踊った経験など殆どないけれど。


 手取り足取り、ライラックは丁寧に教えてくれる。


 眼下に広がるのは、この1月の軌跡。


 多くのことがあった、人生で一番幸せな1月。


 いやきっと、これから先はずっと。


 もっともっと幸せな日々が続いていく。


「フウタ」

「はい」


 ようやく足取りにも慣れてきた頃に、胸元からフウタを見上げて彼女は微笑んだ。


「わたしの隣に居てください」

「もちろんです。その……」


 バツが悪そうなフウタに、小首をかしげるライラック。


 職業のことで問い詰められていた時とは全く別種の、まるで告白を待つような愛し気な視線。

 フウタは正直に答えた。


「気の利いたことは言えませんが」

「まぁ。それは――しっかりと訓練をしていただかねばなりませんね」



 勝利の夜は、更けていく――。








 後に、フウタは今をこう語る。


「たとえば俺が、チャンピオンから王女のヒモにジョブチェンジしたとして。――それはきっと、俺の今までの頑張りを肯定してくれた、報われた日々だった」


 と。



「たとえば俺が、チャンピオンから王女のヒモにジョブチェンジしたとして。」

おしまい。








ここまでの御読了、まことにありがとうございました。久々の連載が出来てとても楽しかったです。


現状表に出せる作品もあまり無く、生存報告もろくにできませんでしたが、小説家になろうに投稿し始めてちょうど7年の節目に一本物語を投下することが出来て、本当に良かった。


ストックはもうありませんが、続きのプロットやアイデアはありますので、この作品を楽しんでくださった方がいらっしゃるならば、仕事のスケジュールを鑑みつつ、続きを書いていきたいなと思っています。


宜しければ、感想評価、レビューなどなどリアクションがいただけると、執筆の努力が報われたようで嬉しいです。


ひとまずはお付き合いいただき本当にありがとうございました。

なにとぞ、今後ともよしなに。


それでは皆さまにとって、本年がよりよいものとなりますよう、最後にお祈り申し上げます。


2020/01/03 藍藤 唯

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