42 森の魔法使い
「とりあえずどこも囓られていないようだね、
「教わったとおりにやった」
私が袋に詰めた蜘蛛の頭と粘糸を見せると、師匠が少しだけ眉を顰める。
「目が一つ潰れてるねぇ。もっと綺麗に倒せなかったのかい?」
「次はもっと上手くやる」
私が素直にそう答えると、師匠はニッと笑って私の髪をかき回すように頭を撫でた。
「まあ、ランク2程度でランク3の魔物を狩ったのなら上出来さ。胴体を先に処理するから、泥だらけの足を洗って裏庭の処理場まで持ってきな。無愛想弟子」
「了解、師匠」
“師匠”の所に転がり込んでからもう四ヶ月にもなり、8歳になった私は、また少しだけ背が伸びていた。
この師匠は誰なのか? どうしてこんな森の奥に住んでいるのか? それを話すには四ヶ月前のあの戦いの後まで遡る。
*
グレイブの追跡から逃れるために増水した河の激流に飛び込んだ私は、着水する寸前に【
だけどまだ水の上に顔は出せない。激流に逆らわず身体を丸めて深く潜り、距離を取るまで必死に気配を殺し続けた。
生き残る確率は低かった。服を浮き輪にして水から顔を出せるようにはしたが、暗い夜は自分の上下さえ見失わせ、激流は私を翻弄して体力を容赦なく奪っていった。
そしておそらく水の中には魔物がいる。岸まで近づいて人を襲う高ランクの魔物が少なかっただけで、水中には低級の魔物がひしめいているだろう。
この激しい流れの中でも魔物が活動できるのか分からないが、仮に襲われたら今の私では為す術がない。
精神を研ぎ澄ますように集中して隠密を使い、とにかく自分の方向を知るために暗視と探知を酷使した。
魔素の反射で視る暗視は激流の中では使いにくい。色で視る暗視も水の色ばかりで分かりにくい。なので両方を使い、とにかく暗い水の中を凝視し続けると、窒息する寸前に不意に視界が開けて自分の向きを確認できた。
一瞬だけ水から顔を出して息を吸う。水中でも魔素の『色』を認識出来るなら、そこの泳ぐ生物も見えるはず。
それを意識すると探知範囲と精度が拡張され、河の底に泳ぐ魚の群から自分に迫る蛇のような気配を感じて、とっさに戦技の【
水の中でも戦える。向きが分かれば息継ぎもできる。そうなれば後は、河の流れが緩やかになるまで耐える体力だけが問題だった。
運がいいことに身体にはまだ魔力回復ポーションの効果が残っていた。私は心臓にある魔石から光の魔素を絞り出し、体力の消耗と体温の低下を出来る限り抑えた。
諦めない。私はまだ死ねない。グレイブが将来的にエレーナを害する可能性がある以上、私はあいつを越える強さを身に付けて、必ずあいつを倒す。
体内を光の魔素を活性化させながらも、魔力制御を使って身体の表面を水の魔素で覆い、出来る限りの隠密を試みる。
水に流されて何分か…何時間か……意識が朦朧として集中が切れそうになった頃、朝日と共に河の流れが緩やかになり、また襲ってきた蛇を斬り捨てた私は、その死骸を持って数時間ぶりに水から上がることができた。
身体は冷え切り、魔力も体力もほとんど残っていない。
そんな状態で魔物や狼に襲われたら一溜まりもなく、私は力の入らない身体を引きずって藪の中に身を潜めると、隠密を使いながらひたすら体力の回復を待った。
その間、わずかでも魔力を回して内臓を身体強化していなかったら、そのまま凍死していただろう。数時間後、わずかに戻った魔力で【
実際、身体がまともに動くようになったのは丸一日経ってからだった。
体力より先に戻った魔力で、身体にある全ての傷を【
命を狙われたのは、あの組織の命令だったのか、それともグレイブの独断か。
どちらにしろ、グレイブがあの組織にいるのなら同じことだ。私は彼らとは決別する道を選ぶ。
私は強くなってグレイブを殺す。それを邪魔するのなら、セラやヴィーロにでも刃を向ける覚悟はある。
これからどうするか……。
貴族と繋がりのあるあの組織の目がある以上、大きな街に寄るのは危険だった。
寄れるのは村か、小さな町。それでも田舎以外は避けるべきだろう。冒険者ギルドもほとぼりが冷めるまで同様に使えなくなったので、私は新たに生きる術を模索する必要がある。
今は国境近くで、そのまま北上して他国へ渡るのも可能かもしれないが、私には一つだけ“当て”があった。
水の中で必死に生き足掻いたせいか、【投擲】【隠密】【暗視】【探知】のスキルが、レベル2に上がっていた。
投擲は水精霊との戦いと、最近は投擲ばかり使っていたせいだろう。隠密や探知はともかく、人族ではレベル1までしか会得できないはずの暗視がレベル2になったのは、従来の方法と私独自の色を視る暗視を組み合わせた結果だろうか。
殺されかけたが、とりあえず悪いことばかりじゃなかった。
私はまず身を隠す準備をするため、レベルの上がった隠密と探知を使いながら川沿いに森を駆け抜け、森に作った仮拠点に向かった。
森の簡易拠点に辿り着くとボロになったメイド服を脱ぎ捨て残った泥を拭う。それからここまでの旅で使っていた上着とズボンに着替えて、最後に顔を隠すためショールを首に巻いた。
黒いナイフ以外の武器は無くしていたが、簡易拠点にはセラに貰った細いナイフと、フェルドに貰った鋼のナイフがあり、それを腰帯とブーツに装備する。
投げナイフはなかったが、投擲スキルがレベル2になった今なら普通のナイフでも何とかなるはずと考え、試しに鋼のナイフを投げると、問題なく木の幹に5センチほど突き刺さった。
隠していた金銭と、塩と携帯食料、乾燥させていた薬草類を、服を詰め込んでいた袋に入れて肩に担ぐ。
そこから二日ほど森を進んだところに目的の場所がある。
最後に【
【隠密】、【暗視】、【探知】、そして【生活魔法】があれば、森の中でもそれほど困ることはない。途中でゴブリンや狼もいたが、隠れた私を見つけられるランクの高い魔物はいなかった。
そして二日後……“知識”にあるあの女の記憶から目星を付けたその場所に、木と石と土壁で造られた“家”を見つける。
記憶にあるよりも少し庭が広くなったり、多少雑草が増えていたりしているが間違いはない。
その扉を軽くノックしてみるが返事はなく、“知識”に残っていた扉の罠を解除して中に入ると――
タンッ! と戸枠に奇妙なナイフが突き刺さる。
「……誰だい? 人様の家に勝手に入るなんて、躾のなってないガキだね」
室内の奥にあるテーブルから、絵本の魔法使いのようなローブを着た女が、奇妙な形のナイフを弄びながら私に【威圧】を飛ばしてくる。
……強い。フードに隠れて姿が見えていないので正確な鑑定はできないけど、この痺れるような感覚の威圧だけでも、レベル3はあると推測する。
「これを返しにきた」
刺激しない最低の動作で、手に持っていた『手書きの野草本』をヒラヒラと振って見せると、私に向けられていた威圧が消えて、その代わりにわずかな殺気を吹きつけながら、あの女の“魔術の師匠”は鼻で笑うように息を吐いた。
「はっ、あの馬鹿弟子の知り合いかい? 私のとこから金やアイテムを盗んで出て行った馬鹿弟子はどうした? そろそろおっ
「私が殺した」
私が静かに淡々と答えると、一瞬殺気さえ消えて沈黙が訪れる。
「……そうかい。よほどくだらない死に方だったんだろうねぇ。その本はあんたにやるよ。売れば幾らかにはなるだろ。さっさと帰っとくれ」
あんな女でも、少しは師弟としての情があったらしい。元々はただ本を返す予定だったけど、今はそれよりこの女のほうに用がある。
「あなたに魔術を習いたい」
「……帰れと言ったろ? こんな人里離れた場所に住んでいる、馬鹿弟子しか育てられない婆に習っても、碌なことないよ」
その声はまだ若い女性のものだ。それなのに自分を“婆”という彼女のことを私は知っていた。
「“魔族”だから?」
その瞬間、また沈黙が落ちて、次の瞬間、私の身体が硬直するほどの殺気が吹きつける。
「……誰に聞いた? あの馬鹿弟子がペラペラ喋ったのかい? そこまで馬鹿に育てた記憶がないんだけどねぇ……それを知ったあんたをどうすれば良いと思う?」
フェルドやヴィーロ、そしてグレイブといった高ランク者から殺気を受けた経験がなければ、気を失うか戦意を失っていただろう。
でも、震えはあるが怯えはない。脅威は感じるが恐怖はない。
「あなたに魔術を習いたい」
「…………あんた、何者だい?」
真っ直ぐにあの女の師匠を見つめて同じ言葉を淡々と口にすると、殺気が緩んでわずかに呆れたような気配に変わった。
「話すと長くなる。あなたの弟子に襲われてから、色々あった」
私が加害者ではなく被害者であることを匂わすと、それで納得したのか、あの女の師匠は深々と溜息を吐いて席を立つ。
「こっちに来て全部話しな。茶くらい煎れてやるよ」
言いながらあの女の師匠がフードを外すと、まだ三十歳ほどに見える艶やかで黒曜石のような黒い肌と、銀色の髪から伸びた長い耳が現れる。
「私のことはセレジュラと呼びな。あんたの名前は?」
「アリアでいい」
魔族は現在も南西諸国と継続的な戦争状態にあり、そんな
だが、それは私にとってどうでもいいことだ。私はさらなる知識と運命を跳ね返せる強さがほしいだけだ。
私はあの女に襲われ、身体を奪われかけたこと。女が自分の精神を複製した魔石から偶然知識だけを得たことを語る。
正直言って『乙女ゲーム』とやらは私もよく分かっていないので説明できないけど、貴族となって奇妙な運命を辿ることを避けたいと話すと、セレジュラはあの女の行動で思い当たる節でもあるのか、深く頷いて考え込んだあと、椅子の背に寄りかかるようにしながら背後の通路を親指で指さした。
「とりあえず、奥の部屋を使いな。あの馬鹿弟子の部屋で今は半分倉庫にしているが、お前なら分かるだろ?」
「……ん?」
意味が分からず微かに首を傾げる私に、セレジュラはニヤリと笑う。
「お前を鍛えてやるって言ってるんだよ。望みどおり強くしてやるよ、覚悟しときな、無愛想弟子」
次回は時間軸が元に戻ります。
魔術の修行とその成果。
次は土曜更新予定です。