08.グリオン家当主アーソン
「色……? 色が見える、と?」
王城での仕事を終えたグリオン家当主アーソンは、屋敷の玄関を入ったところで待っていた、侍女イコから驚くべき報告を聞いた。
アーソン・グリオン。
まだ三十代前半という、若き侯爵である。
少々冷たい印象のある薄い藍色の瞳に、端正な顔立ち。明るい鳶色の髪は短く清潔感がある。
そこまで背が高いわけでもなく、パッと見で目を引かれるほどの美貌があるわけでもない。
だが、よくよく見たら全ての要素が高いレベルでまとまっている男である。
目立つ特徴がないことも含めて非常にバランスがよく、だからこそ周囲に埋もれて、だからこそゆっくりとその頭角を現して来た。
そして今や城勤めを許され、国王陛下の信頼も厚い。
「はい。有効範囲は狭いそうですが、確かにちゃんと色の識別ができているようです」
ついでにアーソンのコートと上着を預かるイコから、更に報告が続く。
「それは……すごいことなんじゃないか?」
末の息クノンは、生まれつき目が見えない。
もはやおとぎ話のようになっている逸話である「英雄の傷跡」のせいだと言われているが、真相はわからない。
とにかく純然たる真実として、息子は目が見えないのだ。
「私もそう思います。近ければ近いほどよく見えて、触れたらはっきりわかるそうです」
触れたらはっきり。
それはつまり――
「本が読めるということか?」
さすがだ、とイコは思った。
本が読める。
二人で色々と試してみた結果判明したことだが、アーソンはすぐにそこに気づいた。
そう、この現象で何が一番の収穫かと言えば、文字がわかることだ。
本を開いて、指でなぞる。
それで表紙とインクの色を識別し、文字を読み取ることができるのだ。
もちろんクノンはまだ文字がわからないので、これから学ぶことになるのだが。
「……そうか……」
溜息の混じった、重い声が漏れる。
安堵の声だ。
息子の将来への心配事が、大きく目減りした瞬間だった。
身体も頭も疲れているのに、アーソンの心労は消し飛んだ。
「ティナには話したか?」
「いいえ」
「では私から話そう」
ティナ――アーソンの妻でありクノンの母であるティナリザは、誰よりもクノンの心配をしている。
クノンが住処を別にしたいと言い出したのも、ティナリザの過剰な心配に対しての部分が大きい。
何をするにも自分に気を遣わせてしまう、付きっきりになっているから、と。
侯爵家の妻として、社交の場に出ないわけにはいかない。
ましてやクノンに王族の許嫁ができた以上、社交界での立ち回りはより重要性を増してくる。
かなり前のことだが、ここグリオン家に王女が降嫁してきたことがある。
「英雄の傷跡」は、かつて戦った魔王の呪いのようなもの。
それは直接戦った十七国の英雄たち……ここヒューグリア王国で言えば、王族の血にのみ発現すると言われている。
――要するに、もはやかなり薄いが、グリオン家にも王族の血がわずかに流れている、ということだ。
それはつまり、まさかまさかの大どんでん返しがあった場合、クノンにもギリギリで王位継承権が発生するということだ。
王女を許嫁にする、結婚相手に付ける、というのは、そういう意味もあるのだ。
まあ現国王の子は多いので、あくまでも可能性だけの話だが。
――だが、遠い遠い可能性だけとは言えど、それが無意味かどうかは別問題だ。
約百年ぶりの「英雄の傷跡」を持つ子だ、それが理由で面倒事に巻き込まれることもなくはないだろう。
現に、王女なんてものを許嫁に付けられているくらいだから。
何があるかわからない。
ゆえに、社交界が大事になってくる。
たとえ上手く立ち回れなくとも、程々に周囲と仲良くしておくだけでも、グリオン家並びにクノンの将来はかなり違ってくるはずだから。
……と、ここまでクノンが理解しているわけではないが、アーソンはティナリザにそう言って、クノンの別居を説得したのだ。
だからこそ、クノンの報告をティナリザにしないことを、イコに命じている。
話を聞いたら、妻は我慢できなくなって会いに行くだろうから。
――しかし、今回のこの報告は、少々別次元だ。
些細なことなら伝えないつもりだったが、決して些細なことではない。
これは妻に伝えてもいいし、手離しでクノンを褒めちぎってやってもいい、充分な成果である。
「クノンは
報告は色々と聞いている。
三ヵ月前から本気で魔術に打ち込むようになったこと。
身体を作るために食事量を増やしたこと。
剣術、とまでは言えないかもしれないが、素振りを始めたこと。
つい最近は、本館の風呂の準備をするようになった。
それに、許嫁のミリカ・ヒューグリアとも、少し関係が良くなったとも聞いている。
いつの間にか、俯きがちだった息子が、前向きに生きようとするようになった。
今のクノンなら、一緒に住んでも大丈夫ではないか。
アーソンはそう思ったのだが。
「……まだ早いかもしれません」
クノンに付けている侍女は、難色を示した。
「今クノン様は変わろうとしています。毎日必死で変わろうとしています。そんな時に生活環境を大きく変えるようなことは、クノン様の目標の妨げになるかもしれません」
「目標か」
それも聞いている。
息子は、魔術で視界を得ようとしている、と。
それができるのかどうかはアーソンにはわからないが、クノンがやりたいことだというなら、応援するだけだ。
――現にこうして成果があったのだから、これまでも、これからも、きっと無駄にはならない努力なのだろう。
クノンが本館からいなくなって、約半年。
クノンはクノンで離れでの暮らしに慣れてきたし、本館は本館でクノンがいない生活に慣れてきている。
アーソンはあまり変わらないが、ティナリザはようやく社交界に出始めたところだ。
もう一人の息子であるイクシオは、クノンとの接し方がわからないようで、よく戸惑っていた。
言い方は悪いが、今はのびのび過ごしている。
「……そうだな。もう少し様子を見るか」
今の状態は、お互い悪くはないと思う。
それぞれでやるべきことがあるのだから、あえて共に過ごす必要は、ないのかもしれない。
お互い……いや、何よりクノンが集中できる環境にあるのなら、邪魔はしない方がいいだろう。
そう判断したアーソンは、現状維持を続けることにした。
「イコ、いつもありがとう。君にはかなりの負担を掛けていると思うが……」
「構いませんよ。お金のためですから。お褒めの言葉より給金のアップをお願いしたいですね」
――ここで謙遜して曖昧な忠誠心を示すではなく給金の話を出すイコだから、クノンを任せられるのだ。
「はっはっはっ。金の話はバレンにしたまえ。使用人の給金は彼が決めている」
「えー。バレンさんお金に厳しいから無理ですよぉ」
深刻に、生真面目に考えるタイプだと、クノンと一緒に思い悩んで、沈んで行ってしまいそうだったから。
だから、できるだけ陽気な侍女を付けた。
その判断は、きっと間違っていない。