86.不意の再会
魚を凍らせたところで、クノンの仕事は終わりである。
「ちょっと手伝ってほしい」と言っていた聖女の言う通り、本当にちょっとした手伝いで済んだ。
しかし、今聖女は打ち合わせ中なので、しばらく待つことになりそうだ。
「レイエスさんを待つんですか? だったらギルドでお茶でもどうでしょう?」
「そう、ですね……お邪魔していいですか?」
気を遣ってくれたアサンドの案内で、クノンはギルドの応接室に通された。
「――時にクノン君! 例の新薬はどうなってますか!?」
「は、はい? 新薬?」
部屋に入るなり、急にアサンドが声を張り上げたので、クノンは少し驚いた。
「例のアレですよ、アレ! 薄っぺらいシ・シルラの新薬!」
「あ、あれですか」
なんの話かと思えば、アレか。
以前やってきた時に交わした契約の薬のことか。
「……あれ? 僕、ギルドに手紙を書きましたけど」
そう、クノンの中では、現在は待機状態のつもりだった。
間違っても、声を張り上げられて詰め寄られる状況ではない、つもりだったのだが。
「実は今、霊草関係の話はギルドマスター預かりになっているのです。元々ギルドマスターが不在だったから私が代わりに対応したもので……」
ということは、クノンの書いた手紙は、そのギルドマスターに渡ったのだろう。
「じゃあ今レイエス嬢が打ち合わせをしている相手は、ギルドマスターですか?」
「その通りです。
レイエスさんとクノン君が持ってきた話は、ギルドマスターも重要な案件と見なしました。だから自分で交渉すると」
なるほど、とクノンは頷いた。
「僕は手紙を書きましたよ。
要約すると、今は薬箱待ちです。紙型試薬を補完できる薬箱がないと、持ち運びも難しくなりそうなので。何しろ汗でも溶けますからね」
アサンドはシ・シルラ関連の情報を知っている。
何しろ初回の交渉相手である。
だから、これくらいの説明で充分理解できるだろう。
「……あ、そうですね。血液の温度で融解するなら、手汗なんかでも……」
「ええ。運べる容器が必要な薬ですよ、あれは。悪戯に造っても無駄になります」
そして今、薬箱は実験中だ。
どんなに短くとも、あと一ヵ月か二ヵ月は、経過を見るべきである。
できれば条件などを変えて試し、半年から一年は時間が欲しい。
欠点のない薬箱を造らないと薬が無駄になるから、今は待つべきだ。
――という手紙をしたためたのだが、ギルドマスター預かりになったようなので、アサンドまで情報が降りてこないのだろう。
「急ぐ理由がおありで?」
「あ、いえ……有効な薬なら早くほしいのです。冒険者たちは毎日命懸けですから。あの薬があれば必ず救える命があります。
しかし、私は少し気が逸っていたようです。アイデアだけ聞くと本当に夢のような薬でしたから」
そう言われるとクノンもそわそわしてくる。
だが、ぐっと我慢だ。
薬を造るだけならすぐにできるが、それではあまり意味がないのだ。
シ・シルラの薬は、保存できる容器がなければ使い勝手が悪い。
どんなに効果が高くても日持ちしないのでは、なかなか宛てにできないだろう。いざという時に使えなくなっていた、なんてことになったら目も当てられない。
ギルドマスターも、その辺は理解しているはずだ。
だからこそ極秘扱いにして、事を進めているのだろう。
今急いでも半端な物しかできないから。
だったら悪戯に人の期待を煽るより、できてから発表したいのだろう。
アサンドにもわかってもらえたようなので、クノンは話を変えることにした。
「それよりアサンドさん。相談があります。時間がないのでぜひ聞いてほしいんです」
「はい?」
「――ではクノン、また」
「――ご馳走様でした」
喫茶店から出てきたところで、解散である。
「さようなら、暗がりで震える子猫ちゃんたち」
「子猫……?」と首を傾げながら、聖女とジルニは帰っていった。
遠ざかる女性二人を見えないのに見送り、クノンはニヤリと笑った。
「……フッ。勝った!」
そう、クノンは勝ったのだ。
今日のランチは、前回の雪辱を果たせたのだ。
アサンドに相談したのである。
一見高そうだけどお値段はそこそこで料理は美味しくてオシャレで雰囲気のいいレストランはないか、と。
高いワインがない店はないか、と。
さすが地元の人である。
少々高望みかと思われた要求だったが、見事に答えてくれた。
安心してパフェまで行けた。
余裕があっただけに、クノンも非常に楽しい時間を過ごせた。
両手に花のデートだった。
まあ、ずっと聖女と魔術方面の話をしていたので、ジルニは少々退屈だったようだが。
光属性も面白い。
この調子で実験を重ね、ぜひとも聖女の力以外で、霊草の栽培を成功させてほしいものだ。
――さて。
ランチは済ませたが、まだ昼を少し過ぎた頃である。
暗くなるまで、まだ時間はある。
クノンは一度学校に戻ることにした。
次に習得する魔術が決まったので、教えてもらうつもりだ。
そう。
今度こそ、憧れのサトリ先生に会いに行こうと決心したのだった。
なかなか緊張する。
憧れている相手だけに尻込みし、二の足を踏んでいた。
サトリ先生の居場所は知っている。
本当はすぐにでも会いに行きたかったが、クノンなりにやることがあったので、後回しになっていた。
いや、後回しにしていた。
会ってがっかりされたらどうしよう。
未熟すぎて彼女の視界に入らなかったらどうしよう。
そんな思春期らしい不安から、理由を付けては遠ざけていた。
クノンは第四校舎を歩いていた。
ここに、サトリ先生の研究室があるのだ。
「……」
一枚のドアの前に立ち、唾を飲む。
ここだ。
第四校舎四階の西側、掛けられたプレートには「サトリ・グルッケ」の名が刻まれている。
いよいよここまで来てしまった。
このドアを隔てた向こうに、クノンが尊敬する水の魔術師がいるのだ。
「――よし」
なんだか急に引き返したくなってきたが、ぐっと堪えて。
クノンは意を決して、ドアを叩いた。
ノックを二回。
やってしまった。
もう逃げられない。
妙に長く感じる数秒の間を経て、ドアが開いた。
ついに、憧れのサトリ先生に、会う――
「――久しぶりですね。クノン様」
懐かしい声だった。
忘れられないその声に、クノンの脳が一瞬停止した。
あまりにも急で、あまりにも予想外過ぎたから。
「……ジェニエ先生?」
その声を間違えるわけがない。
今目の前のその人は、クノンの最初の師である、ジェニエ・コースだった。