88.準教師ジェニエ
「――皆さん静粛に。席に着いてください」
懐かしい。
懐かしくて少し泣きそうになってしまった。
ジェニエ・コースの授業である。
たった数年ぶりのことだが、クノンにとってはとても懐かしい、己の原点とも言える時間である。
魔術を知って、クノンは変わった。
魔術の可能性を信じて、クノンは生まれ変わった。
きっかけはすべて、ジェニエの授業からだった。
見惚れるクノンに彼女は囁く。
「――クノン君、こっちじゃなくてあっち。あっちを向いて」
「――懐かしいですね。先生は懐かしくないですか?」
「――今はいいからあっち向いて。先生がなめられたら授業がやりづらいのよ」
小声でそんな注意を受けて、クノンは正面を向く。
懐かしいが、あの頃と同じではない。
あっちを向いたクノンの前には、十名ほどの同年代が座っているのだから。
「これから数日、こちらのクノン君が一緒に授業を受けますので、皆さん仲良くしてくださいね」
ここは三級クラスの、水属性の卵が学ぶ教室である。
露骨に好奇の目が集まる中、クノンは気楽に「よろしくね」と応えた。
「クノン君は後ろの席に――それでは、本日の授業を始めます」
サトリ・グルッケの研究室を訪ねた数日後のことだった。
「氷の魔術?」
再びサトリが寝た後。
クノンとジェニエは、そのまま研究室のテーブルを借りて、お茶しながら積もる話をした。
ある程度の区切りがついたところで、クノンは本題に入る。
氷の魔術を教わりたい、と。
「まだ覚えてないの? 一つも?」
「はい。僕は未だにジェニエ先生に教わった二つしか使えませんから」
たった二つ。
ジェニエはもう、驚かなかった。
――それで特級クラスに入り、やっていけるクノンが異常なのだが、今更だ。彼ならそれもありえると普通に思う。
「先生の愛情のこもった二つだけです」
その念押しはいらないが。
「氷は、ほら、割と直接的な凶器になるじゃないですか。だからちょっと敬遠していた部分もあって」
殴って良し。
滑って良し。
凍らせて良し。
硬いのでぶつけるだけでも痛い。
氷は水より危険度が高い、とクノンは思っている。
かのヒューグリア王国の王城にて、初説教を食らった「廊下大滑り事件」。
その原因となった「
あ、氷は危ないな、と。
これは動きに取り入れると怪我をするな、と。
久しぶりに転んで怪我をした時に思った。
まだクノンは、己が子供だという自覚がある。
だから、子供に攻撃魔術を……凶器を持たせたくないというグリオン家の方針にも、素直に従って来たつもりだ。
氷は危ない。
自分だけが怪我をするならいいが、ほかの人も巻き込みかねない。
そんな風に思ってからは、氷の扱いには細心の注意を払うようになった。
「だから先生も教えてくれなかったんでしょ?」
「まあ、そうなんだけど……」
そう、その辺を考えて、当時のジェニエはクノンに教えなかった。
教えられなかった、と言った方が正確ではあるが。
クノンの才なら、氷の魔術の一つや二つは、余裕で使いこなせるはずだ。
ジェニエが家庭教師を辞めた数年前の時点でも、だ。
――いや、そもそもの話。
ジェニエが教えなくても、クノンは氷の魔術を使うことができていた。
正確には初歩の初歩である「
クノンが氷の魔術を遠ざけていたとは、ジェニエは知らなかった。
だって使っていたから。普通に。
「初級の氷の魔術もあるんだけど、それもまだなの?」
「はい。学校に入る前は水の魔術師に会う機会がなかったし、入ってからは金銭の工面とか単位の取得とか、やることがありましたから」
「そう……まあ、教えるのはいいんだけど。本当に私でいいの? サトリ先生に教わりに来たんでしょ?」
「先生が教えられないならサトリ先生に聞きますけど。
ジェニエ先生は、初心者に教えるの向いてると思いますよ。本当に。自信を持っていいですよ。あなたは素敵で魅惑的な大人の先生ですよ」
ジェニエは嫌がるだろうからもう言わないが。
クノンは変わらず、ジェニエの小細工は尊敬に値すると思っている。
あれがなければ、今ここにクノンはいなかったかもしれない。
あれだけの基礎と、基礎を基盤にした応用を磨き上げたからこそ、いろんな状況に対応できてきたのだ。
――それに、「鏡眼」も。
クノンが渇望したそれは、ジェニエの教えなくては達成できなかった。
ゼオンリーとの約束なので、視覚を得た話はできないが。
しかし、彼の教えを乞うに足る下地を鍛え上げてくれたのは、やはりジェニエなのである。
「向いている、か」
ジェニエは苦笑する。
本人にまったく自覚はなかったが、その言葉はサトリにも言われた。
魔術学校を再訪した理由……伝手を使って再会した恩師サトリに、学校に帰ってきた理由を聞かれた。
ジェニエは飾らず、クノンの家庭教師をして、どんなことを教えてきたかを伝えたのだ。
もちろん、教え子に追い抜かれたことも話した。
たくさん失敗を重ねて、それでも努力を重ねて順調に成長するクノンを見ていて、今度こそ自分もちゃんと努力したいと思ったから、と。
学生時代、どこか諦めていて、心底がんばって努力しなかったから。
だから学び直したい、と。
そんな話をした後に、恩師は言った。
「悪くない。あんた初心者に教えるの向いてるんだよ」と。
しつこく基礎を教えた点を評価された。
それしかできなかっただけなのだが、それでも、手を変え品を変えて繰り返したことを褒められた。
だから今、ジェニエは――
「クノン君。私今ね、三級クラスで教えてるの」
準教師の仕事として、教鞭を執っていた。
「ちょうど氷の魔術のところだから、よかったら一緒に授業受けてみない?」
特級クラスは、ここ魔術学校では多くの自由を認められている。
つまり、二級クラスや三級クラスの授業に混ざるのも、許可されているのだ。
そして、意外とそういう要望は少なくない。
まあ、多くは、将来教師になりたい生徒による授業の見学が多いのだが。
「え、いいんですか!? 受けます受けます!」
クノンのように本格的に授業に参加するのは、ちょっと珍しいケースである。
三級クラス。
そこは、まだ魔術師としての基礎ができていない初級クラスである。
人には人の数だけ事情がある。
家庭の事情。
時期の事情。
環境の事情。
性格の事情。
金銭の事情。
一つ一つ挙げれば切りがないそれら。
事情があって学びの時間に繋がらなかった子たちが、ここにいるのだ。
だが、そんなことはさておき。
「よろしくね。魔術は好き? 僕はベーコンも好きだよ」
「は、はあ……」
最後尾の空いた席に座るクノンは、隣の女子に挨拶する
対する相手は、戸惑っていた。
何せ両目に眼帯で、杖をついている。
色々と心配になるというか、軽率に触れられないというか、気になることが多すぎる見た目だ。
そして、何より――
「前回は、『
ジェニエが授業を始めるが、生徒のほとんどがあまり耳に入っていなかった。
クノン。
眼帯の少年。
先生が連れてきた、この子。
もしかして、何かと噂に聞く、特級クラスの生徒ではないか。
それが気になっていたからだ。
特級クラスと言えば、それだけでエリートである。
もはや教師並に魔術ができる生徒もザラにいるというのだから、三級とは正反対の立場と言っても過言ではない。
三級は、自他ともに認める、初心者魔術師のクラスである。
そんなところに、特級クラスの生徒が、なぜやってきたのか。
「先生!」
しかも挙手してるし。
「『
しかも教えてほしいと言っているし。
「あ、はい。今日は別の魔術をしますので、それは授業の後に教えますね」
「個人的に?」
「はいはい個人的個人的。後にしてくださいね」
しかも先生に軽く流されてるし。