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87.サトリ・グルッケ





「ジェニエ先生? ……ジェニエ先生!? 本当に!?」


「本当に私ですよ」


「本物!? 偽物じゃなくて!?」


「本物です」


 そもそも偽物を用意する理由がないだろう。


 クノンは驚いた。

 憧れの人に会いに来て、かつての恩師が出てきたからだ。


 ジェニエ・コース。


 今となっては、クノンもジェニエの実力はよくわかっている。

 彼女がグリオン家を去った時に言っていたことは、どこまでも事実でしかなかったのだ、と。


 実力が足りない。

 もう教えることがない。

 そう言ってジェニエはクノンの家庭教師を辞めたのだ。


 ――でも、それでも。


 クノンにとっては今でも、一番の師匠である。

 ここまでやってこれたクノンの礎を築いたのは、間違いなく彼女だ。


 何しろ、失意に堕ちていたクノンを救い出した恩人でもあるのだ。

 故意じゃないにしても、彼女の言葉に、クノンは立ち上がる力を貰ったのである。


 他の誰がなんと言おうと、自分の一番の師匠はジェニエだ。

 実力を追い越そうがなんだろうが、それはきっと、一生変わらないと思う。


 その恩師が、今、目の前に。

 驚かずにいられるわけがない。


「大きくなりましたね」


 ジェニエも驚いていた。

 そして感動もしていた。


 まさかあのクノンが、魔術学校へ入学を決意し、ここまで来るとは。

 まあ、それはグリオン家の雇われを辞めた辺りには、恐らく魔術学校まで行くだろうとは思っていたことだが。


 絶望に沈んでいた、無気力な幼少期のクノンを知っているジェニエである。


 だからこそ、あの小さな子がよくぞここまで……と、どうしても思ってしまう。


 それが、今は十二歳だ。

 別れた頃より大きく成長している。


 身体も、魔力も。


「先生、会いたかったよ! あなたの美貌と美声と美魔術を堪能できない日々をどれだけ嘆いたことか! 僕はあなたの魔術なしでは生きていけない!」


「それは錯覚です。これまで大丈夫だったんだから生き抜けますよ」


 薄々心配もしていたが、どうやら的中したようだ。


 いらん成長もしてそうだな、と。


 そう思っていたし、学校でのクノンの噂も色々聞いていたし、やはり心配していた通りになっていた。


 きっとあの侍女の仕業だ。

 クノンが明るくなったのはいいが、こういう女性に軽薄な方向に育ててどうする。 





「今はサトリ先生の助手をしているんです」


 ひとまず感動?の再会が落ち着いたところで、ジェニエはここにいる理由を述べた。


 グリオン家を後にしたジェニエは、母校であるこのディラシック魔術学校を再訪したのだ。

 もう一度魔術を学び直すために。


 サトリ・グルッケは、学生時代にお世話になったジェニエの恩師である。


 ジェニエは二級クラスを普通の成績で卒業したが、アルバイトがてらサトリの実験の手伝いにしたことがあり、その伝手をたどった。


 今は準教師という扱いで、サトリの助手となっている。


 クノンとは、いつか学校で会うだろう、とジェニエは思っていた。


 クノンはジェニエの噂なんて聞いたことがなかったが、ジェニエはクノンの噂は聞いていた。

 名ばかりの師だが、それでもクノンの実力はよく知っている。


 案の定だった。


 もしクノンが魔術学校に来たら、きっとすぐに頭角を現すだろうと思っていた。

 特級クラスで入学し、早々に「眠りの商売」で名を売り、霊草シ・シルラの栽培を成功させ、三派閥の所属で揉める。


 本当に、案の定だった。


 想像通りの有能っぷりで、もはや「あれね、小さい頃は私の弟子だったの」とか冗談でも言えないくらいだった。

 ジェニエを知る者に言ったら、「あんたの実力であんな優秀なの育てられるわけないでしょあははー!」とか言われかねないから。


 怒る気力も湧かないほど、自分でも同感なのだから仕方ない。


「サトリ先生の弟子かぁ……じゃあサトリ先生は僕の師匠の師匠になるのかぁ」


「クノン様、もう私のことは師匠とは……」


 実力は付けた。

 二年前のあの頃と比べたら、格段に実力は上がったと思う。


 だが、それでもクノンの方が上だ。

 彼はあのゼオンリー(・・・・・・・)の弟子となり、ジェニエが伸びた以上に、実力を伸ばしている。


 たまたまちょっと初心者の頃のクノンに教えたからってずっと師匠扱いされるのは、ジェニエの方が居た堪れない。


「先生はもうグリオン家に雇われた家庭教師じゃないですよ。僕もここでは侯爵家の子ではなくただの生徒です。様付けはやめてください」


「……そうね。わかったよ、クノン君」


「そっちの方が親しい間柄って感じで親密感があっていいと思います。先生はどう思います?」


「私は適切な距離が取りたいかな」


「親しき仲にも礼儀あり、ってことですね?」


 二年前にも兆候は感じられていたが、これは明るくなりすぎだろう。


 ――まあ、二年ぶりの再会なので立ち話は続けられそうだが、それよりだ。


「それで、クノン君は何の用で来たの?」


「ジェニエ先生に会いに来たに決まってるじゃないですか!」


 よく言う、とジェニエは思った。

 ジェニエがいることを知らなかったくせに。


 なんでこんなナンパな子になったのか。

 あの侍女のせいか。


「で、本当は?」


「サトリ先生に教えを乞いに来たんですけど、会えた以上はジェニエ先生の方がいいかなって思っています」


「魔術に関する用事で来たんでしょう? だったらサトリ先生に頼むといいわ」


 このままだと本当にだらだら話が続いてしまいそうなので、ジェニエはサトリの研究室にクノンを招き入れた。





 研究室の中は、それなりに整頓されていた。

 ただ、物自体が多いせいか、少々雑然としていて窮屈に感じられる。


 まあクノンの部屋よりは百倍まし、といったところか。


「先生、先生」


 そんな中。

 窓際の安楽椅子で、差し込む陽に当たってゆったりと過ごす女性がいる。


 歳は、五十から六十くらいだろうか。

 黒髪に白いものが混じり出した、初老の女性である。


 あれが、クノンの憧れの水の魔術師サトリ・グルッケだ。


「……起こすなよ。四徹明けだ。この歳じゃ一晩でもきついんだよ」


 低く擦れる声で弱々しく応えるが、ジェニエは構わず続ける。


「先生に教えを願う生徒が来ました」


「あんたが対応しな。あたしゃ眠いんだ」


「私より魔術が上手い特級クラスの生徒ですよ」


「特級だぁ? 重奏三十段もできないヒヨッコにあたしの話が理解できるかよ」


 重奏三十段は、この魔術学校で教師になるための試験内容の一つである。


 ジェニエは、体調と運がよければ、たまにできるくらいだ。

 いくらクノンでも、この前入学してきた生徒にはさすがに厳しい――


 とは、思わない。


「あ、僕五十五段できます」


 本当に憎らしいくらい案の定である。


「あとサトリ先生の本全部読みました! 特に三身水圧機構の説はすごいですね! あれを魔術に組み込めれば従来の水魔術の八倍から九倍の力が出るんじゃないでしょうか!」


「……ああそう」


「霊浸透圧軽減の説もいいですね! 実に興味深い!」


「……ああそう」


「でも虚水の説はどうかと思います」


「ああ、わかったわかった。子供の声は最高の目覚ましだよ、まったく」


 サトリはゆっくりと立ち上がる。

 自分で「重奏三十段は云々」と語ってしまっただけに、約束を果たさねばならなくなったと諦めた。


 地味に痛む腰に気合いを入れて、サトリはクノンに向き合った。


「何を教えてほしいんだい、坊主」


「あ、それなんですが。サトリ先生の手を煩わせるのはアレなんで、ジェニエ先生にお願いしたいなと」


「「はあ?」」


 やる気になったサトリにも。

 ここでサトリを袖にして選ばれたジェニエにも。


 思いがけない言葉だった。


「そりゃ何か? あたしよりあたしの弟子を選ぶってわけかい?」


「はい! 僕にとってジェニエ先生は一番の師匠なので!」


 ジェニエは手で顔を覆った。

 今ここでこのタイミングで言わなくていいだろう、と。


 一瞬動作が止まったサトリだが、今度はニヤニヤと笑い出す。


「そういやあんた、昔ちょっと家庭教師してたって言ってたね? この子かい?」


「……はい」


「弟子に抜かされて不甲斐なさを悟ってあたしに泣きついてきたって話の元凶が、この子かい?」


「……はい」


「そうかいそうかい。じゃああんたが面倒見てやんな。何しろあたしを蹴ってあんたをご指名なんだ。がんばりなよ、ジェニエ先生」


「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」


「いいからいいから。お高くとまってないでたまには若い男と遊んできな。何なら朝帰りでもいいよ」


 よっこらしょ、と立ち上がったばかりのサトリは安楽椅子に戻った。


「何言ってるんですか、先生……」


 十二歳の子供と何があるというのか。


「今度はサトリ先生が遊んでくれます?」


 目を瞑ったサトリは、クノンの言葉にそのまま答えた。


「ああ、本当に五十五段使えるならね。こき使ってやるから、覚悟ができたら遊びにおいで。あたしを満足させたら名前を憶えてあげるよ」


「なるほど。素敵な女性にはまず尽くして気に入られろ、と」


「そうそう。若いのにわかってるじゃないか」


 サトリは肩を揺らして笑った。













親愛なる婚約者様へ


 厳しい寒さの中、春を恋しく思う昨今、いかがお過ごしでしょうか?

 僕は春よりあなたが恋しいですが。


 そちらに変わりはありませんか?

 僕は進級するための単位取得に追われ、実験や考察に忙しく、毎日があっという間に過ぎていきます。


 魔術都市ディラシックでの学校生活が始まって、もうすぐ五ヵ月。約半年が過ぎました。

 すっかり学校生活にも慣れて、僕よりすごい魔術師ばかりいることに気づき、毎日嬉しくてたまりません。


 女性の友人もたくさん増えました。

 先日なんて泊まり掛けで海まで行き、海辺での魔術の実験をしました。

 いつか必ず、あなたと海に行きたいです。


 いろんな女性を知るごとに、あなたの魅力を再確認しています。

 まだ卒業まで遠いけど、あなたへの想いは募るばかりです。


 そうそう。

 学校で恩師ジェニエ・コースに会いました。


 あなたと顔を合わせたことはないと記憶していますが、名前は伝えたことがあると思います。

 昔の僕を知る人なので、少し気恥ずかしい気もしますが、再会できて嬉しかったです。



 殿下のご様子はいかがでしょうか?

 騎士の訓練は、きっと厳しいのでしょう。


 いつか、あなたの助けになる魔道具を開発して送りたい。

 それが今の僕の密かな目標です。


 僕だと思って大切にしてほしい。

 でも、まだまだ時間が掛かりそうで……できなくても怒らないでね。


 夜はとても冷え込みます。

 どうかお身体に気を付けて。


  貴女のクノン・グリオンより 永遠の愛を込めて





追伸


 憧れの女性教師とも会えました。

 素敵な人で、ちょっと舞い上がっちゃいました。


 殿下にも憧れの人はいますか?





第三章完です。


お付き合いありがとうございました。



よかったらお気に入りに入れたり入れなかったりしてみてくださいね!!


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